今日のひとことバックナンバー

1024日(土)晴れ。10時の室温、18℃。

NHKの朝ドラ「エール」時々見ている。今週、名曲「長崎の鐘」が生まれるまでの小山祐一の苦悩が描かれる。戦争に駆り出す曲を作った戦争責任に苦しむ姿が描かれる。もしも日本人が、戦争に責任のある人たちが、ドラマの小山祐一のように自分の戦争責任に、真摯に向き合っていたなら、戦後日本は今とはちがっていたのではなかったか思う。もっとましな国になっていたのではないかと。(*モデルの古関裕而さんは戦後、自衛隊の歌を作っている)。

「長崎の鐘」を作る為に小山祐一は長崎の永田武医師に会いに行く。どうしても曲のヒントをつかめない小山祐一は崩れ落ちた浦上天主堂で彫りこされた鐘と、花を植える子どもたちから、地の底から立ち上がらせるは「希望」だと気がつく。

1018日の「今日のひとこと」に私も『私は繰り返し、繰り返し夢と希望を語ろうと思う。先人たちも繰り返し語り私たちを励ましてくれたように。どんな状況になったとしても私は未来を信じている。』と「希望」を書いた。「希望」は科学的ではない。宗教的と言えるかもしれない。しかし、私に力を与えてくれる。あそこに書いた未来の実現を信じているのだ。人類はそうなるはずだと。だから、ドラマを見ていてそこに強く共感した。

 

小山祐一が会いに行った永田武は永井隆がモデルらしいが彼の「いとし子よ」は胸を打つ。特に抜き書きした★①~③は私の非暴力とも共通する。その後に全文掲載した。

 
★①『「もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ…誠一(まこと)よ、カヤノよ、たとい最 後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと『戦争絶対反対』を叫び続け、叫び通して おくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても『戦争絶対反対』の叫びを守っておくれ!」』
 
★②『「敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多いだろう。しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?」・・・
 
「狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。』
 
★③『いとし子よ。 敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛 されたら、滅ぼされない。
愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。』

 

以下,全文を掲載する。

いとし子よ 永井隆(194910月)

 「いとし子よ。 あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、カヤノよ、お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。

そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?――原子爆弾。・・・いいえ。それは原子の塊である。そなたの母を殺すために原子 が浦上へやって来たわけではない。

 そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。」

 「戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだ ころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そう して、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、――戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくな ってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」

 「私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。 わが子よ! 憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。」

「しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。 日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出な いとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」

 「もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ誠一(まこと)よ、カヤノよ、たとい最 後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと戦争絶対反対を叫び続け、叫び通して おくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても戦争絶対反対の叫びを守っておくれ!」

 「敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多いだろう。しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?」・・・

「狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。・・・ 愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。」

 

「いとし子よ。 敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛 されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。」

10月19日(月)午後から冷たい雨になった。

 

私は繰り返し、繰り返し夢と希望を語ろうと思う。先人たちも繰り返し語り私たちを励ましてくれたように。どんな状況になったとしても私は未来を信じている。

 

この頃の政権中枢からの発言、繰り出す政策は私を悲しくさせる。現状をさらに悪化させると暗い気持ちになる。コロナ感染が歴代政権の政策の弱点、まちがいを浮き彫りにした。保健所を整理縮小して来た医療政策、公立病院にも経済性を求めて独立法人化したこと、PCR検査能力もいまだに各国と一ケタ違う。オンライン授業ができないのは、パソコンが生徒たちに行き渡っていないからという(韓国は100%)。経済の縮小で非正規や一人親世帯の人たちは真っ先に生活に困窮している。街の小規模事業者が悲鳴を上げている。倒産も増えている。一方で東証上場企業が倒産したという声は聞かない。この日本の政治は何なんだ。この国の隅々まで、考え方、価値基準、機構など市場原理主義、経済効率主義で組み立て、改変して来たつけが表面化したように思う。心の通わない政治の脆弱さが露呈していると私は思う。これまでの路線、今の政治方向を大転換する必要があるのは明らかではないか。しかし、菅内閣からは従来の路線をさらに推し進めると言う言葉しか聞こえてこない。だとしたら、ひずみは一層破壊的に進むだろう。弱者はさらに弱者に、その層はもっと拡大するだろう。何としてもこの流れを変えたい。人の心の通った政策の方向に変えたい。弱者が益々弱い立場になり、その層が一層広がる様は見ていられない。

しかし、種々の世論調査では菅内閣の支持率は50%を超えている。私たちの声は多くの国民の心にまだ届いていない。心をとらえていない。

 

だとして絶望するまいと私は言いたい。誰かが現政権の流れを変えなければならない。誰かが。その誰かは誰でもない。そう気づいている私たちが誰かだ。私たちが自分の意志を声に出し、行動に表現していくことが必要だ。

 

日本では菅総理が日本学術会議6人の任命を拒否して、自分と異なる意見は今後の日本の政治に必要ないと排除した。私はその発想は恐ろしい。同じ考えの人たちだけに役立つ政治しかしない宣言のように映る。違う意見は政治の眼中にないように見える。戦争中に政府方針に少しでも同調しない人に「非国民」という言葉を向けて国民を分断し、一方に純化していったと同じ空気を感ずる。

私は異なる意見、異なる考えの集団どうしがどう折り合うか、どう調和して共に生きて行くかが政治の仕事だと思っている。安心して幸せに、仲良く、楽しく暮らしたいのは誰もが同じだ。性、年齢、住む土地、くらし境遇、身体的要素、性格、人間は一人ひとりそれらはみんな違う。それでも人間は一人では生きてはいけない社会的動物なのだ。だから人間世界には様々な摩擦も生ずる、利害は見たところ一致しないことも多い。それだからこそ政治が生まれたと思う。どう利害を一致させるか。調整するか。合意点を見出すか。違う意見を一方に我慢を強いるのではなくどう両立させるのか。そこに知恵が必要なのであり、政治家と言う専門の仕事が成立するのだと思う。

排除、分断は政治の敗北だ。それは知恵の放棄だ。どういう社会をめざすのか同い年の菅総理には問いたい。その社会で異なる意見の集団どうしを、どう生かしていくのか教えて欲しい。

 

