今日のひとことバックナンバー

9月4日(金)晴れ。

「村山うどんを食べる会」から2週間が過ぎようとしている。「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処通信」9月1日号を作成して1000部の印刷を9月1日に済ましたが、メール送信も、封書発信も手がついていない。一言で言うと仕事・やるべきことが多い。一人でこなす作業量を越えている実感がある。「ゆとりをもって活動する。明日できることは今日はやらない」という決意を1~2カ月前に書いた。良いことかどうかわからないが、現状はそうはなっていない。

 

毎年8月は「戦争と平和を考える8月」ということで当会の活動も18の新聞社に19回活動紹介された。部数から言うと800万世帯に紹介された。1世帯二人とすると1600万人が目にする機会が作られた。人口の1割を越えることになる。ホームぺージの訪問者が800人を越えた。怒涛の荒波に出会ったような8月だった。その余波がまだ収束していない。

 

「PTSDの日本兵の存在」が広く知られることが「2度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」に繋がると信じて活動しているし、信じて続けるつもりだ。実際には1600万人の1割・160万人が読んだとしてもすごいことだと思う。しかし、一度だけでは記憶に残るほどの印象付けはうすい。何回も何回も目にするチャンスを作らなくてはならない。そのためにも報道する人たちに「PTSDの日本兵の存在を発信し続ける活動」に注目してもらう努力をしていくつもりだ。と言っても、ただただ地道に倦まずたゆまず活動を続ける以外に方策はないのだが。

 

これを読む皆さんにお願いしたい。皆さんのお仲間にこの活動を伝えていただきたい。いわゆる拡散をお願いしたい。もっともっと知られるチャンスを増やしたい。

 

最近、真ん前の学童保育の子どもたち、お兄ちゃんに当たる中学生の来館がぽつぽつあるようになった。「無料で麦茶が飲めるって本当ですか?」という具合に入ってくる。口コミで広がっているらしい。「テレビは付けない。ゲーム遊びはダメ。お菓子は館内で食べる分だけで持ち帰りはダメ」という約束が定着しつつある。静かに本を読んで帰る。「ありがとうございました」と礼儀も正しい。

 

5年後、10年後を考える。今日来た小学生は5年後は中学生に、10年後が大学生になる。中学生は10年後は多くは社会人になっているだろう。私は5年後は77才、10年後は82才になる。再発中の前立腺ガンと共存しながらも長生きしたい。ここに来館し通った子どもたちが、「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を支える力になっているかもしれない。サポーターになっているかもしれない。そう考えると夢が広がる。「村山うどんを食べる会」には現役の大学3年生も来てくれた。

 

私は簡単には死ねない。何としてもさらに広がった「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」と「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を目にしたい。武蔵村山が第1号館で、全国に第2、第3の交流館ができているかもしれない。元気で語り続け、進化する交流館と広がる活動を見続けたい。本当に長生きしたい。

 

皆さんにお願いする。力を貸していただきたい。もっともっと活動が広がるよう助けていただきたい。その事が「2度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」に繋がるようにしようではないか!もっともっと大きな流れに広げようではないか!私はまだまだ長生きするつもりだ。皆さんに支えられながら、良い方向に変わっていく社会を目で見たいのだ。夢を信じ、希望を掲げ、ゆっくりでも倦まずたゆまず皆さんと手を組んで歩いて行くつもりだ。共に歩いて行きましょう!よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

8月15日(土)当会がいつもお世話になっている「市民活動のひろば」の皆さんが4人でご来館くださいました。その中の細田さんがご自分のブログに感想を掲載されました。とてもうれしく思います。ご紹介いたします。

 
★ところで今回、丸木美術館に行く途中、
「旧日本兵のPTSD問題」を訴えている黒井秋夫さんの
「PTSDの日本兵と家族の交流館」(※ 武蔵村山市中藤)を訪ねた。
 
日本兵であった黒井さんの父・慶次郎さんは、復員後、定職に着かず、
家族や周囲と交流もせず、ほとんど口もきかなかったそうだ。
 
そんな生前の慶次郎さんを嫌っていた黒井さんだが、
米国のベトナム帰還兵のPTSDのDVDを見て、父への見方がかわった。
 
2回の招集で6年間もの軍隊生活を経験した慶次郎さんは、
戦争のPTSDに苦しめられていたのだと気づき、独学でこれについて調べ始め、
ついに自宅の庭に、2020年5月、上記の交流館(資料館)をオープンさせたという。
 
