白旗を掲げよう!今日のひとこと

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2021224日(水)

白旗を掲げよう!

「違う」よりも「同じではない」を心がけたい。

 

「違う」と「同じではない」はほぼ同じ意味に使用できる。

しかし、受け取る感じはかなり違うように思う。

「違う」は相対するものに共通点があるかどうかは問題にしていない。「違う」ことに力点が置かれる。

「同じではない」は相対するものと共通点があるが「違う」ところもある場合も含まれる。微妙に違う。

先だっていただいたある本を読んで指摘の鋭さに感心したが、どこか私の心にフィットしない物も感じた。

 

私は社会活動家として「輪が広がる」ことを発言する場合も書く場合も第一に考えている。

その観点からすると「違う」のように違いを強調する言葉ではなく、使用するとしたら「同じではない」と共通点もあることに繋がるような言葉を選びたい。というか、違いを探すよりも共通点を探したいと思う。私はその事はとても重要なことだと考えている。

研究者や何かの理論家なら独自の独創的な考えは重要だろうし「違う」ことが命かも知れない。

しかし、私は社会活動家である。すこしでもこの社会を良い方向に変えたいと思い活動している。

多くの人たちに発信する時に、少しでも共通点がると気づいてもらえるような言葉を選び届けたい。

 

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動を通じて多くの人たちに「PTSDの日本兵と苦労した家族の存在」を知ってもらい、広げて「やっぱり戦争をしてはならない」という世論を作り、そのことが「日本が二度と戦争をしない、誰もが安心して暮らせる社会」に繋がると信じている。

 

阿波根昌鴻さんは農地を取り上げた米軍の兵士でさえ「説得して味方にする」と仲間に話している。土地を取り返すにはすべての人たちに自分たちの戦いを理解してもらう必要があると阿波根さんは考えていた。そうすれば自然に農地が戻り、闘いに勝利するというわけだ。

普通に考えれば米軍(の兵士)は土地闘争の最大の敵に他ならない。

しかし、本当に戦いに勝利するには米軍(の兵士)の考えも変えて、共通点を見出し、見方になってもらわないことには勝利できないということも明確ではないか。

 

私は違いがあるとしても「違う」よりも「同じではない」と言う言葉を使いたい。

ほとんどの人に理解してもらうにはどんなに時間がかかっても、互いに共通点を確認しながら輪を広げるしかないと思う。世の中を本気で変えようとしたら、一人ひとりを地道に変えることだし、多くの人たちと手を結び広げていく道を探し選びたい。

 

今はあなたと「同じではない」、しかし共通点もある、という方向に進んで行きたい。

 

2021年2月23日(火)
白旗を掲げよう!
ミャンマーのゼネストが報じられている。何百万人もの人たちが街を街頭を埋めている。子どもも年寄りも、男も女も。民間企業の労働者も公務員も。商店主も農民も。
これを見れば正義が民衆の側にあるのは明らかだ。「死者は4人に過ぎない」などと自国民の命を天秤にかける軍に道理はない。
ミャンマー民衆は武器を持っていない。銃で立ちはだかる軍が怖くないはずがない。それでも人たちは街頭に出ていく。その気持ちに近い思いを私自身もはるか50年以上前に感じたことがある。しかし、あの時は若者だけだった。しかもほとんど学生だけだった。そこから先へ広がり進めないまま私たちの青春は花火のように消えた。
私たちが果たせなかった未来を、いまミャンマーの人たちが見せている。あのように闘うべきだった。
私は心から願う。ミャンマーの人たちに勝利を!ミャンマー民衆に勝利を!
22日、生活保護を引き下げた基準が違憲だとの判決が大阪地裁で言い渡された。
国のデフレ調整の起点を特異に物価が上昇した2008年にしたのは合理性を欠いていると断じた。政権の自助であり公助が断罪されている。
いわば「生活保護費を下げるありきで、その為の恣意的な数字をを基準にした」と判決は言っている。
「死者がわずかに4人」とうそぶくミャンマー軍事政権に通ずるものを私は感ずる。庶民の暮らし、民衆の日常が見えていない。いや見ようとしていない。政治は何のために、誰のためにあるのか!本当にこの人たちに自分たちの利益以外に、政治の理念やめざす物があるのか疑う。
同時に、「こんな人たちに負けてはいられない」と思う。嘆くばかりでは世の中は変わらない。
声を上げよう。上げ続けよう。
いつか街頭を埋める日本の老若男女の姿を見たい。若い時に果たせなかったその先の世界を見てみたい。
一方で東京株式市場の3万円を越す30年ぶりの活況も異常だ。
赤旗によれば「日本のビリオネラ(10億ドル=1050億円以上の資産を持つ富豪)の資産はコロナ禍で国民が苦しんでいる間に、12兆円から24兆円に倍増した」とある。
生活保護費を数万円単位で削り取り、削り足られた総額以上の利益を一人で上げる大富豪が存在する日本。
これが現政権とそこに群がる勢力のめざす政治なのか。
私たちもミャンマー民衆を見習おう。声を上げよう。街頭に出よう。簡単なことだ。政治を変えるのも。何百万、何千万の民衆が声を上げ、街頭に繰り出せば日本の政治も非暴力で変えられる。

221日(日) 白旗を掲げよう!

213日(土)に李素楨さんに父親のアルバムをお送りした。昨年8月に来館された折に軍人時代の父親のアルバムは全て李素楨さんに見てもらったと思っていた。それが212日に自分の本棚で探し物をしていたらB5版、厚さ10㎝程の父親が残したアルバムに気がついた。

開くと父親の初任地の吉林省公主嶺を映したはがき大の写真がたくさん貼ってある。父が着任したのが1932年なので今から90年前、1930年頃の公主嶺と思われる。中には日本が作った神社の写真もある。

これは李素楨さんに見てもらわねばとすぐに思った。何度も書いたが李素楨さんは公主嶺出身である。

私は823日に彼女が来館された時、公主嶺出身と聞いて驚愕し、父親が呼んだと直感して李素楨さんに父親たちが成したであろう所業を謝罪した。そこから、交流が始まり今に続いている。

 

今日221日(日)李素楨さんから9時半からの中国語のオンライン授業の開始直前にお誘いの電話が来た。今日は開館日なので来館者の場合は退出することを伝えて参加した。私はコープ共済連退職後の2011年から10年近く地区会館の中国語サークルに参加した。講師の中国人の先生が日本の大学に就職したため昨年7月に解散になった。

 

李先生のオンラインの授業は思いのほか楽しかった。李先生は冒頭に私の活動と2人の交流を受講者に(8人だった)紹介するよう話された。私は「交流館」の李素楨さんとの「交流館」の展示パネルを使って皆さんに経緯をお話した。その途中でも思い出し涙が溢れた。

 

李先生は授業の中で「都要做日中友好大使」と白版に大書された。「私たちみんなが日中友好大使になる必要がある」というような意味と思う。

李先生は今日も「黒井さん、中国に私と一緒に行って黒井さんの活動を中国の人たちに話してください」と言われた。先生は本気のようだ。コロナ感染が止み、中国との行き来が開始したら準備しようと思う。どうしても公主嶺をこの目で見て、中国の人たちに父親たちの成したことの謝罪をせねばならない。公主嶺の人たちと向き合わねばならない。そう思っている。

 

午後3時頃に、常連の小3の女子3人が来館した。入るなり「そんなに食べちゃだめ」とか「後の人たちに残そうよ」「いや食べたい」とか聞こえる。私はいつ通りパソコン作業を続ける。

そのうち本を読みだして静かになった。「何を読んでいるの?」と見せてもらったら、ヘレンケラーの伝記、風の谷のナウシカ、スーホの白い馬だった。しばらく読んでいたようだがヘレンケラーの伝記とスーホの白い馬を二人が借りていった。

 

「子どもたちが気軽に立ち寄る集いの場にしたい」という「交流館」のめざすことが少しずつだが進んでいるように感じられてうれしかった。頑張ろうというエネルギーになる。

220日(金)白旗を掲げよう1

 

220日、午後3時過ぎに小34人の女子が来館した。わいわい賑やかである。私は特にかまわずパソコンで作業している。

バナナとパンを食べている様子が会話から分かった。「お腹いっぱい」と言う声もする。聞いたら(土曜だからか)給食はなかったという。それでも家で「焼きそばを食べた」と言う子もいた。帰ってから見たらバナナとパンを確かに食べた様子だ。「子ども食堂でもある」かもしれない。続けようと思う。

途中、二人ずつに母屋のトイレに行った。母屋のトイレと洗面所は解放している。二組目が玄関で「めっちゃ可愛い猫がいるよ」と友達を呼ぶ声がする。これは注意せねばならない。猫を見たということはトイレ横のドアを開けて居間をのぞいたか入ったことを意味する。

「交流館」を開館する時にトイレに悩んだ。遠くから来る人もいる。」特に年寄りはトイレが近い。トイレは必要だが新たに作る場所もお金もない。困って妻に相談した。「母屋のトイレと洗面所を来館者に開放してほしい」。これも承諾してもらった。それ以来、トイレと洗面所の掃除は私の毎日の仕事になっている。子どもたちに注意した。「入っていいのはトイレと洗面所までだよ。居間のドアを開けちゃだめだよ」と言ったら「はあーい」と返事。トイレを私も使おうと入ったら、きれいに流していない。まず掃除をした。

 

20181014日(日)中藤地区会館(講師 中村江里さん・おしゃべり交流)

2019317日(日)さいかち地区会館(講師 中村江里さん・おしゃべり交流)

2019825日(日)中藤地区会館(講師 北村毅さん・おしゃべり交流)

2019128日(日)中藤地区会館(講師 遠藤美幸さん・おしゃべり交流)

1年の間に立て続けに5回の学習交流会(3回目から「おしゃべりカフェ」とした)を開いた。2時間前後の交流時間をとった。5人から10人程度に会場を分割して父親の思い出や自身の戦争体験を話す場とした。

「父親がPTSDの兵士かもしれない」とその場で発言した人はほぼゼロだった。実際には会が終わってから個別に父親のことを私に話してくれた人が何人かいたが事前に期待したほどではなかった。5人~10人でも話せる雰囲気ではなかったということと思う。参加者が増えれば交流会としては成功でも逆に「父親のPTSD」を言い出しにくい状況だったかもしれない。

学習交流会では毎回、参加者全員から「おしゃべりカフェ」での自分の発言を連絡先も加えて書いて出してもらった。事後に報告書として参加者が書いた発言要旨を前の参加者も含めてそのつど郵送したり、メールでお知らせした。少しずつ伝える人数が増えていった。今は140の個人といくつかのメーリングリスト、報道関係にメール送信すまでに増えた。郵送は160通になる。私が呼ばれた講演会場では当会だけの「参加者連絡先用紙」を主催者とは別個に回収してお知らせ対象先を広げている。

単にその場限りで終わるイベントではなく、繋がりをアメーバのように拡大していくことをめざした。一度でも参加した人とは繋がりを続けることが大事だと考えている。集会は繋がりの始まり、きっかけとして考えた。そこからどう広げるか、そこが関心事だった。

 

20198月に4年前の前立腺ガンの再発が分かった。9月~11月に35日間放射線治療を受けた。排便が困難になる副作用があり、1年半後の今も完全ではない。そのうえ同じ2019年秋に頻繁に発作的な動悸に悩まされた。心拍が急に激しくなり立ち上がれずうずくまり、発作が収まるのをじっと待つ状況を繰り返した。いよいよ心配になり主治医に相談したら立川の災害医療センターをすすめられ、心房頻拍という病名で心臓のカテーテル手術を1225日に34日で受けた。

 

自分は丈夫で健康と思っていたが「そうではない。いつどうなるか分からない身体だ」と自覚させられた。「PTSD兵士の資料展示館」はまえから考えてはいた。しかし、自分の不安な体力を突き付けられて「悠長なことを言ってはいられない。時間はない」と私は思った。

「なんとしても語り継ぐ拠点を作らねばならない」。私は決断した。

 

PTSD兵士の資料展示館」を家の敷地に建てさせてほしい、と妻に相談した。大賛成ではなかったが妻も了承してくれた。201912月も押し迫った頃に、たまたま何かの用事で訪ねて来たのが大工さんの飯塚忠春さんだった。運命の出会いだった。設計施工棟梁・飯塚忠春で202016日が工事開始と決まった。

218日(木)白旗を掲げよう!

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室通信」31日号の準備をしている。通信の中に「お手伝い募集しています!!毎月同様の仕事があります!」という欄を作った。毎月のルーチンワークのお手伝いと子どもたちのお相手をしてくれる人を募りたいと思っている。もう個人企業の枠を越える仕事量になっている。SOSということなのです。皆さんも気軽に来てくれるとうれしい。

 

先日、我が家に娘家族と妻の姪家族が昼の食事会に集まった。

私が毎月の「交流館通信」の240件の読者、報道機関へのメール送信に半日かかり、160通の郵送作業に2日が必要だと話したら「もっと早く言えばいいのに。手伝える時は手伝うよ」「皆さんにも伝えた方がいいよ。手伝ってくれる人がいるかもよ」「一斉送信のアプリを買うよ」とか言い、飽きれていた。

メール送信はBCCで一度送信を試みたが、何時間経ても送信が終わらず、途中で我慢できずに中止にした。それでこれまで通り一つ一つのアドレスに今も送信を続けている。

A3用紙の「交流館通信」1000枚の印刷は地区会館の印刷機で30分位だが、A4の半分折りに半日くらいはかかる。封筒の宛名書きはコクヨだったかの専用用紙で指定のアプリで印刷したが枠からはみ出しうまくいかなかった。それでA4サイズに3列の住所録を作り、印刷してカッターで一人ひとり切り離して封筒にのり付けしている。封筒に入れ、切手を貼り、封ずるのり付けの時間も手間がかかる。料金別納で郵便局に持ち込むこともあるが、窓口のやり取りや往復の時間を考えると近くのポストに投函できる切手を貼る方が面倒でない気もする。

「交流館通信」は周辺800900戸に毎月戸配している。100戸のポストに入れるのに1時間かかる。800戸でも8時間かかることになる。午前午後2時間ずつ配布に歩くのが体力的は精一杯だ。特に夏の熱い時はきつい。ここは狭山丘陵の端に位置するので30m程の高低差の住宅地の昇降を繰り返せねばならない。「明日は配布に行くぞ!」と思っても朝になると体調がいまいちのときもある。なかなか順調にはいかない。

 

2018117日(水)に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げ、513日に1回目の学習交流会を9人の参加で世の中に産声を上げた。続いて5か月後の1014日(日)に2回目の学習交流会を計画した。会場は我が家の目の前、東隣の中藤地区会館を借りる事ができた。

ところが宣伝方法が分からない。つてもない。そこでネットで都内近隣の集会を探して、片っ端から参加して会場でチラシ配布をすることにした。

前もって主催者に配布の許可をもらう連絡を入れる。大体はOKだった。会場に行くと「受付のテーブルにチラシを置いてください」と大概言われる。しかし、見ていると分かるが主催者の印刷物は取っても置いたチラシは中々取らない。私は「入り口付近で手渡しても良いですか?」と許可を乞い一人ひとり確実に参加者に手渡す方法をとった。が、渡ってもその場で読む人は多くはない。持ち帰ったら多くは捨てられる。

集会の多くは最後の方で「質問、意見」の時間があることが多い。私はそこで必ず質問をした。その時に「入り口でチラシを配布したPTSDの会の黒井です」と言って質問を始める。そうすると、チラシの中から取り出して目を通してくれる人がいるのだ。

チラシの宣伝がほとんどの無茶な質問になった時もあった。レイチェルクラークさんが司会するベテランズフォーピースジャパンの2018年の秋の集会には2日で4か所くらい梯子してチラシ配布のために参加した。質問時間の毎回、真っ先に手を上げる私にあきれ返り、遂に再質問しようとしたら「他の人はいませんか」とレイチェルさんは私を指してくれなかった。

今思えば恥ずかしい。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を知ってもらうことにとにかく夢中で必死だった。今になってレイチェルさんにお詫びします。あの時はごめんなさい。

 

20151228日。ベトナムに向かうピースボートの船上で「アレン ネルソン」さんのDVDを見て父親のPTSDに気づいたのだが、そのDVDを上映したのは通訳として乗船していたレイチェルさんだった。いわば今に到る私の活動の恩人がレイチェルさんなのだ。2018年秋に、私はレイチェルさんの追っかけだった。

217日(水)白旗を掲げよう!子ども食堂と言う面も!

