2020年7月30日(木)

★信濃毎日新聞(時の顔)

★沖縄タイムス

 8月1日(土)

★北海道新聞(ひと)、

★青森県の東奥日報で

紹介されました!

みんなの食堂

村山うどんを食べる会

823日(日)

★会場

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」

交流館前の駐車場 黒井自宅内・母屋2部屋

★受付 11:00~

★食事 11:15~

★行事終了 13:30

★参加費

大人・社会人 200円 高校生以下 無料

 

「村山うどんを食べる会」会場で

コロナに感染しない!感染させない!

主催者は

遮断ビニール幕、フェイスガード、消毒液、手洗い場,

非接触性体温計を用意します。

参加者は

検温、手洗い、手指消毒、マスク着用をお願いいたします。

参加申し込み

8月20日まで受付しています!

8月7日現在の予約者(22名!!)

 

連絡先・08011213888 黒井秋夫。

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」では

荻田如月子さん(武蔵村山市在住)の

武蔵村山市の戦跡写真を展示しています。

写真は随時更新いたします!

 

 

朝礼がうんざりで、ずっと楠を見つめていた校庭。

高いのが苦手な私には、高すぎるジャングルジムがある公園。

ロープと板の手作りのブランコがあった雑木林。

 

 

私がかけまわり、遊びつくした所を、今は私の娘息子が、同じように過ごしている。

 

慣れ親しんだこの地のいたる所には

ある人が、泣いた

ある人が、命拾いした

ある人が、殺された

ある人が、正義と信じて戦地へ向かった場所が

今は形を変えていても、確かに存在していた

 

 

荻田如月子

8月の休館日予定

9日(日)~14日(金)

17日(月)21日(金)24日(月)27日(金)

30日(日)31日(月)休館日です。

上記以外の日は開館しています。

詳しくは上の

PTSDの日本兵と家族の交流館・お茶飲み処

ご利用案内をクリックしてご覧ください。

 

日本最初・唯一の

 

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」

 

5月10日(開館日)~8月8日

 

88名の皆さんに

 

ご来館いただきました!!

 

武蔵村山市46 東大和市11名、立川市8名 

 

東久留米市瑞穂町町など多摩地域6名 都区内14名 埼玉県 3名

 

ご来館ありがとうございました!

 

 

 

PTSDの日本兵と家族の交流館村山お茶飲み処」は

 

めざします!

 

     PTSDの復員日本兵と暮らした家族」たちの情報発信。

 

      PTSDの復員日本兵と暮らした家族」の安らぎの場。

 

      子供たちと保護者の皆さんに戦争体験を語り継ぐ場。

 

      みんなの食堂・手芸サークルで高齢者と子どもの笑顔  

 

溢れる交流を作ります。

 

      武蔵村山の名所になりましょう!

 

 

 

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」

 

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」

 

 

 

学習会・交流会を開きませんか!

 

★テーマ 平和・戦争・PTSDの日本兵と家族など。

 

★黒井秋夫が語り部(話し手)を務めます。

 

・「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」代表

 

・「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」館主

 

★全国どこでもOKです。交通費・宿泊費含め費用はかかりません。

★参加者が2人以上なら、どんなに少人数でも喜んで出かけます。

 

 ★申し込み・お問い合わせ

 

・連絡先 🏣208-0001 武蔵村山市中藤3-15-4

 

・黒井秋夫 ☎080-1121-3888  qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp

 

・「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」HP   https://www.ptsd-nihonhei.com

今日のひとこと

8月7日(金)快晴。高温注意情報が出ている。

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」通信8月1日号(通算4号)を周辺900戸の配布を4日間を要したが今朝で終了した。武蔵村山市市長・副市長・市議会議員・観光課にも届けた。昨日6日、64通を郵送した。本日7日は160か所(個人・団体・報道)にメールで送信します。次回通信は「村山うどんを食べる会」の報告を中心に9月1日頃の発信を予定しています。

 

7月30日(木)曇り

 

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」前史①

1970年、私は22才だったが、当時は港区田町駅東側にあった芝浦工業大学生協で社会人になった。たまたま空きが出た食堂の調理人の職についた。食堂は地下1階にあり、休日明けで出勤すると排水ポンプの故障で、時々くるぶしまで床一面に水が溢れているような環境だった。そこで同年代の若い職員、近所のパートの女性たちと懸命に働いた。

包丁の使い方、研ぎ方、使用した器具の洗い片付け、調理で終わりではなく、掃除してきれいにするまでが調理人の仕事と教えられた。初任給は確か3万円だった。鯨カツとハンバーグ作りは忘れられない。50年前クジラ肉は豚肉よりも安かった。学生食堂で鯨カツのカレーはボリュームがあり、男子の多い芝浦工大では人気メニューだった。刻んだ玉ねぎ、挽肉、パン粉を大きな回転鍋に入れて、全身を使ってこねるハンバーグ作りは汗だくになった。3年間いた。

 

 1973年の春と思う。新潟大学生協に退職者が出て「行くか?」という打診があり、故郷・山形の隣りであり即座に行くと決めた。上野駅から夜行列車で鶴岡に向かう時に、新潟県北部の中条駅に差し掛かると、左手の工場の煙突からいつも炎が出ていた。それを見るたびに「もうすぐ鶴岡だ。故郷だ」とこみ上げるものがあった。

 新潟大学第一食堂で15年間働いた。13千人の利用者があった。食堂職員30人程のうち、男は2人だけで、私より10歳以上年上の女性たちに囲まれ、24歳の私は最初は戸惑い、精神的に疲れ、ひと月もしないうちに「歯が痛い」と言って仕事を休んだことがある。しかし、社会人としての常識や、人間として大事なことは全て彼女たちに教えられ仕込まれた。

 私は24歳のその年に、兄夫婦と暮らしていた実家の両親を新潟の借家に引き取り3人暮らしを始めた。明治45年生まれの父は60才、母は59才だった。私は2018年に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げたが、「PTSDの復員日本兵」とは自分の父のことである。1948年(昭和23年)生まれの私は戦前の兵士の頃の父を知らない。

 

私の知る父は物覚えが付いた頃、県内の建設工事の現場作業員の仕事をしていた。雪が降り仕事がなくなると失業保険で食いつなぐ生活で貧乏だった。欲しいものがあってもねだることをしない(買ってもらえないと分かっているから)子供だった。父は近所では「6尺親父」と呼ばれ、がっしりした180㎝近い身長で、部落でも抜きん出た体格で遠目にもすぐ分かった。立派な身体を持ちながら、雪のある冬は仕事に行かない。無口で、戦争体験もほとんど話したことはない。どこかに出かけるということもない。家で起こる難しい問題の解決でも父は黙り込み、判断や差配は全て母や、私より7歳年長の兄にその役目を押し付けた。何もしなかった。子ども心にも無責任で、情けないダメな人間に思えた。家が貧乏なのも父親が他の家の男たちと違い、ちゃんと働かないからだと思うようになった。父を尊敬できなかった。

 

 

2015127日、私たち夫婦は横浜からピースボートに乗船して105日間の船旅に出た。毎日、100以上の催しが船内で開かれた。ベトナム・ダナンに向かう途中であるDVDを見た。ベトナム戦争に従軍した米兵が「ベトナム戦争で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺したベトナム人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」と彼はカメラに向かって叫んだ。苦しそうな彼の顔と、中国で約10年間、従軍して最後は軍曹まで務めた父の顔と重なった。父は私に叫んだ「中国戦線で俺の心はめちゃめちゃに壊れた。殺した中国人が今も時々夢に出てくる。昔の自分とは違う人間になってしまった」。父が死んで25年後だった。