このように日本の政治状況を「俯瞰」すると明るい展望はなかなか見えてこない。希望ある報道にも余りお目にかからない。

私はかねてから「俯瞰」も大事だが「足元」を見ようと言ってきた。日本を天上から「俯瞰」したら菅政権と市場原理主義、経済効率主義の大森林しか見えないかもしれない。しかし、その大森林の「足元」には次代の大樹に成長しようとする小樹の芽生えが見えるのだ。それもおびただしい数の小樹の芽生えがだ。全国各地に様々な団体が活動している。一つ一つは大きくはない。大きく脚光を浴びすることも少ない。しかしそういう活動がたくさん存在しているのは事実だ。

例えば室田元美さんの「ルポ 悼みの列島」「ルポ 土地の記憶」を読んで私は本当に勇気を得た。目を開かされた。そこには日本全国に残る戦争の傷痕を語り継いでいる人たちなどの姿が描かれている。

それらは未来の日本を形作る小樹の芽と言えるのではないだろうか。

原発の問題、貧困・弱者に寄りそう活動を続ける人たち、そのほか、様々な課題を継続して取り組んでいるたくさんの人たちがいるのを知っている。そういう活動が人間にやさしい、誰もが安心して暮らせる社会を引き寄せる小樹なのではないだろうか。

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」、「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」もそう言う小樹の一つだ。

 

 

小さな活動は天上から「俯瞰」したら見えないかもしれない。市場原理主義、経済効率主義の大森林しか見えないかもしれない。しかし、大森林を抜けて地上に降りてみれば、おびただしい数の「活動体」がうごめくように元気に生きているのだ。いつの日か、それら小樹が世代交代し大森林の上に伸びて、陽の目を見る日が来るのではないだろうか。私はそのことを信じている。私は夢と希望を信じている。だから活動を続ける。声を上げ続ける。焦らず、諦めず、へこたれず、遅くても、ゆっくりでも、多くの人たちと手を組んで、輪を広げて歩き続けるつもりだ。みなさん、希望の灯を掲げて一緒に歩いて行きましょう!

 

2020年10月7日(水)夕方から雨。

 

菅義偉政府、日本学術会議6名任命拒否について。

容易ならざる状況が進行している。街頭演説でやじられた安倍晋三さんが「あの人たちに負けるわけにはいかない」とやじの方向を指さし叫んだ。その光景はその後何度となく放映された。菅義偉さんの頭の中も同じ構造なのかとショックを受けた。「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から6人を任命しないことを判断した」と理由を述べている。字面では何のことか分からない。しかし、報道からすると「先の安保法案に反対表明した人たち」を任命拒否したことは明らかだ。この事に多くの団体、個人が政府の認可拒否に反対、拒否の撤回を求める声明を出している。多くは「学問の自由」という観点からのようだ。

しかし、真っ先に私に響いて来たのは「国民を味方と敵に分断してみている。政権にそわない人たちの意見は無視して物事を進める」という政治方向が菅義偉政権の背骨なのだと天下に明らかにしてはばからない彼らの本性だ。

はっきり言って悲しい。そして恐ろしい時代に入った。菅義偉政権はトランプ政権や反移民主義を掲げるヨーロッパの右派勢力と同じ潮流なのだと認識させられた。彼らは違う考えには極めて非寛容で攻撃的、暴力的なのが特徴とうつる。彼らとは議論が中々成立しない。彼らは民主主義を尊重しない。嘘、ごまかし、すりかえ、証拠の隠滅は常套手段だ。私の心は暗くなる。そういう勢力が日本政治の主流として支持されている。この国は、世界はどこに行くのか。

 

「異論のススメ・佐伯啓思」朝日新聞、925日。

佐伯さんは安倍政権を『疑いなく、近年、これほど「仕事」をした政権はなかった』と総括している。「にもかかわらず、それが成し遂げたものは何かと問えば、明瞭な答えは出てこない」という。彼の世界認識は「冷戦体制の崩壊は、自由主義陣営の勝利」なのだが現在は「あろうことか、冷戦の敗者であったはずの共産主義の中国が、米国の地位を脅かす大国となり、先進国が低成長にあえぎ、経済格差の拡大に苦しむ。その結果トランプ大統領を生み出した」という。『グローバリズム、リベラルな民主主義、市場中心主義、米国流の世界秩序といった「冷戦後」の価値が失墜し、その先は全く見通せない「危機の時代」』に差し掛かっているという。だから、何をどんなに一生懸命に(安倍晋三さんが)やったとしても目に見える成果を生み出せないのだそうだ。

だとしたら、安倍政権を踏襲するという菅義偉政権が「国民のために働く」として成果を生むことはないことは佐伯さんの論理からすれば、今から明らかだ。

私は昨年の今頃、201910月の佐伯さんの「異論のススメ」への私の異論をHPに書いた。佐伯さんには見えない「その先の見通し」が私には見えていると次ように書いた。

 

『今日の世界は、それを導く確かな価値も方向感覚も見失い」と私は見ていません。小さくても「確かな価値や方向感覚」はたくさん提示されています。マララさんもグレタさんもそうです。米国も、中国も、日本も決して一色ではありません。種々さまざまな、たくさんの意見が、考えが表出しています。日本でも規模も地域的にも小さく狭いとしてもたくさんの「戦争の語り継ぎ」やさまざまな市民活動が全国各地に存在することを知っています。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」もその一つです。それらは大地に根差した将来の大木への希望をはらんだ木々たちです。俯瞰したら杉林でもその根元には次代を担う木々が成長しているのです。私は未来を悲観していない。いつの日か「何事も話し合いで解決する人間の未来社会」敵味方の区別などない意見や思いは違っても「お互いどうしを尊重する人間の未来の世界」が来ることを確信しています』

 

そう、私は菅義偉政権がどうあろうが、トランプ政権がどう行こうが、いつか行きつく先は「何事も話し合いで解決する人間の未来社会」敵味方の区別などない意見や思いは違っても「お互いどうしを尊重する人間の未来の世界」が今は小さい木の芽のような存在だとしても、無数に存在する市民活動が生きながらえて次の時代を切り開く光であり、力であり、希望なのだと信じている。

 

 

政権を握る人たち、保守と言われる佐伯さんたちには「その先は全く見通せない」ようだが、私は小さな芽の息吹、たくましさを信じて、自分も又その隊列を進んでいるという気概を持って未来を見通したい。

