8月25日「おしゃべりカフェ」講演・発言者ドキュメント。
(講演者・発言者点検終了分)
★室田元美さん。
ルポのフリーライター。これまで全国70か所あまりを訪ねてきた。それぞれの土地に眠る戦争の記憶を掘り越し次の世代に伝え残そうとしている人からお話を伺っています。様々な土地に戦争を掘りおこして、例えば碑を建てて亡くなった人たちを追悼したりしている人たちを訪ねる。そういう人たちは30年も40年もずっと地域で活動しています。分厚い資料集などを持っている。一般の人は中々読むことは難しいのでそういう人たちに代わって私が各地を旅人のように訪ねて、この土地にどんなことがあったのか読者に伝えたいと思い本を書いています。日本で戦争と言いますと被害継承が中心だが、それだけでなく日本が他国・他民族にしてきたことという加害にも焦点を当ててより複層的に戦争について考えてもらいたいとこれまで2冊の本を出しました。取材のテーマは日本で戦時中にどんなことがあったのか。原爆、空襲、戦時動員、加害と被害の問題を伝える地域の人々を訪ねる。北海道から沖縄まで全国を訪ねています。戦後70年以上経ても解決しない問題について考える。例えば空襲被害者の方々の補償問題、旧植民地への謝罪と補償。日韓関係を見ていても旧植民地への対応がちゃんとできていないことが関係していると思います。今日うかがった元兵士のトラウマ・PTSDの問題も2第3代引き継いでいる人がいるということも解決していない問題の1つなのかなと思います。解決していない問題の一つとして戦時強制労働という徴用工の問題を含むいくつかを今日はお話しします。戦時強制労働の現場を訪ねる。朝鮮人・中国人・連合軍捕虜が日本で強制労働させられた。背景は日本の若者が戦場に行ったので労働力不足を補うために国と企業が人材を外に求めたということです。一番多かったのが徴用工問題になっている朝鮮人ですが、国家総動員法で日本人にされていた約80万人(強制連行80万人と教科書にも載っていると聞いている)。日本の炭鉱やダム・軍需工場などで労働を強いられて多くが犠牲になった。企業の名簿などから判明しているだけで15000人の名前が分かっている。実際は(徴用工で)原爆で亡くなった方や空襲で亡くなった方もいるので名前が不明な人も含め被害者はもっともっと多いと思われます。中国人の場合は中国での戦争の捕虜や、街や農村から強制連行された約4万人が日本に連行され全国35の企業135の事業所で労働させられて6830人が死亡している。連合軍の捕虜は米・英・オランダ・オーストラリアなどの約36000人が日本に送られて労働現場などで3559人が死亡している。
強制労働の現場を沢山訪ねていますが武蔵村山に一番近い「浅川の地下壕(八王子)」を紹介します。総延長10km。松代大本営と並ぶ規模でした。松代と同時期に1944年9月(松代は11月)に工事開始。浅川地下壕は最初は大本営の候補だった。中島飛行機の武蔵製作所の移転先になった。ほとんど生産する間もなく終戦になった。ここでは日本人と共に約200人の朝鮮人が働かされていて死者も出ています。近くの寺の過去帳に名前の記載があります。中田先生という高校の先生が自分の生徒を連れてこの浅川地下壕の調査をし地図を作ったり近隣住民の聞き取りをして全貌が明らかになった。今も毎月フィールドワークがあるので誰でも参加できます。
一般の民家の横から地下壕に入ります。公開されているのが1km〜2kmと思います。中は真っ暗でぼこぼこです。
軍艦島。2015年に世界文化遺産に登録されました。明治時代からの海底炭鉱で、ここの石炭が国の近代化を支えとたいうことで世界遺産になりましたが、大正時代には8階建ての近代的な高層住宅があった。海底に潜り採炭した。ここで働かされていた現在は韓国在住の元坑夫の人が当時の状況を証言しに来られた。私は直接お聞きしたが「地下に潜るのが怖かった」「仲間が泳いで島から脱出しようとした。泳ぎが達者な木浦の当たりの人でも溺れるほど潮の流れが激しいので全員が捕まった。その後に瀕死の拷問にあった」と話されました。中国人と朝鮮人が強制労働させられた。亡くなっている人も多数いるが世界遺産になった後で「負の歴史を表に出したくない」ようで住民の人たちが「ここではみんなが仲良く仕事をしていました」そういうキャンペーンが張られているということもあって本当のことを伝えることが今は難しくなっていると思います。