10平方メートルほどの小さな資料館だったが、
所狭しと貼られた掲示物、写真、新聞のコピー、印刷物、書籍・・・
そして黒井さんの熱のこもった解説に、心打たれた。
 
旧日本兵のPTSD問題は、
もっと注目され、研究されなくてはならない問題だと思う。
 
 ※交流館のHP https://www.ptsd-nihonhei.com/
★細田さんブログhttps://isibotoke.blog.fc2.com/

8月7日(金)快晴。高温注意情報が出ている。

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」通信8月1日号(通算4号)を周辺900戸の配布を4日間を要したが今朝で終了した。武蔵村山市市長・副市長・市議会議員・観光課にも届けた。昨日6日、64通を郵送した。本日7日は160か所(個人・団体・報道)にメールで送信します。次回通信は「村山うどんを食べる会」の報告を中心に9月1日頃の発信を予定しています。

7月30日(木)曇り

 

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」前史①

1970年、私は22才だったが、当時は港区田町駅東側にあった芝浦工業大学生協で社会人になった。たまたま空きが出た食堂の調理人の職についた。食堂は地下1階にあり、休日明けで出勤すると排水ポンプの故障で、時々くるぶしまで床一面に水が溢れているような環境だった。そこで同年代の若い職員、近所のパートの女性たちと懸命に働いた。

包丁の使い方、研ぎ方、使用した器具の洗い片付け、調理で終わりではなく、掃除してきれいにするまでが調理人の仕事と教えられた。初任給は確か3万円だった。鯨カツとハンバーグ作りは忘れられない。50年前クジラ肉は豚肉よりも安かった。学生食堂で鯨カツのカレーはボリュームがあり、男子の多い芝浦工大では人気メニューだった。刻んだ玉ねぎ、挽肉、パン粉を大きな回転鍋に入れて、全身を使ってこねるハンバーグ作りは汗だくになった。3年間いた。

 

 

 1973年の春と思う。新潟大学生協に退職者が出て「行くか?」という打診があり、故郷・山形の隣りであり即座に行くと決めた。上野駅から夜行列車で鶴岡に向かう時に、新潟県北部の中条駅に差し掛かると、左手の工場の煙突からいつも炎が出ていた。それを見るたびに「もうすぐ鶴岡だ。故郷だ」とこみ上げるものがあった。

 新潟大学第一食堂で15年間働いた。13千人の利用者があった。食堂職員30人程のうち、男は2人だけで、私より10歳以上年上の女性たちに囲まれ、24歳の私は最初は戸惑い、精神的に疲れ、ひと月もしないうちに「歯が痛い」と言って仕事を休んだことがある。しかし、社会人としての常識や、人間として大事なことは全て彼女たちに教えられ仕込まれた。

 私は24歳のその年に、兄夫婦と暮らしていた実家の両親を新潟の借家に引き取り3人暮らしを始めた。明治45年生まれの父は60才、母は59才だった。私は2018年に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げたが、「PTSDの復員日本兵」とは自分の父のことである。1948年(昭和23年)生まれの私は戦前の兵士の頃の父を知らない。

 

私の知る父は物覚えが付いた頃、県内の建設工事の現場作業員の仕事をしていた。雪が降り仕事がなくなると失業保険で食いつなぐ生活で貧乏だった。欲しいものがあってもねだることをしない(買ってもらえないと分かっているから)子供だった。父は近所では「6尺親父」と呼ばれ、がっしりした180㎝近い身長で、部落でも抜きん出た体格で遠目にもすぐ分かった。立派な身体を持ちながら、雪のある冬は仕事に行かない。無口で、戦争体験もほとんど話したことはない。どこかに出かけるということもない。家で起こる難しい問題の解決でも父は黙り込み、判断や差配は全て母や、私より7歳年長の兄にその役目を押し付けた。何もしなかった。子ども心にも無責任で、情けないダメな人間に思えた。家が貧乏なのも父親が他の家の男たちと違い、ちゃんと働かないからだと思うようになった。父を尊敬できなかった。

 

 

