当ホームページについて

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の趣旨とめざすこと。①

父は無口で第2次大戦の従軍体験には口を閉ざし続けました。

復員後の父は一つの仕事が続かなかった。主に工事現場を渡り歩く出稼ぎ労働者だったが失業保険の給付対象期間だけ働くと仕事を辞め給付が終わると次の現場に向かった。失業保険に頼らず継続して仕事をすればゆとりある生活ができたはずだがそうはせず家は貧しかった。しなかったのか、できなかったのか。

 

一つの答えがある。「戦争神経症」、戦争のトラウマ・PTSDがそうさせたのではないか。

父は戦争体験のPTSDで精神を病み戦後社会に順応できなかったのではなかったのか!

 

ベトナム戦争で米兵が戦争体験のトラウマから3割~5割の兵士がアメリカ社会に復帰順応できないという。

日本軍兵士の研究者が最近出版した書籍で米兵と同じように「戦争神経症」に侵され兵士にも戻れず社会復帰もできない日本兵が存在したことを明らかにしています。しかし長い間、PTSDの日本兵の存在は隠され、兵士の家族でさえ(父や夫が)PTSDに侵されていると気付かずに暮らしたのです。

 

戦争は兵士を傷つけるだけでは終わらない。その後暮らした家族の生活にも大きな影響があったのだ。

2次大戦に従軍した兵士のほとんどは亡くなり声は上げられない。その子供達も70才代に差し掛かっている。

このまま声を上げなかったらPTSDに侵された日本軍兵士がいた事は陽の目を見ることなく日本の歴史から永遠の闇に消えるだろう。

 

イラクに派遣された自衛隊員にもPTSDの隊員が出ています。帰国後に29名が自ら命を絶ちました。残された隊員家族の生活を考えてみましょう。悲劇を繰り返していいのでしょうか。

 

語られなかった復員日本兵・父たちの思いを掘り起こし、無念であったろう父たちの心の叫びを世に出したい。

そんな思いから「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が発足しました。

 

交流しましょう。語り合いましょう。広げましょう。次世代に繋いでいきましょう!

 

2018年1月17日

 

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」設立人 

黒井秋夫

 

 

「PTSDの日本兵」情報館建設、「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」への支援金振込先は以下の通りです。

  ★ゆうちょ銀行からの送金(郵便振替用)

  記号    11390

  番号 21576251

  口座名義 

 PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会

  ★ゆうちょ銀行以外からの送金 (内国為替用)

  店名 一三八(イチ サン ハチ)

  店番138

  普通預金(口座番号)2157625

  口座名義 

 PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会 

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の趣旨とめざすこと。②

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は日本が二度と戦争を起こさない。

誰もが安心して暮らせる社会」をめざし活動しています!

「日本兵のPTSDの存在」を課題に掲げる活動組織は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が日本最初で唯一であり、その資料館も「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」しかないと言う事実がこの問題の困難さ、底深さを物語っています。

私の父・黒井慶次郎(1912~1989)は20歳で徴兵され34歳で復員するまで2回従軍しました(1932~19341941~1946)。彼は戦争体験含めて、一日中口を開かず、笑顔のない暗い人間でした。復員後の彼は定職を持たず。出身地山形県近在の工事現場の日雇い労働者で暮らしは貧乏でした。家族に降りかかる問題は、いつも妻や私・黒井秋夫より8歳年長の長男(1941~2017)に押し付け、無責任で、私は中学、高校と進むにしたがい「父のような男には絶対なるまい」と思うようなり、尊敬の念を持つことも終生ありませんでした。情愛が通いあう親子関係もあ

りませんでした。           

父は戦争体験により「PTSDを発症し人間が変わった」と理解納得した!

★「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げる!201512月、私は妻と乗船したピースボートの船内企画で ベトナム戦争のアメリカ軍帰還兵、アレン・      ネルソンさん(19472009)のDVDを見ました。「戦場体験で心が壊れてしまった。恐ろしい光景が夢に出      てくる。昔の自分には戻れない」と沈痛に話すアレンさんと私の父の無口な暗い顔が、その瞬間に重なりまし      た。戦争体験で心が壊れ、元の自分に戻れない別人になってしまった父・黒井慶次郎を、本来の父親と      見間違っていたのではないか!それは雷に打たれたような衝撃でした。それから「父と暮らせば」として従軍した父親を語りあう交流会を船内で呼びかけ、都合3回開きました。

その中で、奈良県の女性の父は特攻隊員でしたが出撃数日前に、終戦の815日となりました。普段は良い人なのに、スイッチが入ると妻(話し手の母)に暴力を振るいました。90才を越えて認知症を発症し、病床で戦友の名を呼び「✖✖よー、俺は卑怯者だ。許してくれえ!」と元の兵士に戻り、叫びながら亡くなりました。またある人の義弟は戦争前、働き者だったのに、復員後は徘徊の毎日で「ふうてん」と呼ばれていました。そういう実例からアジア太平洋戦争でPTSDの日本兵が存在したことを確信しました。これを歴史に埋もれさせてはならない、多くの人たちに戦争の真実を知らせたい、という思いから私は20163月に「亡き父と二人三脚で日本軍兵士のPTSDの語り部になりたい」と皆さんに宣言し、下船から2年後、2018117日に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会=以下、語り合う会」を立ち上げました。