7月29日(水)ずうっと霧雨。室温24℃。

 黒井の故郷・山形地方に豪雨。大石田、大蔵村付近の最上川が溢水して田畑や住宅に泥水が流れ込む映像が朝から流れている。字幕では鶴岡市荒沢の24時間雨量が240mmと報じている。涙が出てくる。切なくてならない。小中高の同級生たちがいっぱい住んでいる。顔が思い浮かぶ。みんな無事でいてくれ、と願うばかりだ。

 私の父親は復員後のほとんどを工事・建設現場を渡り歩く労働者として働いた。字幕で出て来た鶴岡市荒沢には思い出がある。昔、朝日連峰大鳥池周辺を水源とする大鳥川を堰き止めるダムが造られた。荒沢ダムという。生まれた家から20kmほど南に位置する。父はその建設に携わった。ある時、休みで帰ったお土産に「長靴」を買ってきた。私はそれが嬉しくて履いたまま家の中を走り回った記憶がある。父親からもらった愛情で、ほとんど唯一といえるあの場面を思い出す。調べたら荒沢ダムは昭和30年竣工とある。私はその年に小学校に入学した。出来事は5~6歳頃と思われるがうれしさだけは今も心に残っている。

 

 「謙虚な姿勢で、真摯に向き合う、丁寧に説明」、「先手先手に、躊躇なく、できることは何でもやる」と安倍首相は種々の事態にこれらの言葉を繰り返し使用した。「アベノミクスの成果を隅々まで行き渡らせる。評価基準は実績だ。女性が輝く時代」も安倍さんが頻繁に使った言葉だ。そして現実はどうなんだ。

 

 アベノミクスの言葉はもう使わなくなって久しい。女性の指導的比率30%目標は頓挫し実現時期を延期した。「コロナ感染は日本方式で収束させた」はずが感染者数は増えるばかり。 何を先手先手にやったのか。できること全てやるで、できたことは何だったのか。どういう成果・実績を上げたのか。丁寧に説明するかと思えば国会を閉めたきり、閉会中審議にも出てこない。遂にリーダーシップの発揮を放棄したように見える。政権末期の様相だ。

 私はもう安倍さんの言葉や行動を批判する気持ちも萎えつつある。消費するエネルギーがもったいない。安倍さんの現状は批判するも無残な姿のように見える。安倍さんにはどのような期待も、もはやかけられない。安倍さんをどうこう言うこと自体が今は非生産的だ。国民はどうするのかが問われている。

 一言つけたすと、安倍さんをいただく多数派の議員たちの政治に携わる心度合いの低さは情けないばかりだ。あなた方は何を実現しようとしているのか。本当にこの現状の政治のあり方で良いのかといいたい。私自身がサジを投げたくなる。しかし、諦めずに思い直して自分自身のできることを見つけ出し、仲間を募り、手を繋ぎ、歩いて行こう。心に言い聞かせる。

 

 

 

シュプレヒコール!!

 皆さんの協力で「村山うどんを食べる会」を必ず成功させるぞ!

いかに少人数であったとしてもアットホームな笑顔溢れる広場を実現するぞ!

前進する「一寸の虫にも五分の魂」根性を発揮するぞ!

 

 

 

 

 

 

7月28日(火)陽が射したり、雨が降ったり不安定な天気。室温27℃。

憲法施行 73 年・千葉市空襲 75 年 戦争を繰り返さないための集い」

千葉・平和のための戦争展 「ピースフェア 2020 in 千葉」

「若者たちが語る戦後 75 年 ~若者から戦争体験者への手紙 1945←2020~」

オンライン・シンポジウム・ 戦争を知らない世代は、どんなふうにその記憶を受け継ぐことができるのでしょうか。

戦争体験者に手紙を書いた若者たちが、戦後 75 年のいま、考えていることを語ります。

 ●日時:2020 年 6 月 20 日(土)13:30~15:30

 

 2015年に出版された『若者から若者への手紙1945←2015』1945年当時の20歳前後だった”若者たち”の体験が聞き書きで掲載されています。70年後の2015年に現在同年齢の若者たちが、掲載された1945年当時の若者・戦争体験者から一人を選んで、その人に手紙を書くというプロジェクトが継続されています。昨年2018年は津田塾大学でシンポジュームが開催されて黒井も参加しました。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」のHPの最初に『語り継がれない経験はくり返す。語り継いで未来の命を守りたい』と大書していますが、これは昨年のシンポジュームで登壇した三陸出身の学生が3.11の際に明治・昭和の大津波の教訓を石碑に「ここより下に家を建てるな」と先人たちが記し残した集落が、先人の教えを守り津波に合わなかったという故郷の事例から『先人が子孫に語り継いだことが今日(未来)の命を守った』という発言に感動したことから教えられ使用しています。

 

 今年も上記シンポジュームへの参加呼びかけをいただきましたが、ZOOM設定に自信がないなど辞退しましたが、開催後の新聞報道で内容を知り、主催者の方に感想をお伝えしました。直ぐに主催者からシンポジュームのDVDが届きました。以下は見ての感想です。(Zoomは7月20日に私の娘婿に設定いただき使っています)

 

 (若者から戦争体験者への手紙 1945←2020の)主催者は引き続き本に掲載されている15人の元若者への手紙を現代の若者たちに募集しています。私は「若者たちの手紙を募集し続けている」ことが素晴らしいと思います。1945年当時の若者は今や100歳前後です。今から彼ら自身が戦争体験を語り継ぐのはほとんど不可能です。さらに未来に語り継ぐとしたら、若い世代にバトンタッチするしか方法はありません。

 いかにして若い人たちに語り継いでもらうか。私・黒井の活動でもある種一番の課題です。その課題をこの主催者(北川直実・室田元美・落合由利子の女性3人組)は成立させています。昨年のシンポジュームをサポートしていたのも多くの若者たちでした。今年のZOOMのシンポジュームも若い人たちが支えていると感じます。素晴らしい跡継ぎ作りに成功しています。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」も「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の活動も黒井秋夫のような従軍兵の子ども世代(70才台)から孫世代以降の若い人たちにバトンタッチを急がなければなりません。2度と日本が戦争を起こしてはならない、その世論を形成するためには、戦争が引き起こした被害・悲劇を語り継ぐことが一番大事なことだとDVDを見ながら再確認しました。『語り継がれない経験はくり返す。語り継いで未来の命を守りたい』のです。

 

 「平和」という言葉についても気づきがありました。前から「平和な日本」という言葉使いに違和感がありました。「平和な日本」という言い方には今の日本を肯定する意味合いを感じます。確かに1945年から75年間、1人の日本人も戦争で死んではいないし、戦争で一人の外国人も殺害していない。そのことで「平和な日本」というならその通りだ。しかし、コロナ感染でネットカフェの営業不能で寝場所を失った大勢の人たちの存在が明らかになった。非正規雇用やシングルマザーの家庭など衣食住に困難を抱えている人たちも大勢いる。戦争はなくても「安心して暮らせない」大勢の人がいる。沖縄にはたくさんの米軍基地がある。私が住む武蔵村山市の西部は米軍横田基地に接している。ベトナム戦争ではそれらの基地から戦闘機がベトナム人の殺害の為に往復した。こういう状態でも「平和な日本」と括っていいのだろうか。それでは「平和」という言葉を侮辱してはいまいか。