花岡鉱山。秋田県大館にあった。花岡川の橋の架け替え工事をさせられていた中国人たちが、朝昼の食事が「マントウ1個。夜はおかゆ一杯と言うような栄養失調になるような食生活と寒さとひどい拷問、非人道的な扱いを受けた。それに耐えかねて1945年6月30日一斉蜂起をした。看守を殺したりしてみんなで逃げ出した。捕まって首謀者たちは天井から吊るされて鞭で打たれ、ほかの人たちは二人一組で炎天下に砂利に上に膝立ちさせられて縛ったまま3日間は放置されて、夏なのでかなりの死者が出た。花岡事件だけで100人以上の死者が出た。これが岡事件と呼ばれる。作家、野添憲治さん(『花岡事件の人たちー中国人強制連行の記録』)にお話しを聞いたがPTSDに関する様な話があった。日頃から中国人たちを虐待していたのは鹿島組の補導員で多くが日中戦争から帰還した傷痍軍人だった。傷痍軍人の人たちが現場監督をしていて、中でも残酷だったのは片足を失っていて義足だったということです。中国で酷い目にあったので腹いせで目の前の無抵抗で弱い立場の中国人労働者を痛めつけたのではないか、と野添さんは話していました。戦後3人の補導員にBC旧戦犯として絞首刑が言い渡された。その後終身刑に減刑された。PTSDに通じるものがあると思いました。中国人の被害者と鹿島が2000年に和解をした。和解金として5億円が払われ被害者への救済と記念館を建てて「こういう歴史が二度とないように伝えましょう」ということで記念館を建てた。入口に「花岡事件の拷問の絵」が掲げられている。当時働いていた中国から来た人が「正にこういう目にあっていた」と話していました。
中帰連の碑。中国で戦争中に従軍していた日本兵のうち戦後シベリア抑留を経て1950年に約1000人の兵士が中国の撫順と太原の戦犯管理所に送られた。戦犯管理所で元兵士たちは中国人職員よりも良い待遇を受けた。中国の職員が貧しい食事なのに元兵士たちは栄養たっぷりの物を食べさせてもらった。シベリアのような強制労働もなかった。病気をすると病院で手厚く見てもらえた。周恩来が「戦争が終わっているのだからこの人たちを客人として扱うように」と指示したからだということです。元日本兵は6年間そういう境遇の中でぬくぬくとしていた訳ではなく、一方では自分のやって来たことに向き合うことを迫られる。戦犯の裁判も控えているし、自分の過去の行為を洗いざらい出さなくてはいけないと言う非常に過酷な日々があったということで、あまりの苦しさに耐えかねて自殺者も出た。なぜ苦しかったかというと「奪いつくし、焼きつくし、殺しつくす」という三光作戦といわれる残虐な行為をしてきた兵士がとても多かったからです。中国人を前にして自分の行為が思い返されたわけです。最終的に戦犯の裁判で誰も死刑にはならなかった。誰も死刑にならずに帰還できた。帰国後、兵士たちは有志で中国帰還者連絡会(中帰連)を結成した。中国でしてきたことの証言活動を通じて日中友好、反戦平和を実践してきました。川越市に中帰連平和記念館を作った。ここでは勉強会が行われたり、図書や貴重な裁判記録、戦犯たちが持っていた資料などが保管されています。中帰連千葉支部がお寺に立てた中帰連の碑もあります。中帰連の人たちは生涯、亡くなるまで証言活動をして自分の加害体験をつぶさに話してこられました。北村さんの話しの中で精神科医の野田正彰さんが「日本兵は精神的に傷つくことが少なかった」という指摘があり、本当にそうだとは思いますが中帰連の人たちは「傷ついて、その後に生まれ変わった」。「鬼から人間へ」と本人たちは言っている。こういう人たちもいることを紹介しました。
まとめ
中国での戦争で心身に深い傷を負って花岡ではより弱い立場の中国人労働者に復讐のような拷問をした兵士もいたし、中国の戦犯管理所で人間らしい扱いを受けて罪を悔いる事ができた元兵士もいた。もともとの人間性に違いがあったとは思えない。多分戦争がなければ畑を耕して家畜を飼ったり親孝行な優しい人たちがほとんどだったと思います。そういう人たちが戦場に行くと鬼になったりひどい事ができたり、そういうことをされたり、人間の尊厳を奪われるような目にあったり、戦争が人を変えてしまうということがあると思いました。その後の環境、中帰連の人たちはやったことをみんなの前でずっと生涯話すと言う場があり、苦しみを共有する仲間、共感して聞いてくれる人がいたということ、そういう環境にあったと言う事が恵まれていたかもしれないなと思います。一方、ほとんどの兵士は孤独に戦場のトラウマや苦しみを個人で抱えこんで生き続けたのではないかと思いました。今日のNHKのVTRなどから都合の悪いことは語られないできているということも感じましたし、日本兵のトラウマということでしたが被害を受けた中国の人たちもものすごく怖い思いをしたわけで、家族も殺されてと言う残酷な目にあった方々はどういうトラウマを受けたのかというようなことを考えてみました。父親・兵士=男ということですが家族にはお母さんがいたりお姉さんがいたり、またVTRでは泣いていた女性がいましたが、女性で暴行されるということは生涯消えない傷であるということ。そういう視点もあるということをこれからも考えていきたいと思います。