9月20日(日)曇り、時に雨。長袖着用。

このところ、口コミなのか小学生の来館者が目立つ。「入っていいですか」と声を掛けて入館する。9月17日は5人(男子3人、女子2人)、19日は6人(男女それぞれ3人)学童保育・児童館の子どもたちが来館してくれた。名簿に氏名と学年を記載して30分位いて帰って行った。入口で手指消毒をして、麦茶を飲んで、児童文庫の本を手に取り、菓子を食べたりして「ありがとうございました!」と礼儀良い。自分が子どもの頃は菓子があれば気のすむまで食べたと思うが、来館する子どもで口にしない子もいる。帰った後の菓子の入れ物を見ても余り減っていない。菓子目当てでどっと来て食べ尽くすありさまを想像したが、拍子抜けする。戦後間もない私の子ども時代とは本当に違う。あの頃はお菓子その物の種類がなかった。洋菓子などあっただろうか。

20日は「小学生のみなさんへ」とミニポスターを掲示した。

 

 妻さち子が、19日に立川の本屋に行くと言って午前中に車で出かけた。昼に帰宅して買い求めた本を見たら全部が児童図書、絵本だった。10冊以上ある。「これは交流館に来た子ども用だよ」と言う。どんな本を買ってくるのか言わないで出かけたが「そうだったのか」と心に沁みた。ありがたい。「へいわってどんなこと?」「へいわとせんそう」「非武装地帯に春が来ると」「父さんが生きた日々」「とうきび」「くつがいく」作者は日本、中国、韓国。「日・中・韓平和絵本」と帯にある。

お礼とも言えないが「黒井さち子・児童文庫コーナー」と書棚に命名した。

 

8月23日の中国人女性との出会いはすでに書いた。このことを展示用パネルにして今日、9月20日から展示を始めた。本当にこの出会いが、日本と中国との一つの懸け橋にしたいと切に思っている。それだけでなく、日本と韓国、日本とアジア、世界の人々との懸け橋になれたらどんなに素晴らしいことだろう。夢が広がる。多くのみなさんの力添え、支援の輪、一緒に歩く仲間たち、そんな大きな流れになりたい。皆さん宜しくお願いいたします!一緒に歩いて行きましょう!

 

9月17日(木)曇り。室温28℃

9月15日の朝日新聞に「我が意を得たり」の記事があった。

新しい祭りへ奮闘と工夫「検温、消毒・・・覚悟の実施」

★8月15日、16日、「中野駅前台盆踊り大会」が行われ、延べ2000人が参加した。8回目の今年は「中止すべきだ」の声もあった。実行委員長の鳳蝶さん(あげはさん)は、非常事態宣言が解除されても祭りがほとんど開かれないことに危機感を持った。「伝統的な文化を守るためにも前向きなメッセージを送りたい」と開催にあたっては都のガイドラインを徹底した。会場入場者を60人まで絞り、入れ替え・事前チケット制にした。マスク着用で記名、検温、手指消毒。マスク着用の踊り手がいる舞台に向いて自席周辺で踊ってもらった。*以上・朝日新聞記事より。

 

★8月23日「村山うどんを食べる会」のまとめにこう書いた!

コロナ感染が広がり、政府はGOTOトラベルの一方でお盆の帰省自粛を言うなどちぐはぐな方針。社会は感染非難を恐れるあまり及び腰になり、様々な催しが中止されています。そういう中だからこそ「村山うどんを食べる会」は「コロナに感染しない、感染させない」を合言葉に、主催者と参加者が十分な対策と注意をすれば開催は可能と判断して実施しました。

 

庶民は神代の昔から、為政者がどう言おうが、楽しむときは楽しみ、時には法のほころびを見つけてでもお祭りや観劇、お伊勢参りなどを楽しんできました。「村山うどんを食べる会」も、しぶとく生きた先祖の心意気を引き継いで「みんなの食堂」を実施しました。

 

★私と同じような思いの人がいたことに安堵した。

「そうでなくっちゃ!」こうして庶民魂は受け継がれる。

新しい日本人の文化はこうして作られる!

9月9日(水)15:50 暑い、真夏の空が広がっている。

7日、8日と心に響く出来事があった。

4日に「忙しい。追われてゆとりがない」と言う風なことを書いた。

 

7日(月)強風と豪雨に襲われた日だった。午後から立川市の災害医療センターの診察を受けた。昨年12月25日に心房頻拍のカテーテル手術後の経過観察の半年後通院で、手術後は頻拍症状もなくなり、何事もなく診察は終わるはずだった。代診の若い先生だった。その日の心電図検査も異常なしだった。

3か月後の経過観察の最終通院日を決めて診察が終了し、会計窓口に行ったら「先生が戻るようにと言っている」と告げられ、何事かと階段を上がって診察室に入ったら、MRI写真を見せられた。去年の手術前の心臓の冠動脈を指さして「ここの部分に狭窄が見られる」と言うのだ。見ると素人目にも幾分細くなっているのが分かる。「精密検査が必要だ。3割負担で3万円かかる」とのこと。進むとどうなるのか?と聞いたら「心筋梗塞」という。びっくりした。昨年手術前のMRI写真だから、その時の見落としともいえる。いずれにしても精密検査を受ける選択肢しかないのは明らかだ。すぐにお願いした。「加齢、動脈硬化など」が原因と考えられるらしい。

 

帰路、車の運転しながら色々な思いが頭をぐるぐる巡った。

医師の見立て通りなら、またまた手術になる。動脈をバルーンで広げ、そこに網のような物体を入れて縮まらないようにするのだそうな。

自分の身体ながら嘆かずにはいられない。「またかよ」と思う。もう何年かは手術というようなことはないだろうと思っていたのに、1年も経たないのにまた手術か。

 

4日に書いた。「長生きして少しでも社会が好転するところを見届けたい!」「進化するPTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処の未来を見たい!」と。

 

「忙しい。追われてゆとりがない」ではやっぱりだめなのだ!と思い直した。身体が資本だ。自分の身体を過信していた。身体が発信する声を聞き、いたわりながら無理をせず、少なくとも仕事に追われるような毎日ではだめなのだ。心してペースを落とすことが必要だ。「焦らない」と言いながら焦りの心があったようだ。それでは未来を見届けたくても見届けられないかもしれないではないか。

 

8日(火)。交流館に出勤しパソコンを開けたら「今そちらに向かっています。お手伝いに行きます」と元の職場・コープ共済連の元同僚からメッセージが届いていた。驚いた。都内とは言え、千葉に近い彼女の家から交流館まで2時間はかかる。午後3時、彼女は菓子やら飲み物やら健康ドリンクやら溢れるほどの袋を下げてやってきた。「日常作業のお手伝い」で来館した人は初めてのこと。私が4日に書いた「忙しい。追われてゆとりがない」を彼女は読んでくれていた。それで手伝いを思いたったらしい。思うとやらないではいられない性格の彼女は飛んできたというわけだ。