2015127日、私たち夫婦は横浜からピースボートに乗船して105日間の船旅に出た。毎日、100以上の催しが船内で開かれた。ベトナム・ダナンに向かう途中であるDVDを見た。ベトナム戦争に従軍した米兵が「ベトナム戦争で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺したベトナム人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」と彼はカメラに向2015127日、私たち夫婦は横浜からピースボートに乗船して105日間の船旅に出た。毎日、100以上の催しが船内で開かれた。ベトナム・ダナンに向かう途中であるDVDを見た。ベトナム戦争に従軍した米兵が「ベトナム戦争で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺したベトナム人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」と彼はカメラに向かって叫んだ。苦しそうな彼の顔と、中国で約10年間、従軍して最後は軍曹まで務めた父の顔と重なった。父は私に叫んだ「中国戦線で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺した中国人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」。父が死んで25年後だった。

7月29日(水)ずうっと霧雨。室温24℃。

 黒井の故郷・山形地方に豪雨。大石田、大蔵村付近の最上川が溢水して田畑や住宅に泥水が流れ込む映像が朝から流れている。字幕では鶴岡市荒沢の24時間雨量が240mmと報じている。涙が出てくる。切なくてならない。小中高の同級生たちがいっぱい住んでいる。顔が思い浮かぶ。みんな無事でいてくれ、と願うばかりだ。

 私の父親は復員後のほとんどを工事・建設現場を渡り歩く労働者として働いた。字幕で出て来た鶴岡市荒沢には思い出がある。昔、朝日連峰大鳥池周辺を水源とする大鳥川を堰き止めるダムが造られた。荒沢ダムという。生まれた家から20kmほど南に位置する。父はその建設に携わった。ある時、休みで帰ったお土産に「長靴」を買ってきた。私はそれが嬉しくて履いたまま家の中を走り回った記憶がある。父親からもらった愛情で、ほとんど唯一といえるあの場面を思い出す。調べたら荒沢ダムは昭和30年竣工とある。私はその年に小学校に入学した。出来事は5~6歳頃と思われるがうれしさだけは今も心に残っている。

 

 「謙虚な姿勢で、真摯に向き合う、丁寧に説明」、「先手先手に、躊躇なく、できることは何でもやる」と安倍首相は種々の事態にこれらの言葉を繰り返し使用した。「アベノミクスの成果を隅々まで行き渡らせる。評価基準は実績だ。女性が輝く時代」も安倍さんが頻繁に使った言葉だ。そして現実はどうなんだ。

 

 アベノミクスの言葉はもう使わなくなって久しい。女性の指導的比率30%目標は頓挫し実現時期を延期した。「コロナ感染は日本方式で収束させた」はずが感染者数は増えるばかり。 何を先手先手にやったのか。できること全てやるで、できたことは何だったのか。どういう成果・実績を上げたのか。丁寧に説明するかと思えば国会を閉めたきり、閉会中審議にも出てこない。遂にリーダーシップの発揮を放棄したように見える。政権末期の様相だ。

 私はもう安倍さんの言葉や行動を批判する気持ちも萎えつつある。消費するエネルギーがもったいない。安倍さんの現状は批判するも無残な姿のように見える。安倍さんにはどのような期待も、もはやかけられない。安倍さんをどうこう言うこと自体が今は非生産的だ。国民はどうするのかが問われている。

 一言つけたすと、安倍さんをいただく多数派の議員たちの政治に携わる心度合いの低さは情けりだ。情けないあなた方は何を実現しようとしているのか。本当にこの現状の政治のあり方で良いのかといいたい。私自身がサジを投げたくなる。しかし、諦めずに思い直して自分自身のできることを見つけ出し、仲間を募り、手を繋ぎ、歩いて行こう。心に言い聞かせる。

 シュプレヒコール!!

 皆さんの協力で「村山うどんを食べる会」を必ず成功させるぞ!

いかに少人数であったとしてもアットホームな笑顔溢れる広場を実現するぞ!

前進する「一寸の虫にも五分の魂」根性を発揮するぞ!

7月28日(火)陽が射したり、雨が降ったり不安定な天気。室温27℃。

憲法施行 73 年・千葉市空襲 75 年 戦争を繰り返さないための集い」

千葉・平和のための戦争展 「ピースフェア 2020 in 千葉」

「若者たちが語る戦後 75 年 ~若者から戦争体験者への手紙 1945←2020~」

オンライン・シンポジウム・ 戦争を知らない世代は、どんなふうにその記憶を受け継ぐことができるのでしょうか。

戦争体験者に手紙を書いた若者たちが、戦後 75 年のいま、考えていることを語ります。

 ●日時:2020 年 6 月 20 日(土)13:30~15:30

 

