北海道新聞で当会の活動が紹介されました!

6月18日(木)北海道新聞 

各自核論のコーナー 「戦後75年」で

大阪大学大学院准教授 北村毅さん

「家族にも苦しみの連鎖 帰還兵のPTSD問題」の寄稿文の中で

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」と

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」について

紹介いただきました。全文は以下の通りです。

 

戦後75

家族にも苦しみの連鎖

帰還兵のPTSD問題

大阪大学大学院准教授 北村毅

この数年、アジア太平洋戦争の帰還兵の心的外傷後ストレス障害(PTSD)について、中村江里著『戦争とトラウマ』の刊行やNHKのETV特集『隠されたトラウマ』の放映などにより社会的関心が喚起されるようになった。そもそもPTSDという概念自体、ベトナム戦争の帰還兵の研究から始まった通り、トラウマ研究は戦争と密接な関係にある。

一方で、近年の海外のトラウマ研究では、帰還兵の家族に特徴的にみられる派生的なトラウマにも注目が向けられ、帰還兵のPTSDが家族に対する暴力(ドメスティック・バイオレンスや虐待)を増大させ、子どもの心理的発達を損ない、後続世代に連鎖する可能性が指摘されている。戦争は、不適切な養育を増加させ、コミュニティや家族の機能に深刻かつ長期的なダメージを与えるのである。「二次トラウマ」という言葉で家族に対する影響を捉える研究者もいる。

ピュリツァー賞作家のデール・マハリッジさんは、それを「戦争の二次被害」と呼ぶ。グアム戦や沖縄戦に従軍した海兵隊員の子どもである彼は、『日本兵を殺した父』と題する本の中で、自らの成育環境について「どこか異常だった」と振り返っている。

彼の父親は、復員後、別人のように「無口で陰気」な性格へと激変し、4年間も「飲んだくれの廃人」になってしまった。その後結婚し、マハリッジさんなどが生まれたが、常に「底しれぬ怒りを抱えていた」という。「怒りの悪魔」に取りつかれ、暴力衝動が湧き起こると手がつけられなくなったというが、家族はその矢面に立たされ続けた。

父親の死後、マハリッジさんは、「父の怒りの正体」を解き明かそうと、父親が所属した中隊の戦友などへの聞き取りを始めたが、その過程で「怒りの悪魔」に取りつかれたのは彼の父親だけではなかったことを知る。ある父親の戦友は、「殺しても殺しても死なないモンスターがいる」「そいつが毎日現れるから、壁を殴りたくなる」と語った。結婚後も生活を立て直すことができなかった彼は、妻や子を自殺で失ったという。

父親の戦友の多くが、復員後、悪夢、フラッシュバック、パニック障害、アルコール依存症などに苦しみ、怒りや暴力を自制できず、家族関係にトラブルを抱えていた。家族にも話を聞く中で、「涙をこぼす未亡人、いまは亡き父親の戦争体験に私以上に苦しむ子どもたちもいた」という。マハリッジさんの言葉を借りれば、「銃声や砲声がやんでも、従軍兵士とその家族にとって戦争は決して終わらない」のである。

ひるがえって、同じ戦争の一方の当事者である日本では、このような「戦争の二次被害」はなかったのだろうか。私はこれまで、戦争体験者やその家族から生活史や家族史を聞いてきたが、その経験からいえることは、日本の帰還兵家族の戦後もまた、同じような苦しみに満ちていたということである。

沖縄戦から復員後、何年間も「頭が完全に空っぽ」で、何もする気が起こらなかったと語ったのは、三重県出身のKさんだった。戦後長い間、仕事にも身が入らず、何をどうしたらいいのか先が全くみえない「虚脱状態」の中で、何度も自殺を考えたという。

結婚して、3人の子どもに恵まれたKさんだったが、「自分はひどい親父だった」と繰り返していたのが印象的だった。「軍隊意識」が抜けずに、幼い息子を柱に縛り付けたり、殴ったりしたことを後悔し、子どもに謝りたいと語っていた。今のKさんの落ち着いた語り口と温厚な風貌からは思いもよらない話だったが、Kさんの暴力で耳を悪くした息子さんは、今なお父親に心を閉ざしているという。

数百万の帰還兵家庭のほんの一例であるが、このように原因不明の心身不調やPTSD症状に苦しんだり、家族に暴力を振るう元兵士は少なくなかった。昭和の日常風景として描かれる頑固親父の「ちゃぶ台返し」も、そのような観点から見てみると、また違った風景として見えてくる。

最後に、一昨年「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が結成され、当事者のためのネットワークが形成されつつあることについて触れておきたい。同会代表の黒井秋夫さんもまた、帰還兵である父親との関係に悩まされた当事者の一人であるが、その経験をホームページや講演会で伝える活動を始めたところ、同会には帰還兵の子どもや孫から相次いで体験談が寄せられるようになった。

この問題の根深さに気づかされた黒井さんは、東京都内の自宅敷地に、帰還兵家族が体験を共有し、情報交換する拠点となる交流スペースを建設し、先月開設した。父や祖父が体験した戦争から75年以上が経過した今、戦場から帰ってきた父や祖父について知り、自身の家族関係の根源を探り当てようとする当事者の運動は始まったばかりである。

 

★きたむら・つよし 1973年旭川市生まれ。早大大学院博士後期課程修了。専門は文化人類学。主著に「死者たちの戦後誌」(お茶の水書房)。同書で沖縄タイムス出版文化賞。沖縄文化協会賞、渋沢賞を受賞。

 

 

 日本最初・唯一の

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」が

5月9日の開館前日から6月30日で

63人の皆さんに来館いただきました!

ご自分の歴史や戦争への考え、ご体験などお話しされました!!

  

★コロナウィルス感染予防のため

マスクを着用し、事前に手洗いの上、ご来館をお願いいたします。

「交流館・村山お茶飲み処」でも手洗所と消毒液は用意しています。

 

交通手段・開閉館カレンダーなどは上にある

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処

ご利用案内ボタンをクリックしてご覧ください!

 

最新ニュース!

 

みんなの食堂 村山うどんを食べる会

5月10日の開館を祝う会は緊急事態宣言のため断念しましたので

代わりのお披露目もかねて計画しました。

皆さんから早くも反応があり、楽しいイベントの申し出も来ています!

都県を越えた移動が可能な状況が続くことを願っています。

当日は隣接する中藤地区会館も借りています。

大人数は難しいですが詳細は少しずつご案内いたします。

みなさん、よろしくお願いいたします!

美味しい村山うどんに舌鼓を打ちましょう!

 

 

 

 

日本最初・唯一の

 

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」

 

5月10日(開館日)~6月30日

 

63名の皆さんに

 

ご来館いただきました!!

 

武蔵村山市35名 東大和市10名、立川市4名 

 

瑞穂町2名 都区内10名 埼玉県 2名

 

ご来館ありがとうございました!

 

 

 

PTSDの日本兵と家族の交流館村山お茶飲み処」は

 

めざします!

 

     PTSDの復員日本兵と暮らした家族」たちの情報発信。

 

      PTSDの復員日本兵と暮らした家族」の安らぎの場。

 

      子供たちと保護者の皆さんに戦争体験を語り継ぐ場。

 

      みんなの食堂・手芸サークルで高齢者と子どもの笑顔  

 

溢れる交流を作ります。

 

      武蔵村山の名所になりましょう!

 

 

 

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」

 

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」

 

毎日新聞・5月10日

 

朝日新聞・5月11日

 

北海道新聞・6月18日

 

報道されました!!

 

 

 

8月23日(日)

 

みんなの食堂

 

村山うどんを食べる会

 

開きます!

 

みんなの食堂」は定期的に開きます。

 

お手伝い募集!交流館受付にお声掛けを!

 

 

学習会・交流会を開きませんか!

 

★テーマ 平和・戦争・PTSDの日本兵と家族など。

 

★黒井秋夫が語り部(話し手)を務めます。

 

・「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」代表

 

・「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」館主

 

★全国どこでもOKです。交通費・宿泊費含め費用はかかりません。

★参加者が2人以上なら、どんなに少人数でも喜んで出かけます。

 

 ★申し込み・お問い合わせ

 

・連絡先 🏣208-0001 武蔵村山市中藤3-15-4

 

・黒井秋夫 ☎080-1121-3888  qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp

 

・「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」HP   https://www.ptsd-nihonhei.com

今日のひとこと

7月6日(月)朝からほぼ雨。室内27℃。

 NHKの大林信彦監督の50分のドキュメンタリーを録画(7月5日に放映)で視聴した。彼は4人の後輩の監督に映画の未来を託したという。犬童一心60才、岩井俊二57才、手塚眞58才、塚本晋也60才の4人である。番組では託された4人が大林さんについてそれぞれが単独で種々語る場面を繋いで展開される。大林さんは4人に何を託したのか、彼らは大林さんから何を託されたと思っているのか。

 大林信彦さんは1938年生まれ。今年、2020年4月9日に肺ガンで亡くなった。82才だった。遺作は「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」。コロナ感染で中止になったが亡くなる翌日の4月10日が封切予定だった。戦争がテーマという。彼は2011年の東日本大震災と原発事故をきっかけとして、この世に残す物・メッセージ、言わば遺作を意識したようだ。そして太平洋戦争(日中戦争)をテーマとする作品を立て続けに世に送り出した。彼は言う「原発も戦争も人が起こした物。しかしだれも責任を取らない。」人の愚かさを口にする。現代に忍び寄る戦争の気配を感じ取る。「未来がまずいんじゃないの?」歴史的に現在の時代を彼は「戦前」ととらえる。

 

 大林さんは広島県尾道市で子ども時代を過ごし、時代の教育風潮で「軍国少年だった自分には戦争反対という権利はない」。しかし「戦争やだー」とは言える、と語る。「戦争に過ぎるほどおびえた方が良い。戦争にはおびえなくてはいけない」と言う。彼には戦争が迫りつつあるという危機感がある。彼には次世代の人たちの姿が心の中に見えると言う。どういう景色だろうか。「映画を繋いで平和な世の中へ」とも言う。

 遺作映画の主人公のセリフ「青春が戦争の消耗品だなんてまっぴらだ」。最終シーンで観客たちが手をつなぎ走りながら叫ぶ「それをハッピーエンドにするのが我ら観客じゃー」。先のセリフは大林さんの「戦争やだー」の叫びであり、後の叫びは「観客の皆さんに託ましたよ」というメッセージであろう。