下船後、父が唯一残した「満州事変記念アルバム」を詳しく見ると、「無責任で、口を閉ざし、きちんと働かない暗い顔の父親」という私の知る父とは全く違う20歳の父の姿がありました。「われら若人を乗せた陸軍御用船宇品丸で憧れの満州の地に第一歩を印した」「昭和維新の先駆、昭和維新を飾る導師であらねばならぬ」などと書いて、日本を維新するのだという使命に燃えた若者がそこにはいたのです。また、1945年の終戦前年は日本軍の最前線、中国・宜昌で軍曹として15人前後の部下を指揮する立場でした。若さ溢れる青年であり、軍曹として一瞬の判断で部下を指揮する戦前の颯爽とした父と、戦後陰鬱な父は全く別人であり、戦争の後遺症で戦争神経症を発症し終戦時を境に人間が変わったと私は理解しました。

20181月に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の立ち上げ以降5回の学習交流会を開催し、日本兵のトラウマの研究者、中村江里(広島大学准教授)さん、北村毅(大阪大大学院准教授)さんの講演や参加者どうしの体験交流会を実施しました。2018年に放映されたNHKの「隠された日本兵のトラウマ~陸軍病院8002人の病床日誌」が反響を呼び「語り合う会」ホームページの閲覧者が跳ね上がりました。

★「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」開設・開館!

私は2015年に前立腺ガン摘出手術をしましたが、20198月に再発し2か月間放射線治療を受けました。また心臓頻拍で12月に手術を受け、自分が健康なうちに「語り合う会」を形あるものに残したいと「PTSDの兵士の資料館」建設を思い立ち、20201月着工、510日に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室=以下、交流館」を開館しました。

 交流館は①PTSDの復員日本兵と家族」の声、情報を発信します。②「PTSDの日本兵と家族」の心の傷が癒される交流を続けます。③子供たち、高齢者、地域の人たちが集い笑顔溢れる交流を作ります。④日本から中国、朝鮮半島、アジア、世界に平和と仲良しの虹の架け橋を渡します。以上4項目の目標を掲げています。

510日の開館以来、113日現在245人が来館されコロナ禍の中、予想を超える皆さんに訪問いただいています。来館者にはそのつど、PTSDの日本兵・展示パネルの説明をしています。

★中国人・李素楨さんに父の所業を謝罪、交流の始まり!

★中国、朝鮮半島、アジア、世界に平和と友好の虹の輪をかけたい!

2020823日の交流館主催の「村山うどんを食べる会」に参加した中国人女性・李素楨さん(吉林省師範大学大学院教授、桜美林大学講師)が公主嶺出身と聞いて驚きました。20歳で徴集された父親の初任地が公主嶺なのです。父親の引き合わせと直感しました。「悪いことをしたと私の代わりに謝ってくれ」と言っている父親の声が聞こえました。

私は李素楨さんに「あなたのご両親、村の人たちに父親がなしたであろう殺害など非道な行為と多大なご迷惑を息子である私は心から謝罪します。どうぞ父親を許してください」と謝罪しました。李素楨さんは私の肩を抱き、手を握り「日中友好、日中友好!」と返してくださいました。その後、次のようなメールが届きました。

『お父様の代わりに謝罪して下さったことに、中国人として、とても感激しました。あの戦争は指導者の責任だと思っています。お父様は普通の庶民として、戦場に行かされたのであって、お父様の責任とはいえません。お父様は加害者であったけれども、被害者でもありました。国境や民族を超えて、平和な社会を作るために、お互いに協力し、頑張って行きましょう。中国に黒井さんの活動を伝えたいと思いますし、民間  

レベルでの平和のための活動にお互いに頑張っていきましょう。』

私は感激し亡き父に見せたいと思い、李素楨さんのメールを額にして仏壇の父の写真の前に飾っていま  す。李素楨さんとの交流は今も続いていて次のようなお便りが届いています。

・子ども図書室を設置されたとのこと、私たちも大賛成です。今後、子どもたちに戦争体験を引き継ぐことになるでしょう。・日中子ども交流に関する読む本を贈呈いたします。貴資料館のご発展と日中友好の懸け橋になることを信じます。今後私たちも尽力いたします。お互いに協力し合っていきましょう。

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動は、日本の人たちはもとより日本の起こ   した戦争により多大な被害を受けた中国、朝鮮半島、アジアの人たちにとどまらず欧米の人たちにも理解され、賛同いただく必要があると思います。李素楨さんとの交流を大事に育て、アジア、世界に平和と友好の虹の輪をかけたいと願っています。

★「PTSDの日本兵の存在」を子どもたちに語り継ぐ!