 ドイツに留学している若者(女性)の『ドイツでは平和という言葉よりも「戦争で人権、民主主義が侵され社会が分断される。そういうことのない社会」というような使い方をする』という発言が心に残った。そういう社会を指して「平和」というならしっくり心に落ちる。だれもが「安心して暮らしている社会=平和」ならうなづける。

 「隣の人と手を繋げる関係」という18歳の若者(男性)の言葉も心に残った。「手を繋いだ人を殺せないでしょう」と彼はつづけた。まさにそうだ。それは国と国との関係にも言えることだろう。日本の西方には中国、朝鮮半島、ロシアがある。南には台湾、フィリピン、東南アジアと続いている。まず手を繋ごうする気持ちを持ちたい。一時の優劣も優位の歴史も、50年後には泡と消えている。今から75年以上前までは日本は戦争を仕掛けるアジアの元凶だった。その歴史を否とするなら、まず日本から「手を繋ぐ努力」をせねばならない。若者たちの言葉にそう思わされた。

 

 『若者から戦争体験者への手紙 1945←2020~』がこれからも多くの若者を引き付けていくことを心から願いたい。この活動の主催者たちに心からのエールを送りたい。「PTSDの日本兵と家族の交流館」と「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」が皆さんの活動が向かう所と共にありたいと願っています。皆さんを希望に指針として努力いたします。

 

 

 

  

 

 

 

 

7月25日(土)時々強い雨。室温26℃。

 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処通信」3号を3週間かかって周辺900戸に配布を昨日終了した。武蔵村山は7月に入って毎日がほぼ雨降り。傘をさして郵便受け箱にチラシを差し入れるのは片手では濡らすし難しい。7月4日に印刷したのに配布が終わるのに3週間を要した。それでも5月以来、3回の広報ができた。その事には満足している。次回は間がないが8月10日頃に8月23日(日)の「村山うどんを食べる会」特集を第4号通信として配布したいと思っている。

 

 東京都では驚くようなコロナ感染者数を連日記録している。「開館を祝う会・5月23日開催」を3月段階で公示したが第一次コロナ感染の広がりで中止した。現在の状況で8月23日の「村山うどんを食べる会」を開く事の是非を心配する声も聞こえて来ている。しかし、私は感染対策を主催者と参加者がしっかりと準備し自衛すれば、開催は差し支えないと考えている。無症状の感染者が参加者の中にいたとしても、濃厚接触さえ防げば感染はしないとされている。

 

 私もコロナ感染は怖い。ガンの放射線治療や心房頻拍手術から1年も経過していない。私の免疫力は同年代より確実に低いだろう。こもる方が安全ではある。ステイホームに徹すれば感染はしないだろう。しかし、いつまでも家に退避では人生に大事な社会活動そのものも停止することになる。そうして生きながらえたとして何の価値があるのだと考えるようになった。

 世の中には思いもがけないリスクはいくらである。地震や豪雨災害もその一つだ。車の運転をすれば事故の可能性もある。だからと言ってこもってばかりいたら人として生きていることになるだろうか。生きている限りリスクから完全にに逃れることは不可能だ。リスクを恐れながらも対策を準備して前に進むことが自立した人間として大事なのではないだろうか。

 

 都や国は情報を開示してきちんと丁寧に説明して欲しい。現状はGOTOトラベルに不都合だったり、緊急事態宣言を促すような数字はわざと広報していないように見える。言って見れば国民をだましている。信用していない。悲しいことに、いくらワアワア指摘しても都も国も今の陣容である限りこの姿勢は変わらない。ちゃんと説明する姿勢に転換する希望は持てない。 だとしたら、私たち庶民は少ない情報からでも自分で考え、判断し、自立して自分の日々の行動を考えていくことが大事だと思う。だから、主催者として最大限の対策を準備して、参加者にはマスク、手洗い・消毒、検温などをお願いの上「村山うどんを食べる会」を開催することを決めて準備を進めている。

 

 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は中藤地区会館の西隣にあるが、そこの関係者の女性から写真にあるような花瓶と剣山をいただいた。  交流館の掲示板で妻の主催する「手芸サークルのお知らせ」を見て声をかけて来た事から交流が始まった。交流館に立ち寄り3~4回言葉を交わすうちに、彼女は手芸サークルのメンバーになった。花壇のアジサイの花が珍しいとえらく気に入ってくれたので、切って差し上げた。挿し木用の枝も差し上げた。そうしたら、家の整理で花瓶を処分したいが持ってくるという。自転車に括りつけてお持ちになった花瓶を見たらそれはお盆状の花瓶だった。「これは剣山が要るなあ」と思わず言ってしまった。「いや、生け花用のスポンジがあるから剣山がなくても大丈夫だ」とすぐに言い足したが遅かった。今朝25日、交流館の入り口に「剣山もらってください」と新聞紙で包んだ小さな包みが置いてあった。開いたら2個の剣山が入っていた。

 

 少しずつ「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」もご近所に知られてきたように思う。どうということのない、ご近所どうしのお付き合いを作ること、そしてそれを広げていくことが「交流館」の4つの目的を支える土台になると考えて来た。開館して2か月だが、そのことがゆっくりゆっくりだが根を伸ばしている感触を実感している。

 

 

 

 

 

7月23日(木)雨、時々強く降る。室温、24℃。半袖だが長袖の方が良かったか。

 尖閣諸島を中国当局の監視船が毎日日本の領海内を航行しているという。NHKのニュースで元自衛隊幹部の話しとして中国は尖閣諸島を中国が事実上支配している実績を作り、日本から尖閣諸島を奪い領有化することが狙いだと報じていた。また、中国の報道官が記者会見で中国の領海で日本漁船が不法に漁をしていると非難した。 中国がフィリピン、ベトナム沖の海で領有権を主張し、軍の基地を新設したりして軍事力で実効支配を広げている行動に軌を一にする行為と思われる。 NHKの報道の仕方はある程度は「力で対抗すべきだ」という論調のように見えた。

 

 私は「力で対抗する」に賛同しない。明確に言えば「力で領有権の主張はしない」。漁業に関して言えば双方が立ち入りを認め合うという立場に立ちたいが、中国が認めず、更に武力を増強するようなら、その場合は事実上、尖閣諸島の領域から撤退するのが上策と思う。

 

 戦争に明け暮れたヨーロッパ各国はEC(欧州共同体)を30年前に設立して、漁業に関して言えば漁獲量を船ごとに決めているとある。国どうしの領海侵犯という概念はない。中国、日本(韓国・北朝鮮含めて)にECのような東アジア共同体連合をめざす理念の持ち合わせがあれば尖閣諸島の領有を力で主張し合うような問題は起きないだろう。

 

 国の領有を現在の150年前から1945年までの75年間、アジアで力(軍事力)で主張し、国境線を変え、朝鮮半島、中国東北地方(旧満州)、台湾を無理やり支配し、そこに住む人々を従わせてきたのは日本である。日本が軍事力で屈服させたときにそれぞれの国民がどんな気持ちを味わったのか、今になって私たちは知らされようとしているのかもしれない。だとしたら、巡り合わせというしかない不幸なことだ。

 

 領有され支配され長い間日本の圧政に耐えた国々の今の発展ぶりを見ると、勝ち負けで言うことは不適当かもしれないが、いずれが勝利しいずれが敗北したと言えるのだろうか。はっきりしていることは、戦争などせずに手を繋いでいれば、今よりはるかに前進発展した東アジアが現出しただろうということである。