 大林さんは「過去は変えられない。しかし、映画には未来を手繰り寄せる力がある」。「ハラハラどきどきしながら楽しく学ぶ事ができるのが映画だ」「映画で未来を変えようよ」と映画の可能性・力を確信している。

 

 彼は2年前に余命が半年一年の切迫した肺ガンであることを遺作「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」の製作開始日の会見で公表した。おそらく、現世に残すべきメッセージの全てを余すところなく最終作に込む覚悟だったと思われる。

 後輩たちに彼は言う「自分は戦後派の映画人だが君たちは戦前派の映画監督なのだ」。深く心に沁みてくる言葉と思う。としたなら、私・黒井秋夫もまた「戦前派の活動家」という意識も持つ必要があるのだと思う。大林さんの頭の中には「次の戦争をいかにして止めるか」という問題意識、使命感があった。そのことに憑かれたように直近の数年を超人的なエネルギーで作品を作り続けた。そして、戦後派の自分の使命から次世代の人たちに戦前派としての仕事を託した。「誰に対する怒りも消えています。戦争への怒りだけが爆発している」大林さんは言う。その言葉は澄んだ仏の心のように響いてくる。

 2~3日前、私に便りが届いた「戦争体験者の孫世代が何人か集まったら、いつか当事者のグループを作ってみたいと思っています。その際は、ご協力いただけましたら嬉しいです」とあった。この文面に接した感動は言い表せない。

 2年半前にPTSD従軍兵の子ども世代の私は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げた。その私は2か月後の8月で72才になる。病と共存する身でもある。私の代でこの活動を絶やす訳にはいかない。それが願いだった。だからこそ「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を急いで作った。「孫世代の会」を作ろうとする人がいる。ふさわしくないかもしれないが心で快哉を叫んだ。なんとか未来が見えて来た。次世代として引き継ぎたいとする人が名乗りを上げてくれた!

 

 並べて書くのは気が引ける。しかし、大林さんが4人の後輩に後を託した気持ちが分かるような気がする。自分の生きた時代、自分の体の状態、時代から感ずる予感・危機感、自分には何ができるのか、後の世代に何を託するのか!

 大林さんの言葉を借りさせてもらう。「誰に対する怒りも消えています。戦争への怒りだけが爆発している」。私もようやくその感覚が理解できる。

 

 東京都知事選挙で小池さんが圧勝した。それが2020年7月の民意であり民度なのだ。そのことをしっかり受け止めたいと思う。適切かどうかは分からないが、私もまた「誰に対する怒りも消えています。戦争への怒りだけが爆発している」。誰彼を非難したり嘆いても何も変わらない。声を上げ続けること、諦めず、とどまることなく半歩ずつでも進んで行くこと、手を広げ繋ごうとする人たちの手を握り返すこと、そのことだけが少しずつでも世の中を変えて行くのだと思う。さあ皆さん、手を広げ前を向き歩いて行きましょう!

 

 

7月5日(日)曇り、時々雨。半袖でちょうど良い。

 東隣の中藤地区会館が東京都知事選挙の投票所。多くは車だが歩いて「交流館・村山お茶飲み処」前の道路を通る人も多い。5月10日の開館以来、これほど多くの人がここを通ったことはない。出窓や入り口の掲示板、看板を見入って行く人もいる。会話が聞こえるが、「金、月が休みか」とか建物の存在を知っている人も多いと感じた。

 

 

 6月27日(土)朝日新聞書評欄に「5.15事件 中公新書」が掲載された。私も興味を持ち読んだが以下記したい。

 

 5.15事件は最近私の関心事の一つである。いわゆる昭和維新の思想を実践体現した著名な事件だからです。1912年生まれの私の父は5.15事件の時は20才。その年の暮れに初めて徴集され、11月30日に大連港に上陸している。この時の写真が「満州事変記念フォト」としてアルバムに保存されており、写真の横に「満蒙第一線へ勇み立つ我等若人をのせた陸軍御用船宇品丸は大連に入港した。・・・憧れの満州の地に第一歩を印した」とメモを記している。また次のような記載もある「昭和6年9月18日!それは同胞九千萬更生(*生まれ変わること・黒井)の記念日、昭和維新の第一日であらねばならぬ。南嶺城頭の血庫に斃れたる勇士!それは同胞救生の先駆、昭和維新の導師でなければならぬ(*赤字は黒井)」。

 これらのメモ書きから、父は「昭和維新」という思想に同調していたと思われるし、満州(開拓)にも並々ならぬ興味を持っていたようだ。

 世界恐慌の余波とコメの不作が重なり1930年頃の農村は困窮疲弊していた。若い女性の身売りも多数発生した。コメは当時、反当り2俵の収穫が平均でその6割は税金と小作料として国と地主の物だった。米価も恐慌前の半分に下落した。農村の人々が生活苦から時の政府や財閥、大金持ちに不信や不満を募らせ、政治の変革を望んでいたということは容易に理解できる。

*昭和維新(以下、ウィキペディアより)1920年代から1930年代前半にかけては、戦後恐慌世界恐慌による経済の悪化、排日移民法張作霖爆殺事件などによる国際社会の不安定化などから、軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を誤っている(と彼らには見えた)元老重臣ら側近達への憎しみも凄まじい。代表的な事件としては五・一五事件二・二六事件が挙げられる。

 私の父は小作農民の9人兄弟の9番目だった。20歳ころの父親は自分の環境、将来をどう見ていただろうか。同年代の女性たちが都会に身売りされる様子も見聞きしただろう。コメの価格は半分に暴落し、その収穫の半分以上は国と地主に取られる。9人兄弟の9番目が小作人で生きて行けるはずもない状況で、おそらく夢も希望も自分の周辺環境ではどこにもなかったと想像される。彼は当時推奨された「満蒙開拓」や国家の改造「昭和維新」に希望の光を見ていたと「満州事変記念フォト」の写真へのメモは示しているように思う。彼は20歳の発徴収から途中の5年は内地に帰還したが34歳まで元満州・中国を戦場とする日本軍兵士として過ごした。1946年6月に復員した時、「昭和維新・満蒙開拓」の夢や憧れは父の心の中でどのような変遷をたどっていたであろうか。様々な抱いた夢も破れかなわず帰還したのではなかったろうか。

 

 戦後の父は無気力な人間に変質し、元の職場、田川炭鉱には戻らず、日雇い労働者の道を歩いた家族の生活は貧しかった。

 

 「5.15事件 中公新書」は私には物足りない。5.15事件は新聞報道もあり、実行した若い兵士たちは次第に英雄視され助命嘆願運動が国民の大きな支持を得たとされる。それは上記のような当時の日本の困窮した農村の窮乏を救おうという考えも行動目的に含まれていたからであろう。若き父も又そこに夢の一部を託したと思われる。私が物足りないと感じたのは、5.15事件が国民の大きな支持を受けた社会状況があまり語られないことである。事件が軍部が政治への関与をさらに強める土壌を作るきっかけになったこと、言って見れば軍部独走を国民が後押し、戦争への道を更に拡大した発端と言える事件だが、その国民感情の醸成をもっと書いて欲しかったと思う。「昭和維新」という思想や行動に父が惹かれた理由をより知りたいと私は思っている。

 

 

 

7月2日(木)気持ち良い快晴。暑くなりそう。

下記のようなニュースを(実際の印刷物はプラスして、北村毅さんの「帰還兵のPTSD問題」と「館主・黒井秋夫の一日」のA4版2枚加えたA3版裏表です)1000枚印刷しました。「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」周辺1,000戸には戸別配布、武蔵村山市長、副市長、市議会議員、観光課にお渡しします。60通を郵送します。また、250人の皆さんにメール送信いたします。

 

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処通信20.7.10

 

6月30日開館以来6月30日で63名の来館者!感謝でいっぱいです!感謝申!

 

武蔵村山市35名 東大和市10名 立川市4名 瑞穂町2名 都区内10名 埼玉2名

 

 

どなたでも入館・見学できます!お気軽にお茶飲みに来てください!

 

★日本最初・唯一の「PTSDの日本兵と家族の交流館村山お茶飲み処」はめざします!

 

①「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」の声、情報を開示、展示、発信します。

 

・「PTSDの日本兵」に関する研究資料、書籍、映像、新聞報道などを展示、放映します。

 

  510日の新聞報道後「父親のPTSDに苦しんだのは私だけではないと分かりました」の電話が複数ありました。「PTSDの日本兵と暮らした家族」の心の傷が癒される交流を続けます。

 

子供たちと保護者の皆さんに地域の高齢者が戦争体験を語り継ぐ場にします。

 

戦争体験を紙芝居など使い分かりやすくお話しする場を提供・企画します。

 

みんなの食堂・サークル活動で高齢者と子どもたちの笑顔溢れる交流を作ります。

 

・サークルなどの活動場所に提供します!「よもやま話しに花が咲く」お茶飲み処にします!

 

日本最初で唯一というのが誇らしい。武蔵村山の名所になるでしょう!

 

旧満州から帰国した女性からのお手紙にありました。そんな名所にしたいですね。

 

 

★当会の202011日~630日 支出入をお知らせします。

 

引き続き皆さんのご支援を宜しくお願い申し上げます!

支出項目

収入項目

 

 

会場使用料

5200

 

 

 

用紙・印刷代

17902

 

 

 

郵送・切手代

30,456

 

 

 

交通費

20780

 

 

 

文具・物品

26439

 

 

 

会費・参加費

5000

 

 

 

その他・雑費

300

 

 

 

 

 

カンパ

229150

残高

合計

106077

 

229150

123,073

 

★ご支援の振込先口座名義 PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会

 

★ゆうちょ銀行からの送金(郵便振替用)ゆうちょ銀行口座。

 

・記号    11390・番号 21576251

 

★ゆうちょ銀行以外からの送金 (内国為替用)ゆうちょ銀行口座

 

・店名 一三八(イチ サン ハチ)・店番138 ・普通預金(口座番号)2157625

 

8月23日(日)11:0013:00

 

みんなの食堂

 

村山うどんを食べる会開催

 

510日の開館を祝う会は緊急事態宣言のため断念しましたので

 

代わりのお披露目もかねて計画しました。詳細は少しずつご案内いたします。

 

皆さんから楽しいイベントの申し出も来ています!

 

開場 「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」と周辺。

 

料金 大人200円 小中学生は無料

 

お手伝いをお願いいたします。交流館までお知らせください。

 

参加予約は08011213888(黒井)まで!飛び入り歓迎しますが!

 

みんなの食堂は8月以降も開催します!