 

心の中で涙がこぼれた。うれしかった。「まじかよ」と思った。土曜日に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処*9月1日号通信」を160人と団体にメール送信した。次は70人に郵送作業がある。昨日、私はその作業をしていたのだ。彼女は来るなり、通信の封筒封入、切手貼り、住所押印を手伝ってくれた。武蔵村山市の市長さん、市議会議員さんに手渡す袋詰めも済ましてくれた。私が郵便局に投函に行く間の留守番もしていただいた。作業を終えると多摩都市モノレール上北台駅から疾風のように帰って行った。

 

本当に大勢の人たちに支えられて活動していると実感した一日だった。ついつい弱音を吐いたらお助けマンが駆けつけてくれた。私には「事あらば助けよう」という人たちがいるらしい、と思わせる一日になった。1人でやると思うな。助けて下さいと声を出すが良い、と天の声が言ってくれたのかと思う。無理をしてはいけない。この活動に当面は終点はない。長く続く。恐らくは息絶える時にも終りは来ない。

勝手に私が師と仰ぐ阿波根昌鴻さんもそうだった。生きている間に米軍に強奪された土地は帰らなかった。今も帰ってはいない。後に続く人たちが闘いを続けている。

 

生きている間に終わりが来なくても、あと5年、10年、更に10年と成長する「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」運動の未来を見ていたい。長生きしたい。ならば、やっぱり焦らないことだ。皆さんの力を借りながら、一緒に手を携え歩いて行くのだ。それしか道はない。そう私自身に言い聞かせた。

 

 

 

9月4日(金)晴れ。

「村山うどんを食べる会」から2週間が過ぎようとしている。「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処通信」9月1日号を作成して1000部の印刷を9月1日に済ましたが、メール送信も、封書発信も手がついていない。一言で言うと仕事・やるべきことが多い。一人でこなす作業量を越えている実感がある。「ゆとりをもって活動する。明日できることは今日はやらない」という決意を1~2カ月前に書いた。良いことかどうかわからないが、現状はそうはなっていない。

 

毎年8月は「戦争と平和を考える8月」ということで当会の活動も18の新聞社に19回活動紹介された。部数から言うと800万世帯に紹介された。1世帯二人とすると1600万人が目にする機会が作られた。人口の1割を越えることになる。ホームぺージの訪問者が800人を越えた。怒涛の荒波に出会ったような8月だった。その余波がまだ収束していない。

 

「PTSDの日本兵の存在」が広く知られることが「2度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」に繋がると信じて活動しているし、信じて続けるつもりだ。実際には1600万人の1割・160万人が読んだとしてもすごいことだと思う。しかし、一度だけでは記憶に残るほどの印象付けはうすい。何回も何回も目にするチャンスを作らなくてはならない。そのためにも報道する人たちに「PTSDの日本兵の存在を発信し続ける活動」に注目してもらう努力をしていくつもりだ。と言っても、ただただ地道に倦まずたゆまず活動を続ける以外に方策はないのだが。

 

これを読む皆さんにお願いしたい。皆さんのお仲間にこの活動を伝えていただきたい。いわゆる拡散をお願いしたい。もっともっと知られるチャンスを増やしたい。

 

最近、真ん前の学童保育の子どもたち、お兄ちゃんに当たる中学生の来館がぽつぽつあるようになった。「無料で麦茶が飲めるって本当ですか?」という具合に入ってくる。口コミで広がっているらしい。「テレビは付けない。ゲーム遊びはダメ。お菓子は館内で食べる分だけで持ち帰りはダメ」という約束が定着しつつある。静かに本を読んで帰る。「ありがとうございました」と礼儀も正しい。

 

5年後、10年後を考える。今日来た小学生は5年後は中学生に、10年後が大学生になる。中学生は10年後は多くは社会人になっているだろう。私は5年後は77才、10年後は82才になる。再発中の前立腺ガンと共存しながらも長生きしたい。ここに来館し通った子どもたちが、「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を支える力になっているかもしれない。サポーターになっているかもしれない。そう考えると夢が広がる。「村山うどんを食べる会」には現役の大学3年生も来てくれた。

 

私は簡単には死ねない。何としてもさらに広がった「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」と「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を目にしたい。武蔵村山が第1号館で、全国に第2、第3の交流館ができているかもしれない。元気で語り続け、進化する交流館と広がる活動を見続けたい。本当に長生きしたい。

 

皆さんにお願いする。力を貸していただきたい。もっともっと活動が広がるよう助けていただきたい。その事が「2度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」に繋がるようにしようではないか!もっともっと大きな流れに広げようではないか!私はまだまだ長生きするつもりだ。皆さんに支えられながら、良い方向に変わっていく社会を目で見たいのだ。夢を信じ、希望を掲げ、ゆっくりでも倦まずたゆまず皆さんと手を組んで歩いて行くつもりだ。共に歩いて行きましょう!よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

8月15日(土)当会がいつもお世話になっている「市民活動のひろば」の皆さんが4人でご来館くださいました。その中の細田さんがご自分のブログに感想を掲載されました。とてもうれしく思います。ご紹介いたします。

 
★ところで今回、丸木美術館に行く途中、
「旧日本兵のPTSD問題」を訴えている黒井秋夫さんの
「PTSDの日本兵と家族の交流館」(※ 武蔵村山市中藤)を訪ねた。
 
日本兵であった黒井さんの父・慶次郎さんは、復員後、定職に着かず、
家族や周囲と交流もせず、ほとんど口もきかなかったそうだ。
 
そんな生前の慶次郎さんを嫌っていた黒井さんだが、
米国のベトナム帰還兵のPTSDのDVDを見て、父への見方がかわった。
 
2回の招集で6年間もの軍隊生活を経験した慶次郎さんは、
戦争のPTSDに苦しめられていたのだと気づき、独学でこれについて調べ始め、
ついに自宅の庭に、2020年5月、上記の交流館(資料館)をオープンさせたという。
 