 

 私の結論は明確である。領有したいなら領有させるが良い、である。いずれ、未来のいつか、漁業で言えばどこの国の漁業者も仲良く領海など気にせずに仲良く漁に精を出せる日が必ず訪れる。それが歴史の必然と思う。争っても何の得もない。ましてや人の命を犠牲にするような価値は全くない。

 

 

 

 

 

 

 

7月18日(土) 今日も雨。室温23℃。長袖にジャンパーを着ている。

 この頃、昼となく夜となくうるさいほどだったホトトギスの鳴き声を聞かない。私は武蔵村山に居住するまで50年間、ホトトギスの鳴き声を聞いたことがなかった。つまり、ここに住んで初めてその声を聞いた。トウキョウトッキョキョカキョクと鳴くとかテッペンカケタカと鳴くとか言われていたので初めて聞いた時に、すぐにホトトギスと分かった。一方、生まれ育った山形県庄内地方や、長く暮らした新潟市で同類の鳥と言えばカッコウである。初夏に爽やかに高らかに鳴く。その鳴き声はこちらの気分も晴やかにしてくれた。そして、山形や新潟ではホトトギスの声を聞いたことがない。一方、ここ武蔵村山でカッコウの鳴き声を聞いたことがなかったが、シルバー人材センターの掃除仕事場の大南東公園で、今年になってカッコーと鳴く声が聞こえるではないか。ホトトギスと棲み分けをしているのかもしれないが懐かしく、嬉しく聞いた。ホトトギスが止まっているところを見たことはないが、カッコウは高い木でもてっぺんに止まって鳴く。その姿も颯爽としている。写真左がカッコウ、右がホトトギス。見分けがつかない。

カッコウ ほととぎす に対する画像結果

 7月のNHKの世論調査の調査項目に「敵基地攻撃能力を持つべきかどうか」という設問があった。持つべきが40%、持つべきではないが42%と拮抗している。いわゆるイージスアショアの設置が撤回されて、変わるべき軍備の議論で先制攻撃ができる軍備を持つべきかどうかの議論が自民党で勇ましい方向で進んでいるらしい。私は行方を本当に危惧している。

 1930年代、日米英の戦艦保有の軍縮会議で10(英米)対7(日本)を貫くか10対6.5で妥協するかで政府・日本軍(海軍)内で熾烈な内部闘争が展開された。結局6.5となった。これが5.15事件、2.26事件の抗争の一因にもなった。軍事力の議論では軍はいつも増強を主張するし、往々にして勇ましい方が優勢になる。軍縮派は弱気で及び腰に映る。あの時の結果は戦争を拡大する方向に向かい悲惨な結末に到った。

 軍事力は国民の命を守ったか!と問われれば武器で国民は守れなかった!と言わなければならない。戦勝国と言われる英仏にせよ多くの国民が命を落とした。 武器が(軍隊が)国を守るなどということは全くの幻想である。武器は国民の命を危険にさらすだけと歴史から学ぶべきだと私は思う。

 私が政権の政治家であったら、仮にも他国軍隊に攻めこまれたら迷わずに降伏する。絶対に戦争には持ち込まない。言うまでもないが、その覚悟で戦争を回避する外交交渉をするだろう。そしてあらかじめ全世界に向かって伝える。わが国は胸を張って降伏すると。何より自国国民の命が大事であり、相手国国民の命も大事だと我が国は宣言するだろう。それでも相手国は殺戮するかもしれないが最善の方法で避ける手立てを模索実行するだろう。日本の占領、圧政に耐えた韓国、台湾の戦後の復興と躍進を見れば、日本の軍事力はただただアジアの憎しみを買っただけだったと言わなければならない。戦争とは何と愚かだったかと。それが75年間、アジア各地に軍隊を送り戦争を続けた日本が得た平和を確保する歴史の教訓ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

7月17日(金)朝から雨。室温22℃。

 17日の新聞の死亡広告に坂東克彦さんの名前があった。新潟水俣病、熊本水俣病を弁護士として闘った。感慨に耐えない。新潟にいた頃、集会に行くとよく見かけた。引き締まった精悍な顔立ち、それでいて優しい表情、亡くなったと思うと本当に寂しい。闘士と呼ぶにふさわしい人生ではなかったか。生涯を弱い人に寄り添い、筋を曲げなかった。坂東さんの人生に心から拍手を送りたい。後輩から「あっぱれ!」を贈らせていただきたい。本当にご苦労様でした。あの世で坂東さんの背筋のピンと張ったあの姿とお目にかかりたいと思います。87才・老衰とある。あと15年生きていれば私もその年になる。

 

 日生協企業年金基金から「支給期間満了に伴う老齢給付金(年金)支給終了予定のお知らせ」が届いた。10年間いただいた年間233,100円の支給が終わった。年収の12%がなくなる。分かっていたとはいえ痛い。若い人たちの年収や年金を思うと贅沢は言えない。それでも我が身になれば悲しいなあと思う。妻と一緒に倹約しながらつましく生きたいと思う。

 

 今日は金曜日で「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は休館日。雨がなければ午前中は大南東公園の掃除作業だったが延期になった。この雨が上がったら昨日に続いてチラシ(PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・通信)の戸配に行くつもりでいる。午前中に市役所に行って市長さん(秘書課)、市議さん(議会事務局)、観光課にチラシを渡してきた。観光課は担当者が不在だったが「村山うどんを食べる会」の取材を要望して来た。

 

 我が家には4匹の猫がいる。3匹はオスで兄弟、一匹がメスで恐らく写真のトラ模様の猫と父親が同じ妹猫ではないかと思っている。トラ模様がそっくりだからだ。オス猫兄弟の母親は「しろ」と呼んで美人猫だった。ガラス戸の外にちょこんと座って無言で餌をねだった。その愛くるしさに負けて時々餌をやったら、家の中に上がるようになり、遂には私のベッドわきに子を産んだ。その子猫の飼い主探しが大変だったこともあり、妻が近くの動物病院で「しろ・写真右」の避妊手術をした。子を産んだらしばらくして「しろ」は姿を見せなくなった。我が家に出入りしていた時に赤い首輪をつけたが、何年かして別の赤いリボンをつけてひょっこり顔を見せたが、以来行方不明である。オス猫3匹は「しろ」の忘れ形見なのだ。猫たちは性格が兄弟でもまるで違う。基本仲が良いが時々双方が猫パンチしている。猫のおかげで妻と二人だけではない生活がある。妻も私も猫に時々話しかけ、なでてやり、叱りしながら心の癒しと潤いをもらっている。

 

7月16日(木)曇り。室温25℃ 半袖で過ごす。

 久しぶりに雨のない朝。「チラシ配布ができる!」。昨日の念力が天に通じたらしい。朝食と毎朝の掃除やお祈り・ルーチンを済まして、朝6時半、リュックに水筒とチラシ200枚入れ、手提げ袋にもチラシ100枚と対象地の中藤4丁目、3丁目、神明2丁目の住宅地図も入れて出発した。配布は4月、5月に次いで3回目。今日の配布地の東西の端は狭山丘陵に繋がる坂道状の地に住宅が広がっている。幅が4~500mの盆地状の地形。地域名を谷津(やつ)というように両側から水が集まる。青梅街道東側(交流館は西側にある。東側は住宅ばかりで商店もなくチラシ配布前まで私には用事のない地域だった)の神明側の小路に入り途中から現在地が分からなくなる。交流館から直線なら200m位らしいがチラシ配布前は立ち入ったことがない。えいやっ!の精神で構わず配っていたら中藤地区会館が向こうに見える。やっと分かった。交流館まで2~3分の距離にいた。自治会で顔見知りの女性が稲荷神社でお祈りしている。「迷ってしまって」と声をかけチラシを手渡した。じいっと読んでくれていた。9時前に我が家に戻る。230戸ほど配布できた。明日は午前中は公園掃除の仕事日、午后に配布できれば500戸は行きたいものだ。そうすれば土曜日までに900戸の配布が終わるだろう。がんばるぞ!!