 

★「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」案内。

 

行き方の詳細はHPをご覧ください!

 

★所在地 東京都武蔵村山市3-15-4 ★武蔵村山市中藤地区会館の西側道路の向かいです。

 

★西武バス(立川駅北口⑧番、東大和市駅①番)イオンモール行・三ツ橋で下車、徒歩1分。

 

★都バス(花小金井駅、東大和市駅)青梅車庫行・三ツ橋で下車、徒歩1分。

 

★武蔵村山市コミュニティーバス(上北台駅)どこ行きでもOK・神明2丁目で下車、徒歩4分。

 

開館日  火曜日~木曜日 土曜日・日曜日 ★入館は無料です。

 

開館時間 10時~17時。12時~13時は昼食のため閉館しますが継続見学は可能です。

 

休館日   月曜日 金曜日 

 

★当分の間、6人まで一度に入館可能です。7人目からはお待ちいただきます。

 

連絡先 黒井秋夫 08011213888 ホームページ https://www.ptsd-nihonhei.com

 

208-0001武蔵村山市中藤3-15-4 ★メールアドレス qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp

 

コロナに負けずに頑張りましょう!

 

このお知らせは「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」周辺900世帯に配布しています。

 

武蔵村山市の市長さん、副市長さん、20人の市議会議員さん、観光課にもお届けしています。

 

このお知らせは報道各社にもメール配信しています。

 

 
6月30日(火)朝から雨が時々降っています。予報では強くなるとのことです。
今日のテーマは館主の一日です。
朝5時前に起き出します。
 6時半までは居間と台所の2台のラジオを聞きながらルーチンが始まります。洗面が済むと洗面ユニットを洗剤とスポンジで洗います。トイレ掃除も私の分担です。「交流館・村山お茶飲み処」の来館者用に母屋のトイレと手洗い場所を解放しているので私の毎日のルーチンになりました。
 済んだら健康診断です。血圧、血糖値、脈拍数をノートに記入します。10年前から糖尿病対策に血糖値測定を毎朝始めたのがきっかけです。10年続いています。2015年の前立腺ガンの全摘手術後にひどい尿漏れに苦しみ、尿漏れ量も改善するまでその後半年ほど記入しました。そして血圧測定値を加え、昨年末の心房頻拍の手術後は脈拍数も記入しています。
 サイクルが妻とは違うので朝食は1人です。ここ4カ月は写真のパターンです。800w、3分の温野菜サラダ。自家野菜が増えました。なす、とまと、きゅうり、いんげん、南蛮、玉ねぎ、にんじんなどなど。たまねぎ、にんじんがめちゃくちゃ甘い。オリーブオイルとマヨネーズの味付け。ヨーグルトとナッツ。生姜湯、味噌汁。そして最近は妻特性の山形の「だし」を乗せたご飯が美味しい。そして500ccの水。
 
 そのあと、仏壇に祈ります。3年前にキリスト者のFさんに勧められ始めました。
「妻と今日も仲良く楽しい一日を過ごす事ができますように。妻が機嫌よく鼻歌を一日中歌っている一日でありますように」から始まって、病気の友人たちと兄嫁の完治、娘夫婦や孫娘、甥や姪、その子どもたちが楽しい一日を過ごせますように」などとお祈りします。自分への言い聞かせ。一種の自己暗示ですが確かな効用があります。小心なのにカッとしやすい私ですが、その瞬間に「一呼吸」おけるようになりました。気まずい「言い合い」は殆んどなくなりました。まあ、いさかいの原因の大部分は私にあったということですね。そうなると好回転のサイクルで、本当にこの頃、妻は時々鼻歌を歌っています。
 その後は小型で扱いやすい充電掃除機(娘夫婦からの交流館開館祝い)で母屋と交流館の掃除です。我が家は半野良の猫が4匹いるので猫の毛を掃除機がたくさん吸います。垣根の根元に処理する毎朝、その量に驚きます。これが終わると大体7時頃です。
 今朝はその後、200mほど離れた狭山丘陵の高いところにある8アールの畑作業でした。主には草取り。きゅうり、なす、いんげん、小松菜、名称不明の菜っ葉、ゴーヤ、枝豆、あずき、とまと、落花生、ねぎ、にら、さつま芋、里芋、かぼちゃ、ジャガイモ(山形庄内では・にど芋と言う)、えんどう(庄内・よど豆。新潟下越では・さんど豆)、いちごを育てています。金柑、八朔、柚子、びわ、キウイ、いちじく、杏も実をつけます。お茶の木が縁にあり今春も新茶ができました。みょうがも出てきます。グラジオラスとひまわりも植えました。はまゆうが咲いています。作業は9時まで。帰宅して作業道具を洗います。地下足袋などは梅雨で一日で乾かなくなりました。2足必要です。その後「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の10時開館に備えます。
 
 毎週月曜日と金曜日は交流館の休館日ですが、その月金は、私はシルバー人材センターの仲間3人で市内大南東公園の掃除の日です。8時から12時まで4時間の仕事です。落ち葉は秋のものと思っていましたが、常緑樹は新芽が出るのと交代で春に葉を落とすと、この仕事をして初めて知りました。蟻も大中小、たくさんの種類がいることも知りました。
 また、月に4回ほど午後5時15分から10時15分まで東隣の中藤地区会館の管理人の仕事もしています。それら併せてシルバー人材センターの配分金が3万円くらいの収入になります。年金(だんだん減っている!)200万円とシルバー人材センターからの収入が生活費の全てですが年間数回、元の職場コープ共済連から職員学習会の講師の仕事が入って臨時収入になることもあります。
 
 土日、火・水・木は「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の開館日で10時~17時。休館日の月、金はシルバー人材センターの公園掃除日になります。交流館の開館日でも開館時間前2時間は畑仕事。これが私の毎日のルーチンです。
 言って見れば「労働者生活」と言えるでしょう。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」活動と「労働する」生活、この二つのどちらにも偏らずに、ずうっと続けて行く。そのような生活の人生を送ること。そうありたいと思っています。
 それは尊敬する阿波根昌鴻さんのような生き方を目指したいと願っていることに通じています。生きることが即ち、ある種の闘いでもあるような。そのようにして息を引き取る。いま、思うことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月27日(土)一日中曇り。蒸し暑い、というべきか。28℃で冷房中。

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の玄関前、カーポートに目印の看板を出している。そこには「お茶・コーヒーあります。無料」と書いてある。交流館の東隣は学童保育・児童館なのでしょっちゅう子どもたちがふざけ合いながら通っていく。今日は土曜だが3時過ぎに子どもたちが通りかかる。そのうち男の子3人が「こんにちわ」と言って入ってきた。「お茶を飲んでいくならお菓子食べられるよ」と私。

 

アーサービナードさんの紙芝居「ちっちゃいこえ」を読んでみた。広島の原爆の話し。主人公は猫。紙芝居に「細胞とか原爆」が出てくる。細胞って解かる?」と聞くと「解らない」。「原爆って知ってる?」には「爆弾のこと?」。「広島は?」「知ってる」との答え。3年生、8歳には少し難しかったようだ。もう少し品ぞろえしよう。最低10作品位は欲しい。

  

5月10日の開館以来60人越えの来館者が子どもたちだった。「みんなが60人目だよ!」が一番受けた。手をたたいて喜んだ。

 

 

 

6月23日 沖縄慰霊の日 沖縄全戦没者追悼式で朗読された「平和の詩」の全文を掲載します。

声を出し読み上げたら何度となく涙があふれだしました。一気には読む事ができませんでした。

 

 

 

あなたがあの時

 

沖縄県立朱里高等学校3

 

高良朱香音(たから あかね)さん

 

 

 

「懐中電灯を消してください」

 

一つ、また一つ光が消えていく

 

真っ暗になったその場所は

 

まだ昼間だというのに

 

あまりにも暗い

 

少し湿った空気を感じながら

 

私はあの時を想像する

 

あなたがまだ一人で歩けなかったあの時

 

あなたの兄は人を殺すことを習った

 

あなたの姉は学校へ行けなくなった

 

あなたが走れるようになったあの時

 

あなたが駆け回るはずだった野原は

 

真っ赤っか  友だちなんて誰もいない

 

あなたが青春を奪われたあの時

 

あなたはもうボロボロ

 

家族もいない 食べ物もない

 

ただ真っ暗なこの壕(ごう)の中で

 

あなたの見た光は、幻となって消えた

 

「はい、ではつけていいですよ」

 

一つまた一つ光が増えていく

 

照らされたその場所は

 

もう真っ暗ではないというのに

 

あまりにも暗い

 

体中にじんわりとかく汗を感じながら

 

私はあの時を想像する

 

あなたが声を上げて泣かなかったあの時

 

あなたの母はあなたを殺さずに済んだ

 

あなたは生き延びた

 

あなたが少女に白旗を持たせたあの時

 

彼女は真っすぐに旗を掲げた

 

少女は助かった

 

ありがとう

 

あなたがあの時

 

あの人を助けてくれたおかげで

 

私は今 ここにいる

 

あなたがあの時

 

前を見続けてくれたおかげで

 

この島は今 ここにある

 

あなたがあの時

 

勇気を振り絞って語ってくれたおかげで

 

私たちは知った

 

永遠に解かれることのない戦争の呪いを

 

決して失われてはいけない平和の尊さを

 

ありがとう

 

「頭、気をつけてね」

 

外の光が私を包む

 

真っ暗闇のあの中で

 

あなたが見つめた希望の光

 

私は消さない 消させない

 

梅雨晴れの午後の光を感じながら

 

私は平和な世界を創造する

 

あなたがあの時

 

私を見つめたまっすぐな視線

 

未来に向けた穏やかな横顔を

 

私は忘れない

 

平和を求める仲間として

 

 

 

 

 

6月22日(月)梅雨らしく朝から雨。

室温24℃。

 今朝の朝日新聞4面・国際欄、隣人・『触れ合えば互いの心わかるはず』故李秀賢さんの母、辛潤賛さん(69才)の記事に私の言いたいことが書いてある。長くなるが以下引用する。

 