交流館東に学童保育・児童館が隣接しています。そのため「お茶とお菓子が無料って本当ですか?入ってもいいですか?」と言いながら、3人、5人と連れ立って来館する子どもが増えています。子どもたちの来館者増は交流館の当初の未来像を変えようとしています。

当初の書籍・資料の展示やニュースの発信対象は成人、大人でした。しかし、未来に語り継いでいくことを考えると、「子どもたちに伝わる」ことこそ重要ではないか!と考えるようになりました。その為、子ども図書室開設を決めて絵本などの寄贈を呼びかけたところ、絵本作家の方などから多くの本が寄せられています。5年後、10年後、20年後の交流館では、今来館している子供たちが青年になり、学生になり、社会人になり、そこから語り部の後継者が生まれているかもしれません。想像すると将来が楽しみです。

2020年は「語り合う会と交流館」が全国20の新聞社に27回(1074万世帯・全国20%)紹介されました。108日の西日本新聞は「戦争で精神障害日本兵も・識者、被害直視を」と1TOPで伝え25面では当会の活動も紹介しました。「PTSDの日本兵の存在」を1面トップで扱う新聞報道は初めてですが、この問題への関心の広がりを現わしていると思います。 

とは言え、「PTSDの日本兵の存在」を国民のほとんどはまだまだ知りません。「PTSDの日本兵の存在」が多くの皆さんに知れわたることが「戦争はダメだよね」の世論を作り、「日本が二度と戦争を起こさない。誰もが安心して暮らせる社会」に繋がると思います。              

現在、海外派兵された自衛隊員にもPTSDが発生し、50人を越える自殺者、病床から起き上がれない自衛隊員も出ています。兵士のPTSDは現在進行形、未来形の日本の問題でもあります。「語り合う会・交流館」は「日本が二度と戦争を起こさない。誰もが安心して暮らせる社会」をめざして活動を続けます。

ホームぺージhttps://www.ptsd-nihonhei.com

 ☎080-1121-3888(代表・黒井秋夫)qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp 

 

連絡先 

🏣208-0001 武蔵村山市中藤3-15-4

活動開始の経過

2015年12月17日出港したピースボート船上でアレンネルソンさん(ベトナム戦争に従軍したアメリカ海兵隊員)のDVDを見たことから父・黒井慶次郎のPTSDに気づきました。2年後に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」をたちあげました!下記の文章は活動を開始する決意を表明したものです。

ピースボート自主企画「独白・父と暮らせば」

(下船直後に加筆)

亡き父と二人三脚で日本軍兵士のPTSDを広げる語り部をめざす!

2016.3月  黒井 秋夫

・私はこれから自分の父親の事、そして私と父親の事を話します。私たち父子はついに最後まで深い話をしたことはなかったように思います。父は私のことを、私は父のことを本当に理解しあえたとは言えないように思います。なぜそうなったのか、なぜ理解しあえなかったのかを日本軍兵士のPTSDというキーワードでお話ししたいと思います。

・話の中には自分の父親を尊敬できなかったということも出てきます。そんなことを言うのは本当に父には申し訳ないと思います。そのことも又、日本軍兵士のPTSDがそうさせたのではないかと私は皆さんに伝えたいのです。尊敬できなかったと思っていた父親は実は本来の父ではなく、心に深い傷を負ってしまったPTSDに苛まれた日本軍兵士の父親だったのではなかったかと今は思っているのです。いわば先の大戦に従軍した日本軍兵士のPTSDが尊敬しあえるはずの父と子の普通の関係を破壊してしまったのではないかと私は主張したいのです。そしてその事の発生原因であり、結局は人の殺し合いにすぎない戦争を二度とするようなことがあってはならないと訴えたいのです。

 

・戦争によるPTSDが最初に問題化したのはベトナム戦争で米兵が帰還したら戦争目的が正義ではなかったとする祖国の世論とのギャップと社会からの疎外感などもありPTSDにさいなまれ社会に順応できない、社会復帰できない、暴力やアルコール、麻薬に走るという事例が大量に(全体の30%とも50%ともいわれている)発生し、個人の力で解決できる傷病ではなく社会全体でケアする体制と理解が必要だと認識されるようになったのが最初です。

 

・さて第二次大戦に兵士としてアジア太平洋地域で戦った日本軍兵士たち、つまり私たち世代の父親たちにPTSDは無かったのでしょうか?徴兵前と変わらない健全な精神状態で帰国したのでしょうか?戦後の社会にすんなりと順応できたのでしょうか?

