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「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の主張と2019年末までの活動方向。2018.10.14集会レジュメを公開します。

 

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」のめざすこと・今後の活動。

 

8000人の記録の水面下に100万人の戦争神経症の復員日本兵が埋もれている。

 

□従軍した父親は戦争体験に何故口を閉ざし続けたのか。

 

私たちの父親たちは一様に戦争体験を子供や妻、家族には生涯無口で口を閉ざしたままあの世に逝った。

 

なぜ無口だったのか。話さなかったのか。

 

私の父のアルバムによれば、父は「満州」への入隊時、上官に「故郷に威張って帰れ」と訓示を受けている。素晴らしい仕事をした。手柄を立てたと帰ったら自慢しろと訓示された。しかし口を閉ざした。なぜ威張って話さなかったのか。普通に言えば、戦場でしたことは自慢できることではなかった。と言う事だと思う。もう少し想像力を働かせれば「家族にも言えない(ひどい)ことをしてきた」と言う事ではないのか。

 

□ETV特集からベトナム戦争の米軍と日中戦争の日本軍が相手国住民に囲まれ包囲される環境は同じと分かる。

 

 「臓躁病」発症の多い北支の1940年頃、日本軍は主要都市を結ぶ交通路は支配できたが、その周辺は中国軍(主に八路軍)支配地域に囲まれていた。日本兵は常に圧迫感を感じていただろう。相手は正規軍に加え農民の民兵(土地の住民)であった。つまり夜になれば周り全てが敵だった。

 

  疑心暗鬼になり、周辺住民全てを敵として、殺す前に殺す心理に駆り立てられ、襲撃した集落を最後に火を掛けて焼くという日本軍の行動となったと思う。

 

 ・それから25年後。米軍はベトナムでかつての日本軍と同じように、点と線は確保しても周囲は解放区に囲まれていた。住民と民兵との区別もつかなかった。それが無差別爆撃やベトナム人集落を 焼き尽くす戦闘行為になった。まさにかつての日本軍と同じ状態だった。

 

・ そして多くのアメリカ兵が戦争のトラウマに病むことになった。兵士の3割~5割と言われている。そして兵士のPTSDはアメリカでは社会問題となり対策が講じられ始めたのだ。

 

・だとしたら、ベトナムの米兵と同じような環境にあったアジア太平洋戦争、日中戦争の日本兵に戦争のトラウマ(臓躁病)が発生して当然ではないか。米兵も日本兵も同じ人間なのだから。

 

□真っ白な精神で復員した日本兵など一人もいない。

 

・私たちの父親たちは戦争で体験したことについて口を閉ざして生涯を送りあの世に逝った。とても家族にも話せない従軍時代の体験、逃れられない事実を抱えて復員し、終生口を閉ざして従軍体験を封印し続けた事。そのこと自体もストレスであり消えることの無い心の中の重石だったのではないでしょうか。父親たちは心の中に重石を終生抱えながら生きていたのではないでしょうか。

 

真っ白な心で晴れ晴れした心で復員した兵士など一人もいない。戦争でその精神に変調を見ない復員兵など一人もいなかったのではないでしょうか。従軍した父親たちは大なり小なり精神の一部を病んでいた。そうして生涯を送ったのではないでしょうか。

 

□なぜ父は同級生の父親たちと違い「ちゃんとした仕事に就いて働かなったのか」。

 

子どもの頃の私の生活は貧乏でした。戦争前は地元の炭鉱で働いていたという。その事さえ父親の生前は知らなかったのです。父は1946年に中国から復員した。そして私は1948年に生まれた。

 

物覚えがついた頃、父は土木工事や建設現場を渡り歩く労働者でしたが、失業保険の対象期間だけ働くと、保険給付期間が切れるまでは次の仕事にはつきませんでした。わたしは子供だったので、父のそういう働き方が普通だと思っていました。しかし、成長するにつれ一年中休みなく働くのが普通で自分の父親は普通の働き方ではないのだと知るのです。なぜ自分の父親だけがそうなのか。分かりませんでした。

 

私は高校、大学と進みますが学業費用は全て国の奨学金でまかないました。親からの仕送りや援助を受けた事はありません。

 