10平方メートルほどの小さな資料館だったが、
所狭しと貼られた掲示物、写真、新聞のコピー、印刷物、書籍・・・
そして黒井さんの熱のこもった解説に、心打たれた。
 
旧日本兵のPTSD問題は、
もっと注目され、研究されなくてはならない問題だと思う。
 
 ※交流館のHP https://www.ptsd-nihonhei.com/
★細田さんブログhttps://isibotoke.blog.fc2.com/

8月7日(金)快晴。高温注意情報が出ている。

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」通信8月1日号(通算4号)を周辺900戸の配布を4日間を要したが今朝で終了した。武蔵村山市市長・副市長・市議会議員・観光課にも届けた。昨日6日、64通を郵送した。本日7日は160か所(個人・団体・報道)にメールで送信します。次回通信は「村山うどんを食べる会」の報告を中心に9月1日頃の発信を予定しています。

7月30日(木)曇り

 

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」前史①

1970年、私は22才だったが、当時は港区田町駅東側にあった芝浦工業大学生協で社会人になった。たまたま空きが出た食堂の調理人の職についた。食堂は地下1階にあり、休日明けで出勤すると排水ポンプの故障で、時々くるぶしまで床一面に水が溢れているような環境だった。そこで同年代の若い職員、近所のパートの女性たちと懸命に働いた。

包丁の使い方、研ぎ方、使用した器具の洗い片付け、調理で終わりではなく、掃除してきれいにするまでが調理人の仕事と教えられた。初任給は確か3万円だった。鯨カツとハンバーグ作りは忘れられない。50年前クジラ肉は豚肉よりも安かった。学生食堂で鯨カツのカレーはボリュームがあり、男子の多い芝浦工大では人気メニューだった。刻んだ玉ねぎ、挽肉、パン粉を大きな回転鍋に入れて、全身を使ってこねるハンバーグ作りは汗だくになった。3年間いた。

 

 

 1973年の春と思う。新潟大学生協に退職者が出て「行くか?」という打診があり、故郷・山形の隣りであり即座に行くと決めた。上野駅から夜行列車で鶴岡に向かう時に、新潟県北部の中条駅に差し掛かると、左手の工場の煙突からいつも炎が出ていた。それを見るたびに「もうすぐ鶴岡だ。故郷だ」とこみ上げるものがあった。

 新潟大学第一食堂で15年間働いた。13千人の利用者があった。食堂職員30人程のうち、男は2人だけで、私より10歳以上年上の女性たちに囲まれ、24歳の私は最初は戸惑い、精神的に疲れ、ひと月もしないうちに「歯が痛い」と言って仕事を休んだことがある。しかし、社会人としての常識や、人間として大事なことは全て彼女たちに教えられ仕込まれた。

 私は24歳のその年に、兄夫婦と暮らしていた実家の両親を新潟の借家に引き取り3人暮らしを始めた。明治45年生まれの父は60才、母は59才だった。私は2018年に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げたが、「PTSDの復員日本兵」とは自分の父のことである。1948年(昭和23年)生まれの私は戦前の兵士の頃の父を知らない。

 

私の知る父は物覚えが付いた頃、県内の建設工事の現場作業員の仕事をしていた。雪が降り仕事がなくなると失業保険で食いつなぐ生活で貧乏だった。欲しいものがあってもねだることをしない(買ってもらえないと分かっているから)子供だった。父は近所では「6尺親父」と呼ばれ、がっしりした180㎝近い身長で、部落でも抜きん出た体格で遠目にもすぐ分かった。立派な身体を持ちながら、雪のある冬は仕事に行かない。無口で、戦争体験もほとんど話したことはない。どこかに出かけるということもない。家で起こる難しい問題の解決でも父は黙り込み、判断や差配は全て母や、私より7歳年長の兄にその役目を押し付けた。何もしなかった。子ども心にも無責任で、情けないダメな人間に思えた。家が貧乏なのも父親が他の家の男たちと違い、ちゃんと働かないからだと思うようになった。父を尊敬できなかった。

 

 

2015127日、私たち夫婦は横浜からピースボートに乗船して105日間の船旅に出た。毎日、100以上の催しが船内で開かれた。ベトナム・ダナンに向かう途中であるDVDを見た。ベトナム戦争に従軍した米兵が「ベトナム戦争で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺したベトナム人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」と彼はカメラに向2015127日、私たち夫婦は横浜からピースボートに乗船して105日間の船旅に出た。毎日、100以上の催しが船内で開かれた。ベトナム・ダナンに向かう途中であるDVDを見た。ベトナム戦争に従軍した米兵が「ベトナム戦争で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺したベトナム人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」と彼はカメラに向かって叫んだ。苦しそうな彼の顔と、中国で約10年間、従軍して最後は軍曹まで務めた父の顔と重なった。父は私に叫んだ「中国戦線で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺した中国人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」。父が死んで25年後だった。

7月29日(水)ずうっと霧雨。室温24℃。

 黒井の故郷・山形地方に豪雨。大石田、大蔵村付近の最上川が溢水して田畑や住宅に泥水が流れ込む映像が朝から流れている。字幕では鶴岡市荒沢の24時間雨量が240mmと報じている。涙が出てくる。切なくてならない。小中高の同級生たちがいっぱい住んでいる。顔が思い浮かぶ。みんな無事でいてくれ、と願うばかりだ。

 私の父親は復員後のほとんどを工事・建設現場を渡り歩く労働者として働いた。字幕で出て来た鶴岡市荒沢には思い出がある。昔、朝日連峰大鳥池周辺を水源とする大鳥川を堰き止めるダムが造られた。荒沢ダムという。生まれた家から20kmほど南に位置する。父はその建設に携わった。ある時、休みで帰ったお土産に「長靴」を買ってきた。私はそれが嬉しくて履いたまま家の中を走り回った記憶がある。父親からもらった愛情で、ほとんど唯一といえるあの場面を思い出す。調べたら荒沢ダムは昭和30年竣工とある。私はその年に小学校に入学した。出来事は5~6歳頃と思われるがうれしさだけは今も心に残っている。

 

 「謙虚な姿勢で、真摯に向き合う、丁寧に説明」、「先手先手に、躊躇なく、できることは何でもやる」と安倍首相は種々の事態にこれらの言葉を繰り返し使用した。「アベノミクスの成果を隅々まで行き渡らせる。評価基準は実績だ。女性が輝く時代」も安倍さんが頻繁に使った言葉だ。そして現実はどうなんだ。

 

 アベノミクスの言葉はもう使わなくなって久しい。女性の指導的比率30%目標は頓挫し実現時期を延期した。「コロナ感染は日本方式で収束させた」はずが感染者数は増えるばかり。 何を先手先手にやったのか。できること全てやるで、できたことは何だったのか。どういう成果・実績を上げたのか。丁寧に説明するかと思えば国会を閉めたきり、閉会中審議にも出てこない。遂にリーダーシップの発揮を放棄したように見える。政権末期の様相だ。

 私はもう安倍さんの言葉や行動を批判する気持ちも萎えつつある。消費するエネルギーがもったいない。安倍さんの現状は批判するも無残な姿のように見える。安倍さんにはどのような期待も、もはやかけられない。安倍さんをどうこう言うこと自体が今は非生産的だ。国民はどうするのかが問われている。

 一言つけたすと、安倍さんをいただく多数派の議員たちの政治に携わる心度合いの低さは情けりだ。情けないあなた方は何を実現しようとしているのか。本当にこの現状の政治のあり方で良いのかといいたい。私自身がサジを投げたくなる。しかし、諦めずに思い直して自分自身のできることを見つけ出し、仲間を募り、手を繋ぎ、歩いて行こう。心に言い聞かせる。

 シュプレヒコール!!