・私は1948年、昭和23年の生まれであり、直接の戦争体験はありません。自分が生まれる前の徴兵前の父親がどんな人だったのか見ることも感ずることも当然できません。戦地から帰還した戦の父親しか知りません。父はいつ頃までか「戦友の夢を見た」とポツンと口にしたことはありましたが、他は無口で戦争のことは全く話しませんでした。

・父親は帰国して徴兵前に働いていたという鶴岡市五十川にあった田川炭鉱には戻りませんでした。その事情は聴いていません。私が物覚えついたころはダム工事などの作業員の仕事などして家族を養っていました。その他、商売を始めたりしましたが長続きせず貧しい生活でした。私は欲しい物があっても口にしても無駄だと悟り言わずに諦めるような子供時代でした。

・しかし父親にはそういう貧乏から抜け出そうという意欲は余り感じられませんでした。そういう努力をしているようにも見えませんでした。子供の私にはその姿は良く理解できず尊敬できない父親でした。むしろ自分は父親のようにはならない、絶対ならないとずうっと思っていました。

・高校3年のある日、学校の図書館で川上肇の「貧乏物語」に出会いました。「貧困は個人の責任ではなく、社会が構造的に生み出す物で救済策もまた社会の構造的改革を伴う対策が必要だ」とありました。その言葉は目から鱗が落ちるような衝撃でした。「貧困をこの世からなくすること」それは私の生きる上での判断の指標の大きな要素の一つであったように思います。

・考えてみると父は私の人生において反面教師だったと言えるかもしれません。そういう意味では悲しい親子関係だったかもしれません。そしてそういう父親の姿、生き方を生まれながらの父親の性格だとしか思いませんでした。

 

2015年、安全保障法への疑問や反対が日本で沸き上がり始めたころ、ふと父親が生きていたならどうしただろうと思うようになりました。戦争だけは駄目だと言うのを聞いたように思ったからです。不定期の「武蔵村山・黒井ニュース」に「父と語れば」として、もしも父親が生きていたなら、元気であったなら私と一緒に国会前の座り込み抗議行動に出かけたのではないか!生死を共にした戦友たちと肩を組み国会前に座り込んでいるのではないか!と「戦争だけはしてはならない!」と叫んでいるのではないかと思えたからです。その時から亡き父との対話(父と暮らせば)が始まったのです。

 

・そしてピースボート90回クルーズの3か所目の寄港地であるベトナム・ダナンに向かう航行中に、過去から今に到るベトナムの歴史の理解の為にベトナム戦争を描いた映画プラトーンや、イラク・アフガン戦争の米軍兵士のPTSDのDVDを見ました。映画プラトーンでは若い米兵が戦地に赴く前の戦争のイメージとはかけ離れた、村ごと焼き殺す住民虐殺や残虐な戦闘現場にも次第に精神が麻痺して反応しなくなり、崩壊し、心に深い傷を負う米兵の姿と中国大陸で戦う日本軍兵士としての父の姿が突然重なりました。「自分の父親も又、米軍兵士と同じように戦争体験によりPTSDにさいなまれていたのではないか」というひらめきです。それは本当に思いもかけない瞬間で雷に打たれるようなショックがありました。今は亡き父との対話は私の父に対するイメージを大きく変える方向に動いて行きました。

 

・父が戦った地は中国の旧満州から長江のある華中方面で、当然にもそこには中国人の村があり、家があり、人たちが生活していたのであり中国人兵士だけでなく、ごく普通に年寄りも女性も子供たちも暮らしていた訳です。

その状況はベトナム戦争における米兵の置かれた状況と似ています。周りを敵に囲まれ、昼は農民でも夜は兵士かもしれない。いつ襲撃されるとも限らないという恐怖を父は従軍していた約10年に渡って体験したのではないでしょうか。残虐な行為も幾度となく目撃しただろうし、あるいは自身が実行者だったかもしれない。

だとしたら、米兵と同じように正常な精神でいられた訳がない。心に深い傷を受けていたのではないか。帰国後に簡単に社会に順応できるような状態ではなかったかもしれない。

 

・私の知っている父親は戦争前の本来の姿とはかけ離れたPTSDと戦う父親だったかもしれない。戦前にはもっと快活であった父親がいたのかもしれない。戦争のことには特に無口だった私の父親はPTSDを抱えながら、それでも必死に家族を養おうとしていたのかも知れない。私は父親の負の姿しか見えていなかったのではないのか。そう思った時、今は亡き父親と心と心が生まれて初めて繋がったような感情がわいてきました。父親が私を真っすぐに見つめているような気がしたのです。

 

・これらのことは言うまでもなく全ては私の勝手な想像の世界の話です。この世にいない父親に当時の心の内をもはや聞くことはできません。どうだったのか真実は分かりません。しかしPTSDが父親にもあったと考えるといろいろな辻褄が合うのです。

・本当に父親は戦争についてはほとんど何も話しませんでした。話さないままに一生を終えました。しかし話さなかったのは私の父親だけではなく、多くの兵士も又口を閉ざしたと言われています。なぜ押しなべて彼らは話さなかったのだろうか。話さなかったのではなく、話すような誇らしいことなどは何もなかったと言う事なのではないだろうか。そのように米兵のPTSDの告白は教えています。父にとって、そして日本軍兵士にとって戦争で何を体験したのか。人生にどんな影響を与えたのか。多感な青年たちにとって戦争は何だったのか。