そして、大人になるにつれ「父親のような人間にはならない」というのが私の強い心の決意でした。家が貧乏なのに「まともに働かないような男にはならない」と強く思うようになりました。いわば父親を私は尊敬できませんでした。ただ反面教師でしかありませんでした。

 

□「父と暮らせば」、亡き父との対話が始まる。父親像が変わっていく。ベトナム戦争の帰還米兵と日中戦争に従軍した父親が重なった瞬間。

 

2015年、南半球一周の船旅に参加した。横浜からベトナム・ダナン港に向かう途中の船内でベトナム住民が全て敵に見えて「殺される前に相手を殺す」残虐な作戦を続けるうちに「精神を侵されていく」若い米兵が主人公の映画、プラトーンを見た。アメリカに戻っても社会に順応できないPTSDに苦しむ米兵のビデオを見た。その時、中国の住民を敵に回して戦う父の苦しそうな姿と重なったのです。それは瞬間、雷に打たれたような感覚の気付きでした。私のブログ名は井上ひさしの戯曲と同じタイトル「父と暮らせば」。その時から亡き父と私は対話を始めたのです。

 

私の父親も戦争体験で精神を侵され復員後の戦後日本社会に順応できなかったのではないのか?

 

 ・そのひらめき、気付きは私の人生観、その後の生き方を変え、今に繋がっています。

 

 私は父を尊敬できなかった。その気持ちが少しづつ溶けて行きました。

 

父よ、あなたは苦しんだのだ。50年以上も心の中に重石を抱え、積乱雲を抱え生きて、そのまま戦争を語らずにあの世に逝ってしまった。私の父だけではない。戦争体験に無口だった復員日本兵たち(私と同世代の父親たち)も同じ精神だったのではないでしょうか。

 

□8000人の記録の水面下に100万人の戦争神経症の復員兵が埋もれている。

 

・ベトナム戦争の米兵の戦争のトラウマはすぐにアメリカの社会問題となり、最善かどうかは別にして種々の対策が講じられてきた。そして50年が経った。しかし、日本はどうだ。

 

日本兵の戦争によるトラウマの研究者が存在し発言してきたにもかかわらず、政治も社会も精神医療からも社会に問題提起されることはなかった。アジア太平洋戦争で(それ以前の戦争は勿論)日本兵に戦争のトラウマが発生したことがいまだに隠されているというのが日本の実態ではないか。

 

・ベトナム戦争に従軍した米兵の3割~5割が戦争のトラウマを抱えているとしたら、同じ環境だった日本兵にも同じように3割~5割の割合で戦争のトラウマを抱えて復員したと類推して大きな間違いはないのではないだろうか。

 

・先の大戦で総数700万人の日本兵が従軍した。だとしたら、100万人単位の戦争神経症の復員兵が存在したことになる。戦後世界の日本の社会状況で自分自身を戦争神経症と自覚することなどできなかっただろうし、通院した人もごく少数だったと思う。つまり、おびただしい数の戦争神経症の復員兵は埋もれてしまったと私は思う。ベトナムに派遣された私と同年代の韓国兵も米兵と同じことが起きていると私は思う。

 

□戦争を始めるという事は、たとえ戦争が終わっても国民の心の中に重石を抱えて生きることを強制することだ。

 

・戦争とは、戦争を始めるという事は、終戦で全てが終わるのではない。従軍した兵士とその家族には長く、重く、つらい戦後が続くという事なのだ。

 

 

 

 PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」ができた理由(ホームページより部分転載)。

 

□「腑に落ちない父親」は戦争が原因だったのではないのか。気づきの機会を作りたい。

 

・ETV特集の中で、精神障害兵士として復員した佐川薫(仮名)さんの姉よしえさんは「弟は何をするために、何しに生まれて来たんだろう」と我が子につぶやいたと言う。そしてよしえさんの息子は顔をぼかした映像で話した。既に当事者の精神障害兵士の叔父もその姉である自分の母もこの世にはいなくなったけれども、顔を知られることに抵抗があったのだと思う。日本兵の戦争神経症の存在はまさに隠されてきた。戦争中も以降も。今に到るまで。まさに「この国(日本)だからこそ起きた」し、起きていることなのだと思う。

 

・戦争神経症の兵士が存在したことを隠し、戦争を続けた日本。病院を作り存在を知っていたにもかかわらず「病床日誌」の焼却・証拠隠滅しようとしたこの国・日本。戦争の実態を国民には知られたくなかったこの国・日本。それは国民を、人間を大事に扱おうとする姿勢だろうか。大事なのは何だったのだろうか。国民なのか?戦争指導者たちなのか?軍隊なのか?天皇なのか?