 

214日から菓子の他にパンも加えた。6人の小3の女子たちが夕方来館して閉館時に見たら籠は空だった。

私は子どもたちの来館中も、パソコンに向かっていたり、郵便物の整理をしたり作業中で忙しく子どもたちが来ていても構う余裕がない。狭い室内だから交わしている会話は聞こえるが、喧嘩以外は口を挟むこともない。

14日は入ってきて「これを確保!」と何種類かのお菓子とパンと両手に選んだ子どもがいたり「あまり食べると夕飯が食べられない」という声も聞こえる。

食べ終わり。帰り始めて箱の中のしおりを見つけて「これ貰ってもいい?」と一人が聞いてきたら、みんなそれぞれ選んでいる。このしおりは昨年の交流館の開館日に来館者に撒く紅白饅頭と一緒に阿賀野市の山田さんが届けてくれたものである。その中に5円玉が括りつけられたしおりも混じっていた。一人がそれを持って行こうとしたらしい。「それはダメ」と誰かが止めた。「お菓子を食べた上にお金はダメ」とその子は言う。押し問答が続いた。結局、5円玉の付いたしおりを持ち帰ったようだ。

私は瞬時に口を挟めなかった。どうすれば良かったのか。何も考えずにお金が付いたしおりをそのままに箱に入れておいた自分の不行き届きが原因なのだ。そういう事態を思いつかなかった。

 

昨日の休館日、散歩ついでにスーパーに寄ってバナナとパンを買った。お菓子を食べ終わり「お腹いっぱい!」という子どもたちには食事と言う要素を考えればバナナもいいのではないか、そう考えて今日17日はバナナも揃えてみた。そのことへの子どもたちの反応は今日の下校字からだ。

 

2018117日(水)「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」のブログを立ち上げた。本屋でマニュアル本を買い求め、ブログ立ち上げは簡単にできた。

最初に立ち上げを宣言する小規模の学習会を5月に計画した。我が家の目の前が武蔵村山市中藤地区会館なので借りようとしたら、5人以上の団体でないと借りられないということが分かった。はたと困った。趣旨の賛同者を募るためにも集まる場所、機会が必要なのに団体以外会場が借りられない。何という不合理!困り果てていたら、たまたま加入していた「武蔵村山健康友の会」が「それじゃあ友の会のホールを使っても良い」と言ってくれた。

毎月19日の国会前集会、メーデーなどの集会に出かけてB6版のチラシを作り参加者に呼びかけ撒いた。知り合い、友人にチラシを郵送した。メールも出した。それでも当時は合計しても100人程度だったと思う。

 

 

2018513日(日)武蔵村山市健康友の会3階ホールで第1回交流学習会を開催した。

西武拝島線玉川上水駅の二つのバス乗り場にそれぞれ立て看板を立てた。健康友の会近くのバス停にも案内板を立てた。結局、バスを利用した参加者は一人もいなかったが。

会場に私と妻さち子以外に7人が集まってくれた。ピースボートで一緒だった女性が二人、健康友の会の人たちが5人。うれしかった。この時の模様はホームぺージの表紙ページの最下段に写真で見ることができる。

私は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」立上げの思いを1時間以上話したが、何度も涙が溢れ声が詰まった。

 

その時の参加者5人に名前を貸してもらい武蔵村山市地区会館を使用する団体届けを出すことがようやくできた。第一歩を踏み出した。

214日(日)の白旗を掲げよう。

 

昨日、小3の女子2人が会館の10時に来館した。しばらくして「ああ、おなかいっぱい」という声が聞こえた。この二人は週に2日ほど来てくれる。姉妹ではないが仲が良い。来館時はいつも二人一緒だ。13日に来館したのはこの子たちだけだった。夕方5時に閉館の支度をしたが、見るとたくさん食べ、たくさん飲んだようだ。お腹がすいていたのだろうか。この二人ではないが、コーヒー、紅茶用の小さなミルクを「おいしい」と言いながら一度に10個も飲む子供もいる。

 

昨夜、妻さち子と相談した。お腹がすいて食事代わりに菓子を食べている子供もいるとも考えられる。いわば「子ども食堂」的に利用している子供たちがいるのかもしれない。としたら、食事と言う要素も考えて食べ物の種類を揃えた方が良いのではないか。賞味期限2~3日は持つパンとか牛乳とか。そうしようと言ことになった。

 

開館して9カ月、事前には予測できなかったことが起きてくる。「子ども食堂」としての利用が良い悪いではない。全面的な食事の提供は現状では無理だが、子どもたちにはそう映っているかもしれない。そういう利用を規制はできない。できる限りのことは応えていきたい。現状に合わせてまた方針変更だ。

 

2015年、ピースボートにガンジーの本を持ち込み読んだ。「非暴力」を知りたかった。その頃は今の「白旗を掲げよう」に続く過程にいた。読んでその非暴力の凄まじさに打ちのめされるようだった。暴漢に襲われたら身を投げ出して抵抗する勇気を持てとガンジーは言う。ガンジーの唱える非暴力は暴漢から逃げるような卑怯者の非暴力ではないという。

 

日本軍にせよ英国軍にせよ身を投げ出して抵抗するインド人を何百万人も殺せるものではないという。侵略者たちは殺人にやがて精神的に耐えられなくなる。とガンジーは言う。凄まじい。

 

ガンジーが唱える非暴力抵抗は私にはできないことだと認め、降参するしかなかった。暴漢の前に命をかけて身を投げ出す勇気は私にはない。私は逃げるだろう。ガンジー流に言えば卑怯者ということになるのだろう。6年前そう思った。

 

沖縄に向かう船上の講座で阿波根昌鴻さんの非暴力に出会った。

自分たちの土地を暴力で取り上げた米軍兵士をも敵ではないと彼は言う。もとはと言えば日本が戦争を起こした結果が米軍に土地を強奪されたことに繋がった。原因は自分たちにあるという。米軍兵士であれ向かい合い、話して説得して、自分たちを理解してもらい、いつか味方にするという。そうすれば土地闘争に勝ち、農地は戻ると阿波根昌鴻さんは言う。

 

ガンジーは自力、修験者の非暴力、阿波根昌鴻さんの非暴力は他力の教えのように私には見える。私は弱い人間であり、「沈黙」ならキチジローであり、親鸞流に言えば悪人だ。

そのような私でもおのれを肯定して生きて行くことが許されるなら、卑怯者のそしりを受けても白旗を掲げて生きることを許して欲しい。

 

白旗を掲げる者たちの先頭に立つ勇気ぐらいなら私は持ち合わせている。

2021213の白旗を掲げよう!

 

12日、武蔵村山市役所に行き市長秘書課、議会事務局などに「交流館通信」31日号を渡してきた。届け始めて1年になり窓口の人たちにも認識されるようになった。秘書課では広報課などに回覧していると話してくれた。

私は特に交流館の名前を「村山お茶飲み処」と名付けたように地元に根を張ることにこだわってきた。

建物である交流館はどこにも逃げられない。ここで根を張りどんな風雨にもびくともしない「交流館」を目指すつもりでいる。

 

建設当時はどのような反響があるか分からなかったし、今でも今後の推移は不明だ。

関東大震災で自警団などに殺された朝鮮人の人たちを慰霊する集会に、わざと挑発に来る集団が出てきているが、「交流館」がそういう対象にならないとは言い切れない。覚悟はしている。

そういう時でも、地元の人たちの支持があれば少しも怖くない。きっと交流館は地元の力で守られる。

 

「交流館通信」を周辺世帯900戸に配布を始めて1年になる。

これを書いている今は213日(土)1020分だが小学3年の女子2人が来館して本を探している。子どもたちの感想ノートを見ても来館の一番の理由は「お菓子が無料で食べられる」なのだがそれでも良いと思っている。5年、10年、20年の間に子どもたちが青年になり、大人になった時に「交流館」の意味が少しずつゆっくりと彼らの心に根付いていくと確信している。その行く末だけは見届けたいと思っている。私は簡単には死ねない。

45日前、通りがかったお母さんが「いつもありがとうございます。」と声をかけていった。「今度お菓子を持ってきてもいいですか?」とも言ってくれた。確実に根を伸ばしていると感じてうれしかった。

 

社会が変わるとはどういうことだろう。

一人ひとりの考えや意識が変化して、それが社会に見えるようになって世の中が変わっていくのだと思う。「交流館」をそういう変化の発信場所にしたい。その思いが「村山お茶飲み処」の名づけになった。私が来館者とさまざまな話を交わす。「中国に攻められたらどうする!」という人もいた。「ただちに降伏します」と私が言ったら想定外だったようで唖然としていた。それでもその人は又やってきた。3回目はまだだが、きっとまた来てくれると私は思っている。彼にも毎月「交流館通信」を郵送している。白旗を掲げていることを彼はどう受け取るだろうか。いつの日か彼も理解してくれる。そうして社会は少しずつ変わっていく。私はそう思う。確信している。

 

 

2021.2.10  白旗宣言。


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12日の白旗宣言。

昨日11日。「ぶっとばせ軍国風・宝塚集会」が開かれ、黒井はオンラインで70分の講演をいたしました。

オンラインで合計20分程の映像を流しました。事前リハーサルでは私一人で試みましたができませんでした。今回は私の娘の夫、内山大樹さんに傍らに陣取ってもらい、映像もパワーポイントも全て彼が受け持ちスムースに行きました。大感謝です。

ベルリンの壁を崩壊させたのも、ソ連からロシアに政治体制を変えたのも、街頭を埋めた民衆の圧倒的な力でした。銃はもちろん核兵器でさえ無力でした。

銃や兵器、軍隊がなくても社会を変えられる。民衆の力が社会を変える。私たちがこの30年間で見たことです。

軍事力で変えたことは後の歴史で民衆の力で覆される。私たちが見た歴史の教訓ではないでしょうか。

「二度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」への道も暴力はいらない。ましてや軍事力などいらない。武器もいらない。

攻めて来るなら攻めればよい。私たちは決然と白旗を掲げる。その時は負けたように見えても、幾ばくかの時を経れば必ず勝つだろう。その時まで私たちは生き延びる。このことに確信しています。

今日、宝塚集会の参加者から「白旗宣言に共感します」とのメールが届きました。さらに広がる希望が湧いてきます。

 


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12日の白旗宣言。

昨日11日。「ぶっとばせ軍国風・宝塚集会」が開かれ、黒井はオンラインで70分の講演をいたしました。

オンラインで合計20分程の映像を流しました。事前リハーサルでは私一人で試みましたができませんでした。今回は私の娘の夫、内山大樹さんに傍らに陣取ってもらい、映像もパワーポイントも全て彼が受け持ちスムースに行きました。大感謝です。

ベルリンの壁を崩壊させたのも、ソ連からロシアに政治体制を変えたのも、街頭を埋めた民衆の圧倒的な力でした。銃はもちろん核兵器でさえ無力でした。

銃や兵器、軍隊がなくても社会を変えられる。民衆の力が社会を変える。私たちがこの30年間で見たことです。

軍事力で変えたことは後の歴史で民衆の力で覆される。私たちが見た歴史の教訓ではないでしょうか。

「二度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」への道も暴力はいらない。ましてや軍事力などいらない。武器もいらない。

攻めて来るなら攻めればよい。私たちは決然と白旗を掲げる。その時は負けたように見えても、幾ばくかの時を経れば必ず勝つだろう。その時まで私たちは生き延びる。このことに確信しています。

今日、宝塚集会の参加者から「白旗宣言に共感します」とのメールが届きました。さらに広がる希望が湧いてきます。

 

 

2021年1月24日(日)

 

PTSDという言葉は知っていた。しかし、アメリカ軍帰還兵が戦場体験が原因でPTSDを発症したことはそれまで知らなかった、と思う。帰還兵アレンネルソンさんは数えきれないベトナム人を、兵士も農民も子供も女性も見境なく殺害したという。ベトナム人はアメリカ人とは違い人間ではないと教え叩き込まれた。ただただ「殺せ!」と訓練された。そして彼はたくさんのベトナム人を殺した。帰国しても殺害したベトナム人の苦しそうな死に際の顔がフラッシュバックとして浮かんだ。しょっちゅう、夢の中にも。アレンネルソンは精神の平衡を保てず、心を壊し、家族に暴言、暴力を振るうようになった。一緒に暮らせないと家族に宣告され家を出ざるを得なかった。彼は沈痛な面持ちでカメラに向かいそれを話した。

 

20151228日(月)のことだ。その時、私は横浜からピースボートに乗船し、厦門(アモイ)から次の寄港地ベトナム・ダナンに向かっていた。前夜に船内新聞でチェックした「9条を抱きしめて」のDVDを8階スターライトに見ることになる(主催者はレイチェルクラークさん)。衝撃を受けた。

アメリカ海兵隊員だったアレンネルソン(1947~2009)さんの独白が流れ、PTSDに苦しみ話す彼の顔は終生が無口で無気力だった私の父、黒井慶次郎の面影と重なった。

 

何ということだ。無口、無気力で定職にもつかず、その事で貧乏な生活を家族にしいたダメな父親は本来の父ではなかったかも知れない。従軍体験で心壊され、元の自分に戻れず、戦争の後遺症・PTSD状態から抜け出せない父親の心の中を私は見通す事ができず、浅はかにも、誤解し、バカにし、嫌悪していたのかもしれない。全く思い違いしていたのだろうか。何ということだ。何ということだ。だとしたら、私はとんでもない一生を送ってきた。67歳のその日までダメな父親と思ってきたのが思い違いだとしたら・・・・・・。

私は父親とのことを思い出してみた。船室に戻り、身近にあった用紙の空き間に思いつくことを書いてみた。用紙が足りなくなり、あちこち探し、のり付けし継ぎ足して書き続けた。思えば思うほど父親はPTSDだったとするとつじつまが合う。

学業成績も悪くはなかったと聞く。戦役では軍曹まで昇進した。簡単にたどり着ける階級ではない。

戦場で一人前以上の働きができた人間が、復員後にはどうして無口、無気力で定職にもつけず、病院通いさえ妻が付き添わないと通院できないダメ人間になってしまったのか、説明つかない。従軍体験で人間が変わってしまった。PTSD状態だった、とすればつじつまが合う。

 

父とのことを書いても書いても涙が溢れた。

自分の愚かさ、思いやる心のない浅いばかりの父への思慮。情けなかった。バカな息子だ。戦場を7年間もくぐってきた人間が、どんな思いで生きて来たのかさえ思い至る事ができなかったバカな息子だ。人の表面しか見てこなかった。父親さえ表面でしか判断しなかった。自分は今幾つだ。67才になっていた。何ということだ。父は私が40才の時に亡くなっていた。27年前だ。

70歳近い今頃になって真実の父を知ってどうするのだ。もう取り返しがつかない。後から後から涙が溢れた。声を出して泣いた。そして自分の心の奥深くから湧きあがる何かを感じた。湧きあがる何かに突き動かされて今も歩いている気がする。

確かにあの時から始まった。私の人生の最後の道筋があの日のあの時に決まったように思う。

 

4日後、201611日(金)ピースボート船内ニュースに私の自主企画が掲載されている。8階後方・バイーア13:4514:45 『人生を話し自分を解放する会「大学闘争・挫折沈黙・SEALS」クロチャン』とある。20人ほど集まってくれた。私はアレンネルソンさんのビデオのこと、相似する父との思い出、PTSDの日本軍兵士が存在したのではないかなど、何度も涙で喉を詰まらせて話した。

 

下船する2016330日までに合計3回ほど同様の企画を主催した。

 

奈良県のある女性の父親は特攻兵士だった。飛び立つ日も決まっていた。仲間がどんどん飛んで行った。もちろん一機も帰還した飛行機はない。いよいよ自分が飛び立つという12日前に815日が来た。戦争は終わった。終わってしまった。自分の機は飛ばなかった。残された。

彼女は戦後に生まれた。軍人時代の父は知らない。普段はいい人だった。それが酒が入ったりしてスイッチが入ると人が変わり、彼女の母であり、自分の妻に手を上げた。暴力を振るった。彼女は怖くて怖くて陰に隠れて泣いていた。

先に母が亡くなり、元特攻兵士の父親は90歳を越え認知症を発症し、付き添うのが妻なのか娘なのか判然としない状態の病床で「000よー、俺は卑怯者だー、俺を許してくれえー!」と時々叫ぶのだという。

奈良の女性も今の今まで父親の暴力も、病床の叫びの意味も分からなかったという。それが私の企画に参加して初めてPTSDを発症していたのかと理解したという。

気付いたその夜、彼女は船室で1人「声をあげて泣いた」と私に話してくれた。

私は先の大戦で心を壊し、人間が変わってしまったPTSDの日本軍兵士が存在したことを確信した。

 

戦争とは怖いものだ。戦闘は確かに一部を残して1945815日に止んだ。その日を終戦の日と日本は言う。しかし、それから70年も経て、戦争の傷痕を引きずっている人がいる。PTSDの復員日本兵がいた。その日本兵の為に苦しんだ妻や子ども、家族がいた。

戦争は命を落としたり、身体に傷を負ったり、抑留されたりする兵士だけではない、表にはそれと見えなくても心に傷を負い、心を壊し、自分では制御できずに、家族に暴力を振るい、傷つけたり、無気力になり社会に順応できない人間を生み出していたのだ。しかも、そのことを日本国民は誰も知らない。

もし、先の大戦でPTSDの日本兵がいたとしたら、この事が日本人の誰も知ることなく、歴史の闇に葬られていいのだろうか。PTSDの日本兵の存在を知らないで、戦争でそういう兵士が発生することを知らないで戦争が語られていいのだろうか。PTSDの日本兵の存在が語られないで日本の戦争を分かったように話されて、教育されていいのだろうか。

良いわけがない。それではPTSDの日本兵は浮かばれない。共に暮らした家族も浮かばれない。日本は防衛省自衛隊も研究者も、戦争反対を叫ぶ人もPTSDの日本兵の存在を含めないで戦争を想定し話しているとしたらとんでもない間違いだ。片手落ちだ。こんなことが許されていいわけがない。将来にも大きな禍根を残すことになるではないか。

 

私に湧きあがるものがあった。黙ってはいられない。父親のためにも、自分のためにも、PTSD兵士とその家族の名誉のためにも、戦争でPTSD兵士が作られることを世の中に訴えなければならない。PTSDの日本兵が先の大戦で生まれたということを日本の人たちに知らせなければならない。たとえ、今は自分一人であろうとも声を出さなければならない。立ち上がるのだ!私の心を震わせる鼓動を感じた。

 

2016330日の下船に際して、私は最後の自分の企画で下船したら「PTSDの兵士の語り部になる」と宣言する。

私はその時も、実を言えば2018117日に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げるが、その時になっても「PTSDの日本兵が存在した事実」を日本では誰も気づいた人はいないと思っていた。気付いているのは自分と、ピースボートで出会った何人かしかいないと思っていた。

私たちだけではないと気付いたのは2018年の3月頃に、中村江里さんの著作「戦争とトラウマ」を立川市のジュンク堂の棚で偶然見つけた時だ。その時に初めて知った。日本軍兵士のPTSDの研究者がいた!確かにPTSDの日本兵がいたのだ!あの驚きは今も鮮明だ。明かりが見えた。仲間を見つけた!そういう思いだった。そして今に続いている。

 

以下、2016年3月に書いた「亡き父と二人三脚で日本軍兵士のPTSDB広げる語り部をめざす」を掲載します。この文章はHPで読む事ができます。

 

ピースボート自主企画「独白・父と暮らせば」(下船直後に加筆)

亡き父と二人三脚で日本軍兵士のPTSDを広げる語り部をめざす!