 

 我が家のカーポート脇の大島桜の木。向かいの家に迷惑な大きさになり已む無く2年前に下から2m位を残して切ってもらった。少しでも残しのたは妻の父親が植えた桜でもあったし、花がきれいで通りがかりの人に良く褒められたから。その桜が今年は芽を出さない。枯らしたらしい。切った職人の見込み違いだろうが夫婦で本当に気落ちした。チラシ配布を終え、戻ったら「桜から新芽が出ている!」と妻が言うではないか。「おお、生きてた!」私も駆け寄って見に行った。そうしたら新芽ではない。羽化の途中のセミではないか。遠目に薄緑は新芽に見えた。ぬか喜びだった。午後に見に行ったら羽根が茶色になり始めたが羽化が終わっていない。大丈夫だろうか。こんなに時間がかかるものだろうか。

 

 東京の感染者が280人台になると昼のテレビが報じた。たじろぐスピードで拡大している。どうなるのか不安な気持ちが広がる。緊急事態宣言の時よりも切迫した恐ろしさを感じている。少なくともGOTO旅行!の気分には到底ならない。状況は日々変化する。予想される種々のパターンに臨機応変に対応予定の政策を都や国は私たちにあらかじめ示して欲しい。私たちが心に余裕をもって対応するには様々な心構え、準備が必要だ。ところが都や国も右往左往するところを見ると、選択できる複数のロードマップの持ち合わせはないように見える。だとしたら本当に恐ろしいことだ。非常時ともいえるこの場で言うのは悲しく不幸だが政権担当能力が現政権には無いということになる。

 だとしらだが、ある種嘆いても解決しない。昨日も書いた。彼らには頼れない。私たちは提示された不十分な情報しかないとしても、自立して、自分で流れや方向を判断し、やることを自分で決めていくしかない。本当に覚悟せねばならない。

 私たちには求めれば仲間たちがいる。情報を交流し交換しながら、行く道を一緒に助け合い探して行こうではないか。生業を離さず、生き方を工夫し、生き抜いて行こうではないか。私自身、畑も、公園の仕事も、妻・子どもたち・甥や姪との生活のつながり、そして「PTSDの日本兵と家族の交流館」、「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の活動を目を見開いて続けて行こうと思う。多くの友人たちに支えられながら!負けてはいられない。生き抜かねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

7月15日(水)今朝も雨。室温22℃。長袖でちょうど良い。

 11日に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」通信をメールで160人(メーリングリスト以外で)に送信、昨日14日61通を投函した。印刷は10日以上前にできていたので交流館周辺の戸別配布に行きたかったが毎日が雨。片手で傘をさして、もう一方の手でチラシを入れた手提げを持ってでは郵便受け箱に差し入れが難しい。それにチラシが濡れて汚れる。今朝こそと4時半ごろに起きだして準備したが止まないので断念した。明日は晴れて欲しい。近所周辺900戸配布するぞ!

 

 8月23日(日)の「村山うどんを食べる会」の支度を進めている。コロナ感染は止まない。都も政府も経済に舵を切ったまま猛進姿勢。あとは野となれ山となれ! 意見を聞く専門家メンバーや根拠の数字も都合よく変えたり、理由を説明しなかったり、不誠実極まりない。本当に当てにできない人たちだと思う。庶民は少ない情報でも自己判断して、最大限のウィルス対策をしながら暮らしを立て、生き抜くしかないようだ。

 私も計画した予定、準備した活動をみなさんに支えられながら進めていくつもりだ。人口7万人の武蔵村山市は東京都内で唯一鉄道の駅がない不便都市。それが幸いしたのか2か月以上感染者はゼロでtotalでもわずか2名。「村山うどんを食べる会」は予定通り実施すると決めました。

 やるからにはクラスター発生地になる訳にはいきません。あちこちに電話してフェイスガード50組を昨日用意しました。一組328円でした。皆さんからの寄付金残高で十分賄えました。心から感謝いたします。写真のような簡単なものですが、うどんを食べながら会話も可能です。子どもも大人も使えます。使用後は洗浄し消毒して複数回使用できそうです。会場は換気は十分できるのでマスク、手洗い、手指消毒などを参加者の皆さんにご協力いただければ実施可能と準備を続けます。

 

 交流館東側の道路に面した花壇はグラジオラスとひまわりが花盛り。ところが数日前からそれらの葉っぱが虫食い状態。今朝よく見たら、長さ2㎝程のしょうりょうバッタの子どもが一枚の葉に一匹という状態。葉の裏側を見たら毛虫もいる。毛虫は他所に移動させたがバッタは数が多いし殺虫剤はかわいそう。当分、このまましかないかなと思う。困ったなあ。

 

 政治への苦言は際限ないほどあるが今朝の朝日新聞。「コロナ禍医療者の待遇悪化。患者減、各地で経営悪化相次ぐ」。看護師や介護職員の労働組合(医労連)の調査では夏季一時金が昨年比3割の施設で支給月数が下がったという。コロナ感染に協力した病院ほど、病室やベッドをコロナ患者に割り当てたので、一般の患者が受け入れられずに診療報酬が減少し、結果経営が悪化しているのだ。  これっておかしくない!? 「ありがとう」とブルーインパルス飛ばしたり、拍手したりで済ましたりでは政治ではない。給付金事務を下請けに回すだけで20億円も懐に入れる企業を作り出しているのも政治。お金の使いどころが違うでしょ!何を基準に政策を決め、政治しているの!?皆さん、忘れないようにしましょう。また、そのうち選挙が来ますから。

 

 

 

 

 

7月14日(火)朝から雨。長袖。室温24℃。

 今年の梅雨は毎日雨が降る。一日のどこかで必ず雨になる。昨年は逆で日照りが続いた。連日、朝晩、畑の水遣りをしてようやくさつま芋だの、きゅうりだの、なすだのの命を保った。それがないのは助かるがお日様が顔を出さない、日照不足になり野菜たちには不健康だ。野菜だって陽の光りを浴びたいに決まっている。一方、雑草はどんどん生える。草取りしようにも毎日雨ではなかなかできない。雨の合間に出かけても泥だらけになる。

 

 野菜が美味しい。何か月か前にNHKテレビで玉ねぎをレンジにかけて食べさせられたゲストが「経験した事のないおいしさ」と絶賛するのを見て、以来わたしも真似をして種々の野菜を適度の大きさに切ってレンジで(800w×3分)温野菜にして毎食食べている。すっかり定番・やみつきになった。玉ねぎ、人参は果実顔負けに甘い。なす、トマトも甘い。いんげん、ピーマンも美味しい。特筆すべきはきゅうりである。これまできゅうりは生食か漬物で食べるのがせいぜいでどうしても畑で採れた物がどんどんたまった。それがオリーブオイルとマヨネーズで食べる温野菜サラダにしたら青臭さがない食べやすい野菜になる。