 2015年に出版された『若者から若者への手紙1945←2015』1945年当時の20歳前後だった”若者たち”の体験が聞き書きで掲載されています。70年後の2015年に現在同年齢の若者たちが、掲載された1945年当時の若者・戦争体験者から一人を選んで、その人に手紙を書くというプロジェクトが継続されています。昨年2018年は津田塾大学でシンポジュームが開催されて黒井も参加しました。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」のHPの最初に『語り継がれない経験はくり返す。語り継いで未来の命を守りたい』と大書していますが、これは昨年のシンポジュームで登壇した三陸出身の学生が3.11の際に明治・昭和の大津波の教訓を石碑に「ここより下に家を建てるな」と先人たちが記し残した集落が、先人の教えを守り津波に合わなかったという故郷の事例から『先人が子孫に語り継いだことが今日(未来)の命を守った』という発言に感動したことから教えられ使用しています。

 

 今年も上記シンポジュームへの参加呼びかけをいただきましたが、ZOOM設定に自信がないなど辞退しましたが、開催後の新聞報道で内容を知り、主催者の方に感想をお伝えしました。直ぐに主催者からシンポジュームのDVDが届きました。以下は見ての感想です。(Zoomは7月20日に私の娘婿に設定いただき使っています)

 

 (若者から戦争体験者への手紙 1945←2020の)主催者は引き続き本に掲載されている15人の元若者への手紙を現代の若者たちに募集しています。私は「若者たちの手紙を募集し続けている」ことが素晴らしいと思います。1945年当時の若者は今や100歳前後です。今から彼ら自身が戦争体験を語り継ぐのはほとんど不可能です。さらに未来に語り継ぐとしたら、若い世代にバトンタッチするしか方法はありません。

 いかにして若い人たちに語り継いでもらうか。私・黒井の活動でもある種一番の課題です。その課題をこの主催者(北川直実・室田元美・落合由利子の女性3人組)は成立させています。昨年のシンポジュームをサポートしていたのも多くの若者たちでした。今年のZOOMのシンポジュームも若い人たちが支えていると感じます。素晴らしい跡継ぎ作りに成功しています。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」も「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の活動も黒井秋夫のような従軍兵の子ども世代(70才台)から孫世代以降の若い人たちにバトンタッチを急がなければなりません。2度と日本が戦争を起こしてはならない、その世論を形成するためには、戦争が引き起こした被害・悲劇を語り継ぐことが一番大事なことだとDVDを見ながら再確認しました。『語り継がれない経験はくり返す。語り継いで未来の命を守りたい』のです。

 

 「平和」という言葉についても気づきがありました。前から「平和な日本」という言葉使いに違和感がありました。「平和な日本」という言い方には今の日本を肯定する意味合いを感じます。確かに1945年から75年間、1人の日本人も戦争で死んではいないし、戦争で一人の外国人も殺害していない。そのことで「平和な日本」というならその通りだ。しかし、コロナ感染でネットカフェの営業不能で寝場所を失った大勢の人たちの存在が明らかになった。非正規雇用やシングルマザーの家庭など衣食住に困難を抱えている人たちも大勢いる。戦争はなくても「安心して暮らせない」大勢の人がいる。沖縄にはたくさんの米軍基地がある。私が住む武蔵村山市の西部は米軍横田基地に接している。ベトナム戦争ではそれらの基地から戦闘機がベトナム人の殺害の為に往復した。こういう状態でも「平和な日本」と括っていいのだろうか。それでは「平和」という言葉を侮辱してはいまいか。

 ドイツに留学している若者(女性)の『ドイツでは平和という言葉よりも「戦争で人権、民主主義が侵され社会が分断される。そういうことのない社会」というような使い方をする』という発言が心に残った。そういう社会を指して「平和」というならしっくり心に落ちる。だれもが「安心して暮らしている社会=平和」ならうなづける。

 「隣の人と手を繋げる関係」という18歳の若者(男性)の言葉も心に残った。「手を繋いだ人を殺せないでしょう」と彼はつづけた。まさにそうだ。それは国と国との関係にも言えることだろう。日本の西方には中国、朝鮮半島、ロシアがある。南には台湾、フィリピン、東南アジアと続いている。まず手を繋ごうする気持ちを持ちたい。一時の優劣も優位の歴史も、50年後には泡と消えている。今から75年以上前までは日本は戦争を仕掛けるアジアの元凶だった。その歴史を否とするなら、まず日本から「手を繋ぐ努力」をせねばならない。若者たちの言葉にそう思わされた。