2016.3月  黒井 秋夫

・私はこれから自分の父親の事、そして私と父親の事を話します。私たち父子はついに最後まで深い話をしたことはなかったように思います。父は私のことを、私は父のことを本当に理解しあえたとは言えないように思います。なぜそうなったのか、なぜ理解しあえなかったのかを日本軍兵士のPTSDというキーワードでお話ししたいと思います。

・話の中には自分の父親を尊敬できなかったということも出てきます。そんなことを言うのは本当に父には申し訳ないと思います。そのことも又、日本軍兵士のPTSDがそうさせたのではないかと私は皆さんに伝えたいのです。尊敬できなかったと思っていた父親は実は本来の父ではなく、心に深い傷を負ってしまったPTSDに苛まれた日本軍兵士の父親だったのではなかったかと今は思っているのです。いわば先の大戦に従軍した日本軍兵士のPTSDが尊敬しあえるはずの父と子の普通の関係を破壊してしまったのではないかと私は主張したいのです。そしてその事の発生原因であり、結局は人の殺し合いにすぎない戦争を二度とするようなことがあってはならないと訴えたいのです。

 

・戦争によるPTSDが最初に問題化したのはベトナム戦争で米兵が帰還したら戦争目的が正義ではなかったとする祖国の世論とのギャップと社会からの疎外感などもありPTSDにさいなまれ社会に順応できない、社会復帰できない、暴力やアルコール、麻薬に走るという事例が大量に(全体の30%とも50%ともいわれている)発生し、個人の力で解決できる傷病ではなく社会全体でケアする体制と理解が必要だと認識されるようになったのが最初です。

 

・さて第二次大戦に兵士としてアジア太平洋地域で戦った日本軍兵士たち、つまり私たち世代の父親たちにPTSDは無かったのでしょうか?徴兵前と変わらない健全な精神状態で帰国したのでしょうか?戦後の社会にすんなりと順応できたのでしょうか?

・私は1948年、昭和23年の生まれであり、直接の戦争体験はありません。自分が生まれる前の徴兵前の父親がどんな人だったのか見ることも感ずることも当然できません。戦地から帰還した戦の父親しか知りません。父はいつ頃までか「戦友の夢を見た」とポツンと口にしたことはありましたが、他は無口で戦争のことは全く話しませんでした。

・父親は帰国して徴兵前に働いていたという鶴岡市五十川にあった田川炭鉱には戻りませんでした。その事情は聴いていません。私が物覚えついたころはダム工事などの作業員の仕事などして家族を養っていました。その他、商売を始めたりしましたが長続きせず貧しい生活でした。私は欲しい物があっても口にしても無駄だと悟り言わずに諦めるような子供時代でした。

・しかし父親にはそういう貧乏から抜け出そうという意欲は余り感じられませんでした。そういう努力をしているようにも見えませんでした。子供の私にはその姿は良く理解できず尊敬できない父親でした。むしろ自分は父親のようにはならない、絶対ならないとずうっと思っていました。

・高校3年のある日、学校の図書館で川上肇の「貧乏物語」に出会いました。「貧困は個人の責任ではなく、社会が構造的に生み出す物で救済策もまた社会の構造的改革を伴う対策が必要だ」とありました。その言葉は目から鱗が落ちるような衝撃でした。「貧困をこの世からなくすること」それは私の生きる上での判断の指標の大きな要素の一つであったように思います。

・考えてみると父は私の人生において反面教師だったと言えるかもしれません。そういう意味では悲しい親子関係だったかもしれません。そしてそういう父親の姿、生き方を生まれながらの父親の性格だとしか思いませんでした。

 

2015年、安全保障法への疑問や反対が日本で沸き上がり始めたころ、ふと父親が生きていたならどうしただろうと思うようになりました。戦争だけは駄目だと言うのを聞いたように思ったからです。不定期の「武蔵村山・黒井ニュース」に「父と語れば」として、もしも父親が生きていたなら、元気であったなら私と一緒に国会前の座り込み抗議行動に出かけたのではないか!生死を共にした戦友たちと肩を組み国会前に座り込んでいるのではないか!と「戦争だけはしてはならない!」と叫んでいるのではないかと思えたからです。その時から亡き父との対話(父と暮らせば)が始まったのです。

 

・そしてピースボート90回クルーズの3か所目の寄港地であるベトナム・ダナンに向かう航行中に、過去から今に到るベトナムの歴史の理解の為にベトナム戦争を描いた映画プラトーンや、イラク・アフガン戦争の米軍兵士のPTSDのDVDを見ました。映画プラトーンでは若い米兵が戦地に赴く前の戦争のイメージとはかけ離れた、村ごと焼き殺す住民虐殺や残虐な戦闘現場にも次第に精神が麻痺して反応しなくなり、崩壊し、心に深い傷を負う米兵の姿と中国大陸で戦う日本軍兵士としての父の姿が突然重なりました。「自分の父親も又、米軍兵士と同じように戦争体験によりPTSDにさいなまれていたのではないか」というひらめきです。それは本当に思いもかけない瞬間で雷に打たれるようなショックがありました。今は亡き父との対話は私の父に対するイメージを大きく変える方向に動いて行きました。

 

・父が戦った地は中国の旧満州から長江のある華中方面で、当然にもそこには中国人の村があり、家があり、人たちが生活していたのであり中国人兵士だけでなく、ごく普通に年寄りも女性も子供たちも暮らしていた訳です。

その状況はベトナム戦争における米兵の置かれた状況と似ています。周りを敵に囲まれ、昼は農民でも夜は兵士かもしれない。いつ襲撃されるとも限らないという恐怖を父は従軍していた約10年に渡って体験したのではないでしょうか。残虐な行為も幾度となく目撃しただろうし、あるいは自身が実行者だったかもしれない。

だとしたら、米兵と同じように正常な精神でいられた訳がない。心に深い傷を受けていたのではないか。帰国後に簡単に社会に順応できるような状態ではなかったかもしれない。

 

・私の知っている父親は戦争前の本来の姿とはかけ離れたPTSDと戦う父親だったかもしれない。戦前にはもっと快活であった父親がいたのかもしれない。戦争のことには特に無口だった私の父親はPTSDを抱えながら、それでも必死に家族を養おうとしていたのかも知れない。私は父親の負の姿しか見えていなかったのではないのか。そう思った時、今は亡き父親と心と心が生まれて初めて繋がったような感情がわいてきました。父親が私を真っすぐに見つめているような気がしたのです。

 

・これらのことは言うまでもなく全ては私の勝手な想像の世界の話です。この世にいない父親に当時の心の内をもはや聞くことはできません。どうだったのか真実は分かりません。しかしPTSDが父親にもあったと考えるといろいろな辻褄が合うのです。

・本当に父親は戦争についてはほとんど何も話しませんでした。話さないままに一生を終えました。しかし話さなかったのは私の父親だけではなく、多くの兵士も又口を閉ざしたと言われています。なぜ押しなべて彼らは話さなかったのだろうか。話さなかったのではなく、話すような誇らしいことなどは何もなかったと言う事なのではないだろうか。そのように米兵のPTSDの告白は教えています。父にとって、そして日本軍兵士にとって戦争で何を体験したのか。人生にどんな影響を与えたのか。多感な青年たちにとって戦争は何だったのか。

・映画プラトーンでは、出征した青年は「戦果をあげ英雄になって帰国する」という夢を持ってベトナムに行きました。しかし、戦場の現実は想像を絶する、更にそれ以上に持っていた夢とはかけ離れた「殺す前に殺す以外に生き残る術のない」正義も道徳もない獣の論理の世界でした。やがて青年は人殺しにも何の感情も湧かなくなり、精神のバランスを失い荒廃し心に深い傷を負っていくのです。

・だとしたら、米兵と同じような環境にいた日本軍兵士もまたアジアの戦場での体験は彼らの精神を粉々に砕いたと想像するのはおかしいだろうか。

 

・世界を光り輝く世界に導く不敗の神の国だと信じて戦った聖戦を、戦後の祖国はその価値観を真逆に180度さま変わりさせて、アジアへの間違った目的の侵略戦争であったと断じました。帰還した日本軍兵士の戦争体験をいわば完全否定したのです。帰還した兵士たちは何を頼りに己の精神の平衡感覚を保てば良かったのでしょうか。悲惨な戦争体験をしたのみならず日本社会の無理解と疎外感は彼ら帰還した日本軍兵士の性格を変え、その後の生き方に決定的な、取り返しのつかない影響、打撃を与えたと類推するのが普通ではないだろうか。

 

・戦前の日本軍兵士は天皇の兵士であり、お国の為に死ぬことこそ本分であり、特に敵の捕虜になることなど「生き恥を晒す」として最も屈辱的なことであり、「武士道精神」に基づき、その前に自決するのが当然の選択でした。しかし、父は約1年間中国で捕虜でした。「恥ずかしくて日本に帰れない。どの面さげて帰れるか」それが一番に思ったことではないでしょうか。それでも父は1946年、敗戦の翌年に博多に帰国しました。その祖国日本は父が叩き込まれ教育された神の国日本ではすでになく、父たちが生命を賭した戦はアジアへの侵略戦争であり、価値あるどころか間違った無意味な戦であったと言うことになっていました。父が青年時代の命を懸けた約10年の全てが間違いだったと否定される、全く評価されない別世界の日本に戻ってきたのです。この時、父は34歳でした。

・父は無口でした。その時の父は何が正義で何が間違いなのか。何をすることが良いことなのか、何をしてはいけないのか、戸惑うことなく判断し日本社会に順応できるような精神状態だったろうか。価値観が180度逆転した針の莚のような祖国で戦争のことなど話すべき事柄だっただろうか。当時の日本が捕虜になり帰国した敗残兵のことなどに聞く耳など持っていただろうか。「社会から疎外された存在」とは正に当時帰国した日本軍兵士にこそ相応しい言葉ではないだろうか。私の父は、そして多くの帰還兵は無口だったのではなく無口になざるを得なかった、させられた、語るべき言葉もなく聞いてくれる相手もいないというのが真実ではなかったでしょうか。

 

・終戦から27年後の1972年、一人潜んで戦争を戦い続けていたグアム島から日本軍兵士・横井庄一さんが羽田空港に帰還しました。その時に「生きながらえ恥ずかしながら帰って参りました」と話しましたが彼は捕虜になった訳ではない。戦い抜いて帰還したのだ。「恥ずかしながら」という言葉は父親たちにどう響いただろうか。捕虜になり早々帰国した自分に向けられた言葉として又しても深く傷ついたのではないだろうか。

・中国、韓国、アジア諸国から繰り返し戦争の謝罪要求が今もなお続いています。父たちはその度ごとに自分たちに向けられた非難として精神を痛め続けたのではないだろうか。いわば、戦後何年経っても心休まる日々は少なかったのかもしれない。

 

・私は何と鈍感で想像力のない人間だったのでしょう。私は先の大戦で特に太平洋の幾つかの戦場では戦闘による死者よりも病気や飢餓による死者が多かったことは様々な報道から分かっていたし、人並み以上に知っているつもりでいました。だのに、その戦争を体験した兵士の精神がどんな打撃を受けたのか、生き方にどんな影響を受けたのか、67歳になる今の今まで考えが及ぶことは無かった。一番身近な父親への生き方にどう影響があったのか、そういう考えまで遂に及ぶことはなかった。

 

・戦争をするのは機械ではない。将棋の駒でももちろんない。一人一人の個人としての人なのだ。彼らはその誰もが出征するその日まで、やるべき仕事があり大事な家族とのかけがえのない生活を続けていたのだ。彼らはそこから戦場に行ったのだ。兵士をカタマリで見てはならない。それは戦争開始に責任のある為政者のやりそうな思考ではないか。感情が揺れ動く呼吸する一人の人間として兵士を見ることが大事なのだ。だとしたら、私もそれまで父も含めて日本軍兵士たちを為政者と同じように個ではなくカタマリとしてしか見ていなかったのではないか。だから兵士の心の内まで思いやる気持ちを持てなかったのではないのか。私の想像力には人間を思いやる温かみのある心が欠けていたと言わざるを得ないのではないか。それでは父を理解できなかったのは当然のことだ。

 

・私の自主企画の後に90歳で昨年死亡した特攻隊兵士だった父親のことを私を見つけ話してくれた女性がいました。その方の父は、同僚が飛んだ次は自分が特攻隊として飛ぶ順番でしたが、2日後に815日を迎え死なずに除隊となったという。しかし、以降も「自分は卑怯な人間だ」と家族にたびたび漏らすことがあり、普段は静かなのに酒が入ると人が変わり、暴力をふるうことがあり、そんな時は怖くて幼い自分は震えていたという。最後は認知症になり早くに亡くなった母と自分を混同するような状態でありながら、病床では特攻で死んだ友の名を呼んでいたという。私の話を聞くまでは、父の行為とPTSDを結びつけて考えたことは無く、私の「父と暮らせば」を聞いて、父の内面の葛藤が初めて分かりかけたような気がする。その晩は声をあげて船室で一人泣きましたと話してくれました。

戦後70年経過し、90歳まで生きながら最後に見た夢が自分を卑怯者と感じさせた戦友の姿だったとは何と壮絶で痛ましい生涯ではなかったろうか。その人が心の中に70年間抱き続けたものは一体何だったのでしょうか。その女性の父親もまた、心に深い傷を負いその責め苦と戦い続けて生き抜いたと言う事なのではないでしょうか。

 

・皆さんにお聞きします。私の父だったり、この方の父親だったり、PTSDに捕えられるような戦争体験をする日本軍兵士をこれからの世の中で作り出しても良いのでしょうか。また兵士である父親のPTSDの影響を受けざるを得ない子供たちと家族も必然的に生み出されます。そういう時代が来ても良いのでしょうか。

 

・私は父に詫びねばならない。父親の従軍時代の体験と精神状態まで思うことができなかった。子供時代ならいざ知らず大人になっても、ましてや戦争や平和の問題に人並み以上に関心を持っていたにも関わらず、自分の父親が一番身近な当事者だったのに全く結びつけて考えることができなかった。一体全体どこの国のいつの時代の戦争や平和を私は考えていたのだろうか。なんという貧困な想像力。私の考えていた戦争や平和は現実感のない空中の議論に過ぎなかったということではないだろうか。青年時代に大きな壁に跳ね返されと感じ、その壁が一体何物なのか認識さえできずに、私がその後の自身の混迷の整理や総括もできなかったのも至極当然のことだ。方向性が発見できなかったのも当たり前だったと言わざるを得ないではないか。

 

・考えてみれば父親も自分の青年時代の体験を自分で納得できる整理は恐らく終生できなかったと思う。解決不能のまま生涯を終えたのではないかと思っています。しかし、私も又、自分の生き方を方向づけた「自分の家庭の貧困」の本当の原因に67歳になるまで気づいてはいなかったのだ。そのことを私に気づくよう仕向けたのは今は亡き父親だったのだ。

 

・私は1948年の生まれであり、戦後の父親しか知らない。徴兵前の、戦争体験前の健康な精神だったころの父の姿を知らない。私は(私たちの世代の日本軍兵士の子供たちは)本来の父とはその精神がすっかり変わってしまった負の父親を本来の姿の父と見誤っていたのではないだろうか。

・だとしたら、それは本当に不幸なことではないか。父は息子に己を理解させる言葉を持たず、息子は親がとうに亡くなった67歳になるまで父を理解する大きな心を持てなかった。戦争は親子が互いに信頼し、尊敬しあう関係まで捻じ曲げたのかもしれない。

・(父よ)あなたは誰にも話すことができずに、自分自身だけで戦争体験と社会からの疎外感を反芻しながら生きていたのですか。誰にも説明できず、話す言葉を持てず、誰にも理解されずに自分の子供とさえ心を通わすことさえできずに77歳まで生きて、死んでいったのですか。

 

・私は口を閉ざし無口であり続けた父親(父親たち)の心の闇に近づき、PTSDに切り刻まれた精神を息子である自分が引き継ごうと思っています。兵士としての時代の自分の行為を整理することも、自己評価することも、ましてや納得し肯定して人生を再出発することなど及びもつかなかった「無念だったに違いない父の人生の何年か」を私が引き受け整理し、理屈をつけ、言わば総括し、父(父たち)たち日本軍兵士が話したかったであろう思いをこの世の中に公にし、多くの人々に知ってもらい考えてもらう「日本軍兵士のPTSD」の語り部としての活動を始めようと考えています。

 

・日本軍兵士のPTSDは過去の事ではない。

イラク派遣のストレス・隊員の自殺21人、数字以上の深刻さ、分析し教訓生かせ2015.7.17朝日新聞抜粋)