 皆さんの協力で「村山うどんを食べる会」を必ず成功させるぞ!

いかに少人数であったとしてもアットホームな笑顔溢れる広場を実現するぞ!

前進する「一寸の虫にも五分の魂」根性を発揮するぞ!

7月28日(火)陽が射したり、雨が降ったり不安定な天気。室温27℃。

憲法施行 73 年・千葉市空襲 75 年 戦争を繰り返さないための集い」

千葉・平和のための戦争展 「ピースフェア 2020 in 千葉」

「若者たちが語る戦後 75 年 ~若者から戦争体験者への手紙 1945←2020~」

オンライン・シンポジウム・ 戦争を知らない世代は、どんなふうにその記憶を受け継ぐことができるのでしょうか。

戦争体験者に手紙を書いた若者たちが、戦後 75 年のいま、考えていることを語ります。

 ●日時:2020 年 6 月 20 日(土)13:30~15:30

 

 2015年に出版された『若者から若者への手紙1945←2015』1945年当時の20歳前後だった”若者たち”の体験が聞き書きで掲載されています。70年後の2015年に現在同年齢の若者たちが、掲載された1945年当時の若者・戦争体験者から一人を選んで、その人に手紙を書くというプロジェクトが継続されています。昨年2018年は津田塾大学でシンポジュームが開催されて黒井も参加しました。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」のHPの最初に『語り継がれない経験はくり返す。語り継いで未来の命を守りたい』と大書していますが、これは昨年のシンポジュームで登壇した三陸出身の学生が3.11の際に明治・昭和の大津波の教訓を石碑に「ここより下に家を建てるな」と先人たちが記し残した集落が、先人の教えを守り津波に合わなかったという故郷の事例から『先人が子孫に語り継いだことが今日(未来)の命を守った』という発言に感動したことから教えられ使用しています。

 

 今年も上記シンポジュームへの参加呼びかけをいただきましたが、ZOOM設定に自信がないなど辞退しましたが、開催後の新聞報道で内容を知り、主催者の方に感想をお伝えしました。直ぐに主催者からシンポジュームのDVDが届きました。以下は見ての感想です。(Zoomは7月20日に私の娘婿に設定いただき使っています)

 

 (若者から戦争体験者への手紙 1945←2020の)主催者は引き続き本に掲載されている15人の元若者への手紙を現代の若者たちに募集しています。私は「若者たちの手紙を募集し続けている」ことが素晴らしいと思います。1945年当時の若者は今や100歳前後です。今から彼ら自身が戦争体験を語り継ぐのはほとんど不可能です。さらに未来に語り継ぐとしたら、若い世代にバトンタッチするしか方法はありません。

 いかにして若い人たちに語り継いでもらうか。私・黒井の活動でもある種一番の課題です。その課題をこの主催者(北川直実・室田元美・落合由利子の女性3人組)は成立させています。昨年のシンポジュームをサポートしていたのも多くの若者たちでした。今年のZOOMのシンポジュームも若い人たちが支えていると感じます。素晴らしい跡継ぎ作りに成功しています。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」も「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の活動も黒井秋夫のような従軍兵の子ども世代(70才台)から孫世代以降の若い人たちにバトンタッチを急がなければなりません。2度と日本が戦争を起こしてはならない、その世論を形成するためには、戦争が引き起こした被害・悲劇を語り継ぐことが一番大事なことだとDVDを見ながら再確認しました。『語り継がれない経験はくり返す。語り継いで未来の命を守りたい』のです。

 

 「平和」という言葉についても気づきがありました。前から「平和な日本」という言葉使いに違和感がありました。「平和な日本」という言い方には今の日本を肯定する意味合いを感じます。確かに1945年から75年間、1人の日本人も戦争で死んではいないし、戦争で一人の外国人も殺害していない。そのことで「平和な日本」というならその通りだ。しかし、コロナ感染でネットカフェの営業不能で寝場所を失った大勢の人たちの存在が明らかになった。非正規雇用やシングルマザーの家庭など衣食住に困難を抱えている人たちも大勢いる。戦争はなくても「安心して暮らせない」大勢の人がいる。沖縄にはたくさんの米軍基地がある。私が住む武蔵村山市の西部は米軍横田基地に接している。ベトナム戦争ではそれらの基地から戦闘機がベトナム人の殺害の為に往復した。こういう状態でも「平和な日本」と括っていいのだろうか。それでは「平和」という言葉を侮辱してはいまいか。

 ドイツに留学している若者(女性)の『ドイツでは平和という言葉よりも「戦争で人権、民主主義が侵され社会が分断される。そういうことのない社会」というような使い方をする』という発言が心に残った。そういう社会を指して「平和」というならしっくり心に落ちる。だれもが「安心して暮らしている社会=平和」ならうなづける。

 「隣の人と手を繋げる関係」という18歳の若者(男性)の言葉も心に残った。「手を繋いだ人を殺せないでしょう」と彼はつづけた。まさにそうだ。それは国と国との関係にも言えることだろう。日本の西方には中国、朝鮮半島、ロシアがある。南には台湾、フィリピン、東南アジアと続いている。まず手を繋ごうする気持ちを持ちたい。一時の優劣も優位の歴史も、50年後には泡と消えている。今から75年以上前までは日本は戦争を仕掛けるアジアの元凶だった。その歴史を否とするなら、まず日本から「手を繋ぐ努力」をせねばならない。若者たちの言葉にそう思わされた。

 