『韓国人留学生の李秀賢さん(当時26)が、線路に落ちた日本人を助けようとして死亡した事故から19年が過ぎた。それから毎年欠かさず日本を訪れる。多くの日本人と交流するうち、日本に抱いていた偏見が消え、物事を是々非々で眺めている自分に気がついた。‥‥略・・JR新大久保駅の現場で献花をしました。わざわざ私に会いに現場まで足を運んでくれた年配の日本人女性3人が、色紙に書いた手紙までくださいました。本当にありがたいことです。…略・・・私の知っている日本人と日本の政治家の態度には差があり過ぎて戸惑っています。・・・略・・・事故が起きるまで、私は日本を訪れたこともなく、歴史認識問題などでは日本に反感を持つ、ありふれた韓国人でした。事故の後に大勢の日本人と会ったお陰で、中立的に物事を見られるようになりました。日本にも韓国にも足りない点があると気がつきました。・・・略・・・色々な人と会って、多様な考えに触れることが大事です。韓国人の中に、日本に対する被害者意識があるのは事実ですが、触れ合えば触れ合うほど、お互いの心の中にしまっている考えも知る事ができると思います。・・・略・・・日本は元徴用工や元慰安婦らを傷つけたことを認め、しんしな気持ちで謝って欲しい。しんしな気持ちというのは、準備された原稿を読むようなものではありません。日本人女性が色紙にしたためた言葉のような、人間味が感じられる行動であってほしいと思います。・・・略・・・韓国と日本は隣同士です。断絶など決してできません。お互いに、色々な人とお付き合いを続けて行くべきです

 

 辛さんの心を変えたのは「わざわざ私に会いに、現場まで足を運んでくれた年配の3人の女性」のような(行動で辛さんの心を溶かした)多くの日本人と触れ合い出会ったからです。日本人と触れ合った見たら「本当にありがたい」ことをしてくれる人が日本人の中にもいると気付いたからです。つまり簡単なことです。韓国人も日本人も触れ合えば優しい人たちが沢山いる、触れ合えば仲良く付き合う事ができる、と辛さんは気付いたと私たちに教えています。

 

 本当にそうなのです。日本にせよ韓国にせよ触れ合うこともせずに、食わず嫌いのように、ただ政治家やマスコミの言う事を鵜呑みにすることから、自分の頭で考えてみようと私は言いたいのです。本当にそうなのか。全部がそうなのか。本当に敵なのか。仲良くする道はないのか。自分で考えてみれば、簡単に見えて来るものがあると思います。どこの国も全て一色ではない。アメリカにせよ日本にせよ、トランプ支持者がいれば、抗議デモに参加する大勢のアメリカ人がいる。安倍さんの支持率は30%前後しかない。過半数の日本人は違う意見を持っている。それは韓国も同じこと。文政権支持者もいればそうでない韓国人もたくさんいる。どの国も一色ではない。

 

 だとしたら、どこの国にも「みんな仲よくしよう。手をつなぎ平和をめざそう」という人たちが少数だろうが、表面的に今は身を潜めていたとしても必ずいると考えつくはずだ。私はそういう人たちと手を結びたい。諦めず、歩みを止めず、手を最大限に伸ばして手をつないでいきたい。いつの日かその歩みが多数の人たちの心をとらえ、世界を変える、花が咲く時が来ると信じています。

 

★辛潤賛(シン・ユンチャン) 1950年生まれ。亡くなった息子への見舞金を生かし、2002年に日本で学ぶアジア出身の留学生を助ける奨学会が発足。1月の命日に加え、10月の奨学金授与式の時期など、年数回の訪日を続ける。

 

 

6月21日(日)朝雨、のち曇り  当会の活動が下記書籍に紹介されました。

 

★県内市町村史に掲載された 

中国での戦争体験記を読む

~沖縄出身兵100人の証言

南京・沖縄をむすぶ会 沖本裕司

★発行日 2020年6月23日

編著者 沖本 裕司

 

連絡先 稲垣絹代 ☎090-8796-5112

                 沖本裕司 ☎090-1948-6673 

頒価 1000円

 

 

6月19日(金)終日雨降り。室温24℃、寒い

 日本軍兵士のPTSDの原因は入隊から除隊まで兵営内の上級兵士、古参兵士からの精神鍛錬と称する不断に加えられる暴力への恐怖を初めとして、戦場体験その物の恐怖も精神を侵される原因となった。人間を殺傷する体験の精神に与えるダメージは私には想像もできない。しかも相手が兵士ではなく武器を持たない一般人(農民、女性、子ども、老人)の殺傷体験だったとしたら終生ぬぐえるものではないように思う。

 戦場から帰還したとしても、敗残兵が温かく迎えられるような空気の日本ではなかった。英雄と称賛されるような戦後社会ではなかった。兵士たちの生死をかけた壮絶な体験にも心の内にも耳を傾けてくれる日本人はいなかった。戦場と帰国した日本社会とのギャップにも彼らは戸惑い苦しんだと思う。戦後社会に順応できずに「腑抜け、ふうてん、無気力」になった帰還兵も多数存在したことが分かっている。

 

 そういうPTSDの兵士たちの心の病を取り除く、ケアする組織も体制も生活の保障の用意も国にはなかった。ただ、そのまま放り出された。誰も面倒見てはくれなかった。精神を侵された兵士は「自己努力」を課されただけだった。

 

 PTSDの兵士たちはどうすれば兵役前の「健全な自分」に戻る方法を見つけられただろうか。兵士のPTSDは何をどうすれば解消できただろうか。どうすれば彼らの心を救う事ができただろうか。それは「自己努力」で解消できるようなことだったろうか。

 

 兵士のPTSDは日本が始めた戦争に元々の原因がある。戦争を始めた責任は彼らにはない。原因を作ったのは兵士たちではない。原因を作ってもいない兵士たちに「自己努力」を強いるのはお門違いだ。戦争を始めたことに責任のある人たちが、国が、軍が、「日本が始めた戦争」について正当なら正当と、間違いだったら間違いと帰還した兵士たちに(もちろん国民にもだが)彼らに強いた何年かの価値を、生きていたことの意味を説明する義務があったと私は思う。彼らが闘ったことの意味を共に確認することがPTSDの兵士たちの精神を解きほぐす一歩だったのではないだろうか。兵士たちにまっとうな生き方をしてもらうためには、彼らを交えて「戦争の時代」の功罪を、是非を、その価値を共有する必要があったと思う。まっとうな生き方の羅針盤を一緒に探す努力を、彼らへの優しさを持って欲しかったと思う。しかし、責任ある人たちはそうはしなかった。ただほおかぶりした。それではPTSDの兵士たちは救われない。私は兵士たちに(もちろん国民に)率直に間違いは間違いと詫びて欲しかった。心から謝罪してほしかった。病んだ精神を解きほぐす一歩はそこからなされるべきだった。

 

 彼らはただ放り出された。疲れた精神で、折れた精神で何ができただろうか。多くの兵士は戦争体験を沈黙して生きた。いかに「自己努力」しても次なる生き方の、人生の羅針盤はみつからなかった。

 

 

6月17日(水)朝から晴れ。  夕方17時50分 室温27℃

 コロンブス像が全米各地で破壊されている。https://www.cnn.co.jp/usa/35155134.html

Ridolfo Ghirlandaio Columbus.jpg

 コロンブスは1490年代にヨーロッパから西に回り西インド諸島に到達した。数度の航海で南米にも上陸した。いずれの地でも先住民を根絶やしにする虐殺の限りを尽くしたと歴史は教えている。その銅像が全米各地で引き倒されている。アフリカの黒人たちを奴隷としてアメリカ大陸に送り込んだ歴史、南北アメリカの先住民の生活基盤、文化を暴虐の限りを尽くして破壊し、今に繋がる南北アメリカにヨーロッパ人の文化、生活を反映させる礎となった先駆者がコロンブスだ。

 

 5月28日の「今日のひとこと」で私は次のように書いた。

ヨーロッパ人が地球が丸いことを証明し、航路を開き、アフリカ人を奴隷とし資源を力で奪い、アジアを植民地とし、アメリカ大陸の先住民の土地を奪い植民する歴史が、その先住民たちの対等な関係をめざす反撃に、500年後の子孫たちが遭遇していることに、暴力で押さえつけ築いた世界に揺り戻しの大きな歯車が回っていると感じている。暴力は関係する勢力が納得するまで平衡しない。そういう世界の流れが少しずつではあれ動いていると感じている。

 コロンブスの銅像を引き倒す行動の評価はもう少し時間が必要だ。しかし、5月28日に指摘した「平衡を求める力学」の一つの形態であることは間違いない。この動きに対して、ヨーロッパ人はどう動くのか。先住民の子孫はどう動くのか。暴力的行動、非暴力の行動、この先が私は気にかかる。

 このアメリカの動きは日本人にも深く関係している。明治以来の朝鮮、中国、台湾、アジア各国への侵略戦争、付随する侵略政策、暴力的統治をおこなった歴史的事実を国の責任として今だ明確にアジア諸国民に日本は謝罪していない。韓国、中国から指摘される徴用工問題にせよ、慰安婦問題にせよ、南京大虐殺にせよ、関東大震災時の朝鮮人虐殺にせよ、謝罪はおろか「そういう事実はなかった」などと言い張る政治指導者が日本中枢に存在している。そのような言い分は歴史の回天の中で正されることは必然だ。「平衡を求める力学」はアジアと日本との間でも働く。双方が納得いく地点まで地殻は動き続ける。

 今を生きる私たちが子どもたちや孫たちやその先の子孫に解決を任せて死ぬわけにはいかないと私は思う。アジアの人たちが上げている声に誠実に応える姿勢が必要だ。明確な謝罪、その気持ちが何より大事だと思う。私たちも私たちの子孫たちもアジアの人たちと、国々と手をつなげる関係、肩を組み合える関係、仲良く平和に暮らしていける関係、その為に何が必要なのか、どうしたらよいのか考え続けよう。声を上げよう。行動を起こそう。今からでも遅くはない。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
6月13日(土)
予報が外れ、時に強い雨が降り続く。室内は24℃だが外気温は20℃以下と思われる。寒い。
 
 6月6日、10日に続いて朝日新聞 2019年10月2日(水)「異論のすすめ」佐伯啓思への私の異論を述べたい。佐伯さんの核心を再度引用する。 『戦後日本は米軍の核の傘に依存して国家の安定や平和を維持してきた。その現実に目をつむり、対米従属という戦後日本の基本構造を問わない運動や思想は、本当のリアリティを持ちえない「ごっこ」に過ぎず虚構の中の遊びである』と佐伯さんは言う。 日本は先の戦争で連合国に敗北し米国の占領により、主体性を失い米国の属国になった。続いて 『対米従属から(米国の核の傘から)脱して自主防衛の国へと自立した時に「世界」というリアリティに直面し日本人のアイデンティティ「一身独立、一国独立の精神」が回復する』という。
 