・元自衛隊中央病院精神科部長だった福間詳医師はイラク・サマワの非戦闘地域での自衛隊員の精神的ストレスを次のように話しています。

2年余りの期間中、宿営地には迫撃砲弾などが13回(2か月に1回と多くはないと思うが)撃ち込まれコンテナを貫通したこともありました。「私の着任中にも着弾し、轟音とともに地面に直径2mほどの穴があきました。直後に警備についた隊員は『発射したと思われる場所はすぐ近くに見えた恐怖心を覚えた』『そこに誰かがいるようだと言われ緊張と恐怖を覚えた』暗くなると恐怖心がぶり返すと訴える隊員は急性ストレス症候群(PTSD)と診断しました」と福間医詳師は言っています。人道支援活動で戦闘地域ではないとしている自衛隊でさえ3年間に21人も自殺している事実を福間医師は米兵のPTSDとは違うと言いますが(私には同じに見える)人生を断つまでに至るような心に深い傷を負っているのです。「アメリカで社会問題になっているイラク帰還兵のPTSDは戦闘ストレスとも呼ばれ、目の前で敵を殺したり、味方が殺されたりした時に起きます。惨事を経験したショックによる高強度ストレスです。アフガニスタンとイラクからの帰還した後の自殺者が戦死者を上回っています」と続きます。

 

・このようにイラクやスーダンに派遣されている日本の自衛隊員のPTSDが次々と明らかにされています。つまり戦争の為にかけがえのない人生を、自分の心を自分で制御できない、心に深い傷を負わねばならないような仕事をしている兵士が今現在、進行形で発生し存在しているのです。

・こういう情勢が進行するときに70年前の先の大戦で心に深い傷を負い、スムーズな社会復帰はもとより精神を持ちこたえることさえ困難で口を閉ざし続けた私の父もそうであったかもしれないPTSDに侵された日本兵がたくさん存在したであろうことを、このまま光を当てることもせず、あたかも無かったことのように、誰にも気づかれることなく世に出さないまま歴史の闇に葬り去って良いのでしょうか。彼らの遺言として受け止めこれからの日本の指針として、教訓として世に明らかにし二度と起こしてはならない戒めにこそすべきなのではないでしょうか。

 

・PTSDにさいなまれ自分の人生を台無しにしたばかりでなく、」その家族、その後生まれた私たち世代の子供にまで「尊敬できない父親」と思わせるような影響を与える「戦争は二度としてはならない!」とり訳、他国に出ていくような戦争をしてはならない。自分のような兵士を生み出してはならない。このことこそ父(父親たち)が私たちに伝えたかったことではないでしょうか。

 

・自民党安倍首相は憲法改正を公言しています。その狙いの先には憲法9条を変え、いつでもどこでも堂々と戦争ができる日本にすることです。そのことは亡き父、亡き戦友たち、第二次世界大戦に従軍した多くの兵士たちの願いを踏みにじることだと私は思います。

 

・私には今、確かに亡き父親の声が聞こえてきます。「息子よ、私の代わりに声をあげよ!」と、言っているのです。とするならば「あなたの万分の一しか取って代われないかもしれないが、それでもあなたの思いに近づき世の中の人たちに伝え広げる行動を起こします!」と私は応えたい。

 

・私は日本軍兵士のPTSDの悲劇を掘り起こし、世に出す「語り部」になりたい。

・先ずは地域の公民館を借りて、市報などで広報し始めてみたい。もちろん初めは何から何まで一人なのは当然だ。それでも続ければ賛同者に出会えるだろう。現にピースボートのクルーズ中の4回の私の自主企画(父と語れば・日本軍兵士のPTSD)に延べ100人を超す参加者があり、自分の父親について私と同じような気づきの体験を話し合う交流の場を持つこともできた。語り部を続けていけば、やがて仲間ができて、ネットワークができるかもしれない。そうなったらどんなに素晴らしいことだろう。その中からは第23の語り部が出てくるに違いない。それらの力が束になれたなら、もしも 日本が戦争への道を進もうとする時に、その前に立ちはだかる「5分の魂を持った両手を広げる虫」くらいにはなれるかもしれない。

 

・「語り部」の活動が実を結ぶのははるか先かもしれないし、局面、局面では何度となく敗北感を味わうこともあるに違いない。だとしても、今度は青年時代のように挫折したり沈黙したりはしないことにしよう。そういう時は沖縄の人たちの長い戦い、負けない戦い、いつの日か必ず勝つ戦いに学ばせてもらおう。時には敵と思われる人たちをさえ「いつかは味方に変える」心通わせる気長な取り組みを手本にしよう。あの人たちのように悲壮感など持たず、むしろ明るい気持ちで、未来に向かって、諦めず、粘り強く、亡き父と心通わせながら二人三脚で歩いて行くつもりです。皆さんが温かく見守ってくださることを心からお願いしたい思いでいっぱいです。

 

2016年4月

 

 黒井 秋夫

2021.1.19  
 
★52年前の1969年1月19日、東大安田講堂が落ちた。私の大学(山形大学)からも恐らく20人以上が安田講堂に籠城したと思う。大学の学寮で一緒だった一つ上の先輩も籠城した。当然逮捕されたが保釈申請はそのつど受理されず、拘留されたまま裁判に入った。強引な公判運営に抗議して先輩は独房で素っ裸になって公判出廷を拒否したと伝えられた。ふだん物静かな彼からは想像できないことだった。絵も上手で綴った漫画本は素人の域ではなく目を見張った。岩手の田舎に帰った彼は文学青年であり続け同人誌を主宰していると人づてに聞いたが、訃報もまた人づてに十数年前に聞いた。寮の恒例運動会で私の前を走る彼の写真が手元に残っている。
 
東大と前後して山形大学でも寮闘争が持ち上がり、全学化し山形大学全学闘争会議が組織された。一声かければあっという間に学生が200~300人は集まり、デモ隊がしょっちゅう大学からなだらかな坂を下り山形市七日町通りに繰り出した。
 
大学3年の春だったか、理由は忘れたが大学側が学生を警察に告発し何人かに逮捕状が出ているという情報が流れた。その中には私も含まれているという。
その日、大学正門まえ、銀杏並木通りで集会が開かれ、200人くらいの学生が集まっていた。警戒していた警察隊が正門付近にいたが、突然、私を強引に道路側に引き込んでその場で逮捕した。目撃した学生たちは驚き憤激し仲間を集め、届け出もないまま数百人に膨れ上がったデモ隊が大学から繰り出し山形警察署に押し掛ける騒ぎになった。仲間を釈放しろというシュプレヒコールは留置場の私にも聞こえた。
 
あのころ、私たちはすぐにでも社会革命が成功し、労働者が政権を持つ日本を創れると確信していた。それは史的唯物論の必然であり疑いのない当然の推移と思っていた。未来を楽観し公正な正義の社会が来るものと信じていた。
 
1969年当時、フランス・パリのカルチェラタン、アメリカのベトナム反戦デモ、中国紅衛兵の造反有理のスローガン、日本では東京神田の白山通りを埋め尽くした日本大学全学共闘会議3万の学生たち、日比谷野外音楽堂に入りきれず、周辺を取り巻いた全国全共闘結成大会に集まった2万の学生たちがいた。同時期に世界中の青年たちが新しい世界をめざして街を埋めていた。日比谷公園を出たデモ隊が東京駅で流れ解散して、駅構内で通りかかった市民に呼びかければヘルメットにカンパがどんどん投げ込まれた。私たちと市民との討論の輪がそこら中にできた。世の中が湧きあがるような熱気が当時は存在した。
 
50年が経過した。世の中は何か変わったか。何も変わらなかった。いや、私たちは何も変えることができなかった。互いの小さな違いを超える事ができずに、むしろ違いを強調して四分五裂した。暴力を振るい合い国民の意識からはかけ離れていった。あっという間だった。
 
私たちは世の中を前進させたか。少しでも世の中を良い方向に向かわせたか。その後の推移を見れば一目瞭然、私たちは学生運動も青年運動も消滅させた。と言うより、新たに生ずる事ができないような負の遺産を後世に残したと言わねばならない。その意味で現在の鬱屈した日本の現状に私たち団塊の世代は責任がある。
 
今、アメリカでは青年の間に社会主義への関心が深まっているという。民主党左派サンダース陣営を多くの青年たちが支えているといわれる。環境問題をテーマにヨーロッパなど世界中で青年たちが立ち上がっている。香港でも民主主義と自由を掲げる運動の中心に青年たちがいる。しかし、現在の日本の青年たちにその熱気はない。
なぜなのか。その原因をたどれば、互いを殺し合うまでに堕落し、左翼の運動とは怖いもの、近づいてはならない物と日本人の心身に沁み込ませた50年前の私たちがいるのではないか。そう思う。
 
社会に疑問があっても、声を出し、立ち上がり、活動しようという青年たちの芽が育たないような土壌を荒れ地にしたのは私たち世代の活動が原因だと私は考える。そう言う意味で、私たち世代は日本国民にお詫びせねばならない。学生運動や市民運動が簡単には芽を出せないような荒廃した土壌を作ったのは私たち世代のあの頃の活動の後遺症だと言わなければならない。本当に申し訳ない。若気のいたりでは済まない程の間違いを私たちは犯した。日本国民に心からお詫びする。
 
私自身は、あるいは当時の青年たちの多くは「暴力を振るい合うこと」を批判し、克服を訴えたが「暴力を振るい合う」グループの行動を阻止する影響力を持ちえなかった。そのことが取り返しつかない負の影響をその後の青年学生の活動に与え続けたと思う。
 
私は22歳で東京の大学生協に就職し、その後新潟に移り、60歳の両親を24歳の時に兄夫婦から借家に引き取り3人で一緒に暮らしを始めた。
それ以来、私は活動を離れた。その後、政治的には沈黙した。長い沈黙だった。
 
私は総括できなかった。どうして、必然であるはずの社会革命は雲散霧消したのか。仲間たちは散り散りになったのか。自分自身にも何の説明もできなかった。何が間違っていたのか。どうすれば良かったのか。皆目わからなかった。
 
内部的な問題、日本国内の政治情勢、世界の動き、さまざまな要因があるだろう。それでも長い間私は分からなかった。混迷の中にいた。
 
 
2001年9月1日ニューヨーク貿易センタービルがターリバーン、アルカイーダといわれるグループにテロ攻撃を受けた。アメリカは上下両院の圧倒的多数の支持を得て、10月に多国籍軍と称してアフガニスタンに侵攻した。
私はその時、日本生協連共済推進本部に新潟から出向していた。署名版とゼッケンを手作りし、一人でアパートに近いJR船橋の駅で道行く人たちにアフガニスタン侵攻反対の署名を呼びかけた。
暴力の連鎖の始まりを感じて身が震える恐ろしさを感じた。いても立ってもいられずに、誰にも連絡を取る事もなくたった一人で駅頭に立ったのだった。
 
沈黙から30年、ようやく私は総括の手がかりを感じていたのかもしれない。
それから更に15年が過ぎ、平和安全法(戦争法と私たちは言った)の国会審議が始まり、国会周辺に法案に反対する市民が連日押し寄せた。その中に私もいた。座り込みの中で何人もの「昔の仲間たち」と出会った。
その年2015年12月にピースボート南回り航路に乗船した。そこで、ベトナム戦争の米軍帰還兵アレン・ネルソンさんのDVDを船内で見た。PTSDにさいなまれ、家族生活を維持できず精神が崩壊した苦しみを話すアレンさんの苦渋の顔と、先の大戦で中国戦線に従軍した無気力、無口の父親の暗い顔が重なった。一瞬にして私は了解した。父親もまた、ネルソンさんのようなPTSDを発症していたのではないか!雷を受けたような衝撃があった。
 
航海の中で阿波根昌鴻さんの「全員の賛同を得られれば土地闘争に勝利できる」考え方にも出会った。
ポーランド労働者連帯の政権樹立、ベルリンの壁の崩壊、ソ連からロシアへの政権移行、アラブの春など、市民の圧倒的な支持があれば銃がなくても、武器がなくても平和的に社会が変えられることを目の当たりして起きている事象に道筋と説明が私もできると思えるようになった。
 
沈黙から50年が経過した。
私はようやく総括できる地平に立てた。そして今、この文章を書いている。
長かった。しかし、死ぬ前に到達した事は幸せなことだった。
 
私の父は自分の軍人時代を総括できずに亡くなったと私は思う。自分自身の従軍体験によるPTSDを説明できたら、その時点であの無気力、無口の父親は変化したと思う。家族や周囲の評価が、自分が尊敬されていない空気をいやというほど感じてはずだから、その挽回のためにも、総括できていたら、180度それまでと違う生まれ変わった父を体現できたと思う。しかし、父は亡くなるまで無気力、無口のままだった。総括できなかったのだ。
 
中国から帰還した時、父は34歳だった。それから42年後に父はこの世を去った。42年は総括の地平にたどり着くには短か過ぎた。無理だった。それほど父の従軍体験は重いものだった。20歳で徴兵され、2度目の軍役を経て復員した時に父は既に34歳だった。天皇は神であり、日本は無謬の百戦百勝の神国であり、世界をリードする日本民族と叩き込まれた精神から42年で解き放たれることは父にはできないことだった。
 
父は9人兄弟の9番目の農民の子として1912年山形県山添村(現在の鶴岡市)に生まれた。初徴集の二十歳の頃、満州開拓に夢を見出していたとうかがえる文章が、従軍アルバムの添え書きにある。9人兄弟の末っ子が地元で農民として自活する展望はなかっただろう。目は中国大陸に向かっていた。
そして、戦いに出ていった。私には想像も困難な従軍体験、戦場体験であったろう。
 
最後、父は軍曹だったが部下を指揮する位階にいた。多くの部下、同僚の死を戦場で経験しただろう。それでも生き残り帰還した。家族を残して国を出た時、1才5カ月だった長男は学齢となり、黒塗りの教科書で授業を受けていた。それは父の34歳まで信じた神国日本を全面否定する教科書だった。父は自分が命をかけて戦ってきたことが、全く無意味、いや全くの間違いだったと我が子が学んでいることを知った時の衝撃はどれほどの大きさだったか私は想像できない。
 
日本国憲法は帰還したその年に発布される。平和は敵国から与えられた。地主の農地もアメリカの力で小作人に解放された。それらを見せつけられて、父は何のために戦ったのか、どうして中国の人たちに銃を向けねばならなかったのか、アメリカと戦う理由は何だったのか、それは正しいことだったのか、いずれの問いにも答えることはできなかった。
 
無駄な34年間だったと知らされた。実質7年間の従軍体験により父の精神には既に網目のような割れ目ができていたであろう。あと一突きで崩壊寸前だったかもしれない。一変した戦後日本の価値観の一突きが父の精神に下された。それで十分だった。父の精神は崩れ落ちた。平衡を失った。保てなかった。壊れていった。そうして父親はPTSD状態となった。無気力になり、無口になり、精悍な軍曹時代など面影のどこにもない変わり果てた人間になってしまった。
 
それでも父は探したはずだ。これからどう生きて行けばよいのか。何が正しい道で、何が正しい生き方なのか。必死に考えようとしたはずだ。しかし、結局、42年間かけても父は新しい羅針盤を手にできなかった。父の受けた傷は余りにも深かった。痛ましい。本当に痛ましい。もっと強靭な野太い精神の父親だったら違っていたかもしれない。父親の精神は優し過ぎたのかもしれない。
 
私のささやかな挫折でさえ沈黙から立ち上がるのに50年を要した。
ましてや戦争の重圧をはねのけるのに42年では無理だった。父親は自分自身を肯定して生きる道を遂に見つけ出せないままにこの世を去った。
 
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」と「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」は父子2代の思いを実現しようとする運動なのだ。いや、2代では終わらない、その先の世代まで続いて行くであろう活動なのだ。私は父親の無念の、見果てぬ思いを引き継いだ。そして次の世代に受け継いでもらおうと思っている。
 

 

いつの日か「日本が二度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」が実現するはずだ。その時に父と私の思いはようやく結実する。
2021.1.19 黒井秋夫。

 

2021.1.17

26年前の117日、阪神淡路大震災が起きた。私は46歳で市民生協にいがたでコープ共済の部局にいた。部局と言っても組合員が2万人を越えたくらいで、発足10年にならない若い生協で担当職員は私一人、同年代のパートの女性職員2人という小さな職場だった。

その事情は日本生協連におけるコープ共済の位置付けも同じで店舗や共同購入・宅配業態が2枚看板、圧倒的主力で、コープ共済という事業は誰にも期待されず、歴史も浅くその存在を知らない生協役員がむしろ多かったと思う。

当時は共同購入・宅配の配達職員が商品を手渡したりする際に、組合員同士の助け合い商品としてコープ共済をおすすめした。会話の苦手な職員にはその仕事は好きな仕事ではなかったと思う。1995年当時、コープ共済の加入者は全国で100万人程だった(2021年現在のコープ共済加入者数は892万人。保険・共済業界で上位10指に入る規模に成長した)。

コープ共済は助け合いの商品という特性もあり、病気やケガの保障以外に火災や水害の住宅災害にも少額だがお見舞金が払われる。地震の被害は多くの火災保険・共済は補償対象外だが、コープ共済では全壊で5万円、一部壊では1万円だが異常災害見舞金が払われる。