・映画プラトーンでは、出征した青年は「戦果をあげ英雄になって帰国する」という夢を持ってベトナムに行きました。しかし、戦場の現実は想像を絶する、更にそれ以上に持っていた夢とはかけ離れた「殺す前に殺す以外に生き残る術のない」正義も道徳もない獣の論理の世界でした。やがて青年は人殺しにも何の感情も湧かなくなり、精神のバランスを失い荒廃し心に深い傷を負っていくのです。

・だとしたら、米兵と同じような環境にいた日本軍兵士もまたアジアの戦場での体験は彼らの精神を粉々に砕いたと想像するのはおかしいだろうか。

 

・世界を光り輝く世界に導く不敗の神の国だと信じて戦った聖戦を、戦後の祖国はその価値観を真逆に180度さま変わりさせて、アジアへの間違った目的の侵略戦争であったと断じました。帰還した日本軍兵士の戦争体験をいわば完全否定したのです。帰還した兵士たちは何を頼りに己の精神の平衡感覚を保てば良かったのでしょうか。悲惨な戦争体験をしたのみならず日本社会の無理解と疎外感は彼ら帰還した日本軍兵士の性格を変え、その後の生き方に決定的な、取り返しのつかない影響、打撃を与えたと類推するのが普通ではないだろうか。

 

・戦前の日本軍兵士は天皇の兵士であり、お国の為に死ぬことこそ本分であり、特に敵の捕虜になることなど「生き恥を晒す」として最も屈辱的なことであり、「武士道精神」に基づき、その前に自決するのが当然の選択でした。しかし、父は約1年間中国で捕虜でした。「恥ずかしくて日本に帰れない。どの面さげて帰れるか」それが一番に思ったことではないでしょうか。それでも父は1946年、敗戦の翌年に博多に帰国しました。その祖国日本は父が叩き込まれ教育された神の国日本ではすでになく、父たちが生命を賭した戦はアジアへの侵略戦争であり、価値あるどころか間違った無意味な戦であったと言うことになっていました。父が青年時代の命を懸けた約10年の全てが間違いだったと否定される、全く評価されない別世界の日本に戻ってきたのです。この時、父は34歳でした。

・父は無口でした。その時の父は何が正義で何が間違いなのか。何をすることが良いことなのか、何をしてはいけないのか、戸惑うことなく判断し日本社会に順応できるような精神状態だったろうか。価値観が180度逆転した針の莚のような祖国で戦争のことなど話すべき事柄だっただろうか。当時の日本が捕虜になり帰国した敗残兵のことなどに聞く耳など持っていただろうか。「社会から疎外された存在」とは正に当時帰国した日本軍兵士にこそ相応しい言葉ではないだろうか。私の父は、そして多くの帰還兵は無口だったのではなく無口になざるを得なかった、させられた、語るべき言葉もなく聞いてくれる相手もいないというのが真実ではなかったでしょうか。

 

・終戦から27年後の1972年、一人潜んで戦争を戦い続けていたグアム島から日本軍兵士・横井庄一さんが羽田空港に帰還しました。その時に「生きながらえ恥ずかしながら帰って参りました」と話しましたが彼は捕虜になった訳ではない。戦い抜いて帰還したのだ。「恥ずかしながら」という言葉は父親たちにどう響いただろうか。捕虜になり早々帰国した自分に向けられた言葉として又しても深く傷ついたのではないだろうか。

・中国、韓国、アジア諸国から繰り返し戦争の謝罪要求が今もなお続いています。父たちはその度ごとに自分たちに向けられた非難として精神を痛め続けたのではないだろうか。いわば、戦後何年経っても心休まる日々は少なかったのかもしれない。

 

・私は何と鈍感で想像力のない人間だったのでしょう。私は先の大戦で特に太平洋の幾つかの戦場では戦闘による死者よりも病気や飢餓による死者が多かったことは様々な報道から分かっていたし、人並み以上に知っているつもりでいました。だのに、その戦争を体験した兵士の精神がどんな打撃を受けたのか、生き方にどんな影響を受けたのか、67歳になる今の今まで考えが及ぶことは無かった。一番身近な父親への生き方にどう影響があったのか、そういう考えまで遂に及ぶことはなかった。

 

・戦争をするのは機械ではない。将棋の駒でももちろんない。一人一人の個人としての人なのだ。彼らはその誰もが出征するその日まで、やるべき仕事があり大事な家族とのかけがえのない生活を続けていたのだ。彼らはそこから戦場に行ったのだ。兵士をカタマリで見てはならない。それは戦争開始に責任のある為政者のやりそうな思考ではないか。感情が揺れ動く呼吸する一人の人間として兵士を見ることが大事なのだ。だとしたら、私もそれまで父も含めて日本軍兵士たちを為政者と同じように個ではなくカタマリとしてしか見ていなかったのではないか。だから兵士の心の内まで思いやる気持ちを持てなかったのではないのか。私の想像力には人間を思いやる温かみのある心が欠けていたと言わざるを得ないのではないか。それでは父を理解できなかったのは当然のことだ。