 日本から米軍基地を取り除き日本国土の軍事力は自衛隊だけが存在する状況を、佐伯さんは自主防衛の国となり自立していると言い目指してい
るのだ。違う言い方をすると『米軍程度(恐らく核を保有した)の軍事力を持った自衛隊を作り上げ、日米安保を廃棄して米国のくびきを取り払えば、「一身独立、一国独立精神」の本来の日本が回復する。裸の日本になってこそ世界のリアリティに直面できるし「ごっこ」の世界ではなくなる』と佐伯さんは主張する。
 
 指摘したいことが二つある。一つはその事の現実性、特にアジア諸国が許容できることなのかということ。もう一つは「ごっこからリアリティを持つこと」の価値の意味である。
 「米軍程度の核を持つ自衛隊」の出現をアジアは絶対に許容しないだろうと言うのが最初の指摘になる。10日に述べたが明治維新以来、1945年以前は常に日本軍がアジアに戦争を仕掛け、日本軍を駐留する戦争状態で平和ではなかった。好戦的な日本の存在がこの時代のアジアの民衆の平和を脅かす元凶だった。日本が米軍と同等の軍事力を保有しようとしたら、アメリカからの抵抗以上の抵抗をアジアから受けることは火を見るより明らかなことではないだろうか。ある種アジアからしたら、米軍が自衛隊を抑えている方が安全と思うのではないだろうか。つまり、自衛隊が軍事力含めて米軍を排除して登場しようと言う事自体が、アジア民衆の感情からしても実現性の乏しい夢想「ごっこ」だと私は言いたい。佐伯さんこそリアリティの乏しい「ごっこ・虚構の世界」の遊びをしていると指摘したい。
 
 あと一つは「ごっこからリアリティを持つこと」の価値の意味である。佐伯さんの「ごっこではなくリアリティ」に対して私の想像力では好戦的な侵略的な日本しかイメージできない。逆に言うと世界と(特にアジア諸国と)仲良く、友好的な関係を作るというイメージが湧いて来ない。特にリアリティという言い方には「アメリカの後ろに隠れ守られているから感じていないが世界は甘いものではない」というようなにおいがする。佐伯さんの土俵に上がったとする。アメリカの庇護(私は米国が日本を庇護しているとは思わないが)から解放されるとリアルな世界に直面するらしいが、そのリアリティにどういう価値があるのか私には全く理解できない。うがった言い方かもしれないが「火遊びをしたい少年」の気持ちのようにしか私には思えない。私からしたらそのようなリアリティなどには何の価値も見いだせない。
 
 何度も言いたい。世界の人たちと友好な関係を作る努力をする。とりわけアジア諸国民と友好な関係づくりにまい進する。どの国とも、どの民族とも仲良くする。心から信頼してもらえる日本になる。私が日本に希望を持ちたいのはそういう日本だ。はっきり言う。佐伯啓思さんの夢想する「一身独立、一国独立の精神」の日本は見たいとは思わない。

 

 

6月10日(水)外はすでに真夏の気温。館内冷房中。それでも室温28℃

 6日に続いて朝日新聞 2019年10月2日(水)「異論のすすめ」佐伯啓思への私の異論を述べたい。 『戦後日本は米軍の核の傘に依存して国家の安定や平和を維持してきた。その現実に目をつむり、対米従属という戦後日本の基本構造を問わない運動や思想は、本当のリアリティを持ちえない「ごっこ」に過ぎず虚構の中の遊びである』と佐伯さんは言う。 日本は先の戦争で連合国に敗北し米国の占領により、主体性を失い米国の属国になった。ならば日本が自立した国家に復活するとは対米従属から(米国の核の傘から)脱して自主防衛の国へと自立した時だと言う。その時に「世界」というリアリティに直面し日本人のアイデンティティ「一身独立、一国独立の精神」が回復する時なのだ。佐伯さんがめざすのはそういう日本(世界)なのだ。

 

 一つ目に「戦後日本は米軍の核の傘のおかげで国家の安定や平和を維持してきた」を聞いたら朝鮮、中国、アジアの人たちはこう言うだろう。「1945年以来、日本が戦争を仕掛けてこなかったから私たちの国は平和だった」と。アジアの民の視点からすれば「日本が明治維新以来、常にアジアに戦争を仕掛けていたから、アジアにはいつも戦争があり平和がおびやかされた」と言わなければならない。

 つまり、戦後日本が平和だったのは「日本がアジア各国に戦争を仕掛けなかったから平和が保たれた」という簡単なことに行きつく。日本の明治維新以来のアジアで戦争が絶えなかった最大の原因は、朝鮮、中国、台湾、ロシアに「恒常的に日本が戦争を仕掛けていたから平和ではなかった」というのが事実だと私は思う。つまり、1945年前のアジアの平和を乱す元凶は日本の存在であり、その日本がここ75年間、アジア各国に戦争を仕掛けなかったから日本自身の平和も保たれた。これがまっとうな歴史家なら行き当たる結論ではないだろうか。つまり、私は米国の核の傘が日本の平和を守ったなどと考える前に、「日本が戦争を始めなかったから平和が保たれた」と考えることが日本人の教訓として抑えるべき事柄ではないのかと佐伯さんに言いたいのだ。

 

 『対米従属という戦後日本の基本構造を問わない運動や思想は、本当のリアリティを持ちえない「ごっこ」に過ぎず虚構の中の遊びである。対米従属から(米国の核の傘から)脱して自主防衛の国へと自立した時、その時に「世界」というリアリティに直面し日本人のアイデンティティ「一身独立、一国独立の精神」が回復する』と佐伯さんはめざす日本の将来像を提示する。

 分かりやすく言うと「1945年以前の日本の姿に戻れということだと私は理解する。また、1945年以降の日本人の生きざまを「ごっこ」と言い放ち、その価値を認めない考えだと私には思える。佐伯さんからすると「対米従属」に挑戦し「自主防衛」をめざさない一切の活動、行為、思想はリアリティーのない「ごっこ」だと映るらしい。

 戦後75年間をほとんどの日本人は「ごっこ」で生きてきたかもしれない。しかし「戦争のない平和な日本」で生活できたとすればどうして価値がないと言えるだろうか。ならば、「一身独立、一国独立の精神」の世の中にいた戦前の日本人の暮らしはどうだったというのだ。徴兵年齢に達すれば戦場に駆り出された。アジアに攻め込み多くのアジア人を殺害した。数えきれないほどの日本の若者が戦場に斃れた。その事に異を唱えれば牢獄に繋がれた。言論の自由もなかった。参政権も一部の男性にしかなかった。当時の日本こそ「世界の情勢と自分自身の力」を冷静に見ることも判断することもできずに国全体が「ごっこ」の幻想の中にいたのではないかと私は言いたい。

 『日本人のアイデンティティ「一身独立、一国独立の精神」』などと簡単に日本人のアイデンティティを決めないでもらいたい。そもそも、「一身独立、一国独立の精神」が戦前の日本人のアイデンティティと括ることにも学者らしくない軽率な結論だと私は思う。「万世一系の天皇が統治する神の国、無謬の国、アジア・世界をリードする国民」そういう歴史観、そういう国の国民なのだ教育された、国家が押し付けた国民像を日本人自身がたどり着いたアイデンティティと認めることはとても学者らしい科学的選択とは思えない。少なくとも私はそういうアイデンティティにはくみしない。

 私もいくつかの国を見て来た。日本人以外の色々な人たちと接して来た。どの外国でも嫌な思いをしたことは殆んどない。人たちは親切だった。優しかった。どの国の国土も風景も美しかった。同じように日本でも人たちは親切で優しく風景は美しい。親切も優しさも、逆に意地悪や嫌な思いは国や地域や人種や宗教の違いで異なるのではないと私は言いたい。様々な事情で意地悪や嫌な思いは起きてくる。日本だから外国だからということで特別視するのは真実を見る目を曇らせると私は思う。

 アイデンティティの捉え方にもよるが私はそういう特別な物・他とは違うものというこだわりは余り賛成しない。「誰彼と違う独自の精神」を特に日本とか日本人とかで言おうとするならば、明確に私は賛同しない。

 「サムライ」とか「精神力」とかそういう勇ましい言葉が語られる時には特に賛同できない。それよりも「優しさ」とか「思いやり」とか「平和」とか「仲良くする」とかそういう言葉で語られる日本の未来であって欲しいと私は思う。そのことが「アジアや世界の元凶」であったかつての日本には決して立ち返らない、立ち返らせない今の日本人に必要なのことではないだろうか。

 

 

 

 

 

6月6日(土)16:20現在 曇り 室温 28.6℃ 弱い風が時々室内にも入る。

 皆さんに室田元美さんの著作を読むことをお勧めする。ルポ悼みの列島(2010年)、ルポ土地の記憶(2018年)いずれも社会評論社。

 私は「土地の記憶」から入った。友人主催の学習会に室田さん本人も参加していて紹介された「土地の記憶」を買い読んだ。読み進むうちに深い感動があった。戦跡の保護活動、朝鮮・中国(強制連行含む)の労働者がその地域の工場、鉱山、軍事施設で過酷な労働を戦争中強いられ、多くの人たちが命を落とした全国18か所の事例を、その地域の人たちが語り継ぐ活動が紹介されている。

 私はその事実の殆んどを初めて知らされた。確かにそれらの活動はマスコミをにぎわすことはなかった。それゆえ、日本人の多くはその存在を知らない。  ①廃墟の島の歴史実話・長崎県軍艦島、伊王島 ②たなばたの夜、空から降ってきたものは・山梨県甲府の空襲 ③日中韓の若者たちと訪ねた、鬼伝説の山 京都府・大江山ニッケル鉱山 と続く。

  室田さんが紹介したような活動が「未来の日本社会を内包している」のではないか、未来につながる希望の芽であり、やがては樹木に成長すると私は予感するのだ。私は昨年、朝日新聞 2019年10月2日(水)「異論のすすめ」佐伯啓思の寄稿に反論を当時のHPに公開した(詳細はHPに譲る)。

 そこで触れたが、日本列島を鳥瞰した時、森林は安倍政権の樹木が天空を覆い他の樹木は見えないだろう。しかし、大樹の根本周辺には無数の低木や樹木の芽が吹き出しているのだ。私は佐伯さんは天空を覆う樹木だけ見て歴史を認識している。年月の変化と共に樹木層も変わるように、天空を覆う大樹だけで語る未来は予測を誤ると批判した。大樹のもとに芽生えた小樹がやがて成長し、他の小樹と共に大地を覆う日が来るかもしれないと私は書いた。