 

 『若者から戦争体験者への手紙 1945←2020~』がこれからも多くの若者を引き付けていくことを心から願いたい。この活動の主催者たちに心からのエールを送りたい。「PTSDの日本兵と家族の交流館」と「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」が皆さんの活動が向かう所と共にありたいと願っています。皆さんを希望に指針として努力いたします。

7月25日(土)時々強い雨。室温26℃。

 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処通信」3号を3週間かかって周辺900戸に配布を昨日終了した。武蔵村山は7月に入って毎日がほぼ雨降り。傘をさして郵便受け箱にチラシを差し入れるのは片手では濡らすし難しい。7月4日に印刷したのに配布が終わるのに3週間を要した。それでも5月以来、3回の広報ができた。その事には満足している。次回は間がないが8月10日頃に8月23日(日)の「村山うどんを食べる会」特集を第4号通信として配布したいと思っている。

 

 東京都では驚くようなコロナ感染者数を連日記録している。「開館を祝う会・5月23日開催」を3月段階で公示したが第一次コロナ感染の広がりで中止した。現在の状況で8月23日の「村山うどんを食べる会」を開く事の是非を心配する声も聞こえて来ている。しかし、私は感染対策を主催者と参加者がしっかりと準備し自衛すれば、開催は差し支えないと考えている。無症状の感染者が参加者の中にいたとしても、濃厚接触さえ防げば感染はしないとされている。

 

 私もコロナ感染は怖い。ガンの放射線治療や心房頻拍手術から1年も経過していない。私の免疫力は同年代より確実に低いだろう。こもる方が安全ではある。ステイホームに徹すれば感染はしないだろう。しかし、いつまでも家に退避では人生に大事な社会活動そのものも停止することになる。そうして生きながらえたとして何の価値があるのだと考えるようになった。

 世の中には思いもがけないリスクはいくらである。地震や豪雨災害もその一つだ。車の運転をすれば事故の可能性もある。だからと言ってこもってばかりいたら人として生きていることになるだろうか。生きている限りリスクから完全にに逃れることは不可能だ。リスクを恐れながらも対策を準備して前に進むことが自立した人間として大事なのではないだろうか。

 

 都や国は情報を開示してきちんと丁寧に説明して欲しい。現状はGOTOトラベルに不都合だったり、緊急事態宣言を促すような数字はわざと広報していないように見える。言って見れば国民をだましている。信用していない。悲しいことに、いくらワアワア指摘しても都も国も今の陣容である限りこの姿勢は変わらない。ちゃんと説明する姿勢に転換する希望は持てない。 だとしたら、私たち庶民は少ない情報からでも自分で考え、判断し、自立して自分の日々の行動を考えていくことが大事だと思う。だから、主催者として最大限の対策を準備して、参加者にはマスク、手洗い・消毒、検温などをお願いの上「村山うどんを食べる会」を開催することを決めて準備を進めている。

 

 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は中藤地区会館の西隣にあるが、そこの関係者の女性から写真にあるような花瓶と剣山をいただいた。  交流館の掲示板で妻の主催する「手芸サークルのお知らせ」を見て声をかけて来た事から交流が始まった。交流館に立ち寄り3~4回言葉を交わすうちに、彼女は手芸サークルのメンバーになった。花壇のアジサイの花が珍しいとえらく気に入ってくれたので、切って差し上げた。挿し木用の枝も差し上げた。そうしたら、家の整理で花瓶を処分したいが持ってくるという。自転車に括りつけてお持ちになった花瓶を見たらそれはお盆状の花瓶だった。「これは剣山が要るなあ」と思わず言ってしまった。「いや、生け花用のスポンジがあるから剣山がなくても大丈夫だ」とすぐに言い足したが遅かった。今朝25日、交流館の入り口に「剣山もらってください」と新聞紙で包んだ小さな包みが置いてあった。開いたら2個の剣山が入っていた。

 

 少しずつ「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」もご近所に知られてきたように思う。どうということのない、ご近所どうしのお付き合いを作ること、そしてそれを広げていくことが「交流館」の4つの目的を支える土台になると考えて来た。開館して2か月だが、そのことがゆっくりゆっくりだが根を伸ばしている感触を実感している。

 

 

 

 

 