 

・私の自主企画の後に90歳で昨年死亡した特攻隊兵士だった父親のことを私を見つけ話してくれた女性がいました。その方の父は、同僚が飛んだ次は自分が特攻隊として飛ぶ順番でしたが、2日後に815日を迎え死なずに除隊となったという。しかし、以降も「自分は卑怯な人間だ」と家族にたびたび漏らすことがあり、普段は静かなのに酒が入ると人が変わり、暴力をふるうことがあり、そんな時は怖くて幼い自分は震えていたという。最後は認知症になり早くに亡くなった母と自分を混同するような状態でありながら、病床では特攻で死んだ友の名を呼んでいたという。私の話を聞くまでは、父の行為とPTSDを結びつけて考えたことは無く、私の「父と暮らせば」を聞いて、父の内面の葛藤が初めて分かりかけたような気がする。その晩は声をあげて船室で一人泣きましたと話してくれました。

戦後70年経過し、90歳まで生きながら最後に見た夢が自分を卑怯者と感じさせた戦友の姿だったとは何と壮絶で痛ましい生涯ではなかったろうか。その人が心の中に70年間抱き続けたものは一体何だったのでしょうか。その女性の父親もまた、心に深い傷を負いその責め苦と戦い続けて生き抜いたと言う事なのではないでしょうか。

 

・皆さんにお聞きします。私の父だったり、この方の父親だったり、PTSDに捕えられるような戦争体験をする日本軍兵士をこれからの世の中で作り出しても良いのでしょうか。また兵士である父親のPTSDの影響を受けざるを得ない子供たちと家族も必然的に生み出されます。そういう時代が来ても良いのでしょうか。

 

・私は父に詫びねばならない。父親の従軍時代の体験と精神状態まで思うことができなかった。子供時代ならいざ知らず大人になっても、ましてや戦争や平和の問題に人並み以上に関心を持っていたにも関わらず、自分の父親が一番身近な当事者だったのに全く結びつけて考えることができなかった。一体全体どこの国のいつの時代の戦争や平和を私は考えていたのだろうか。なんという貧困な想像力。私の考えていた戦争や平和は現実感のない空中の議論に過ぎなかったということではないだろうか。青年時代に大きな壁に跳ね返されと感じ、その壁が一体何物なのか認識さえできずに、私がその後の自身の混迷の整理や総括もできなかったのも至極当然のことだ。方向性が発見できなかったのも当たり前だったと言わざるを得ないではないか。

 

・考えてみれば父親も自分の青年時代の体験を自分で納得できる整理は恐らく終生できなかったと思う。解決不能のまま生涯を終えたのではないかと思っています。しかし、私も又、自分の生き方を方向づけた「自分の家庭の貧困」の本当の原因に67歳になるまで気づいてはいなかったのだ。そのことを私に気づくよう仕向けたのは今は亡き父親だったのだ。

 

・私は1948年の生まれであり、戦後の父親しか知らない。徴兵前の、戦争体験前の健康な精神だったころの父の姿を知らない。私は(私たちの世代の日本軍兵士の子供たちは)本来の父とはその精神がすっかり変わってしまった負の父親を本来の姿の父と見誤っていたのではないだろうか。

・だとしたら、それは本当に不幸なことではないか。父は息子に己を理解させる言葉を持たず、息子は親がとうに亡くなった67歳になるまで父を理解する大きな心を持てなかった。戦争は親子が互いに信頼し、尊敬しあう関係まで捻じ曲げたのかもしれない。

・(父よ)あなたは誰にも話すことができずに、自分自身だけで戦争体験と社会からの疎外感を反芻しながら生きていたのですか。誰にも説明できず、話す言葉を持てず、誰にも理解されずに自分の子供とさえ心を通わすことさえできずに77歳まで生きて、死んでいったのですか。

 

・私は口を閉ざし無口であり続けた父親(父親たち)の心の闇に近づき、PTSDに切り刻まれた精神を息子である自分が引き継ごうと思っています。兵士としての時代の自分の行為を整理することも、自己評価することも、ましてや納得し肯定して人生を再出発することなど及びもつかなかった「無念だったに違いない父の人生の何年か」を私が引き受け整理し、理屈をつけ、言わば総括し、父(父たち)たち日本軍兵士が話したかったであろう思いをこの世の中に公にし、多くの人々に知ってもらい考えてもらう「日本軍兵士のPTSD」の語り部としての活動を始めようと考えています。

 

・日本軍兵士のPTSDは過去の事ではない。

イラク派遣のストレス・隊員の自殺21人、数字以上の深刻さ、分析し教訓生かせ2015.7.17朝日新聞抜粋)