1995年の阪神淡路大震災のとき、当時日本最大、100万人の組合員を擁するコープこうべは未曽有の被害を受けた。神戸にあった生協本部は倒壊し、保守警備の職員が命を落とした。ほぼ全ての店舗が開店できる状況ではなかった。それでも、駆けつけた職員は、めちゃめちゃに散乱した商品をかき集め、お店前に戸板を出し、臨時の売り場にしてお釣りの必要ないきりの良い金額で食料を中心とする生活に必要な商品を懸命に提供した。生協の宣伝をするようだが、生協は数日で開店したが神戸基盤の大手スーパーの開店は生協より何日も遅れた。

あの時、コープ共済の加入者がコープこうべでは6万人いた。

コープ共済には異常災害見舞金という制度がある。コープ共済に携わる共済事業の職員が全国の生協から神戸に集められた。異常災害見舞金を被害を受けた共済加入している組合員に一時も早く手渡したい。その一心で神戸中を職員は走り回った。

私は2月の半ばに神戸に行った。宿舎は大阪のホテルだった。朝、近くのコンビニで昼食と水を買いリュックに担ぎ、コープこうべの共済部事務所のある神戸住吉までJR電車で通った。大阪はネオンが見えたが、尼崎、西宮、神戸に近づくと街の様相は一変する。一言で言うと空襲の後のようだった。市内中心部は電車も交通機関は不通が続いて、多くの人が作業着に大きなリュックを背負い、黙々と道を行き交った。

全国の生協から派遣された共済職員は加入組合員の地図を頼りに、一軒一軒訪ね歩いた。避難所も回った。体育館など避難所内で大声の呼びかけはできない。日中の避難所は年配者が多い。横になり休んでいる人がほとんどだ。私たちは避難所の入り口付近にテーブルを並べ、生協ののぼりを立て行き来する人たちに「生協の共済に加入している人は見舞金が出ます!」と呼びかけた。私も西宮だったか避難所になっている市役所で呼びかけをした。

ある日、一軒一軒地図を見ながら戸別訪問した時に、小さな町工場の住宅が組合員宅だった。年配の夫婦二人暮らしだった。虹色のコープの腕章をして玄関に立った私に「わあー、生協さん来てくれたの。地震以来この家には誰も来なかったのよ。生協さん、あなたが初めての訪問者よ!」組合員は涙を浮かべてそう言った。ある訪問先では帰り際、缶コーヒーを私に差し出した組合員さんがいた。手に取ると温かい。温めて自分が飲もうとした物に違いない。熱いものが心に流れた。そういう組合員さんに何人も出会った。一時も早く組合員さんに共済金をお渡して、少しでも生活に役立てて欲しい、そう思って私は神戸に行った。共済という仕事は加入者が病気やケガ、何らかの災害にあった時に、それに相当する共済金(お金)を支払うことが仕事だと思っていた。

しかし、訪問してくれたことを喜ぶ組合員さんに何人も会っていくうちに、組合員さんはお金がもらえることに喜んでいるのではない、自分を忘れずに訪問してくれる人がいた、連絡もしないのに生協さんが心配して来てくれた、そのことを喜んでいるのだと気がついた。

私は目が覚めた。そうか共済の仕事で大事なことはお金ではないんだ。私を心配してくれる人がいる、私は一人ではない、そう思ってもらう仕事、一緒に頑張ろうねと、心を届けることこそ一番大事な仕事なんだ、と私は思った。

そう思ったのは私だけではない。全国から神戸に参集した職員のまとめの感想には私と同じことをみんな書いている。神戸で出会ったコープこうべの組合員さんが生協職員としてのその後の私を作ったと言って過言ではない。あの時の体験は今でも昨日のように思い出す事ができる。コープこうべの組合員さんありがとうございました。私は元気にしています。皆さんもお元気でいて下さい。

 

 

 

2021.1.16

★全員の人たちに賛成してもらう。

 

14日から始めて3日目になるが16日朝7時から町内に「交流館通信1月号」を戸配してきた。ようやく550戸に配布した。道すがら紅梅と白梅が咲いていた。青空に映えた。

通りかかると男性が花壇に水やりしていた。おはようございますと声をかけてチラシを手渡そうとすると「ゴミになるだけだからいらない」と言う。「重要なものなら別だが」と言うので「私が発行したものです」と差し出したが、作業中のまま「いらない」と受け取ってくれなかった。

「チラシお断り」のステッカーは時々見かける。残念に思うがチラシをその場合は入れない。しかし、面と向かって断られたのは昨年来、周辺の戸配を始めて10回目だが初めてだ。私は「そうですか」と言って隣の家に向かったが、非暴力の師と仰ぐ阿波根昌鴻さんならどうするだろうか。

 

阿波根さんは土地を収奪した米軍兵士でも(味方になってもらうために)説得対象だと言っている。その訳は、どうしたらこの戦いに勝てるだろうかと米国の市民活動家に質問したら「米軍兵士含めてすべての人たちが賛成すれば勝利できる」と言われ目が開かれたからと阿波根さんは語っている。多数派になるのではない、関係する全員の人たちに賛成してもらうのだと市民活動家は言ったという。

わたしもまた、その言葉に目を開かれた。多数決の原理はよく言われる。物事を多数の意見で決めるのが民主主義だとよく言われる。しかし、多数意見が正しいことでないことはごく普通にあることだ。明治以来の日本が仕掛けた戦争を日本人の圧倒的多数がそのつど支持した。支持する国民世論があったから日本軍は戦争を続けられた。日本軍のせいで明治以来アジアで戦火が途絶えることはなかった。

多数で決めたことでも間違いは多々あるのだ。しかも戦前でも戦争に賛成しない人たちもごく少数ではあっても存在した。全員が賛成したわけではない。

全員が賛成するなどありえないことのように思える。あり得ないかもしれない。

しかし、私はありえないとしても「全員の賛成」をめざしたいと思う。全ての人たちを説得の対象に考えることにしている。「敵味方」というような区別はしないことにしている。

例えれば菅義偉さんも安倍晋三さんももちろん敵ではない。阿波根さんにならい皆と同じ説得対象と考えている。

 

時々、何かの集会に参加したりすると「すが」とか「あべ」とか「トランプ」とか呼び捨てする発言に出会う。私はそういう敵味方に「分断」する呼称に違和感を覚える。

安倍首相が街頭演説会で野次を受けた時「あの人たちに負けるわけにはいかない」と発言した。その言い方は敵味方に国民を分断して見ていると思うが「すが、あべ、トランプ」という呼び捨ての言い方にも安倍さんの発言と同じ「分断」する意思を感ずるのだ。

 

「相いれない人たち」であると分断する考え方に私は賛成しない。あくまでもすべての人たちの賛同を得たいのだ。多数派をめざすのと、すべての人たちの賛同を得ようとするのでは、その出発点の構えから違うのではないだろうか。ある種、峻別してかかるのは楽な道だ。味方をくくれば済む。しかし、多数をくくって少数の反対を抑えて何ごとかを決定したら、それで落ち着くだろうか。私には落ち着くとは思えない。その時は抑え込まれても少数者は反撃の時をはかるのではないだろうか。

 

そんなことを言っていたら何ごとも決められないと言われそうだ。確かにそうかもしれない。しかし、何度も言うが全員一致しか落ち着く地点がないことも又事実だと思う。前回の「今日のひとこと」で戦争・暴力では何も解決しない。解決したように見えても落ち着くことはない。話し合いで解決した事だけが平衡をたもてるのだと私は書いた。

多数の意見の解決も言い方を変えると少数意見者を排除した解決と言えなくはない。つまり、それもまた一種の暴力的解決なのだ。解決が落ち着くのは全員が納得した時だけだといえる。つまり、最終的に解決するのは「話し合いで全員が納得した時」だけなのだ。私は夢物語と思われても「話し合いで全員が納得した時」の解決をめざしたい。

 

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室=交流館」として「村山お茶飲み処」を名称の中に入れている。「交流館」には「地域に根差すというこだわり」があるから名称に入れた。この地域で誰もが気軽に出入りできる交流の場になりたい、という願いが込められている。ともすれば戦争の問題を扱う趣旨からどこかの党派、政治団体の一部のように思われかねない。わたしはそれは絶対に避けたかった。「PTSDの日本兵の存在。共に暮らした家族の苦労」を多くの人たちに知ってもらうことを目標とする以上、あらかじめ排除される、考えなくても良いことにされたら「交流館」を開設する意味その物が果たされない。むしろ、今まで考えたことがない人たち、考えようとしなかった人たちにこそ伝わって欲しいという思いで始めたのだ。

 

分かりやすく言えば、選挙で自民党、公明党、維新の会に投票してきた人たち、戦争反対を声高に言ってこなかった人たちにも気軽に立ち寄る場所をめざして開設したのだ。もちろん、立憲民主党や他の野党に投票した人たちも対象であることは言うまでもない。

私は「交流館」開設前に地元選出の保守系市議会議員さんに「交流館」を支援いただきたいと2回に渡って話し合いの機会を作っていただいた。議員は最初こそ「交流館活動」を「どこかの党派、政治団体の一部」ように思われたようだが、話し合いを続けるうちに腹を割った話ができるようになった。彼は510日の開館日に、地元自治の元会長二人と一緒にご祝儀を持参して祝いに来てくれた。その後自身のチラシ配布を持参した時は入館して展示パネルの説明も聞いてくれた。今はラインが時々届く。毎月「交流館通信」を20人の市議会議員、市長、副市長に届けている。しかし市議会議員で来館したのは保守系の彼以外一人もいない。

 

世の中を変えるには何が必要だろうか。多くの人たちが当たり前、正しいことと思ってきた自身の考えを変えない限り世の中は変わらないだろう。つまり、自分とは違う考えをしている人たちに伝わる言葉を持ち、話し合いを続けて世の中を変える考えに賛同してもらうことで社会は変化していくのだと思う。つまり、今までは敵と区分して来た人たちと意見を交わす機会を持ち、話し合いを重ねることで意見合意を作り出すことで世の中は少しずつ変わるのだと思う。

 

だとしたら、敵味方と区分したり、分断を是としては何も変わらないのではないだろうか。敵味方と分断していては世の中を変えることを事実上あらかじめ放棄しているといえないだろうか。私にはそう思える。

2021.1.13  生きているうちにできること。次世代に託すこと。

  ベルリンの壁崩壊1989年9月、ライプツィヒを拠点にデモ月曜デモ)が激化した。デモは925日には8000人、102日に15000人、109日に7万人、1016日に15万人、1023日にはついに30万人がデモ行進に参加して、それまでの東ドイツにかつて見られなかった多くの市民が加わった大規模なものになった。「我々はここに留まる」「我々が国民だ」「自由な選挙を」「国家保安省は出ていけ」と叫び、市民運動「新フォーラム」の認知とドイツ民主共和国憲法1条の削除を要求した。198911月10にベルリンの壁の撤去作業が始まった。壁は市民の力で崩壊した。

 

   ソビエト連邦の崩壊199112ソビエト連邦共産党解散を受けた全ての連邦構成共和国主権国家としての独立、ならびに同年1225ソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビエト連邦が解体された。核兵器という究極兵器を持つ国家が、軍事的に衰えないまま潰れた。世界最強の軍事大国が軍事力以外の要因で潰れるのはあり得なかった出来事であり、これは国際政治学でのパワーポリティクス現実主義)への批判を招いた(ハード・パワーからソフト・パワーへの移行)。

★上記①は「ベルリンの壁の崩壊」②は「ソビエト連邦の崩壊」をウィキペディアより引用した。

 

★「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会=語り合う会」のホームページ冒頭に「語り合う会」のスローガン・めざすこととして下記の項目を加えた。

『私たちはいかなる戦争にも反対します。私たちは銃を取りません。直ちに白旗を掲げます。侵略には話し合い解決を求めます』以下理由を述べる。

 

・軍事力が世界政治を動かす最大の力、保障・寄るべき物という考えが多くの人たちを支配している

と思う。しかし、私はそれに私はくみしない。断固くみしない。

・私たちは街頭を埋め尽くす民衆の力が、民主政権を非暴力で誕生させる劇的な場面を1980年代から幾度となく見て来た。ベルリンの壁も、ソ連邦の解体も、アラブの春・チェニジアのジャスミン革命も民衆の圧倒的な力の結集で勝ちられたものである。

・アメリカに対峙できた超大国ソ連であっても自国民が立ち上がった時には、核兵器を含む軍事力は全く無力であった。銃や大砲、ましてや核兵器などなくても圧倒的な民衆の支持が現出すれば、非暴力で政権交代や民主政権に変革できることを歴史が示したのだ。

 

・日本は1945年以降、戦争による死者は一人もいないし他国民を一人も殺していない。戦後75年間、日本の「平和」は守られたと言える。日本の「平和」は日米安保条約のおかげとか、米国の核が守ったとか、自衛隊の軍事力だとかいう人たちがいる。

しかし、私はそう思わない。「日本が戦争を起こさなかった」から「平和」が保たれたと私は思う。戦前のアジアの戦争はそのほとんどは日本軍が起こしたものである。中国大陸、朝鮮半島、南太平洋の国々の戦争はすべて日本が始めた。日本がアジアの「平和」をかき乱す元凶だった。

現在の米国のように、明治以来の日本は常にアジアのどこかに軍隊を駐留させ、いつも戦争をしていた。日本もアジアも日本軍のせいで平和ではなかった。それが、1945年に第2次大戦が日本の降伏で終了し、1946年平和憲法が施行され、以来日本は戦争を起こしていない。このように見たとき、戦後日本の「平和」は日本軍が戦争を止めたことで実現していると言えるのではないだろうか。つまり、戦後の日本の「平和」は簡単なことだ。日本が戦争をしなかったから「平和」だったのだ。日米安保など他の理由では絶対にない。

 

・日韓関係は戦後最悪とか報じられている。徴用工の問題、慰安婦の問題、被害を受けた人たちが補償や謝罪を日本政府に求めている。日本政府は国家間交渉で解決済みという立場だ。自民党の中には何らかの対抗措置、制裁措置をするべきだと言う人たちもいる。

明治以来、日本が軍事力で朝鮮半島、中国東北地方、台湾などを支配抑圧したこと、民族差別した事の謝罪と清算が少なくとも朝鮮半島では受け入れられていない。まだ平衡関係になっていないことを現わしている。軍事力で実行した事は後年になり、必ず元に戻そうというベクトルが平衡になったと被害を受けた人たちが納得するまで働くということを示している。

暴力で物事が解決したり落ち着いたりすることはない。物事の解決は双方が納得できる公平な地平に達するまで続く。それには話し合い解決しかない。

 

ブラック・ライヴズ・マター(略称「BLM」)は、アフリカ系アメリカ人コミュニティに端を発した、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える、国際的な積極行動主義の運動である。特に白人警官による無抵抗な黒人への暴力や殺害、種による犯罪者に対する不平等な取り扱いへの不満を訴えている[2][3] BLMのデモ行進はアメリカ国内に留まらず、ヨーロッパ東アジア中東を含む世界中の国や地域でも行われた。イギリスでは奴隷貿易の礎を築いたイギリス帝国主義も批判の的になり、各地で奴隷貿易に関わった人物の銅像が引き倒された。ウィキペディアより。

 

BLM15世紀のヨーロッパの世界支配に遡る運動だと思う。南北アメリカの黒人は全てがアフリカから奴隷として売り買いされた先祖の子孫である。「黒人に対する暴力や構造的な人種差別」は15世紀に遡る。500年間続けて来た事の清算が問われている。全ては500年前から始まった事である。

黒人たちは500年に遡ってあらゆる人権、差別への謝罪、補償を請求する権利があると私は思う。少なくとも、そこに応える姿勢と構えがアメリカと西洋諸国は必要だと思う。

日本がアジア諸国に問われていることと同類のことがアメリカと西洋諸国に問われている。どんなに時間を要してもアメリカと西洋諸国はその事に応えなければならない。そうしない限りBLMは続くし自分たち自身の心の平和はやってこない。言うまでもない、アジアに対する日本の立場も同じだ。

 

★再度言う『軍事力で実行した事は後年になり、必ず元に戻そうというベクトルが平衡になったと被害を受けた人たちが納得するまで働くということを示している。

暴力で物事が解決したり落ち着いたりすることはない。物事の解決は双方が納得できる公平な地平に達するまで続く。それには話し合い解決しかない』

 

★戦争は何も解決しない。戦争をしないことは簡単なことなのだ。平和も簡単なことなのだ。「語り合う会」の主張は誰でも実行できる。戦争など簡単に人類社会からなくせる。「交流館」は白旗をただいま製作中です。早晩、「交流館」入り口に白旗を掲げます。代表の黒井は白旗を持参して講演の壇上に立つことにしています。

 

『私たちはいかなる戦争にも反対します。私たちは銃を取りません。直ちに白旗を掲げます。侵略には話し合い解決を求めます』

 

 

 

 

昨日、1月12日、半藤一利さんが亡くなった。心からお悔やみ申し上げる。半藤さんは疎開中に現在の新潟県長岡高校に在籍したこともあると記されている。雪深い冬に驚いたのではないかと想像する。

日本の行く末に心配の気持ちを持ちながら逝かれたのではないかと私は思う。心配の幾ばくかを私は共有する。その心配を私は引き継ぎ、半藤さんが少しでも心穏やかに仏になられることを祈ります。もっと生きていて欲しかった人がまた一人あの世に逝ってしまった。

2021年1月7日(木)
午後から関東ローム層の大地を猛烈な西風が吹き荒れ土ぼこりを巻き上げている。
正月飾りを外し、近くのお伊勢の森神社に収めて来た。郵便局に寄り、武井由起子弁護士が呼びかけたビックイシューの年間購読の代金を振り込んできた。徒歩で回ったら9864歩だった。
明日は8時から午前中は大南東公園の掃除作業で今年の仕事始めだ。私より少し年長の二人の仲間と元気に顔を会わせたい。
後楽園ドームの世界らん展で10年以上前に買い求めた小さなランが1月4日に咲き始めた。ちゃんとした世話をすれば毎年花を付けるのだろうが花を見るのは2回目だ。私の愛情が足りなかった。ゴメンとランたちにお詫びしたい。
昨年は少し真面目に世話をした。5月の「交流館」開館祝いにいただいた4鉢の内2つが花芽を伸ばしている。
夏に遮光ネットを張り油粕と水遣りをした成果と思えうれしい。
シンビジュームが10鉢ほどあるが何年も花を見ていない。昨年はラン同様に手をかけたが今年は咲いてくれるだろうか。きれいな花を見たいものだ。
年明けに郵便局で通帳記入したらカタカナの名前でカンパの振り込みがあった。申し訳ないが良くある名前で誰なのか分からず、お礼状も出せない。困り果てて昨日、窓口で尋ねたら新潟のOO局からの振り込みだと言う。
そうだったのか。振り込み局で思い出した。新潟大学生協の食堂で調理師として働いていた時の同僚で間違いない。うれしさがこみ上げてきた。泣きそうだった。
その人は振り込んだ以外は何の音さたもない。
おそらく40年間会っていない。NHKの放映で知ったにだろうか。口座はHPを検索してくれたのだろう。これでお礼状が出せる。
昨年5月の「交流館」開館を報じた朝日新聞を見て「従軍兵の父親に暴力をふるわれた」と電話をくれた方からも振り込みがあった。数えると5回目になる。ここ3回は多くは年金月に千円振り込まれている。入金を見るたびに熱いものがこみ上げてくる。頑張ろうという思いにさせられる。力をいただいている。
本当にたくさんの人たちに支えられている。たくさんの温かい心に支えられている。
皆さん、ありがとうございます。
一緒に手を携えて進んで行きましょう。
いつの日か、いつの日か花を咲かせましょう。
「日本が二度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」を必ず実現させましょう!
それが私たちの子どもの世代、孫の世代、その先の世代、更にその先の世代だとしても必ず実現させましょう!
私はその日が来ることを固く信じています!