 

 6月に8歳の小学生3人が来館した時に、アーサービナードさんの紙芝居を読み聞かせた。私自身読んでいて子供向けだが「理解するには難しい」と感じた。彼らは戦争も原爆も知らない。かろうじて「広島は知っている」と言っていた。思いついて中藤地区会館内の図書館に先週出向いて探してきた。あるわあるわ書棚にびっしりある。探したが「あいうえお順」レコードのように刺して並べているので一枚ずつ取り出して見るしかない。せめてジャンル別に並べてくれればいいのにと思った。また。絵本の類もたくさんあった。こちらは背表紙で題名が見られるのでまだ探しやすいが、作者別の陳列で絵本作者の知識がないのでこれまた探しづらかった。と言いながら、今度の子どもたちの訪問者の為に10冊ほど借りて来た。10日にかりて日経ったが子どもの来館者はあの日以降は一人もいない。ただ、11日の土曜日にあの時来館してくれた子どもの一人が児童館の帰りに友達と通りかかり「23日のうどんを食べる会に来まーす!」と声をかけて家に帰って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7月10日(金)朝から時々雨。
 本来、今日はシルバー人材センター仲間3人で市内大南東公園の掃除作業の日だったが、月曜の降雨に次いで今日も中止(延期)の電話が6時55分にリーダーから届いた。残念だ。
下記の通り断固たる決意で「みんなの食堂・村山うどんを食べる会」の実施を決めました!
「村山うどんを食べる会」
必ず実施します!
 
 昨日9日東京都では224人,今日10日は243人のコロナ感染者の発表がありました。都や国から真新しいメッセージはありません。為政者が経済に切った既定路線を変える意思がないのは明確です。政治に携わる人たちには、情報をオープンにすること、丁寧な説明、感染予防、罹患者への医療提供を責任をもって進めてもらいたいと思います。
 
 私たち庶民は「自衛、自活、自己判断」で生き抜くステージに入ったと私は理解しています。都や国の指示の可否是非をとやかく言っても自分の命と生活は守れません。
か細い情報ですが自分の判断で、種々の催し、電車バス・商店の利用など主体性を発揮してコロナ時代を生き抜きましょう!
 
 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は現在の状況なら「みんなの食堂・村山うどんを食べる会」を実施することを決意しました。
 
 幸い人口7万人の武蔵村山市のコロナ罹患者はトータル2人で、2か月以上感染者は出ていません。東京都とは言え安全地域と言えます。参加希望の皆さんは最大限の自己対策(手洗い・マスク着用など)の上、お出で下さい!
 当館もビニール幕の遮蔽物の設置、アルコール消毒液、手洗い所の用意をしています。
 
コロナ時代を自分らしくたくましく
庶民の知恵で生き抜きましょう!
生活を楽しみましょう!

 

 

 

7月9日(水)曇り、時々強い雨。

 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は、コロナ以前なら15人くらいなら一度に普通に入れると思うが3密を避ける新生活を考えると半数の8人くらいがせいぜいと見える。それらの考慮してテーブルの真ん中に遮蔽物を作ることにした。畑から農業用ビニールを持ってきて測ると横幅が140㎝ある。

 ロフトあたりからテーブルまでが140㎝。丁度良い。これまた農業用支柱を使い、張り付けて下げると、スーパーや市役所で見る遮蔽幕として使用できそうだ。

 と言う訳で、9日の朝仕事で写真のようなビニールカーテンが出来上がった。これなら、向かい合って話しても全く気にならない。我ながらグッドアイデア!

 

 

7月6日(月)朝からほぼ雨。室内27℃。

 NHKの大林信彦監督の50分のドキュメンタリーを録画(7月5日に放映)で視聴した。彼は4人の後輩の監督に映画の未来を託したという。犬童一心60才、岩井俊二57才、手塚眞58才、塚本晋也60才の4人である。番組では託された4人が大林さんについてそれぞれが単独で種々語る場面を繋いで展開される。大林さんは4人に何を託したのか、彼らは大林さんから何を託されたと思っているのか。

 大林信彦さんは1938年生まれ。今年、2020年4月9日に肺ガンで亡くなった。82才だった。遺作は「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」。コロナ感染で中止になったが亡くなる翌日の4月10日が封切予定だった。戦争がテーマという。彼は2011年の東日本大震災と原発事故をきっかけとして、この世に残す物・メッセージ、言わば遺作を意識したようだ。そして太平洋戦争(日中戦争)をテーマとする作品を立て続けに世に送り出した。彼は言う「原発も戦争も人が起こした物。しかしだれも責任を取らない。」人の愚かさを口にする。現代に忍び寄る戦争の気配を感じ取る。「未来がまずいんじゃないの?」歴史的に現在の時代を彼は「戦前」ととらえる。

 

 大林さんは広島県尾道市で子ども時代を過ごし、時代の教育風潮で「軍国少年だった自分には戦争反対という権利はない」。しかし「戦争やだー」とは言える、と語る。「戦争に過ぎるほどおびえた方が良い。戦争にはおびえなくてはいけない」と言う。彼には戦争が迫りつつあるという危機感がある。彼には次世代の人たちの姿が心の中に見えると言う。どういう景色だろうか。「映画を繋いで平和な世の中へ」とも言う。

 遺作映画の主人公のセリフ「青春が戦争の消耗品だなんてまっぴらだ」。最終シーンで観客たちが手をつなぎ走りながら叫ぶ「それをハッピーエンドにするのが我ら観客じゃー」。先のセリフは大林さんの「戦争やだー」の叫びであり、後の叫びは「観客の皆さんに託ましたよ」というメッセージであろう。

 大林さんは「過去は変えられない。しかし、映画には未来を手繰り寄せる力がある」。「ハラハラどきどきしながら楽しく学ぶ事ができるのが映画だ」「映画で未来を変えようよ」と映画の可能性・力を確信している。

 

 彼は2年前に余命が半年一年の切迫した肺ガンであることを遺作「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」の製作開始日の会見で公表した。おそらく、現世に残すべきメッセージの全てを余すところなく最終作に込む覚悟だったと思われる。

 後輩たちに彼は言う「自分は戦後派の映画人だが君たちは戦前派の映画監督なのだ」。深く心に沁みてくる言葉と思う。としたなら、私・黒井秋夫もまた「戦前派の活動家」という意識も持つ必要があるのだと思う。大林さんの頭の中には「次の戦争をいかにして止めるか」という問題意識、使命感があった。そのことに憑かれたように直近の数年を超人的なエネルギーで作品を作り続けた。そして、戦後派の自分の使命から次世代の人たちに戦前派としての仕事を託した。「誰に対する怒りも消えています。戦争への怒りだけが爆発している」大林さんは言う。その言葉は澄んだ仏の心のように響いてくる。

 2~3日前、私に便りが届いた「戦争体験者の孫世代が何人か集まったら、いつか当事者のグループを作ってみたいと思っています。その際は、ご協力いただけましたら嬉しいです」とあった。この文面に接した感動は言い表せない。

 2年半前にPTSD従軍兵の子ども世代の私は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げた。その私は2か月後の8月で72才になる。病と共存する身でもある。私の代でこの活動を絶やす訳にはいかない。それが願いだった。だからこそ「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を急いで作った。「孫世代の会」を作ろうとする人がいる。ふさわしくないかもしれないが心で快哉を叫んだ。なんとか未来が見えて来た。次世代として引き継ぎたいとする人が名乗りを上げてくれた!