 佐伯さんは以下のように言う。

 「憲法に関して言えば、護憲派も改憲派も、そもそも根本的な問題をいっさい問おうとはしない。それは、占領下にあって主権を持たない国家が憲法を制定しうるのか、また憲法とは何か、主権者とは何か国家の防衛と憲法と主権者(国民)の関係は、といった根本的な問題である』

「今日の世界は、それを導く確かな価値も方向感覚も見失い、また、人々の生存への必死のあがきや、あるいは、個人や国への尊厳へ向けた命がけの戦いともほとんど無縁になっているからである」

 

 彼は天空から世界を鳥瞰する。アメリカも日本も中国もロシアも、並べ上げたらきりがないが、それらの国々の指導者から心を打つ未来ビジョンは提供されない。まさに「導く確かな価値も方向感覚も見失っている」と見える。彼には大樹の根元で息づいている小樹が見えていない。そして未来に吐息をつく。

 私はそれは違うと言いたい。あなたには小さくても無数にうごめくように活動している人たちの息づかい、どんな状況下でも手を取り合い、諦めず、歩みを止めない人たちが見えていない。彼ら小樹こそ「確かな価値や方向が」示して内包し成長していくかもしれないのだと。

 

 佐伯さんよ!歴史は大樹だけで作られるのではない。大樹の下の名もない人々の声を上げ続ける活動が、何時の日か大きな流れを巻き起こすかもしれないではないか。ベルリンの壁を打ち壊したのはだれか。ポーランドの独裁政権を倒したのはだれか。アラブの春を巻き起こしたのはだれか。国家の軍事力ではない。かつては小樹に過ぎなかった無数の樹木たちが、最後のひと伸びで朽ち果てる大樹に代わったのだ。街頭を埋めた圧倒的な民衆が銃ではなく勇気で、手を携える力で未来を拓くことがあったではないか。

 

 室田元美さんが紹介する様々な活動は言わば今は小樹だろう。しかし、全国各地に無数にあるのだ。彼らの活動は一部分でもそれぞれが未来のビジョンの片鱗を私たちに提示している。それらを繋げて見れば未来の社会が見えて来る。国や民族や人種や性別が異なろうとも、いつかは仲良く手をつないでいるであろう未来が見えるではないか。

 だから私は未来を悲観しない。夢と希望を持っている。私が生きている時代に実現しないだろうが、人類のそういう未来をめざす人々が全国で、いや全世界で息づいていることは希望だ。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」も「PTSDの日本兵と家族の交流館」も無数の小樹の一つとして息づいていきたい。室田さんの著作はその事を私に教えてくれた。

 

 

 

 

  

6月4日(木)終日曇り。15:45の室温 27.8℃

 

 昨日3日も2日に続いて来館者はなかった。負け惜しみではないが力をもらえる事柄があった。遠い昔の学生時代の大阪に住む友人(Oさん)から11月に神戸で私の話しを聞く催しが決まったと連絡があった。2月20日の大阪(20人の参加者があった)に続いて2回目の機会を作ってくれた。というか、「戦争や平和の語り部として黒井秋夫を呼んでください。交通費などの経費は掛かりません!」と昨年来HPやチラシで広報しているが、決まったのは今回含めて二つだけで、いずれもOさんの働きかけなのだ(コロナ感染で時期は未定ですが打診はいくつかあります)。

 ここで公開するにはばかられる事象含めてOさんと私の関係は深い。人柄を書くと悪口風になるので書かない。本当に愛すべき男なのだが何せ言葉に遠慮がない。その言動は多くの人に誤解を与える。理解するには時間がかかる損なたちの人間なのだ。気付いているのか、いないのか一向に改まる風もない。もう悪口めいてきたが、私は彼を本当に尊敬しているし信頼している。あいつは俺を裏切らない」と絶対的に信じている。70年間、多くの人と出会い、多くの人との親交があった。彼はその中で別格に大事なやつなのだ。波乱万丈の青年時代を彼と短期間ではあれ共に経験した事は私の財産になっている。そういうならOさんは私のかけがえのない財産だ。大阪で自分の人生のひと時を私を招くために尽力している彼を思うと「あいつの為にも頑張ろう!恥はかかせられない」という気持ちになる。私の同志だと勝手に思っている。

 

 メディアからの電話がありました。8月は毎年、平和・戦争の特集が報道されますが、企画段階という断りでお話しがありました。同じ会社の方から2日前にも同様の問い合わせがありました。まだそれぞれの判断で動いているのかな、と思いました。それでも「日本軍兵士のPTSDを社会に知らせる」ことにメディアの協力は欠かせません。企画の実現を願っています。

 

 来館者は4日の今日も0人で終わりそうです。それでも焦りというような物はもありません。盤上に碁石を置くように布石となりそうな動きは少しずつでも動いていると感じています。まだまだ始めたばかり。耕地を見つけ出し、木株や石を取り除き、種を撒き、水遣りをする、作物が育ち、やがて実をつける。私はまだ耕地さえきちんと把握できていない段階です。実をつけた時は私の次の代になっているでしょう。私は開墾者が開墾地をようやく訪ね当てたという所でしょう。先は長い。米軍から強奪された阿波根昌鴻さんの農地は、彼の死後18年経過した今もまだ戻っていません。子孫に彼は後を託しました。焦らず、諦めず、勝つまで続ける彼らの闘い。私には荘厳とさえ映る非暴力の闘いが続いているのです。

 

 

6月3日(水)晴れ。11:50の室温 26.6℃

 今年初めてTシャツ1枚で丁度良い。午後は更に気温が上がり蒸し暑くなりそうだ。この国に住む全員に10万円の一律給付。書類が届いた翌日には投函したので2週間は経過したと思う。入金の確認もしにリュックを担いで銀行までウォーキング(10万円の入金はまだだった)。5月20日頃に作成したチラシが70枚ほど残っているので、道すがら戸配もやりながら。本当に武蔵村山は行き止まりが多い。そしてそのほとんどは新しい住人の家で、彼らは自治会に自主的に加入することはない。自治会の把握で聞いていた区域の対象戸数は400戸。しかし実態は約1000戸ある。チラシ配布して分かった。

 妻の生家の隣といって良い場所に住んで15年、今までは自治会の人たちが地域繋がりの全部だった。それ以外は見えていなかった。しかし、この地に根を張る活動ならば163戸の自治会員だけが相手にはならない。周辺1000戸に目を向けた活動を模索することが重要だ。

 

 開館してあと少しで1か月になる。月・金は休館したが、以外の日はすべて約束通り、時間通りに開館した。家の仕事、畑のこと、シルバー人材センターの仕事との兼ね合いも少しずつとれるようになってきた。開館時間中は大きくここは離れられないが、10時の開館前、5時の閉館以降にできることを増やしたいと思う。地区会館が使えず休んでいた毎週火曜日の中国語サークル、畑仕事、読書、ウォーキングなど少しずつ取り入れていきたい。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動を特別な別枠の時間ではなく、生活の一部に取り込む工夫ができれば良い。毎日の生活の中に「活動」が溶け込む感じの気持ちの在り様になれば良い。活動と日々の生活が混然一体となり気持ちでも融合しているというように。おそらく、そうなりたいと思っている阿波根昌鴻さんの場合も、生活も闘いも分けられるものではなかったと思う。生活が闘いであり、闘いも生活であるような。そうなりたい。

 

 今日、郵便局で通帳記入したら入金者の名前に記憶がない。交流館に戻り、関係文書を確認してその方を鮮明に思い出した。5月11日に「新聞を読んだ」として電話をくれた人だった。たしか「従軍した兄にPTSDの症状があった」と告げた女性だった。直ぐにお礼の電話を入れた。確かにあの声だ。話しているうちにこみ上げる物があった。「あなたのしていることは大事なことよ」と言ってくれた。従軍兵の妹なら80歳以上だろう。この人の思いに「応えねばならない!」そういう熱いものがこみ上げた。また新しい力を私はいただいた

 

 

 

「今日のひとこと」バックナンバーは

ブログ「今日のひとこと」をご覧ください。

「交流館・村山お茶飲み処」開館が報道されました!

毎日新聞2020.5.10

朝日新聞2020.5.11

PTSDの日本兵の

資料パネル5枚を展示しています!

当会の活動資料はファイルで公開しています!

研究者の皆さんなどから寄贈いただいた

書籍・資料も閲覧できます!

私の父、黒井慶次郎の軍歴。初徴集されたころの若々しいはつらつとした時代。

昭和維新の先駆者足らんとした20代。

毎日新聞に紹介された北九州市の出口敬子さんの父親出口一伍長の戦争後遺症のありさま。

海外の紛争地に派遣された自衛隊員にPTSDが発生しています。

二度とPTSDの兵士とその家族を出してはいけない!展示パネルは訴えます。

 

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の

展示パネル・資料を順次紹介いたします。

パネル①

    黒井慶次郎・初徴集(20歳)の軍服姿の写真。

 

   黒井慶次郎の軍歴。従軍、転戦した戦地の地図。軍曹に昇進するまでの経歴。

 

   履歴申立書。軍人恩給申請の為の書類と推測する。

 

   黒井慶次郎が「満州事変記念フォトアルバム」に記載した「鉄道守備隊の任務」「上官の訓示及演習記録」の文章。

 

★展示資料の説明文

 

戦後,復員兵・黒井慶次郎は従軍体験に口を閉ざし、何ごとにも無口で一日中話さず、定職に就く意欲も無かった。“戦争神経症”の状態だった。復員前とは別人に変わった!

 

 

 

黒井慶次郎は31歳の時に伍長、33歳で軍曹となる。

 

10人~20人の兵士を指揮する立場にいた。

 

銃弾、砲弾の飛び交う戦場で部下に指揮命令しただろう。

 

進駐した武漢、宜昌は“敵”中華民国政府のある重慶に対峙する日本軍の最前線だった。

 

しかし、復員後の父黒井慶次郎は部下を鼓舞したり臨機応変に指揮命令できた人物のかけらもなかった。

 

一家に起こる問題解決全てから逃げて妻と長男に放り投げていた。きちんと働かず、定職に就こうという意欲も無く、一日中を無口で通し、特に戦争の事には口をつぐんだ。

 

部下を指揮命令した軍曹時代の面影などどこにもなかった。

 

自分が教育され信じた「天皇を拝する神の国、不敗強国、アジアの指導者日本」は帰国したら、GHQ指揮下で自分の長男は、命をかけた自分の従軍人生を全否定する黒塗り教科書(人間天皇、民主主義)で教育される日本だった。

 

黒井慶次郎は戸惑い、何が正しいのか何が間違いなのか、生きて行く羅針盤を持てなかった。口をつむぐしかなかった。働く意欲を失った。戦争の後遺症、“戦争神経症”を発症した。従軍前とは別の人間になった。

 

パネル②

①初徴集で大連港に上陸した写真。写真への父の添え書き。

②戦死した中隊長参拝記念の写真。写真への添え書き。

③”匪賊討伐”の皇軍写真。写真への添え書き。

④戦車の写真。写真への添え書き。

黒井慶次郎について(1912年3月14日生まれ)。

 

①“戦争神経症”発症前の父親。「昭和維新」に同調する若者だった!