7月23日(木)雨、時々強く降る。室温、24℃。半袖だが長袖の方が良かったか。

 尖閣諸島を中国当局の監視船が毎日日本の領海内を航行しているという。NHKのニュースで元自衛隊幹部の話しとして中国は尖閣諸島を中国が事実上支配している実績を作り、日本から尖閣諸島を奪い領有化することが狙いだと報じていた。また、中国の報道官が記者会見で中国の領海で日本漁船が不法に漁をしていると非難した。 中国がフィリピン、ベトナム沖の海で領有権を主張し、軍の基地を新設したりして軍事力で実効支配を広げている行動に軌を一にする行為と思われる。 NHKの報道の仕方はある程度は「力で対抗すべきだ」という論調のように見えた。

 

 私は「力で対抗する」に賛同しない。明確に言えば「力で領有権の主張はしない」。漁業に関して言えば双方が立ち入りを認め合うという立場に立ちたいが、中国が認めず、更に武力を増強するようなら、その場合は事実上、尖閣諸島の領域から撤退するのが上策と思う。

 

 戦争に明け暮れたヨーロッパ各国はEC(欧州共同体)を30年前に設立して、漁業に関して言えば漁獲量を船ごとに決めているとある。国どうしの領海侵犯という概念はない。中国、日本(韓国・北朝鮮含めて)にECのような東アジア共同体連合をめざす理念の持ち合わせがあれば尖閣諸島の領有を力で主張し合うような問題は起きないだろう。

 

 国の領有を現在の150年前から1945年までの75年間、アジアで力(軍事力)で主張し、国境線を変え、朝鮮半島、中国東北地方(旧満州)、台湾を無理やり支配し、そこに住む人々を従わせてきたのは日本である。日本が軍事力で屈服させたときにそれぞれの国民がどんな気持ちを味わったのか、今になって私たちは知らされようとしているのかもしれない。だとしたら、巡り合わせというしかない不幸なことだ。

 

 領有され支配され長い間日本の圧政に耐えた国々の今の発展ぶりを見ると、勝ち負けで言うことは不適当かもしれないが、いずれが勝利しいずれが敗北したと言えるのだろうか。はっきりしていることは、戦争などせずに手を繋いでいれば、今よりはるかに前進発展した東アジアが現出しただろうということである。

 

 私の結論は明確である。領有したいなら領有させるが良い、である。いずれ、未来のいつか、漁業で言えばどこの国の漁業者も仲良く領海など気にせずに仲良く漁に精を出せる日が必ず訪れる。それが歴史の必然と思う。争っても何の得もない。ましてや人の命を犠牲にするような価値は全くない。

 

 

7月18日(土) 今日も雨。室温23℃。長袖にジャンパーを着ている。

 この頃、昼となく夜となくうるさいほどだったホトトギスの鳴き声を聞かない。私は武蔵村山に居住するまで50年間、ホトトギスの鳴き声を聞いたことがなかった。つまり、ここに住んで初めてその声を聞いた。トウキョウトッキョキョカキョクと鳴くとかテッペンカケタカと鳴くとか言われていたので初めて聞いた時に、すぐにホトトギスと分かった。一方、生まれ育った山形県庄内地方や、長く暮らした新潟市で同類の鳥と言えばカッコウである。初夏に爽やかに高らかに鳴く。その鳴き声はこちらの気分も晴やかにしてくれた。そして、山形や新潟ではホトトギスの声を聞いたことがない。一方、ここ武蔵村山でカッコウの鳴き声を聞いたことがなかったが、シルバー人材センターの掃除仕事場の大南東公園で、今年になってカッコーと鳴く声が聞こえるではないか。ホトトギスと棲み分けをしているのかもしれないが懐かしく、嬉しく聞いた。ホトトギスが止まっているところを見たことはないが、カッコウは高い木でもてっぺんに止まって鳴く。その姿も颯爽としている。写真左がカッコウ、右がホトトギス。見分けがつかない。

カッコウ ほととぎす に対する画像結果

 7月のNHKの世論調査の調査項目に「敵基地攻撃能力を持つべきかどうか」という設問があった。持つべきが40%、持つべきではないが42%と拮抗している。いわゆるイージスアショアの設置が撤回されて、変わるべき軍備の議論で先制攻撃ができる軍備を持つべきかどうかの議論が自民党で勇ましい方向で進んでいるらしい。私は行方を本当に危惧している。