1024日(土)晴れ。10時の室温、18℃。

NHKの朝ドラ「エール」時々見ている。今週、名曲「長崎の鐘」が生まれるまでの小山祐一の苦悩が描かれる。戦争に駆り出す曲を作った戦争責任に苦しむ姿が描かれる。もしも日本人が、戦争に責任のある人たちが、ドラマの小山祐一のように自分の戦争責任に、真摯に向き合っていたなら、戦後日本は今とはちがっていたのではなかったか思う。もっとましな国になっていたのではないかと。(*モデルの古関裕而さんは戦後、自衛隊の歌を作っている)。

「長崎の鐘」を作る為に小山祐一は長崎の永田武医師に会いに行く。どうしても曲のヒントをつかめない小山祐一は崩れ落ちた浦上天主堂で彫りこされた鐘と、花を植える子どもたちから、地の底から立ち上がらせるは「希望」だと気がつく。

1018日の「今日のひとこと」に私も『私は繰り返し、繰り返し夢と希望を語ろうと思う。先人たちも繰り返し語り私たちを励ましてくれたように。どんな状況になったとしても私は未来を信じている。』と「希望」を書いた。「希望」は科学的ではない。宗教的と言えるかもしれない。しかし、私に力を与えてくれる。あそこに書いた未来の実現を信じているのだ。人類はそうなるはずだと。だから、ドラマを見ていてそこに強く共感した。

 

小山祐一が会いに行った永田武は永井隆がモデルらしいが彼の「いとし子よ」は胸を打つ。特に抜き書きした★①~③は私の非暴力とも共通する。その後に全文掲載した。

 
★①『「もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ…誠一(まこと)よ、カヤノよ、たとい最 後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと『戦争絶対反対』を叫び続け、叫び通して おくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても『戦争絶対反対』の叫びを守っておくれ!」』
 
★②『「敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多いだろう。しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?」・・・
 
「狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。』
 
★③『いとし子よ。 敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛 されたら、滅ぼされない。
愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。』

 

以下,全文を掲載する。

いとし子よ 永井隆(194910月)

 「いとし子よ。 あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、カヤノよ、お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。

そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?――原子爆弾。・・・いいえ。それは原子の塊である。そなたの母を殺すために原子 が浦上へやって来たわけではない。

 そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。」

 「戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだ ころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そう して、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、――戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくな ってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」

 「私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。 わが子よ! 憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。」

「しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。 日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出な いとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」

 「もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ誠一(まこと)よ、カヤノよ、たとい最 後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと戦争絶対反対を叫び続け、叫び通して おくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても戦争絶対反対の叫びを守っておくれ!」

 「敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多いだろう。しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?」・・・

「狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。・・・ 愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。」

 

「いとし子よ。 敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛 されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。」

10月19日(月)午後から冷たい雨になった。

 

私は繰り返し、繰り返し夢と希望を語ろうと思う。先人たちも繰り返し語り私たちを励ましてくれたように。どんな状況になったとしても私は未来を信じている。

 

この頃の政権中枢からの発言、繰り出す政策は私を悲しくさせる。現状をさらに悪化させると暗い気持ちになる。コロナ感染が歴代政権の政策の弱点、まちがいを浮き彫りにした。保健所を整理縮小して来た医療政策、公立病院にも経済性を求めて独立法人化したこと、PCR検査能力もいまだに各国と一ケタ違う。オンライン授業ができないのは、パソコンが生徒たちに行き渡っていないからという(韓国は100%)。経済の縮小で非正規や一人親世帯の人たちは真っ先に生活に困窮している。街の小規模事業者が悲鳴を上げている。倒産も増えている。一方で東証上場企業が倒産したという声は聞かない。この日本の政治は何なんだ。この国の隅々まで、考え方、価値基準、機構など市場原理主義、経済効率主義で組み立て、改変して来たつけが表面化したように思う。心の通わない政治の脆弱さが露呈していると私は思う。これまでの路線、今の政治方向を大転換する必要があるのは明らかではないか。しかし、菅内閣からは従来の路線をさらに推し進めると言う言葉しか聞こえてこない。だとしたら、ひずみは一層破壊的に進むだろう。弱者はさらに弱者に、その層はもっと拡大するだろう。何としてもこの流れを変えたい。人の心の通った政策の方向に変えたい。弱者が益々弱い立場になり、その層が一層広がる様は見ていられない。

しかし、種々の世論調査では菅内閣の支持率は50%を超えている。私たちの声は多くの国民の心にまだ届いていない。心をとらえていない。

 

だとして絶望するまいと私は言いたい。誰かが現政権の流れを変えなければならない。誰かが。その誰かは誰でもない。そう気づいている私たちが誰かだ。私たちが自分の意志を声に出し、行動に表現していくことが必要だ。

 

日本では菅総理が日本学術会議6人の任命を拒否して、自分と異なる意見は今後の日本の政治に必要ないと排除した。私はその発想は恐ろしい。同じ考えの人たちだけに役立つ政治しかしない宣言のように映る。違う意見は政治の眼中にないように見える。戦争中に政府方針に少しでも同調しない人に「非国民」という言葉を向けて国民を分断し、一方に純化していったと同じ空気を感ずる。

私は異なる意見、異なる考えの集団どうしがどう折り合うか、どう調和して共に生きて行くかが政治の仕事だと思っている。安心して幸せに、仲良く、楽しく暮らしたいのは誰もが同じだ。性、年齢、住む土地、くらし境遇、身体的要素、性格、人間は一人ひとりそれらはみんな違う。それでも人間は一人では生きてはいけない社会的動物なのだ。だから人間世界には様々な摩擦も生ずる、利害は見たところ一致しないことも多い。それだからこそ政治が生まれたと思う。どう利害を一致させるか。調整するか。合意点を見出すか。違う意見を一方に我慢を強いるのではなくどう両立させるのか。そこに知恵が必要なのであり、政治家と言う専門の仕事が成立するのだと思う。

排除、分断は政治の敗北だ。それは知恵の放棄だ。どういう社会をめざすのか同い年の菅総理には問いたい。その社会で異なる意見の集団どうしを、どう生かしていくのか教えて欲しい。

 

このように日本の政治状況を「俯瞰」すると明るい展望はなかなか見えてこない。希望ある報道にも余りお目にかからない。

私はかねてから「俯瞰」も大事だが「足元」を見ようと言ってきた。日本を天上から「俯瞰」したら菅政権と市場原理主義、経済効率主義の大森林しか見えないかもしれない。しかし、その大森林の「足元」には次代の大樹に成長しようとする小樹の芽生えが見えるのだ。それもおびただしい数の小樹の芽生えがだ。全国各地に様々な団体が活動している。一つ一つは大きくはない。大きく脚光を浴びすることも少ない。しかしそういう活動がたくさん存在しているのは事実だ。

例えば室田元美さんの「ルポ 悼みの列島」「ルポ 土地の記憶」を読んで私は本当に勇気を得た。目を開かされた。そこには日本全国に残る戦争の傷痕を語り継いでいる人たちなどの姿が描かれている。

それらは未来の日本を形作る小樹の芽と言えるのではないだろうか。

原発の問題、貧困・弱者に寄りそう活動を続ける人たち、そのほか、様々な課題を継続して取り組んでいるたくさんの人たちがいるのを知っている。そういう活動が人間にやさしい、誰もが安心して暮らせる社会を引き寄せる小樹なのではないだろうか。

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」、「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」もそう言う小樹の一つだ。

 

 

小さな活動は天上から「俯瞰」したら見えないかもしれない。市場原理主義、経済効率主義の大森林しか見えないかもしれない。しかし、大森林を抜けて地上に降りてみれば、おびただしい数の「活動体」がうごめくように元気に生きているのだ。いつの日か、それら小樹が世代交代し大森林の上に伸びて、陽の目を見る日が来るのではないだろうか。私はそのことを信じている。私は夢と希望を信じている。だから活動を続ける。声を上げ続ける。焦らず、諦めず、へこたれず、遅くても、ゆっくりでも、多くの人たちと手を組んで、輪を広げて歩き続けるつもりだ。みなさん、希望の灯を掲げて一緒に歩いて行きましょう!

 

2020年10月7日(水)夕方から雨。

 

菅義偉政府、日本学術会議6名任命拒否について。

容易ならざる状況が進行している。街頭演説でやじられた安倍晋三さんが「あの人たちに負けるわけにはいかない」とやじの方向を指さし叫んだ。その光景はその後何度となく放映された。菅義偉さんの頭の中も同じ構造なのかとショックを受けた。「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から6人を任命しないことを判断した」と理由を述べている。字面では何のことか分からない。しかし、報道からすると「先の安保法案に反対表明した人たち」を任命拒否したことは明らかだ。この事に多くの団体、個人が政府の認可拒否に反対、拒否の撤回を求める声明を出している。多くは「学問の自由」という観点からのようだ。

しかし、真っ先に私に響いて来たのは「国民を味方と敵に分断してみている。政権にそわない人たちの意見は無視して物事を進める」という政治方向が菅義偉政権の背骨なのだと天下に明らかにしてはばからない彼らの本性だ。

はっきり言って悲しい。そして恐ろしい時代に入った。菅義偉政権はトランプ政権や反移民主義を掲げるヨーロッパの右派勢力と同じ潮流なのだと認識させられた。彼らは違う考えには極めて非寛容で攻撃的、暴力的なのが特徴とうつる。彼らとは議論が中々成立しない。彼らは民主主義を尊重しない。嘘、ごまかし、すりかえ、証拠の隠滅は常套手段だ。私の心は暗くなる。そういう勢力が日本政治の主流として支持されている。この国は、世界はどこに行くのか。

 

「異論のススメ・佐伯啓思」朝日新聞、925日。

佐伯さんは安倍政権を『疑いなく、近年、これほど「仕事」をした政権はなかった』と総括している。「にもかかわらず、それが成し遂げたものは何かと問えば、明瞭な答えは出てこない」という。彼の世界認識は「冷戦体制の崩壊は、自由主義陣営の勝利」なのだが現在は「あろうことか、冷戦の敗者であったはずの共産主義の中国が、米国の地位を脅かす大国となり、先進国が低成長にあえぎ、経済格差の拡大に苦しむ。その結果トランプ大統領を生み出した」という。『グローバリズム、リベラルな民主主義、市場中心主義、米国流の世界秩序といった「冷戦後」の価値が失墜し、その先は全く見通せない「危機の時代」』に差し掛かっているという。だから、何をどんなに一生懸命に(安倍晋三さんが)やったとしても目に見える成果を生み出せないのだそうだ。

だとしたら、安倍政権を踏襲するという菅義偉政権が「国民のために働く」として成果を生むことはないことは佐伯さんの論理からすれば、今から明らかだ。

私は昨年の今頃、201910月の佐伯さんの「異論のススメ」への私の異論をHPに書いた。佐伯さんには見えない「その先の見通し」が私には見えていると次ように書いた。

 

『今日の世界は、それを導く確かな価値も方向感覚も見失い」と私は見ていません。小さくても「確かな価値や方向感覚」はたくさん提示されています。マララさんもグレタさんもそうです。米国も、中国も、日本も決して一色ではありません。種々さまざまな、たくさんの意見が、考えが表出しています。日本でも規模も地域的にも小さく狭いとしてもたくさんの「戦争の語り継ぎ」やさまざまな市民活動が全国各地に存在することを知っています。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」もその一つです。それらは大地に根差した将来の大木への希望をはらんだ木々たちです。俯瞰したら杉林でもその根元には次代を担う木々が成長しているのです。私は未来を悲観していない。いつの日か「何事も話し合いで解決する人間の未来社会」敵味方の区別などない意見や思いは違っても「お互いどうしを尊重する人間の未来の世界」が来ることを確信しています』

 

そう、私は菅義偉政権がどうあろうが、トランプ政権がどう行こうが、いつか行きつく先は「何事も話し合いで解決する人間の未来社会」敵味方の区別などない意見や思いは違っても「お互いどうしを尊重する人間の未来の世界」が今は小さい木の芽のような存在だとしても、無数に存在する市民活動が生きながらえて次の時代を切り開く光であり、力であり、希望なのだと信じている。

 

 

政権を握る人たち、保守と言われる佐伯さんたちには「その先は全く見通せない」ようだが、私は小さな芽の息吹、たくましさを信じて、自分も又その隊列を進んでいるという気概を持って未来を見通したい。

9月20日(日)曇り、時に雨。長袖着用。

このところ、口コミなのか小学生の来館者が目立つ。「入っていいですか」と声を掛けて入館する。9月17日は5人(男子3人、女子2人)、19日は6人(男女それぞれ3人)学童保育・児童館の子どもたちが来館してくれた。名簿に氏名と学年を記載して30分位いて帰って行った。入口で手指消毒をして、麦茶を飲んで、児童文庫の本を手に取り、菓子を食べたりして「ありがとうございました!」と礼儀良い。自分が子どもの頃は菓子があれば気のすむまで食べたと思うが、来館する子どもで口にしない子もいる。帰った後の菓子の入れ物を見ても余り減っていない。菓子目当てでどっと来て食べ尽くすありさまを想像したが、拍子抜けする。戦後間もない私の子ども時代とは本当に違う。あの頃はお菓子その物の種類がなかった。洋菓子などあっただろうか。

20日は「小学生のみなさんへ」とミニポスターを掲示した。

 

 妻さち子が、19日に立川の本屋に行くと言って午前中に車で出かけた。昼に帰宅して買い求めた本を見たら全部が児童図書、絵本だった。10冊以上ある。「これは交流館に来た子ども用だよ」と言う。どんな本を買ってくるのか言わないで出かけたが「そうだったのか」と心に沁みた。ありがたい。「へいわってどんなこと?」「へいわとせんそう」「非武装地帯に春が来ると」「父さんが生きた日々」「とうきび」「くつがいく」作者は日本、中国、韓国。「日・中・韓平和絵本」と帯にある。

お礼とも言えないが「黒井さち子・児童文庫コーナー」と書棚に命名した。

 

8月23日の中国人女性との出会いはすでに書いた。このことを展示用パネルにして今日、9月20日から展示を始めた。本当にこの出会いが、日本と中国との一つの懸け橋にしたいと切に思っている。それだけでなく、日本と韓国、日本とアジア、世界の人々との懸け橋になれたらどんなに素晴らしいことだろう。夢が広がる。多くのみなさんの力添え、支援の輪、一緒に歩く仲間たち、そんな大きな流れになりたい。皆さん宜しくお願いいたします!一緒に歩いて行きましょう!

 

9月17日(木)曇り。室温28℃

9月15日の朝日新聞に「我が意を得たり」の記事があった。

新しい祭りへ奮闘と工夫「検温、消毒・・・覚悟の実施」

★8月15日、16日、「中野駅前台盆踊り大会」が行われ、延べ2000人が参加した。8回目の今年は「中止すべきだ」の声もあった。実行委員長の鳳蝶さん(あげはさん)は、非常事態宣言が解除されても祭りがほとんど開かれないことに危機感を持った。「伝統的な文化を守るためにも前向きなメッセージを送りたい」と開催にあたっては都のガイドラインを徹底した。会場入場者を60人まで絞り、入れ替え・事前チケット制にした。マスク着用で記名、検温、手指消毒。マスク着用の踊り手がいる舞台に向いて自席周辺で踊ってもらった。*以上・朝日新聞記事より。

 

★8月23日「村山うどんを食べる会」のまとめにこう書いた!