 『若者から戦争体験者への手紙 1945←2020~』がこれからも多くの若者を引き付けていくことを心から願いたい。この活動の主催者たちに心からのエールを送りたい。「PTSDの日本兵と家族の交流館」と「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」が皆さんの活動が向かう所と共にありたいと願っています。皆さんを希望に指針として努力いたします。

7月25日(土)時々強い雨。室温26℃。

 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処通信」3号を3週間かかって周辺900戸に配布を昨日終了した。武蔵村山は7月に入って毎日がほぼ雨降り。傘をさして郵便受け箱にチラシを差し入れるのは片手では濡らすし難しい。7月4日に印刷したのに配布が終わるのに3週間を要した。それでも5月以来、3回の広報ができた。その事には満足している。次回は間がないが8月10日頃に8月23日(日)の「村山うどんを食べる会」特集を第4号通信として配布したいと思っている。

 

 東京都では驚くようなコロナ感染者数を連日記録している。「開館を祝う会・5月23日開催」を3月段階で公示したが第一次コロナ感染の広がりで中止した。現在の状況で8月23日の「村山うどんを食べる会」を開く事の是非を心配する声も聞こえて来ている。しかし、私は感染対策を主催者と参加者がしっかりと準備し自衛すれば、開催は差し支えないと考えている。無症状の感染者が参加者の中にいたとしても、濃厚接触さえ防げば感染はしないとされている。

 

 私もコロナ感染は怖い。ガンの放射線治療や心房頻拍手術から1年も経過していない。私の免疫力は同年代より確実に低いだろう。こもる方が安全ではある。ステイホームに徹すれば感染はしないだろう。しかし、いつまでも家に退避では人生に大事な社会活動そのものも停止することになる。そうして生きながらえたとして何の価値があるのだと考えるようになった。

 世の中には思いもがけないリスクはいくらである。地震や豪雨災害もその一つだ。車の運転をすれば事故の可能性もある。だからと言ってこもってばかりいたら人として生きていることになるだろうか。生きている限りリスクから完全にに逃れることは不可能だ。リスクを恐れながらも対策を準備して前に進むことが自立した人間として大事なのではないだろうか。

 

 都や国は情報を開示してきちんと丁寧に説明して欲しい。現状はGOTOトラベルに不都合だったり、緊急事態宣言を促すような数字はわざと広報していないように見える。言って見れば国民をだましている。信用していない。悲しいことに、いくらワアワア指摘しても都も国も今の陣容である限りこの姿勢は変わらない。ちゃんと説明する姿勢に転換する希望は持てない。 だとしたら、私たち庶民は少ない情報からでも自分で考え、判断し、自立して自分の日々の行動を考えていくことが大事だと思う。だから、主催者として最大限の対策を準備して、参加者にはマスク、手洗い・消毒、検温などをお願いの上「村山うどんを食べる会」を開催することを決めて準備を進めている。

 

 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は中藤地区会館の西隣にあるが、そこの関係者の女性から写真にあるような花瓶と剣山をいただいた。  交流館の掲示板で妻の主催する「手芸サークルのお知らせ」を見て声をかけて来た事から交流が始まった。交流館に立ち寄り3~4回言葉を交わすうちに、彼女は手芸サークルのメンバーになった。花壇のアジサイの花が珍しいとえらく気に入ってくれたので、切って差し上げた。挿し木用の枝も差し上げた。そうしたら、家の整理で花瓶を処分したいが持ってくるという。自転車に括りつけてお持ちになった花瓶を見たらそれはお盆状の花瓶だった。「これは剣山が要るなあ」と思わず言ってしまった。「いや、生け花用のスポンジがあるから剣山がなくても大丈夫だ」とすぐに言い足したが遅かった。今朝25日、交流館の入り口に「剣山もらってください」と新聞紙で包んだ小さな包みが置いてあった。開いたら2個の剣山が入っていた。

 

 少しずつ「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」もご近所に知られてきたように思う。どうということのない、ご近所どうしのお付き合いを作ること、そしてそれを広げていくことが「交流館」の4つの目的を支える土台になると考えて来た。開館して2か月だが、そのことがゆっくりゆっくりだが根を伸ばしている感触を実感している。

 

 

 

 

 

7月23日(木)雨、時々強く降る。室温、24℃。半袖だが長袖の方が良かったか。

 尖閣諸島を中国当局の監視船が毎日日本の領海内を航行しているという。NHKのニュースで元自衛隊幹部の話しとして中国は尖閣諸島を中国が事実上支配している実績を作り、日本から尖閣諸島を奪い領有化することが狙いだと報じていた。また、中国の報道官が記者会見で中国の領海で日本漁船が不法に漁をしていると非難した。 中国がフィリピン、ベトナム沖の海で領有権を主張し、軍の基地を新設したりして軍事力で実効支配を広げている行動に軌を一にする行為と思われる。 NHKの報道の仕方はある程度は「力で対抗すべきだ」という論調のように見えた。

 

 私は「力で対抗する」に賛同しない。明確に言えば「力で領有権の主張はしない」。漁業に関して言えば双方が立ち入りを認め合うという立場に立ちたいが、中国が認めず、更に武力を増強するようなら、その場合は事実上、尖閣諸島の領域から撤退するのが上策と思う。

 

 戦争に明け暮れたヨーロッパ各国はEC(欧州共同体)を30年前に設立して、漁業に関して言えば漁獲量を船ごとに決めているとある。国どうしの領海侵犯という概念はない。中国、日本(韓国・北朝鮮含めて)にECのような東アジア共同体連合をめざす理念の持ち合わせがあれば尖閣諸島の領有を力で主張し合うような問題は起きないだろう。

 

 国の領有を現在の150年前から1945年までの75年間、アジアで力(軍事力)で主張し、国境線を変え、朝鮮半島、中国東北地方(旧満州)、台湾を無理やり支配し、そこに住む人々を従わせてきたのは日本である。日本が軍事力で屈服させたときにそれぞれの国民がどんな気持ちを味わったのか、今になって私たちは知らされようとしているのかもしれない。だとしたら、巡り合わせというしかない不幸なことだ。

 

 領有され支配され長い間日本の圧政に耐えた国々の今の発展ぶりを見ると、勝ち負けで言うことは不適当かもしれないが、いずれが勝利しいずれが敗北したと言えるのだろうか。はっきりしていることは、戦争などせずに手を繋いでいれば、今よりはるかに前進発展した東アジアが現出しただろうということである。

 