・元自衛隊中央病院精神科部長だった福間詳医師はイラク・サマワの非戦闘地域での自衛隊員の精神的ストレスを次のように話しています。

2年余りの期間中、宿営地には迫撃砲弾などが13回(2か月に1回と多くはないと思うが)撃ち込まれコンテナを貫通したこともありました。「私の着任中にも着弾し、轟音とともに地面に直径2mほどの穴があきました。直後に警備についた隊員は『発射したと思われる場所はすぐ近くに見えた恐怖心を覚えた』『そこに誰かがいるようだと言われ緊張と恐怖を覚えた』暗くなると恐怖心がぶり返すと訴える隊員は急性ストレス症候群(PTSD)と診断しました」と福間医詳師は言っています。人道支援活動で戦闘地域ではないとしている自衛隊でさえ3年間に21人も自殺している事実を福間医師は米兵のPTSDとは違うと言いますが(私には同じに見える)人生を断つまでに至るような心に深い傷を負っているのです。「アメリカで社会問題になっているイラク帰還兵のPTSDは戦闘ストレスとも呼ばれ、目の前で敵を殺したり、味方が殺されたりした時に起きます。惨事を経験したショックによる高強度ストレスです。アフガニスタンとイラクからの帰還した後の自殺者が戦死者を上回っています」と続きます。

 

・このようにイラクやスーダンに派遣されている日本の自衛隊員のPTSDが次々と明らかにされています。つまり戦争の為にかけがえのない人生を、自分の心を自分で制御できない、心に深い傷を負わねばならないような仕事をしている兵士が今現在、進行形で発生し存在しているのです。

・こういう情勢が進行するときに70年前の先の大戦で心に深い傷を負い、スムーズな社会復帰はもとより精神を持ちこたえることさえ困難で口を閉ざし続けた私の父もそうであったかもしれないPTSDに侵された日本兵がたくさん存在したであろうことを、このまま光を当てることもせず、あたかも無かったことのように、誰にも気づかれることなく世に出さないまま歴史の闇に葬り去って良いのでしょうか。彼らの遺言として受け止めこれからの日本の指針として、教訓として世に明らかにし二度と起こしてはならない戒めにこそすべきなのではないでしょうか。

 

・PTSDにさいなまれ自分の人生を台無しにしたばかりでなく、」その家族、その後生まれた私たち世代の子供にまで「尊敬できない父親」と思わせるような影響を与える「戦争は二度としてはならない!」とり訳、他国に出ていくような戦争をしてはならない。自分のような兵士を生み出してはならない。このことこそ父(父親たち)が私たちに伝えたかったことではないでしょうか。

 

・自民党安倍首相は憲法改正を公言しています。その狙いの先には憲法9条を変え、いつでもどこでも堂々と戦争ができる日本にすることです。そのことは亡き父、亡き戦友たち、第二次世界大戦に従軍した多くの兵士たちの願いを踏みにじることだと私は思います。

 

・私には今、確かに亡き父親の声が聞こえてきます。「息子よ、私の代わりに声をあげよ!」と、言っているのです。とするならば「あなたの万分の一しか取って代われないかもしれないが、それでもあなたの思いに近づき世の中の人たちに伝え広げる行動を起こします!」と私は応えたい。

 

・私は日本軍兵士のPTSDの悲劇を掘り起こし、世に出す「語り部」になりたい。

・先ずは地域の公民館を借りて、市報などで広報し始めてみたい。もちろん初めは何から何まで一人なのは当然だ。それでも続ければ賛同者に出会えるだろう。現にピースボートのクルーズ中の4回の私の自主企画(父と語れば・日本軍兵士のPTSD)に延べ100人を超す参加者があり、自分の父親について私と同じような気づきの体験を話し合う交流の場を持つこともできた。語り部を続けていけば、やがて仲間ができて、ネットワークができるかもしれない。そうなったらどんなに素晴らしいことだろう。その中からは第23の語り部が出てくるに違いない。それらの力が束になれたなら、もしも 日本が戦争への道を進もうとする時に、その前に立ちはだかる「5分の魂を持った両手を広げる虫」くらいにはなれるかもしれない。

 

・「語り部」の活動が実を結ぶのははるか先かもしれないし、局面、局面では何度となく敗北感を味わうこともあるに違いない。だとしても、今度は青年時代のように挫折したり沈黙したりはしないことにしよう。そういう時は沖縄の人たちの長い戦い、負けない戦い、いつの日か必ず勝つ戦いに学ばせてもらおう。時には敵と思われる人たちをさえ「いつかは味方に変える」心通わせる気長な取り組みを手本にしよう。あの人たちのように悲壮感など持たず、むしろ明るい気持ちで、未来に向かって、諦めず、粘り強く、亡き父と心通わせながら二人三脚で歩いて行くつもりです。皆さんが温かく見守ってくださることを心からお願いしたい思いでいっぱいです。

 

2016年4月

〒208-0001 武蔵村山市中藤3-15-4

                     ☎042―565―9580 

 

 黒井 秋夫

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動の根底に置くべきこと。

2018年11月25日放映

 

「BS1スペシャル・隠された日本兵のトラウマ〜陸軍病院8002人の病床日誌」に寄せて。

 