コロナ感染が広がり、政府はGOTOトラベルの一方でお盆の帰省自粛を言うなどちぐはぐな方針。社会は感染非難を恐れるあまり及び腰になり、様々な催しが中止されています。そういう中だからこそ「村山うどんを食べる会」は「コロナに感染しない、感染させない」を合言葉に、主催者と参加者が十分な対策と注意をすれば開催は可能と判断して実施しました。

 

庶民は神代の昔から、為政者がどう言おうが、楽しむときは楽しみ、時には法のほころびを見つけてでもお祭りや観劇、お伊勢参りなどを楽しんできました。「村山うどんを食べる会」も、しぶとく生きた先祖の心意気を引き継いで「みんなの食堂」を実施しました。

 

★私と同じような思いの人がいたことに安堵した。

「そうでなくっちゃ!」こうして庶民魂は受け継がれる。

新しい日本人の文化はこうして作られる!

9月9日(水)15:50 暑い、真夏の空が広がっている。

7日、8日と心に響く出来事があった。

4日に「忙しい。追われてゆとりがない」と言う風なことを書いた。

 

7日(月)強風と豪雨に襲われた日だった。午後から立川市の災害医療センターの診察を受けた。昨年12月25日に心房頻拍のカテーテル手術後の経過観察の半年後通院で、手術後は頻拍症状もなくなり、何事もなく診察は終わるはずだった。代診の若い先生だった。その日の心電図検査も異常なしだった。

3か月後の経過観察の最終通院日を決めて診察が終了し、会計窓口に行ったら「先生が戻るようにと言っている」と告げられ、何事かと階段を上がって診察室に入ったら、MRI写真を見せられた。去年の手術前の心臓の冠動脈を指さして「ここの部分に狭窄が見られる」と言うのだ。見ると素人目にも幾分細くなっているのが分かる。「精密検査が必要だ。3割負担で3万円かかる」とのこと。進むとどうなるのか?と聞いたら「心筋梗塞」という。びっくりした。昨年手術前のMRI写真だから、その時の見落としともいえる。いずれにしても精密検査を受ける選択肢しかないのは明らかだ。すぐにお願いした。「加齢、動脈硬化など」が原因と考えられるらしい。

 

帰路、車の運転しながら色々な思いが頭をぐるぐる巡った。

医師の見立て通りなら、またまた手術になる。動脈をバルーンで広げ、そこに網のような物体を入れて縮まらないようにするのだそうな。

自分の身体ながら嘆かずにはいられない。「またかよ」と思う。もう何年かは手術というようなことはないだろうと思っていたのに、1年も経たないのにまた手術か。

 

4日に書いた。「長生きして少しでも社会が好転するところを見届けたい!」「進化するPTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処の未来を見たい!」と。

 

「忙しい。追われてゆとりがない」ではやっぱりだめなのだ!と思い直した。身体が資本だ。自分の身体を過信していた。身体が発信する声を聞き、いたわりながら無理をせず、少なくとも仕事に追われるような毎日ではだめなのだ。心してペースを落とすことが必要だ。「焦らない」と言いながら焦りの心があったようだ。それでは未来を見届けたくても見届けられないかもしれないではないか。

 

8日(火)。交流館に出勤しパソコンを開けたら「今そちらに向かっています。お手伝いに行きます」と元の職場・コープ共済連の元同僚からメッセージが届いていた。驚いた。都内とは言え、千葉に近い彼女の家から交流館まで2時間はかかる。午後3時、彼女は菓子やら飲み物やら健康ドリンクやら溢れるほどの袋を下げてやってきた。「日常作業のお手伝い」で来館した人は初めてのこと。私が4日に書いた「忙しい。追われてゆとりがない」を彼女は読んでくれていた。それで手伝いを思いたったらしい。思うとやらないではいられない性格の彼女は飛んできたというわけだ。

 

心の中で涙がこぼれた。うれしかった。「まじかよ」と思った。土曜日に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処*9月1日号通信」を160人と団体にメール送信した。次は70人に郵送作業がある。昨日、私はその作業をしていたのだ。彼女は来るなり、通信の封筒封入、切手貼り、住所押印を手伝ってくれた。武蔵村山市の市長さん、市議会議員さんに手渡す袋詰めも済ましてくれた。私が郵便局に投函に行く間の留守番もしていただいた。作業を終えると多摩都市モノレール上北台駅から疾風のように帰って行った。

 

本当に大勢の人たちに支えられて活動していると実感した一日だった。ついつい弱音を吐いたらお助けマンが駆けつけてくれた。私には「事あらば助けよう」という人たちがいるらしい、と思わせる一日になった。1人でやると思うな。助けて下さいと声を出すが良い、と天の声が言ってくれたのかと思う。無理をしてはいけない。この活動に当面は終点はない。長く続く。恐らくは息絶える時にも終りは来ない。

勝手に私が師と仰ぐ阿波根昌鴻さんもそうだった。生きている間に米軍に強奪された土地は帰らなかった。今も帰ってはいない。後に続く人たちが闘いを続けている。

 

生きている間に終わりが来なくても、あと5年、10年、更に10年と成長する「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」運動の未来を見ていたい。長生きしたい。ならば、やっぱり焦らないことだ。皆さんの力を借りながら、一緒に手を携え歩いて行くのだ。それしか道はない。そう私自身に言い聞かせた。

 

 

 

9月4日(金)晴れ。

「村山うどんを食べる会」から2週間が過ぎようとしている。「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処通信」9月1日号を作成して1000部の印刷を9月1日に済ましたが、メール送信も、封書発信も手がついていない。一言で言うと仕事・やるべきことが多い。一人でこなす作業量を越えている実感がある。「ゆとりをもって活動する。明日できることは今日はやらない」という決意を1~2カ月前に書いた。良いことかどうかわからないが、現状はそうはなっていない。

 

毎年8月は「戦争と平和を考える8月」ということで当会の活動も18の新聞社に19回活動紹介された。部数から言うと800万世帯に紹介された。1世帯二人とすると1600万人が目にする機会が作られた。人口の1割を越えることになる。ホームぺージの訪問者が800人を越えた。怒涛の荒波に出会ったような8月だった。その余波がまだ収束していない。

 

「PTSDの日本兵の存在」が広く知られることが「2度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」に繋がると信じて活動しているし、信じて続けるつもりだ。実際には1600万人の1割・160万人が読んだとしてもすごいことだと思う。しかし、一度だけでは記憶に残るほどの印象付けはうすい。何回も何回も目にするチャンスを作らなくてはならない。そのためにも報道する人たちに「PTSDの日本兵の存在を発信し続ける活動」に注目してもらう努力をしていくつもりだ。と言っても、ただただ地道に倦まずたゆまず活動を続ける以外に方策はないのだが。

 

これを読む皆さんにお願いしたい。皆さんのお仲間にこの活動を伝えていただきたい。いわゆる拡散をお願いしたい。もっともっと知られるチャンスを増やしたい。

 

最近、真ん前の学童保育の子どもたち、お兄ちゃんに当たる中学生の来館がぽつぽつあるようになった。「無料で麦茶が飲めるって本当ですか?」という具合に入ってくる。口コミで広がっているらしい。「テレビは付けない。ゲーム遊びはダメ。お菓子は館内で食べる分だけで持ち帰りはダメ」という約束が定着しつつある。静かに本を読んで帰る。「ありがとうございました」と礼儀も正しい。

 

5年後、10年後を考える。今日来た小学生は5年後は中学生に、10年後が大学生になる。中学生は10年後は多くは社会人になっているだろう。私は5年後は77才、10年後は82才になる。再発中の前立腺ガンと共存しながらも長生きしたい。ここに来館し通った子どもたちが、「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を支える力になっているかもしれない。サポーターになっているかもしれない。そう考えると夢が広がる。「村山うどんを食べる会」には現役の大学3年生も来てくれた。

 

私は簡単には死ねない。何としてもさらに広がった「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」と「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を目にしたい。武蔵村山が第1号館で、全国に第2、第3の交流館ができているかもしれない。元気で語り続け、進化する交流館と広がる活動を見続けたい。本当に長生きしたい。

 

皆さんにお願いする。力を貸していただきたい。もっともっと活動が広がるよう助けていただきたい。その事が「2度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」に繋がるようにしようではないか!もっともっと大きな流れに広げようではないか!私はまだまだ長生きするつもりだ。皆さんに支えられながら、良い方向に変わっていく社会を目で見たいのだ。夢を信じ、希望を掲げ、ゆっくりでも倦まずたゆまず皆さんと手を組んで歩いて行くつもりだ。共に歩いて行きましょう!よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

8月15日(土)当会がいつもお世話になっている「市民活動のひろば」の皆さんが4人でご来館くださいました。その中の細田さんがご自分のブログに感想を掲載されました。とてもうれしく思います。ご紹介いたします。

 
★ところで今回、丸木美術館に行く途中、
「旧日本兵のPTSD問題」を訴えている黒井秋夫さんの
「PTSDの日本兵と家族の交流館」(※ 武蔵村山市中藤)を訪ねた。
 
日本兵であった黒井さんの父・慶次郎さんは、復員後、定職に着かず、
家族や周囲と交流もせず、ほとんど口もきかなかったそうだ。
 
そんな生前の慶次郎さんを嫌っていた黒井さんだが、
米国のベトナム帰還兵のPTSDのDVDを見て、父への見方がかわった。
 
2回の招集で6年間もの軍隊生活を経験した慶次郎さんは、
戦争のPTSDに苦しめられていたのだと気づき、独学でこれについて調べ始め、
ついに自宅の庭に、2020年5月、上記の交流館(資料館)をオープンさせたという。
 
10平方メートルほどの小さな資料館だったが、
所狭しと貼られた掲示物、写真、新聞のコピー、印刷物、書籍・・・
そして黒井さんの熱のこもった解説に、心打たれた。
 
旧日本兵のPTSD問題は、
もっと注目され、研究されなくてはならない問題だと思う。
 
 ※交流館のHP https://www.ptsd-nihonhei.com/
★細田さんブログhttps://isibotoke.blog.fc2.com/

8月7日(金)快晴。高温注意情報が出ている。

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」通信8月1日号(通算4号)を周辺900戸の配布を4日間を要したが今朝で終了した。武蔵村山市市長・副市長・市議会議員・観光課にも届けた。昨日6日、64通を郵送した。本日7日は160か所(個人・団体・報道)にメールで送信します。次回通信は「村山うどんを食べる会」の報告を中心に9月1日頃の発信を予定しています。

7月30日(木)曇り

 

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」前史①

1970年、私は22才だったが、当時は港区田町駅東側にあった芝浦工業大学生協で社会人になった。たまたま空きが出た食堂の調理人の職についた。食堂は地下1階にあり、休日明けで出勤すると排水ポンプの故障で、時々くるぶしまで床一面に水が溢れているような環境だった。そこで同年代の若い職員、近所のパートの女性たちと懸命に働いた。

包丁の使い方、研ぎ方、使用した器具の洗い片付け、調理で終わりではなく、掃除してきれいにするまでが調理人の仕事と教えられた。初任給は確か3万円だった。鯨カツとハンバーグ作りは忘れられない。50年前クジラ肉は豚肉よりも安かった。学生食堂で鯨カツのカレーはボリュームがあり、男子の多い芝浦工大では人気メニューだった。刻んだ玉ねぎ、挽肉、パン粉を大きな回転鍋に入れて、全身を使ってこねるハンバーグ作りは汗だくになった。3年間いた。

 

 

 1973年の春と思う。新潟大学生協に退職者が出て「行くか?」という打診があり、故郷・山形の隣りであり即座に行くと決めた。上野駅から夜行列車で鶴岡に向かう時に、新潟県北部の中条駅に差し掛かると、左手の工場の煙突からいつも炎が出ていた。それを見るたびに「もうすぐ鶴岡だ。故郷だ」とこみ上げるものがあった。

 新潟大学第一食堂で15年間働いた。13千人の利用者があった。食堂職員30人程のうち、男は2人だけで、私より10歳以上年上の女性たちに囲まれ、24歳の私は最初は戸惑い、精神的に疲れ、ひと月もしないうちに「歯が痛い」と言って仕事を休んだことがある。しかし、社会人としての常識や、人間として大事なことは全て彼女たちに教えられ仕込まれた。

 私は24歳のその年に、兄夫婦と暮らしていた実家の両親を新潟の借家に引き取り3人暮らしを始めた。明治45年生まれの父は60才、母は59才だった。私は2018年に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げたが、「PTSDの復員日本兵」とは自分の父のことである。1948年(昭和23年)生まれの私は戦前の兵士の頃の父を知らない。

 

私の知る父は物覚えが付いた頃、県内の建設工事の現場作業員の仕事をしていた。雪が降り仕事がなくなると失業保険で食いつなぐ生活で貧乏だった。欲しいものがあってもねだることをしない(買ってもらえないと分かっているから)子供だった。父は近所では「6尺親父」と呼ばれ、がっしりした180㎝近い身長で、部落でも抜きん出た体格で遠目にもすぐ分かった。立派な身体を持ちながら、雪のある冬は仕事に行かない。無口で、戦争体験もほとんど話したことはない。どこかに出かけるということもない。家で起こる難しい問題の解決でも父は黙り込み、判断や差配は全て母や、私より7歳年長の兄にその役目を押し付けた。何もしなかった。子ども心にも無責任で、情けないダメな人間に思えた。家が貧乏なのも父親が他の家の男たちと違い、ちゃんと働かないからだと思うようになった。父を尊敬できなかった。

 

 

2015127日、私たち夫婦は横浜からピースボートに乗船して105日間の船旅に出た。毎日、100以上の催しが船内で開かれた。ベトナム・ダナンに向かう途中であるDVDを見た。ベトナム戦争に従軍した米兵が「ベトナム戦争で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺したベトナム人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」と彼はカメラに向2015127日、私たち夫婦は横浜からピースボートに乗船して105日間の船旅に出た。毎日、100以上の催しが船内で開かれた。ベトナム・ダナンに向かう途中であるDVDを見た。ベトナム戦争に従軍した米兵が「ベトナム戦争で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺したベトナム人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」と彼はカメラに向かって叫んだ。苦しそうな彼の顔と、中国で約10年間、従軍して最後は軍曹まで務めた父の顔と重なった。父は私に叫んだ「中国戦線で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺した中国人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」。父が死んで25年後だった。

7月29日(水)ずうっと霧雨。室温24℃。

 黒井の故郷・山形地方に豪雨。大石田、大蔵村付近の最上川が溢水して田畑や住宅に泥水が流れ込む映像が朝から流れている。字幕では鶴岡市荒沢の24時間雨量が240mmと報じている。涙が出てくる。切なくてならない。小中高の同級生たちがいっぱい住んでいる。顔が思い浮かぶ。みんな無事でいてくれ、と願うばかりだ。

 私の父親は復員後のほとんどを工事・建設現場を渡り歩く労働者として働いた。字幕で出て来た鶴岡市荒沢には思い出がある。昔、朝日連峰大鳥池周辺を水源とする大鳥川を堰き止めるダムが造られた。荒沢ダムという。生まれた家から20kmほど南に位置する。父はその建設に携わった。ある時、休みで帰ったお土産に「長靴」を買ってきた。私はそれが嬉しくて履いたまま家の中を走り回った記憶がある。父親からもらった愛情で、ほとんど唯一といえるあの場面を思い出す。調べたら荒沢ダムは昭和30年竣工とある。私はその年に小学校に入学した。出来事は5~6歳頃と思われるがうれしさだけは今も心に残っている。

 

 「謙虚な姿勢で、真摯に向き合う、丁寧に説明」、「先手先手に、躊躇なく、できることは何でもやる」と安倍首相は種々の事態にこれらの言葉を繰り返し使用した。「アベノミクスの成果を隅々まで行き渡らせる。評価基準は実績だ。女性が輝く時代」も安倍さんが頻繁に使った言葉だ。そして現実はどうなんだ。

 

 アベノミクスの言葉はもう使わなくなって久しい。女性の指導的比率30%目標は頓挫し実現時期を延期した。「コロナ感染は日本方式で収束させた」はずが感染者数は増えるばかり。 何を先手先手にやったのか。できること全てやるで、できたことは何だったのか。どういう成果・実績を上げたのか。丁寧に説明するかと思えば国会を閉めたきり、閉会中審議にも出てこない。遂にリーダーシップの発揮を放棄したように見える。政権末期の様相だ。

 私はもう安倍さんの言葉や行動を批判する気持ちも萎えつつある。消費するエネルギーがもったいない。安倍さんの現状は批判するも無残な姿のように見える。安倍さんにはどのような期待も、もはやかけられない。安倍さんをどうこう言うこと自体が今は非生産的だ。国民はどうするのかが問われている。

 一言つけたすと、安倍さんをいただく多数派の議員たちの政治に携わる心度合いの低さは情けりだ。情けないあなた方は何を実現しようとしているのか。本当にこの現状の政治のあり方で良いのかといいたい。私自身がサジを投げたくなる。しかし、諦めずに思い直して自分自身のできることを見つけ出し、仲間を募り、手を繋ぎ、歩いて行こう。心に言い聞かせる。

 シュプレヒコール!!

 皆さんの協力で「村山うどんを食べる会」を必ず成功させるぞ!

いかに少人数であったとしてもアットホームな笑顔溢れる広場を実現するぞ!

前進する「一寸の虫にも五分の魂」根性を発揮するぞ!