 私の結論は明確である。領有したいなら領有させるが良い、である。いずれ、未来のいつか、漁業で言えばどこの国の漁業者も仲良く領海など気にせずに仲良く漁に精を出せる日が必ず訪れる。それが歴史の必然と思う。争っても何の得もない。ましてや人の命を犠牲にするような価値は全くない。

 

 

7月18日(土) 今日も雨。室温23℃。長袖にジャンパーを着ている。

 この頃、昼となく夜となくうるさいほどだったホトトギスの鳴き声を聞かない。私は武蔵村山に居住するまで50年間、ホトトギスの鳴き声を聞いたことがなかった。つまり、ここに住んで初めてその声を聞いた。トウキョウトッキョキョカキョクと鳴くとかテッペンカケタカと鳴くとか言われていたので初めて聞いた時に、すぐにホトトギスと分かった。一方、生まれ育った山形県庄内地方や、長く暮らした新潟市で同類の鳥と言えばカッコウである。初夏に爽やかに高らかに鳴く。その鳴き声はこちらの気分も晴やかにしてくれた。そして、山形や新潟ではホトトギスの声を聞いたことがない。一方、ここ武蔵村山でカッコウの鳴き声を聞いたことがなかったが、シルバー人材センターの掃除仕事場の大南東公園で、今年になってカッコーと鳴く声が聞こえるではないか。ホトトギスと棲み分けをしているのかもしれないが懐かしく、嬉しく聞いた。ホトトギスが止まっているところを見たことはないが、カッコウは高い木でもてっぺんに止まって鳴く。その姿も颯爽としている。写真左がカッコウ、右がホトトギス。見分けがつかない。

カッコウ ほととぎす に対する画像結果

 7月のNHKの世論調査の調査項目に「敵基地攻撃能力を持つべきかどうか」という設問があった。持つべきが40%、持つべきではないが42%と拮抗している。いわゆるイージスアショアの設置が撤回されて、変わるべき軍備の議論で先制攻撃ができる軍備を持つべきかどうかの議論が自民党で勇ましい方向で進んでいるらしい。私は行方を本当に危惧している。

 1930年代、日米英の戦艦保有の軍縮会議で10(英米)対7(日本)を貫くか10対6.5で妥協するかで政府・日本軍(海軍)内で熾烈な内部闘争が展開された。結局6.5となった。これが5.15事件、2.26事件の抗争の一因にもなった。軍事力の議論では軍はいつも増強を主張するし、往々にして勇ましい方が優勢になる。軍縮派は弱気で及び腰に映る。あの時の結果は戦争を拡大する方向に向かい悲惨な結末に到った。

 軍事力は国民の命を守ったか!と問われれば武器で国民は守れなかった!と言わなければならない。戦勝国と言われる英仏にせよ多くの国民が命を落とした。 武器が(軍隊が)国を守るなどということは全くの幻想である。武器は国民の命を危険にさらすだけと歴史から学ぶべきだと私は思う。

 私が政権の政治家であったら、仮にも他国軍隊に攻めこまれたら迷わずに降伏する。絶対に戦争には持ち込まない。言うまでもないが、その覚悟で戦争を回避する外交交渉をするだろう。そしてあらかじめ全世界に向かって伝える。わが国は胸を張って降伏すると。何より自国国民の命が大事であり、相手国国民の命も大事だと我が国は宣言するだろう。それでも相手国は殺戮するかもしれないが最善の方法で避ける手立てを模索実行するだろう。日本の占領、圧政に耐えた韓国、台湾の戦後の復興と躍進を見れば、日本の軍事力はただただアジアの憎しみを買っただけだったと言わなければならない。戦争とは何と愚かだったかと。それが75年間、アジア各地に軍隊を送り戦争を続けた日本が得た平和を確保する歴史の教訓ではないだろうか。

 

 

 

 

7月17日(金)朝から雨。室温22℃。

 17日の新聞の死亡広告に坂東克彦さんの名前があった。新潟水俣病、熊本水俣病を弁護士として闘った。感慨に耐えない。新潟にいた頃、集会に行くとよく見かけた。引き締まった精悍な顔立ち、それでいて優しい表情、亡くなったと思うと本当に寂しい。闘士と呼ぶにふさわしい人生ではなかったか。生涯を弱い人に寄り添い、筋を曲げなかった。坂東さんの人生に心から拍手を送りたい。後輩から「あっぱれ!」を贈らせていただきたい。本当にご苦労様でした。あの世で坂東さんの背筋のピンと張ったあの姿とお目にかかりたいと思います。87才・老衰とある。あと15年生きていれば私もその年になる。

 

 日生協企業年金基金から「支給期間満了に伴う老齢給付金(年金)支給終了予定のお知らせ」が届いた。10年間いただいた年間233,100円の支給が終わった。年収の12%がなくなる。分かっていたとはいえ痛い。若い人たちの年収や年金を思うと贅沢は言えない。それでも我が身になれば悲しいなあと思う。妻と一緒に倹約しながらつましく生きたいと思う。

 

 今日は金曜日で「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は休館日。雨がなければ午前中は大南東公園の掃除作業だったが延期になった。この雨が上がったら昨日に続いてチラシ(PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・通信)の戸配に行くつもりでいる。午前中に市役所に行って市長さん(秘書課)、市議さん(議会事務局)、観光課にチラシを渡してきた。観光課は担当者が不在だったが「村山うどんを食べる会」の取材を要望して来た。

 

 我が家には4匹の猫がいる。3匹はオスで兄弟、一匹がメスで恐らく写真のトラ模様の猫と父親が同じ妹猫ではないかと思っている。トラ模様がそっくりだからだ。オス猫兄弟の母親は「しろ」と呼んで美人猫だった。ガラス戸の外にちょこんと座って無言で餌をねだった。その愛くるしさに負けて時々餌をやったら、家の中に上がるようになり、遂には私のベッドわきに子を産んだ。その子猫の飼い主探しが大変だったこともあり、妻が近くの動物病院で「しろ・写真右」の避妊手術をした。子を産んだらしばらくして「しろ」は姿を見せなくなった。我が家に出入りしていた時に赤い首輪をつけたが、何年かして別の赤いリボンをつけてひょっこり顔を見せたが、以来行方不明である。オス猫3匹は「しろ」の忘れ形見なのだ。猫たちは性格が兄弟でもまるで違う。基本仲が良いが時々双方が猫パンチしている。猫のおかげで妻と二人だけではない生活がある。妻も私も猫に時々話しかけ、なでてやり、叱りしながら心の癒しと潤いをもらっている。