 

・「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」は宣言する。一番大事なのは一人一人の国民だ。一人一人の人間の命だ。かけがえのない一人一人の人生だ。この視点がこの国には今もなお欠けているように思う。

 

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」声を上げた。しかし、戦後70年経っても「顔をぼかしてしか」テレビにでられない、心に抵抗感を持っている多くの精神障害兵士とその家族たちがいる。その人たちが、誰でもが堂々と声を上げられるように「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」は活動していくつもりだ。

 

 ・ETV特集の中で清水寛さんは最後に言った「戦争の精神障害を未来の子供たちに体験させてはならない」。

 

全く同感だ。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」は今は弱小組織であるが、「この国(日本)」の風潮を、流れを少しでも変えていく橋頭保として存在する覚悟だ。多くの皆さんのご支援を切にお願いしたい。

 

 

 

・私の知っている父は覇気に欠け、困難に会うと立ち向かえなかった。私にはそう見えた。今は亡き父を一方的に断罪しているようで申し訳なく思うが、考えて欲しい。「覇気に欠けると見えた」のが戦争体験によるPTSDだったとしたならどうなのだ。 だとしたら「覇気に欠けると見えても」それは父の責任ではない。責任があるのは戦争ではないか。日本が戦争を始めた事が原因ではないか。責任は戦争ではないか。

 

「従軍したが故に心に傷を負い」本来の自分とはかけ離れた(時にはかもしれないが)息子には覇気がないと見える

 

父親としてしか生きることができなかったとしたら責任はどうなるのだ。

 

そして否応なく影響を受けざるを得なかったPTSDの復員日本兵の子供たちや家族はどうなのだ。

 

・父の恥、家族の恥として自分たちの心の中に仕舞い込むのも一つの方法だ。

 

しかし、それでは戦争中に(戦後に到っても)戦争神経症の兵士や負傷兵を「一人前の兵士ではない」として扱い、戦争による戦争神経症の日本軍兵士など存在しない、「戦争で精神を病む弱虫な日本兵はいない」とした戦前と同じ轍を踏むことになるのではないのか。

 

・私が本当に言いたいことは「私の父はPTSDの復員日本兵だった」と言う事ではない。

 

 本当に言いたいことは「私の父をPTSDの復員日本兵にしたのは戦争だ。日本が始めた戦争のせいだ」と言う事だ。

 

 「戦争が無かったら、日本が戦争を始めなかったら覇気のない父親ではなく、はつらつとした父親が存在したかもしれない」と私は言いたいのだ。

 

・「私の父親は覇気に欠ける人間だった」と言う事を公にしたいのではない。

 

「覇気に欠けるように見える父親にしたのは戦争だ。日本が戦争を始めたからだ」と私は言いたいのだ。

 

・「私の父はPTSDの復員日本兵だった」と声を出すことは様々な重圧や葛藤と向き合い続ける事を意味する。

 

・たしかに、私の父にはそれと分かる重いPTSDではなかったかもしれない。医者や病院の精神科で治療を受けたこともない。

 

・しかし、腑に落ちない事が多々あるのだ。満州事変に従軍した時のアルバムに記したはつらつとした青年らしい姿が私の知る戦後の陰鬱な父の印象とは余りに隔たっているのだ。戦争体験が父の精神に大きな変化をもたらしたとしか思えないのだ。そうだとしたら腑に落ちるし説明がつく。しかし確証はない。

 

・この文章を読む皆さんの中にも私と同じように「腑に落ちない父親像」に悩んでいる人たちがいるかもしれない。

 

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」はそういう人たちが「心を開いて語り合う場所を提供する」為にできたのです。

 

・そういう場所はまた心ある多くの人達の優しいまなざしがあって初めて成立するのだと思います。

 

・「腑に落ちない父親像」に自分だけで悩んだり苦しんだりするのは止めにしようではありませんか。

 

意見交流の場に集ってほしい。声を上げてほしい。みんなで渡れば怖くはない。

 

そうだ!みんなで渡れば怖くはないのだ!