7月28日(火)陽が射したり、雨が降ったり不安定な天気。室温27℃。

憲法施行 73 年・千葉市空襲 75 年 戦争を繰り返さないための集い」

千葉・平和のための戦争展 「ピースフェア 2020 in 千葉」

「若者たちが語る戦後 75 年 ~若者から戦争体験者への手紙 1945←2020~」

オンライン・シンポジウム・ 戦争を知らない世代は、どんなふうにその記憶を受け継ぐことができるのでしょうか。

戦争体験者に手紙を書いた若者たちが、戦後 75 年のいま、考えていることを語ります。

 ●日時:2020 年 6 月 20 日(土)13:30~15:30

 

 2015年に出版された『若者から若者への手紙1945←2015』1945年当時の20歳前後だった”若者たち”の体験が聞き書きで掲載されています。70年後の2015年に現在同年齢の若者たちが、掲載された1945年当時の若者・戦争体験者から一人を選んで、その人に手紙を書くというプロジェクトが継続されています。昨年2018年は津田塾大学でシンポジュームが開催されて黒井も参加しました。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」のHPの最初に『語り継がれない経験はくり返す。語り継いで未来の命を守りたい』と大書していますが、これは昨年のシンポジュームで登壇した三陸出身の学生が3.11の際に明治・昭和の大津波の教訓を石碑に「ここより下に家を建てるな」と先人たちが記し残した集落が、先人の教えを守り津波に合わなかったという故郷の事例から『先人が子孫に語り継いだことが今日(未来)の命を守った』という発言に感動したことから教えられ使用しています。

 

 今年も上記シンポジュームへの参加呼びかけをいただきましたが、ZOOM設定に自信がないなど辞退しましたが、開催後の新聞報道で内容を知り、主催者の方に感想をお伝えしました。直ぐに主催者からシンポジュームのDVDが届きました。以下は見ての感想です。(Zoomは7月20日に私の娘婿に設定いただき使っています)

 

 (若者から戦争体験者への手紙 1945←2020の)主催者は引き続き本に掲載されている15人の元若者への手紙を現代の若者たちに募集しています。私は「若者たちの手紙を募集し続けている」ことが素晴らしいと思います。1945年当時の若者は今や100歳前後です。今から彼ら自身が戦争体験を語り継ぐのはほとんど不可能です。さらに未来に語り継ぐとしたら、若い世代にバトンタッチするしか方法はありません。

 いかにして若い人たちに語り継いでもらうか。私・黒井の活動でもある種一番の課題です。その課題をこの主催者(北川直実・室田元美・落合由利子の女性3人組)は成立させています。昨年のシンポジュームをサポートしていたのも多くの若者たちでした。今年のZOOMのシンポジュームも若い人たちが支えていると感じます。素晴らしい跡継ぎ作りに成功しています。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」も「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の活動も黒井秋夫のような従軍兵の子ども世代(70才台)から孫世代以降の若い人たちにバトンタッチを急がなければなりません。2度と日本が戦争を起こしてはならない、その世論を形成するためには、戦争が引き起こした被害・悲劇を語り継ぐことが一番大事なことだとDVDを見ながら再確認しました。『語り継がれない経験はくり返す。語り継いで未来の命を守りたい』のです。

 

 「平和」という言葉についても気づきがありました。前から「平和な日本」という言葉使いに違和感がありました。「平和な日本」という言い方には今の日本を肯定する意味合いを感じます。確かに1945年から75年間、1人の日本人も戦争で死んではいないし、戦争で一人の外国人も殺害していない。そのことで「平和な日本」というならその通りだ。しかし、コロナ感染でネットカフェの営業不能で寝場所を失った大勢の人たちの存在が明らかになった。非正規雇用やシングルマザーの家庭など衣食住に困難を抱えている人たちも大勢いる。戦争はなくても「安心して暮らせない」大勢の人がいる。沖縄にはたくさんの米軍基地がある。私が住む武蔵村山市の西部は米軍横田基地に接している。ベトナム戦争ではそれらの基地から戦闘機がベトナム人の殺害の為に往復した。こういう状態でも「平和な日本」と括っていいのだろうか。それでは「平和」という言葉を侮辱してはいまいか。

 ドイツに留学している若者(女性)の『ドイツでは平和という言葉よりも「戦争で人権、民主主義が侵され社会が分断される。そういうことのない社会」というような使い方をする』という発言が心に残った。そういう社会を指して「平和」というならしっくり心に落ちる。だれもが「安心して暮らしている社会=平和」ならうなづける。

 「隣の人と手を繋げる関係」という18歳の若者(男性)の言葉も心に残った。「手を繋いだ人を殺せないでしょう」と彼はつづけた。まさにそうだ。それは国と国との関係にも言えることだろう。日本の西方には中国、朝鮮半島、ロシアがある。南には台湾、フィリピン、東南アジアと続いている。まず手を繋ごうする気持ちを持ちたい。一時の優劣も優位の歴史も、50年後には泡と消えている。今から75年以上前までは日本は戦争を仕掛けるアジアの元凶だった。その歴史を否とするなら、まず日本から「手を繋ぐ努力」をせねばならない。若者たちの言葉にそう思わされた。

 

 『若者から戦争体験者への手紙 1945←2020~』がこれからも多くの若者を引き付けていくことを心から願いたい。この活動の主催者たちに心からのエールを送りたい。「PTSDの日本兵と家族の交流館」と「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」が皆さんの活動が向かう所と共にありたいと願っています。皆さんを希望に指針として努力いたします。

7月25日(土)時々強い雨。室温26℃。

 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処通信」3号を3週間かかって周辺900戸に配布を昨日終了した。武蔵村山は7月に入って毎日がほぼ雨降り。傘をさして郵便受け箱にチラシを差し入れるのは片手では濡らすし難しい。7月4日に印刷したのに配布が終わるのに3週間を要した。それでも5月以来、3回の広報ができた。その事には満足している。次回は間がないが8月10日頃に8月23日(日)の「村山うどんを食べる会」特集を第4号通信として配布したいと思っている。

 

 東京都では驚くようなコロナ感染者数を連日記録している。「開館を祝う会・5月23日開催」を3月段階で公示したが第一次コロナ感染の広がりで中止した。現在の状況で8月23日の「村山うどんを食べる会」を開く事の是非を心配する声も聞こえて来ている。しかし、私は感染対策を主催者と参加者がしっかりと準備し自衛すれば、開催は差し支えないと考えている。無症状の感染者が参加者の中にいたとしても、濃厚接触さえ防げば感染はしないとされている。

 

 私もコロナ感染は怖い。ガンの放射線治療や心房頻拍手術から1年も経過していない。私の免疫力は同年代より確実に低いだろう。こもる方が安全ではある。ステイホームに徹すれば感染はしないだろう。しかし、いつまでも家に退避では人生に大事な社会活動そのものも停止することになる。そうして生きながらえたとして何の価値があるのだと考えるようになった。

 世の中には思いもがけないリスクはいくらである。地震や豪雨災害もその一つだ。車の運転をすれば事故の可能性もある。だからと言ってこもってばかりいたら人として生きていることになるだろうか。生きている限りリスクから完全にに逃れることは不可能だ。リスクを恐れながらも対策を準備して前に進むことが自立した人間として大事なのではないだろうか。

 

 都や国は情報を開示してきちんと丁寧に説明して欲しい。現状はGOTOトラベルに不都合だったり、緊急事態宣言を促すような数字はわざと広報していないように見える。言って見れば国民をだましている。信用していない。悲しいことに、いくらワアワア指摘しても都も国も今の陣容である限りこの姿勢は変わらない。ちゃんと説明する姿勢に転換する希望は持てない。 だとしたら、私たち庶民は少ない情報からでも自分で考え、判断し、自立して自分の日々の行動を考えていくことが大事だと思う。だから、主催者として最大限の対策を準備して、参加者にはマスク、手洗い・消毒、検温などをお願いの上「村山うどんを食べる会」を開催することを決めて準備を進めている。

 

 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は中藤地区会館の西隣にあるが、そこの関係者の女性から写真にあるような花瓶と剣山をいただいた。  交流館の掲示板で妻の主催する「手芸サークルのお知らせ」を見て声をかけて来た事から交流が始まった。交流館に立ち寄り3~4回言葉を交わすうちに、彼女は手芸サークルのメンバーになった。花壇のアジサイの花が珍しいとえらく気に入ってくれたので、切って差し上げた。挿し木用の枝も差し上げた。そうしたら、家の整理で花瓶を処分したいが持ってくるという。自転車に括りつけてお持ちになった花瓶を見たらそれはお盆状の花瓶だった。「これは剣山が要るなあ」と思わず言ってしまった。「いや、生け花用のスポンジがあるから剣山がなくても大丈夫だ」とすぐに言い足したが遅かった。今朝25日、交流館の入り口に「剣山もらってください」と新聞紙で包んだ小さな包みが置いてあった。開いたら2個の剣山が入っていた。

 

 少しずつ「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」もご近所に知られてきたように思う。どうということのない、ご近所どうしのお付き合いを作ること、そしてそれを広げていくことが「交流館」の4つの目的を支える土台になると考えて来た。開館して2か月だが、そのことがゆっくりゆっくりだが根を伸ばしている感触を実感している。

 

 

 

 

 

7月23日(木)雨、時々強く降る。室温、24℃。半袖だが長袖の方が良かったか。

 尖閣諸島を中国当局の監視船が毎日日本の領海内を航行しているという。NHKのニュースで元自衛隊幹部の話しとして中国は尖閣諸島を中国が事実上支配している実績を作り、日本から尖閣諸島を奪い領有化することが狙いだと報じていた。また、中国の報道官が記者会見で中国の領海で日本漁船が不法に漁をしていると非難した。 中国がフィリピン、ベトナム沖の海で領有権を主張し、軍の基地を新設したりして軍事力で実効支配を広げている行動に軌を一にする行為と思われる。 NHKの報道の仕方はある程度は「力で対抗すべきだ」という論調のように見えた。

 

 私は「力で対抗する」に賛同しない。明確に言えば「力で領有権の主張はしない」。漁業に関して言えば双方が立ち入りを認め合うという立場に立ちたいが、中国が認めず、更に武力を増強するようなら、その場合は事実上、尖閣諸島の領域から撤退するのが上策と思う。

 

 戦争に明け暮れたヨーロッパ各国はEC(欧州共同体)を30年前に設立して、漁業に関して言えば漁獲量を船ごとに決めているとある。国どうしの領海侵犯という概念はない。中国、日本(韓国・北朝鮮含めて)にECのような東アジア共同体連合をめざす理念の持ち合わせがあれば尖閣諸島の領有を力で主張し合うような問題は起きないだろう。

 

 国の領有を現在の150年前から1945年までの75年間、アジアで力(軍事力)で主張し、国境線を変え、朝鮮半島、中国東北地方(旧満州)、台湾を無理やり支配し、そこに住む人々を従わせてきたのは日本である。日本が軍事力で屈服させたときにそれぞれの国民がどんな気持ちを味わったのか、今になって私たちは知らされようとしているのかもしれない。だとしたら、巡り合わせというしかない不幸なことだ。

 

 領有され支配され長い間日本の圧政に耐えた国々の今の発展ぶりを見ると、勝ち負けで言うことは不適当かもしれないが、いずれが勝利しいずれが敗北したと言えるのだろうか。はっきりしていることは、戦争などせずに手を繋いでいれば、今よりはるかに前進発展した東アジアが現出しただろうということである。

 

 私の結論は明確である。領有したいなら領有させるが良い、である。いずれ、未来のいつか、漁業で言えばどこの国の漁業者も仲良く領海など気にせずに仲良く漁に精を出せる日が必ず訪れる。それが歴史の必然と思う。争っても何の得もない。ましてや人の命を犠牲にするような価値は全くない。

 

 

7月18日(土) 今日も雨。室温23℃。長袖にジャンパーを着ている。

 この頃、昼となく夜となくうるさいほどだったホトトギスの鳴き声を聞かない。私は武蔵村山に居住するまで50年間、ホトトギスの鳴き声を聞いたことがなかった。つまり、ここに住んで初めてその声を聞いた。トウキョウトッキョキョカキョクと鳴くとかテッペンカケタカと鳴くとか言われていたので初めて聞いた時に、すぐにホトトギスと分かった。一方、生まれ育った山形県庄内地方や、長く暮らした新潟市で同類の鳥と言えばカッコウである。初夏に爽やかに高らかに鳴く。その鳴き声はこちらの気分も晴やかにしてくれた。そして、山形や新潟ではホトトギスの声を聞いたことがない。一方、ここ武蔵村山でカッコウの鳴き声を聞いたことがなかったが、シルバー人材センターの掃除仕事場の大南東公園で、今年になってカッコーと鳴く声が聞こえるではないか。ホトトギスと棲み分けをしているのかもしれないが懐かしく、嬉しく聞いた。ホトトギスが止まっているところを見たことはないが、カッコウは高い木でもてっぺんに止まって鳴く。その姿も颯爽としている。写真左がカッコウ、右がホトトギス。見分けがつかない。

カッコウ ほととぎす に対する画像結果

 7月のNHKの世論調査の調査項目に「敵基地攻撃能力を持つべきかどうか」という設問があった。持つべきが40%、持つべきではないが42%と拮抗している。いわゆるイージスアショアの設置が撤回されて、変わるべき軍備の議論で先制攻撃ができる軍備を持つべきかどうかの議論が自民党で勇ましい方向で進んでいるらしい。私は行方を本当に危惧している。

 1930年代、日米英の戦艦保有の軍縮会議で10(英米)対7(日本)を貫くか10対6.5で妥協するかで政府・日本軍(海軍)内で熾烈な内部闘争が展開された。結局6.5となった。これが5.15事件、2.26事件の抗争の一因にもなった。軍事力の議論では軍はいつも増強を主張するし、往々にして勇ましい方が優勢になる。軍縮派は弱気で及び腰に映る。あの時の結果は戦争を拡大する方向に向かい悲惨な結末に到った。

 軍事力は国民の命を守ったか!と問われれば武器で国民は守れなかった!と言わなければならない。戦勝国と言われる英仏にせよ多くの国民が命を落とした。 武器が(軍隊が)国を守るなどということは全くの幻想である。武器は国民の命を危険にさらすだけと歴史から学ぶべきだと私は思う。

 私が政権の政治家であったら、仮にも他国軍隊に攻めこまれたら迷わずに降伏する。絶対に戦争には持ち込まない。言うまでもないが、その覚悟で戦争を回避する外交交渉をするだろう。そしてあらかじめ全世界に向かって伝える。わが国は胸を張って降伏すると。何より自国国民の命が大事であり、相手国国民の命も大事だと我が国は宣言するだろう。それでも相手国は殺戮するかもしれないが最善の方法で避ける手立てを模索実行するだろう。日本の占領、圧政に耐えた韓国、台湾の戦後の復興と躍進を見れば、日本の軍事力はただただアジアの憎しみを買っただけだったと言わなければならない。戦争とは何と愚かだったかと。それが75年間、アジア各地に軍隊を送り戦争を続けた日本が得た平和を確保する歴史の教訓ではないだろうか。

 

 

 

 

7月17日(金)朝から雨。室温22℃。

 17日の新聞の死亡広告に坂東克彦さんの名前があった。新潟水俣病、熊本水俣病を弁護士として闘った。感慨に耐えない。新潟にいた頃、集会に行くとよく見かけた。引き締まった精悍な顔立ち、それでいて優しい表情、亡くなったと思うと本当に寂しい。闘士と呼ぶにふさわしい人生ではなかったか。生涯を弱い人に寄り添い、筋を曲げなかった。坂東さんの人生に心から拍手を送りたい。後輩から「あっぱれ!」を贈らせていただきたい。本当にご苦労様でした。あの世で坂東さんの背筋のピンと張ったあの姿とお目にかかりたいと思います。87才・老衰とある。あと15年生きていれば私もその年になる。

 

 日生協企業年金基金から「支給期間満了に伴う老齢給付金(年金)支給終了予定のお知らせ」が届いた。10年間いただいた年間233,100円の支給が終わった。年収の12%がなくなる。分かっていたとはいえ痛い。若い人たちの年収や年金を思うと贅沢は言えない。それでも我が身になれば悲しいなあと思う。妻と一緒に倹約しながらつましく生きたいと思う。

 

 今日は金曜日で「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は休館日。雨がなければ午前中は大南東公園の掃除作業だったが延期になった。この雨が上がったら昨日に続いてチラシ(PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・通信)の戸配に行くつもりでいる。午前中に市役所に行って市長さん(秘書課)、市議さん(議会事務局)、観光課にチラシを渡してきた。観光課は担当者が不在だったが「村山うどんを食べる会」の取材を要望して来た。

 

 我が家には4匹の猫がいる。3匹はオスで兄弟、一匹がメスで恐らく写真のトラ模様の猫と父親が同じ妹猫ではないかと思っている。トラ模様がそっくりだからだ。オス猫兄弟の母親は「しろ」と呼んで美人猫だった。ガラス戸の外にちょこんと座って無言で餌をねだった。その愛くるしさに負けて時々餌をやったら、家の中に上がるようになり、遂には私のベッドわきに子を産んだ。その子猫の飼い主探しが大変だったこともあり、妻が近くの動物病院で「しろ・写真右」の避妊手術をした。子を産んだらしばらくして「しろ」は姿を見せなくなった。我が家に出入りしていた時に赤い首輪をつけたが、何年かして別の赤いリボンをつけてひょっこり顔を見せたが、以来行方不明である。オス猫3匹は「しろ」の忘れ形見なのだ。猫たちは性格が兄弟でもまるで違う。基本仲が良いが時々双方が猫パンチしている。猫のおかげで妻と二人だけではない生活がある。妻も私も猫に時々話しかけ、なでてやり、叱りしながら心の癒しと潤いをもらっている。