 

 並べて書くのは気が引ける。しかし、大林さんが4人の後輩に後を託した気持ちが分かるような気がする。自分の生きた時代、自分の体の状態、時代から感ずる予感・危機感、自分には何ができるのか、後の世代に何を託するのか!

 大林さんの言葉を借りさせてもらう。「誰に対する怒りも消えています。戦争への怒りだけが爆発している」。私もようやくその感覚が理解できる。

 

 東京都知事選挙で小池さんが圧勝した。それが2020年7月の民意であり民度なのだ。そのことをしっかり受け止めたいと思う。適切かどうかは分からないが、私もまた「誰に対する怒りも消えています。戦争への怒りだけが爆発している」。誰彼を非難したり嘆いても何も変わらない。声を上げ続けること、諦めず、とどまることなく半歩ずつでも進んで行くこと、手を広げ繋ごうとする人たちの手を握り返すこと、そのことだけが少しずつでも世の中を変えて行くのだと思う。さあ皆さん、手を広げ前を向き歩いて行きましょう!

 

 

「今日のひとこと」バックナンバーは

ブログ「今日のひとこと」をご覧ください。

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の

展示パネル・資料を順次紹介いたします。

パネル①

    黒井慶次郎・初徴集(20歳)の軍服姿の写真。

 

   黒井慶次郎の軍歴。従軍、転戦した戦地の地図。軍曹に昇進するまでの経歴。

 

   履歴申立書。軍人恩給申請の為の書類と推測する。

 

   黒井慶次郎が「満州事変記念フォトアルバム」に記載した「鉄道守備隊の任務」「上官の訓示及演習記録」の文章。

 

★展示資料の説明文

 

戦後,復員兵・黒井慶次郎は従軍体験に口を閉ざし、何ごとにも無口で一日中話さず、定職に就く意欲も無かった。“戦争神経症”の状態だった。復員前とは別人に変わった!

 

 

 

黒井慶次郎は31歳の時に伍長、33歳で軍曹となる。

 

10人~20人の兵士を指揮する立場にいた。

 

銃弾、砲弾の飛び交う戦場で部下に指揮命令しただろう。

 

進駐した武漢、宜昌は“敵”中華民国政府のある重慶に対峙する日本軍の最前線だった。

 

しかし、復員後の父黒井慶次郎は部下を鼓舞したり臨機応変に指揮命令できた人物のかけらもなかった。

 

一家に起こる問題解決全てから逃げて妻と長男に放り投げていた。きちんと働かず、定職に就こうという意欲も無く、一日中を無口で通し、特に戦争の事には口をつぐんだ。

 

部下を指揮命令した軍曹時代の面影などどこにもなかった。

 

自分が教育され信じた「天皇を拝する神の国、不敗強国、アジアの指導者日本」は帰国したら、GHQ指揮下で自分の長男は、命をかけた自分の従軍人生を全否定する黒塗り教科書(人間天皇、民主主義)で教育される日本だった。

 

黒井慶次郎は戸惑い、何が正しいのか何が間違いなのか、生きて行く羅針盤を持てなかった。口をつむぐしかなかった。働く意欲を失った。戦争の後遺症、“戦争神経症”を発症した。従軍前とは別の人間になった。

 

パネル②

①初徴集で大連港に上陸した写真。写真への父の添え書き。

②戦死した中隊長参拝記念の写真。写真への添え書き。

③”匪賊討伐”の皇軍写真。写真への添え書き。

④戦車の写真。写真への添え書き。

黒井慶次郎について(1912年3月14日生まれ)。

 

①“戦争神経症”発症前の父親。「昭和維新」に同調する若者だった!

 

★満州事変(193198日)の翌年、5.15事件が起きた1932年、父・黒井慶次郎は20歳で初徴集される。日本国内は5.15事件首謀者の助命嘆願運動が盛り上がった。

 

★写真『大連上陸()』の父の添え書き(193211月記す)。

 

・『昭和6918日満州事変勃発。昭和71130日午前1時、満蒙第一線へ勇み立つ我等若人をのせた陸軍宇品丸は大連に入港した。午前8時甲埠頭九番バースに横付、午前八時半上陸。憧れの満州の地に第一歩を印した』

 

・『昭和6918日!それは同胞九千萬厚生の記念日。昭和維新の第一日であらねばならぬ。南嶺城頭の血庫に斃れたる勇士!それは同胞救生の先駆、昭和維新史をかざる導士でなければならぬ』

 

★小作農の9人兄弟の9番目の父親は、大恐慌後の農村の窮乏を救う考えも持っていたとされる昭和維新思想を体現した5.15事件(1932515日勃発)等に強く同調していたと思われる。20歳代の父は「同胞救生の先駆=窮乏する農民を救う活動家」「満蒙第一線へ勇み立つ我等若人・・・憧れの満州の地に第一歩を印した」とメモしたように若者らしい快活で正義感あふれる行動的な人間だったと推測できる。

 

 

 

②黒井慶次郎について(1912年3月14日生まれ)。

 

“戦争神経症”発症前の父親。

 

南満州鉄道を守る独立守備隊として従軍した。アルバムの添え書き

 

には若者らしい使命感に燃えた勇ましい言葉が並ぶ。

 

『帝国の生命線を死守する軍人僕の姿である』『我(が)討伐隊は進む』『堂々と進む我(が)戦車の偉容』『匪賊討伐に従事』

 

★復員後、一日中話さず、定職につかず、対外的なことは母や兄に押し付け逃げた父親とは別人である。

 

★従軍体験の戦争神経症により、別の人格の人間になったと理解すればつじつまが合う。

 

 

 

③戦後の復員兵・黒井慶次郎は従軍体験に口を閉ざし何ごとにも無口で一日中話さず定職に就く意欲も無かった。“戦争神経症”の状態だった。復員前とは別人に変わった!

 

黒井慶次郎はなぜ“戦争神経症”を発症したのか?父親はなぜ精神を壊したか?

 

★GHQ(敵国)の支配する日本に復員した。自分が信じた(洗脳された)正義・価値観との巨大なギャップに遭遇した。

 

★命をかけた従軍体験を完全否定する黒塗り教科書で自分の長男(黒井秋夫の長兄)が教育されている日本に復員した。

 

★何が正しいのか、間違いなのか心に落とせなかった。理解できなかった。落ち着いた精神状態に戻れなかった。社会順応できなかった。

 

 無口になるしかなかった。仕事に就く意欲を失った。

 

★“戦争神経症”の基盤は中国での加害者としての戦争・戦場体験。部下や同僚の死に対する直接間接の責任などが考えられる。

 

 

 

★昭和維新 以下(ウィキペディアより)

 

1930年代日本で起こった国家革新の標語。 1920年代から1930年代前半にかけては、戦後恐慌世界恐慌による経済の悪化、排日移民法張作霖爆殺事件などによる国際社会の不安などから、軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を誤っている(と彼らには見えた)元老重臣ら側近達への憎しみも凄まじい。代表的事件として五・一五事件二・二六事件が挙げられる。

 

日本最初・唯一の

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は

4つの目標をめざしています!

 ★戦争・平和の

学習会にお呼び下さい!

語り部(お話しする人)を

黒井秋夫がつとめます

黒井秋夫は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」代表です

PTSDの日本軍兵士の負の遺産は

家族に連鎖して現在も続いています!