 

 

 

  自衛隊員とその家族を「戦争とトラウマ」に苦しませてはならない。

 

日本が戦争を始めたり戦争に加わるようなことをしてはならない。

 

 

 

□安倍首相の憲法9条改定を急ぐ動き、自衛隊が「駆けつけ警護」と称して外国の軍隊の戦闘支援に参加できる法律解釈、集団的自衛権の合憲解釈など日本の政治が戦争から遠ざかる(平和)方向ではなく戦争に近づいていくようでとても心配です。

 

・すでにイラク戦争に派遣され「戦争によるトラウマ」に苦しむ自衛隊員が出ています。イラク帰還後に29名の隊員が自殺しています(国家公務員一般労組HPではイラク帰還兵の自殺率は日本の平均の14~18倍だと言います)。

 

PTSDの症状の為に今なお病院に入院している隊員の存在が報道され明らかにされています。

 

・しかし自衛隊員の「戦争とトラウマ」は大きな社会問題にはなっていません。そもそもトラウマに苦しむ自衛隊員を作り出すことが問題ですが、それにしてもそういう隊員にはどういうケアが、社会復帰への手立てがされているのでしょうか。家族にはどういうフォローがされているのでしょうか。

 

・「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」はアジア太平洋戦争の日本兵とその家族の組織ではありますが、今とこれからの未来を考えると「自衛隊員とその家族」が抱えるかもしれない問題をも背負うのが道だと思います。

 

・いま、日本には自衛隊員を家族に持っている何十万人の人達がいます。今はそうでなくとも、将来に自分の子供たちが、孫たちが自衛隊員と家族を作ることも十分にあり得ることです。

 

・「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」は自衛隊員が戦場に行くことがないように力を尽くします。

 

自衛隊員とその家族に心を配り、「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の仲間に加える努力をします。

 

日本から、世界中から戦争がなくなることを目標に

 

粘り強く諦めず小さくても輪を広げるよう歩き続けます。

 

 

 

  PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の今後の活動

 

 

 

■「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」学習交流会を年1回定例で開きます。

 

2019年は824日(土)に会場は武蔵村山市中藤地区会館を予定します。

 

・例年8月は広島長崎の原爆忌、15日の終戦の日の前後に戦争をテーマにした催しやテレビ・新聞報道が多くなり国民の戦争に関する関心が高まる時期に毎年定期的に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の最大の催しを開くことにします。武蔵村山市中藤地区会館をホームランドにして活動を広げます。

 

■1000人アンケートをホームページ、主催する催しで収集して復員日本兵の家族の声を集めます。アンケートのデータはホームページで常時公開します。

 

・「復員日本兵の戦争とトラウマ」の実態を拾います。社会に広げます。

 

20193月ころ。武蔵村山市緑が丘コミュニテーセンターで「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」主催の学習交流会を開きます。

 

・都内最大の住民が暮らす村山団地の多数が高齢者でアジア太平洋戦争の日本兵士の子供世代に当たるからです。

 

2019年11月ころ。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」会員・支援者交流会(総会)を開きます。

 

・開催場所は交通の便利なところを考えますが未定です。

 

□戦争や平和に関する催し、学習会などで「PTSDの復員日本兵とその家族」をテーマに取り上げるようホームページなどで広報します。その場合、学習会講師、資料とプログラムを提供します。

 

□戦争や平和をテーマにした集会、催しで「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を知らせる活動をします。

 

□「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」のホームページで会員、支援者の交流を広げます。

 

□自衛隊員とその家族とのつながりも意識して活動を広げます。

 

□「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の会員、支援者を増やします。

 

 

以上