 

★満州事変(193198日)の翌年、5.15事件が起きた1932年、父・黒井慶次郎は20歳で初徴集される。日本国内は5.15事件首謀者の助命嘆願運動が盛り上がった。

 

★写真『大連上陸()』の父の添え書き(193211月記す)。

 

・『昭和6918日満州事変勃発。昭和71130日午前1時、満蒙第一線へ勇み立つ我等若人をのせた陸軍宇品丸は大連に入港した。午前8時甲埠頭九番バースに横付、午前八時半上陸。憧れの満州の地に第一歩を印した』

 

・『昭和6918日!それは同胞九千萬厚生の記念日。昭和維新の第一日であらねばならぬ。南嶺城頭の血庫に斃れたる勇士!それは同胞救生の先駆、昭和維新史をかざる導士でなければならぬ』

 

★小作農の9人兄弟の9番目の父親は、大恐慌後の農村の窮乏を救う考えも持っていたとされる昭和維新思想を体現した5.15事件(1932515日勃発)等に強く同調していたと思われる。20歳代の父は「同胞救生の先駆=窮乏する農民を救う活動家」「満蒙第一線へ勇み立つ我等若人・・・憧れの満州の地に第一歩を印した」とメモしたように若者らしい快活で正義感あふれる行動的な人間だったと推測できる。

 

 

 

②黒井慶次郎について(1912年3月14日生まれ)。

 

“戦争神経症”発症前の父親。

 

南満州鉄道を守る独立守備隊として従軍した。アルバムの添え書き

 

には若者らしい使命感に燃えた勇ましい言葉が並ぶ。

 

『帝国の生命線を死守する軍人僕の姿である』『我(が)討伐隊は進む』『堂々と進む我(が)戦車の偉容』『匪賊討伐に従事』

 

★復員後、一日中話さず、定職につかず、対外的なことは母や兄に押し付け逃げた父親とは別人である。

 

★従軍体験の戦争神経症により、別の人格の人間になったと理解すればつじつまが合う。

 

 

 

③戦後の復員兵・黒井慶次郎は従軍体験に口を閉ざし何ごとにも無口で一日中話さず定職に就く意欲も無かった。“戦争神経症”の状態だった。復員前とは別人に変わった!

 

黒井慶次郎はなぜ“戦争神経症”を発症したのか?父親はなぜ精神を壊したか?

 

★GHQ(敵国)の支配する日本に復員した。自分が信じた(洗脳された)正義・価値観との巨大なギャップに遭遇した。

 

★命をかけた従軍体験を完全否定する黒塗り教科書で自分の長男(黒井秋夫の長兄)が教育されている日本に復員した。

 

★何が正しいのか、間違いなのか心に落とせなかった。理解できなかった。落ち着いた精神状態に戻れなかった。社会順応できなかった。

 

 無口になるしかなかった。仕事に就く意欲を失った。

 

★“戦争神経症”の基盤は中国での加害者としての戦争・戦場体験。部下や同僚の死に対する直接間接の責任などが考えられる。

 

 

 

★昭和維新 以下(ウィキペディアより)

 

1930年代日本で起こった国家革新の標語。 1920年代から1930年代前半にかけては、戦後恐慌世界恐慌による経済の悪化、排日移民法張作霖爆殺事件などによる国際社会の不安などから、軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を誤っている(と彼らには見えた)元老重臣ら側近達への憎しみも凄まじい。代表的事件として五・一五事件二・二六事件が挙げられる。

 

交流館・村山お茶飲み処」開館が報道されました!

毎日新聞2020.5.10

朝日新聞2020.5.11

きらめき+2月号に当会活動が紹介されました!      遠藤美幸さんの『「最後の証言」戦争のトラウマ―元兵士とその家族』です。

 毎日新聞20.4.3 『戦後75年 女の気持ち』に

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が紹介されました。

 北九州市の出口敬子さんの取材を続けている毎日新聞西部本社報道部の松田幸三記者より、3月末より黒井に電話による取材がありました。その中身が今回の記事となりました。また、4月6日のFM放送エアステーションひびきの「松田記者の話す新聞」で「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が番組中に紹介されることに繋がりました。取り上げていただいたことに感謝いたします。多くの皆さんに知らせていただくことが第二第三の出口敬子さん(父親の出口一さん)、黒井秋夫(父・黒井慶次朗)を作らない、PTSDの兵士を作らない世論作りに繋がると信じています。

 『松田記者の話す新聞』

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が紹介されました!

2020年46日(月)10:30~11:00

 北九州市の「エアステーションひびき」の「松田記者の話す新聞」という番組で「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が紹介されました。当会のHPで以前紹介した父親が晩年にPTSDを発症した出口敬子さんがゲストです。

YouTubeで視聴できます。

2020年4月6日放送分で検索してください。

30分番組の後半で紹介されました。

 

黒井秋夫語り部活動」だより

2月20日(木)18:30~19:30 大阪市(エル大阪)関西共同行動 定例会

 

約20人の皆さんにお話しさせていただきました。

懇親会にも参加させていただき、交流を深めました。 

・黒井を戦争や平和の学習会にお呼び下さい。会場費、資料費以外の費用はかかりません。

 皆さんのところでもぜひご計画をお願いいたします。

 どんな少人数でも、短時間でも、遠くても喜んでお伺いいたします。

 

日本最初・唯一の

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は

4つの目標をめざしています!

 

以下のお知らせは印刷し「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」周辺700世帯に配布しています。武蔵村山市の市長さん、副市長さん、20人の市議会議員さん、

 

観光課にお届けしています。  報道各社にもメール配信しています。

 

 

510()に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は開館いたしました。

緊急事態宣言で「ステイホーム」の呼びかけの最中であり「何人でも良い、来てくれる人がいるだけでうれしい!」と思っていましたが、開館10時前からどんどん我が家のガレージ(待機場所)に集まり、10㎡の交流館に一度に入館いただけない状態になりました。びっくりしました。

 

新潟県阿賀野市の山田さんが用意してくれた紅白饅頭(30組も届いた)は処理に困るどころか渡し切りました!感謝で一杯です。15人が武蔵村山市民。町内の(谷津自治会)元自治会長さん2名、地元の武蔵村山市議会議員さん(新政会)も駆けつけていただきました。「開館がうれしくてどうしても来たかった」と埼玉県川越市の女性会員さん、妻の甥と姪とその子どもたちも来てくれました。皆さんに心から感謝申し上げます。

小心者の私は戸惑い、応対ですっかり舞い上がってしまいました。

 

毎日新聞に10日、朝日新聞に11日に開館が報じられましたが、今までの報道では経験のない電話連絡が直後からありました。その中で2組の女性からの電話は「PTSDの会」の立ち上げと「交流館」建設の目的が前進していると私に実感と確信を持たせてくれました。

「従軍した父親のPTSDに苦しんだのは私だけではないと分かりました」「コロナ感染が落ち着いたら交流館にぜひ行きたい」という内容でした。一組の方は姉妹だと言い、電話の向こうで泣いていました。私も一緒に泣きました。

従軍した父親のPTSDに苦しんだ家族を掘り起こしたい!繋がりたい!PTSDの連鎖をみんなで断ち切りたい!その思いが少しずつでも実を結びつつある!と実感しています。

 

この活動をあきらめずに、地道に続ける覚悟です。しかし、私一人では何もできません。

皆さんに助けられて、ここまで来ることができました。心から感謝申し上げます。

皆さんの支えだけが頼りです。これからも皆さんのお力添えを心からお願い申し上げます。

 

同封したA3のチラシは「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」周辺700世帯に5月20日頃から配布させていただきます。

武蔵村山市長さん、副市長さん、20人の市議会議員さん、市の観光課にもお届けします。

読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、産経新聞、共同通信、NHK記者さん などにメール配信しています。

 今後ともよろしくお願いいたします。

皆さんがお元気で毎日を過ごされるよう心から願っております。

2020.5.20  配布者 黒井秋夫。

 

日本最初・唯一の

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」

開館日5月10日は19人(と、子ども4人)がご来館!!

ご近所の皆さん、中藤・神明・武蔵村山市15人の皆さん

ありがとうございました!

武蔵村山市議会議員さん(新政会)、谷津自治会2名の元自治会長さん

東大和市、川越市、練馬区の

皆さんご来館ありがとうございました!

★日本最初・唯一の「PTSDの日本兵と家族の交流館村山お茶飲み処」はめざします!

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」たちの情報を発信します。

□「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」の声、情報を開示、展示、発信します。

□「PTSDの日本兵」に関する研究資料、書籍、映像、新聞報道などを展示、放映します。

②PTSDの復員日本兵と暮らした家族」の安らぎの場をめざします。

10日の新聞報道後「父親のPTSDに苦しんだのは私だけではないと分かりました」の電話が複数ありました。「PTSDの日本兵と暮らした家族」の心の傷を交流により軽くなる場所をめざします。

子供たちと保護者の皆さんに地域の高齢者が戦争体験を語り継ぐ場にします。

・隣接する中藤地区会館内の児童館・学童保育の子どもたちと若い保護者の皆さんに、地域の高齢者が戦争体験を紙芝居など使いお話しする企画を開催します。

みんなの食堂・手芸サークル活動で高齢者と子どもの笑顔溢れる交流を作ります。

・コロナ感染が終了したら「村山うどんをみんなで食べる会」を開きます!

・手芸サークルなどの活動場所になります!

・お茶を飲みながら「よもやま話し」をする場所になります!

武蔵村山の名所になるよう頑張ります! 旧満州から帰国した女性からのお手紙!

日本最初で唯一というのが誇らしい。武蔵村山の名所になるでしょう!とありました。頑張ります!