「抑圧民族の日本人諸君」の「呼びかけに応える

 

 

「被抑圧民族の我々から抑圧民族の日本人諸君!」

中国人青年はそう私たちに呼びかけた。

 

 

48年前。1970年の満員すし詰めの日比谷野外音楽堂だった。

 

77日、盧溝橋事件33周年の学生や青年たちで溢れ返る集会で圧倒的多数の日本人である私たちに向かい在日の中国人青年の第一声だった。私はその時の衝撃を今も鮮明に覚えている。

 

 

 

どんな内容だったかは消えて記憶にない。ただ「抑圧民族の日本人諸君!」と呼びかけられた衝撃だけが残っている。

 

20才頃、学生運動しているだけで「同じ仲間」だという意識以外は何の差別も区別も感じていなかった。その時に言われた呼びかけは衝撃だった。

 

今思うに、壇上に立った同世代の中国人青年は恐らく以下のようなことを言ったのだと思う。「人間であることだけで同志は保証されない。抑圧する民族と抑圧されている民族がある。あなたたちは抑圧する側で私たち中国人は抑圧される側なのだ。立ち位置が違うし役割も違う。あなたたち日本人はそこを自覚すべきだ」と。

 

77日、日中戦争を日本軍・日本帝国主義が仕掛けたメモリアルの日であるという意味にあの日まで私は余りに無自覚だった。

 

 

 

45年が流れた3年前、2015年末に「第二次大戦でPTSDの日本兵が存在した」事を確信し「無口で定職にもつけなかった復員日本兵の父親は戦争体験のPTSDがそうさせたのではないか」という考えに到達したのだった。

 

なぜ父親たちはPTSD・精神を侵されたのか。

 

2018年のこの秋、VFOPベテランズフォージャパンの集会でベトナムとイラク戦争からの帰還米兵がベトナムや日本への原爆投下、無差別爆撃に謝罪する姿、それでも今も戦争体験のPTSDに苦しめられていると聞いて私は父親たちのPTSDも戦地における加害体験がそうさせたのだと心に沁みて確信した。

 

 

 

父親たちはPTSDに終生苦しんだ。その姿は可哀想であり被害者に違いない。しかし、どうしてそうなったのかと辿れば罪もない中国の民の地に無断で押し入り、銃を向け作物財産を奪い取り、抵抗するものは殺害し、住居にまで火を点けた。まさに悪逆非道と言うしかない所業をした日本軍兵士だったからだ。

 

鬼の心から人間の心に戻ろうとしたときに自分たちが行った所業が、まざまざと沸き上がってきたに違いない。

 

平静な心ならおよそ思いもつかないような鬼の所業をしてきた自分をどのようにも説明できなかったに違いない。

 

PTSDに苦しむのも「言わば自業自得」と言うしかないという事だろう。加害者が苦しむのは当然の報いなのだ。

 

 

 

しかし、肉親はそれだけでは片づけられない。いかに加害者とはいえ大事な家族なのだ。夫であり、父親であり、祖父なのだ。彼らが存在したからこそ家族が存在したし、私自身が存在するのだ。全ては否定できない。

 

父親たちの加害に突き当たったならば、少なくとも逃れて生きることはできないのだと思う。どのように生きるとしても「加害者の子孫・家族として被害者に向き合う生き方、説明できる生き方」が問われているように思う。

 

 

 

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」も正にその渦中に存在する。

 

「PTSDに苦しむ兵士とその家族」としては被害者と言える。

 

しかし、父親たちは加害者でありその所業には被害者がいる。被害者には当然家族がいる。

 

私と同年代の人達がいるだろうし、その人たちにはもう孫もいるだろう。

 

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」はそういう被害者の人達への言葉を持つ必要がある。日本の人達に理解してもらう活動は当然のこととして、被害者の人達、中国・朝鮮半島・アジアの人達にも理解していただく努力なしに「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が存在する理由も意義もないのだと思う。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が存在する理由は何か。PTSDに苦しむ兵士をなくすることだ。それはこの世から戦争をなくすることだ。その事は日本人の努力だけで成し遂げられることではない。当然世界中の人達、とりわけ父親たちが加害した中国・朝鮮半島・アジアの人達の共感を得て初めて前進する活動に違いない。

 

 

 

あの時、「抑圧民族の日本人諸君!」と中国人青年が呼びかけたのはそういう事だったのだ。

 

私はようやく理解した。やっと辿り着いた。父親に感謝したい。あなたのおかげでここまで来れました。

 

あの中国人青年にようやく向き合える気がします。

 

おそらく、率直に父親たちの所業をお詫びすることから始まるのだと思う。

 

それは今からでも遅いということは無い。気付いた今から初めても良いのだ。

 

あとは私たちの生き方で応えていくことしかないのだと思う。

 

およそ50年がかかった。ようやく一緒の地平に立てそうな気がする。

 

2018年11月25日 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」 黒井秋夫。