 ☆学校で・労働組合で・何人か集まって・全国どこでも

どんな集まりでも、どんなに少人数でもお伺いいたします! 

 

・会場費、印刷費用は主催者でご負担をお願いいたしますが、

 交通費含めてその他の費用はかかりません。

 ・相談・申し込み・お問い合わせ先

 🏣208-0001 武蔵村山市中藤3-15-4

・代表 黒井秋夫 ☎080-1121-3888 qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp

 

6おしゃべりカフェ

 

2020年8月23日(日)開催!

 

語り継がれない経験はくり返す!

 語り継いで未来の命を守りたい!

 

従軍者への思いや戦争について

 

話したいことを、持ち寄り、語り合い

 

若い世代に受け渡しましょう!

 

 従軍した父親や祖父の

 

思い出を交流しましょう!

 

その心中を考えてみましょう!

 

2020.8.23 10:00~17:30(予定)

 

定員60名。資料代500円。

 

参加希望の方は予約をお願いします。

 

お茶を飲みながら語り合いましょう!

 

 

 

予定するプログラム  

 

9:45受付開始 参加者名簿に記帳願います。

 

  資料代として500円いただきます。

 

10:0012:00 BS1スペシャル

 

 「隠されたトラウマ~精神障害兵士8002人の記録」を見ます。

 

12:0013:00 休憩 昼食を用意します。予約をお願いいたします。 

 

13:0013:30 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」

 

         活動内容をお話しします。  

 

13:3015:10 研究者の講演

 

あるいは従軍者の家族が体験を話します

 

     (講演者・お話しする人は20207月頃にお知らせします) 

 

15:3016:45 「おしゃべりカフェ」

 

         従軍した父親の思い出など話し合い、交流します。 

 

17:0017:30    コンサート。

 

子どもから大人まで楽しめます。ほっと一息!

 

18時頃~   懇親会。楽しく交流します。ぜひご参加ください!

 

 ★2020年8月23日(日)武蔵村山市中藤地区会館

 

武蔵村山市中藤3-16  付近にコンビニ、食堂はありません。

 

★カレーライスの昼食を用意します!(要予約)

 

     お茶・お菓子用意します。持ち込みも大歓迎。

 

問い合わせ先 080-1121-3888(黒井)

 

詳細は逐次お知らせします。

 

おしゃべりカフェで

 

  大事にしていること  

 

・お互いどうし、個人それぞれの考えを尊重します。

 

自由な発言を保障します。

 

・他の人の発言を途中でさえ切ったり、

 

異なる意見でも頭から否定はしません。 

 

・相違点よりも話し合いで共通点を探します。

 

和やかで楽しい交流の場をめざします。

 

・参加者どうしが友達になれる「おしゃべりカフェ」を作ります!

 

 2019年度日本記者クラブ特別賞受賞!

BS1スペシャル「隠された日本兵のトラウマ

を視聴した感想をお寄せください。

順次ホームページに掲載させていただきます。

送り先・アドレス

qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp

 

「1000人アンケート」にご参加を!

 

★戦争にいかれた親族、お知り合いは復員後どのような生活・暮らしをお送

 りになりましたか?

いま思い出して「もしやPTSDの影響ではなかったか?」というような 当たりはありませんか?

 

随時集約して、結果をおしらせします。

 

 

2019.12月8日(日)

第5回「おしゃべりカフェ」を30人の参加で『ホームの武蔵村山市中藤地区会館』で開催しました。

5回目と会を重ねるごとに和やかなおしゃべりと交流が広がっています。

遠くは神戸市、愛知県岡崎市から大学生など若い参加者も!

若い世代に語り継がれています。受け継がれていくでしょう!

拉孟戦、戦友会の講演者の遠藤美幸さんは「おしゃべりカフェ」にも加わり大いに盛り上がりました。

8月に続いてコンサートも開催。今回はメンバー4人の「タコス」!心癒される演奏に参加者も大満足でした!

終了後は黒井宅に場所を移し、タコスの皆さんも参加して懇親会。話の輪と交流がさらに広がりました♬(^^♪。

 次回は2020.8.23(日)です。

多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

 

2019年8月25日(日)

「おしゃべりカフェ」に46名が参加しました。

北村毅さん、室田元美さんの講演、北川直実さん、遠藤美幸さん、星野泰久さん、西中誠一郎さんの発言をいただきました。その後、参加者どうしのお話合いと交流、カクテル―チェさんのコンサート、最後は和やかな懇親会で、大成功の「おしゃべりカフェ」となりました。次回は12月8日(日)日中戦争が日本軍の真珠湾攻撃でさらに戦線拡大したメモリアルの日に開催いたします。

多くの皆さんの参加をお待ちしています。

 

★2019年3月17日(日)23名の皆さんが参加されました。  

 武蔵村山市 さいかち地区会館で開催しました!

従軍した父親の思い出を全員が語り合い、耳を傾けました。

放映したBS1スペシャルにも登場する研究者の中村江里さんから兵士のPTSDについてコメントをいただきました。

下写真。2018年10月14日、2回目の学習・交流会に20名が参加しました。研究者、中村江里さんから参加いただき、お話しいただきました。

下写真・2018年5月13日、初回の学習・交流会に9名参加。



新着情報

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」通信20.8.1号 (日, 02 8月 2020)
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信濃毎日新聞(時の顔)、北海道新聞(ひと)に掲載されました。 (Sun, 02 Aug 2020)
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7月のホームページ訪問者数をお知らせします。 (Sun, 02 Aug 2020)
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「村山うどんを食べる会」開催案内 (Tue, 28 Jul 2020)
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イベント情報

10月14日、幼児遊び部屋あります。
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「市民のひろば」に掲載されました!
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2018年5月13日 学習・交流会の様子


ブログ

父と暮らせば

ETV特集「隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録」
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父と暮らせば(19)「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」ができた理由
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父と暮らせば(18)「独立守備隊従軍の時の父の戦闘記録」その2
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黒井秋夫の父の従軍時の写真


読書紹介

見過ごされたトラウマ・今朝の朝日新聞31面
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「朝日川柳」
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祝・完成

「交流館・武蔵村山お茶飲み処」展示の準備作業中

 

交流館村山お茶飲み処、見学できます

NHK「隠された戦争のトラウマ」放映中!

 

開館を祝う会510日)は延期します。

感染が落着き次第

再度日程をお知らせします!

コロナに負けず頑張りましょう!

 4月12日(日)会代表・館長・黒井秋夫の予定。

今朝の武蔵村山は曇り空、12日は黒井はおおむね終日在館予定です。

母屋への行き来などで席を外している場合でも会館は開いています。

 

4月4日は散歩途中の人が立ち寄り、1時間も話し込むことになりました。5日は谷津自治会の役員会帰りの人、バス待ちの人がお茶を飲んで行ってくれました。また犬の散歩の女性の方はおしゃべりカフェの「イベントなどの日はお手伝いできますよ」と言ってくれました。6日は終戦時に予科練生だった90歳の方が話し込んで行きました。出身が山形市とのことで黒井と同郷です。また、4月24日は研修としての見学予約も入っています。広がっていくのを実感しています!

 

 新型コロナウィルスの感染で510日の開館を祝う会と懇親会は延期しますが、コロナ感染が落ち着いて安心して開催できる環境になったら再度お知らせします。どうぞ楽しみにお待ちください。

コロナに負けず頑張りましょう!