★ご支援の振込先口座名義 PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会

ゆうちょ銀行からの送金(郵便振替用)➡ゆうちょ銀行口座。

・記号    11390・番号 21576251

ゆうちょ銀行以外からの送金 (内国為替用)➡ゆうちょ銀行口座

・店名 一三八(イチ サン ハチ)・店番138 ・普通預金(口座番号)2157625

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」開館が

毎日新聞・5月10日

朝日新聞・5月11日

報道されました!!

報道後、2組の女性から「父親のPTSDに苦しんだのは私だけではないと分かりました!」と電話がありました。私も一緒に泣きました。メディアから取材申し込みも!

武蔵村山市の皆さん、ご近所・中藤・神明・中央地域の皆さん!

コロナ感染が終わったら

「みんなの食堂・村山うどんを食べる会」開きます!

おしゃべりで笑顔の花を咲かせましょう!

「みんなの食堂」は定期的に開く予定です。お手伝い募集しています!

★「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」案内。

行き方の詳細は

「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」

ご利用案内をご覧ください!

★所在地 東京都武蔵村山市3-15-4 武蔵村山市中藤地区会館の西側に隣接しています。

★武蔵村山市中藤地区会館の西隣に隣接。★西武バス、都バスの三ツ橋バス停から徒歩1分。

★武蔵村山市コミュニティーバス 神明2丁目から徒歩4分。

開館日  火曜日~木曜日 土曜日・日曜日・休日 ★入館は無料です。

開館時間 10時~17時。12時~13時は昼食のため閉館しますが継続見学は可能です。

休館日   月曜日 金曜日 

★コロナ感染終了までは4人まで一度に入館可能です。5人目からはお待ちいただきます。

連絡先 黒井秋夫 08011213888 

コロナに負けずに頑張りましょう!

このお知らせは印刷し

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」周辺700世帯に配布しています。

武蔵村山市の市長さん、副市長さん、20人の市議会議員さん、観光課にもお届けしています。

このお知らせは報道各社にもメール配信しています。

PTSDの日本兵」交流館・村山お茶飲み処、四つのめざすこと。

 

★情報発信の場、PTSD兵士の家族の安らぎの場、戦争体験を語り継ぐ場、

 

地域の憩いの場(みんなの食堂・手芸サークルなど)をめざします! 

 

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」たちの情報を発信します。

 

・PTSDの復員兵(父親、祖父)から受けた暴力などの体験により、共に暮らした家族、子ども、孫たちは心に深い傷を負いその連鎖がさらに子孫に続いています。

 

・戦後75年を経ても戦争は後遺症を抱えた人たちにとっては終わっていません。

 

□「PTSDの日本兵」交流館・お茶飲み処は、「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」たちの切実な訴えや声、情報を開示、展示、発信します。

 

□「PTSDの日本兵」に関する研究資料、書籍、映像、新聞報道などを展示、放映します。

 

□二度と「PTSDの兵士」を作らない、戦争や暴力に頼らず話し合いで解決する社会をめざします。

 

②PTSDの復員日本兵と暮らした家族」の安らぎの場をめざします。

 

・「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」はその体験から心に傷を負い、人生、生き方、家族関係などに少なくない影響を与えています。

 

そのような心の傷と負の連鎖の解決方法の一つは体験者どうしが体験を語り合うことです。

 

「交流館・お茶飲み処」は心の傷を会話をすることで軽くして解消する場所をめざします。

 

子供たちと保護者の皆さんに地域の高齢者が戦争体験を語り継ぐ場にします。

 

・中藤地区児童館・学童保育が隣接しています。子どもたちが毎日、ランドセルを背負い「交流館・お茶飲み処」の前を通ります。この子どもたちと若い保護者の皆さんに地域の高齢者の戦争体験を紙芝居など使用して、語り聞かせる場所を作ります。学童保育・児童館と協力して進めます。

 

「交流館・お茶飲み処」を地域の人たちの笑顔溢れる場所にします。

 

「みんなの食堂、手芸サークル」など高齢者や子どもたちが集う場所になります。

 

・周辺に住む人たち(高齢者や子ども等)が気軽に集える企画を(みんなの食堂や手芸サークルなど)実施して「交流館・お茶飲み処」を地域の人たちの憩いの場所にします。

武蔵村山館に次いで全国に「PTSDの日本兵」交流館・お茶飲み処を作りましょう! 

 ★戦争・平和の

学習会にお呼び下さい!

語り部(お話しする人)を

黒井秋夫がつとめます

黒井秋夫は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」代表です

PTSDの日本軍兵士の負の遺産は

家族に連鎖して現在も続いています!

 ☆学校で・労働組合で・何人か集まって・全国どこでも

どんな集まりでも、どんなに少人数でもお伺いいたします! 

 

・会場費、印刷費用は主催者でご負担をお願いいたしますが、

 交通費含めてその他の費用はかかりません。

 ・相談・申し込み・お問い合わせ先

 🏣208-0001 武蔵村山市中藤3-15-4

・代表 黒井秋夫 ☎080-1121-3888 qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp

 

6おしゃべりカフェ

 

2020年8月23日(日)開催!

 

語り継がれない経験はくり返す!

 語り継いで未来の命を守りたい!

 

従軍者への思いや戦争について

 

話したいことを、持ち寄り、語り合い

 

若い世代に受け渡しましょう!

 

 従軍した父親や祖父の

 

思い出を交流しましょう!

 

その心中を考えてみましょう!

 

2020.8.23 10:00~17:30(予定)

 

定員60名。資料代500円。

 

参加希望の方は予約をお願いします。

 

お茶を飲みながら語り合いましょう!

 

 

 

予定するプログラム  

 

9:45受付開始 参加者名簿に記帳願います。

 

  資料代として500円いただきます。

 

10:0012:00 BS1スペシャル

 

 「隠されたトラウマ~精神障害兵士8002人の記録」を見ます。

 

12:0013:00 休憩 昼食を用意します。予約をお願いいたします。 

 

13:0013:30 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」

 

         活動内容をお話しします。  

 

13:3015:10 研究者の講演

 

あるいは従軍者の家族が体験を話します

 

     (講演者・お話しする人は20207月頃にお知らせします) 

 

15:3016:45 「おしゃべりカフェ」

 

         従軍した父親の思い出など話し合い、交流します。 

 

17:0017:30    コンサート。

 

子どもから大人まで楽しめます。ほっと一息!

 

18時頃~   懇親会。楽しく交流します。ぜひご参加ください!

 

 ★2020年8月23日(日)武蔵村山市中藤地区会館

 

武蔵村山市中藤3-16  付近にコンビニ、食堂はありません。

 

★カレーライスの昼食を用意します!(要予約)

 

     お茶・お菓子用意します。持ち込みも大歓迎。

 

問い合わせ先 080-1121-3888(黒井)

 

詳細は逐次お知らせします。

 

おしゃべりカフェで

 

  大事にしていること  

 

・お互いどうし、個人それぞれの考えを尊重します。

 

自由な発言を保障します。

 

・他の人の発言を途中でさえ切ったり、

 

異なる意見でも頭から否定はしません。 

 

・相違点よりも話し合いで共通点を探します。

 

和やかで楽しい交流の場をめざします。

 

・参加者どうしが友達になれる「おしゃべりカフェ」を作ります!

 

 2019年度日本記者クラブ特別賞受賞!

BS1スペシャル「隠された日本兵のトラウマ

を視聴した感想をお寄せください。

順次ホームページに掲載させていただきます。

送り先・アドレス

qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp

 

「1000人アンケート」にご参加を!

 

★戦争にいかれた親族、お知り合いは復員後どのような生活・暮らしをお送

 りになりましたか?

いま思い出して「もしやPTSDの影響ではなかったか?」というような 当たりはありませんか?

 

随時集約して、結果をおしらせします。

 

 

2019.12月8日(日)

第5回「おしゃべりカフェ」を30人の参加で『ホームの武蔵村山市中藤地区会館』で開催しました。

5回目と会を重ねるごとに和やかなおしゃべりと交流が広がっています。

遠くは神戸市、愛知県岡崎市から大学生など若い参加者も!

若い世代に語り継がれています。受け継がれていくでしょう!

拉孟戦、戦友会の講演者の遠藤美幸さんは「おしゃべりカフェ」にも加わり大いに盛り上がりました。

8月に続いてコンサートも開催。今回はメンバー4人の「タコス」!心癒される演奏に参加者も大満足でした!

終了後は黒井宅に場所を移し、タコスの皆さんも参加して懇親会。話の輪と交流がさらに広がりました♬(^^♪。

 次回は2020.8.23(日)です。

多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

 

2019年8月25日(日)

「おしゃべりカフェ」に46名が参加しました。

北村毅さん、室田元美さんの講演、北川直実さん、遠藤美幸さん、星野泰久さん、西中誠一郎さんの発言をいただきました。その後、参加者どうしのお話合いと交流、カクテル―チェさんのコンサート、最後は和やかな懇親会で、大成功の「おしゃべりカフェ」となりました。次回は12月8日(日)日中戦争が日本軍の真珠湾攻撃でさらに戦線拡大したメモリアルの日に開催いたします。

多くの皆さんの参加をお待ちしています。

 

★2019年3月17日(日)23名の皆さんが参加されました。  

 武蔵村山市 さいかち地区会館で開催しました!

従軍した父親の思い出を全員が語り合い、耳を傾けました。

放映したBS1スペシャルにも登場する研究者の中村江里さんから兵士のPTSDについてコメントをいただきました。

下写真。2018年10月14日、2回目の学習・交流会に20名が参加しました。研究者、中村江里さんから参加いただき、お話しいただきました。

下写真・2018年5月13日、初回の学習・交流会に9名参加。



新着情報

6月の訪問者数をお知らせします。 (水, 01 7月 2020)
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村山うどんを食べる会開催します! (Tue, 30 Jun 2020)
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今日のひとこと5月28日~6月3日 (Sun, 14 Jun 2020)
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今日のひとこと5月13日〜5月19日まで (Tue, 02 Jun 2020)
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イベント情報

10月14日、幼児遊び部屋あります。
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「市民のひろば」に掲載されました!
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2018年5月13日 学習・交流会の様子


ブログ

父と暮らせば

ETV特集「隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録」
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父と暮らせば(19)「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」ができた理由
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父と暮らせば(18)「独立守備隊従軍の時の父の戦闘記録」その2
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黒井秋夫の父の従軍時の写真


読書紹介

見過ごされたトラウマ・今朝の朝日新聞31面
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「朝日川柳」
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