 1930年代、日米英の戦艦保有の軍縮会議で10(英米)対7(日本)を貫くか10対6.5で妥協するかで政府・日本軍(海軍)内で熾烈な内部闘争が展開された。結局6.5となった。これが5.15事件、2.26事件の抗争の一因にもなった。軍事力の議論では軍はいつも増強を主張するし、往々にして勇ましい方が優勢になる。軍縮派は弱気で及び腰に映る。あの時の結果は戦争を拡大する方向に向かい悲惨な結末に到った。

 軍事力は国民の命を守ったか!と問われれば武器で国民は守れなかった!と言わなければならない。戦勝国と言われる英仏にせよ多くの国民が命を落とした。 武器が(軍隊が)国を守るなどということは全くの幻想である。武器は国民の命を危険にさらすだけと歴史から学ぶべきだと私は思う。

 私が政権の政治家であったら、仮にも他国軍隊に攻めこまれたら迷わずに降伏する。絶対に戦争には持ち込まない。言うまでもないが、その覚悟で戦争を回避する外交交渉をするだろう。そしてあらかじめ全世界に向かって伝える。わが国は胸を張って降伏すると。何より自国国民の命が大事であり、相手国国民の命も大事だと我が国は宣言するだろう。それでも相手国は殺戮するかもしれないが最善の方法で避ける手立てを模索実行するだろう。日本の占領、圧政に耐えた韓国、台湾の戦後の復興と躍進を見れば、日本の軍事力はただただアジアの憎しみを買っただけだったと言わなければならない。戦争とは何と愚かだったかと。それが75年間、アジア各地に軍隊を送り戦争を続けた日本が得た平和を確保する歴史の教訓ではないだろうか。

 

 

 

 

7月17日(金)朝から雨。室温22℃。

 17日の新聞の死亡広告に坂東克彦さんの名前があった。新潟水俣病、熊本水俣病を弁護士として闘った。感慨に耐えない。新潟にいた頃、集会に行くとよく見かけた。引き締まった精悍な顔立ち、それでいて優しい表情、亡くなったと思うと本当に寂しい。闘士と呼ぶにふさわしい人生ではなかったか。生涯を弱い人に寄り添い、筋を曲げなかった。坂東さんの人生に心から拍手を送りたい。後輩から「あっぱれ!」を贈らせていただきたい。本当にご苦労様でした。あの世で坂東さんの背筋のピンと張ったあの姿とお目にかかりたいと思います。87才・老衰とある。あと15年生きていれば私もその年になる。

 

 日生協企業年金基金から「支給期間満了に伴う老齢給付金(年金)支給終了予定のお知らせ」が届いた。10年間いただいた年間233,100円の支給が終わった。年収の12%がなくなる。分かっていたとはいえ痛い。若い人たちの年収や年金を思うと贅沢は言えない。それでも我が身になれば悲しいなあと思う。妻と一緒に倹約しながらつましく生きたいと思う。

 

 今日は金曜日で「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は休館日。雨がなければ午前中は大南東公園の掃除作業だったが延期になった。この雨が上がったら昨日に続いてチラシ(PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・通信)の戸配に行くつもりでいる。午前中に市役所に行って市長さん(秘書課)、市議さん(議会事務局)、観光課にチラシを渡してきた。観光課は担当者が不在だったが「村山うどんを食べる会」の取材を要望して来た。

 

 我が家には4匹の猫がいる。3匹はオスで兄弟、一匹がメスで恐らく写真のトラ模様の猫と父親が同じ妹猫ではないかと思っている。トラ模様がそっくりだからだ。オス猫兄弟の母親は「しろ」と呼んで美人猫だった。ガラス戸の外にちょこんと座って無言で餌をねだった。その愛くるしさに負けて時々餌をやったら、家の中に上がるようになり、遂には私のベッドわきに子を産んだ。その子猫の飼い主探しが大変だったこともあり、妻が近くの動物病院で「しろ・写真右」の避妊手術をした。子を産んだらしばらくして「しろ」は姿を見せなくなった。我が家に出入りしていた時に赤い首輪をつけたが、何年かして別の赤いリボンをつけてひょっこり顔を見せたが、以来行方不明である。オス猫3匹は「しろ」の忘れ形見なのだ。猫たちは性格が兄弟でもまるで違う。基本仲が良いが時々双方が猫パンチしている。猫のおかげで妻と二人だけではない生活がある。妻も私も猫に時々話しかけ、なでてやり、叱りしながら心の癒しと潤いをもらっている。