★北川直実さん。
編集者。一冊の本から始まった若者たちと取り組んでいるプロジェクトについてお話させていただきます。
その本は『若者から若者への手紙 1945←2015』(ころから)という本です。戦後70年の年に出版しました。15人の戦争体験者の「証言」と、その証言を読んだ2015年に10代、20代の若者15人が証言者へあてた「手紙」から構成されています。なぜこの本を作ったか。いまの人たちにとっては、戦争は戦後70年が経ち遠い昔のお話の中の出来事になってしまい、実感を持てないし興味もなかなか持てないという現状があると思う。戦争体験を語れる方たちも、あと10年もしたらいなくなってしまう。そんな中でどうやって若者たちに戦争体験を継承していけるだろうか、興味を持って自分たちに引き付けて考えてもらえるかということを、真剣に考えました。ここに取り上げた戦争体験を証言された方たちの、1945年8月15日の平均年齢は18.5才でした。そして、手紙を書いてくれた若者たちの平均年齢は2015年に22.4才でした。ですから現代の若者たちは、同世代の若者の体験として想像し、もし自分たちがその時に生きていたとしたなら、自分だったらどうしただろうかと、同じ立場に立って、自分事として考えてくれるのではないかと思ったのです。この70年の時を超え交信した若者から若者への「手紙」は、北村先生からも「戦争体験を次の世代に伝えていくための一つの実験的な試み」と、書評で高く評価していただきました。出版以来30以上の新聞雑誌等に取り上げられ、多くの若い人たちにも届ける事ができたと自負しています。
出版から2年が経った頃に、この本を世界の人たちにも読んでもらったらよいのではないかと言ってくださる方がいました。JBBY(日本国際児童図書評議会)からは「海外に紹介したい若者向けの本」に選書していただきました。私たちは、普遍的な戦争として「アジア太平洋戦争」を捉えたならば、世界の若者たちとも、戦争や平和について、語り合えるのではないかと考えました。そうして「翻訳プロジェクト」を2017年12月に立ち上げたのです。
「証言」の翻訳はアメリカ人のプロの翻訳家にお願いしましたが、「手紙」の翻訳は日本語版と同じように、10代、20代の若者たちに翻訳してもらうことにこだわりました。日本人だけでなく、中国、韓国、フィリピン、シンガポール、ペルー、セネガルにルーツをもつ若者たちに参加してもらいました。かつての加害国と被害国の若者たちが一つの本を共同作業でつくるということにも、一つの意義があると思ったからです。さまざまな人たちの協力があり、2019年6月に英語版は完成しました。英語版は電子書籍で出版しましたが、そのための費用はクラウドファンディングで、160人余りの方たちの御支援・賛同によるものです。翻訳プロジェクトの新たな試みとして「世界の人たちと語り合おう」ということで、英語のホームぺージを立ち上げました。今、翻訳した若者達が英語で書いた戦争体験者への手紙を、交流サイトにアップしています。まだ始まったばかりですが、国境を越えての対話がここから生まれたらと、この取り組みを大切にしたいと思っています。
8月10日の出版記念シンポジュームで翻訳者の一人の若者が「語り継ぐことは未来の命を救う」と話したことが黒井さんの心に響き、私が今日ここに来ることに繋がりました。この本は色々な人たちを繋いでくれます。このプロジェクトと共に、世代や国境を超えて、平和の輪を広げていきたいと思っています。
★星野泰久さん。
「中帰連平和記念館」幹事。「米国の原爆投下の責任を問う会」運営委員
戦後生まれの私たちは何を学ばなければならないか、何をやるべきか。
父親はシベリア抑留から帰還。私自身は、研究者ではなく印刷会社の社員でした。
いくつかの著作とエピソードをお話します。
① 倉橋綾子著「憲兵だった父の遺したもの(高文研)」
父が娘に死ぬ間際に遺言を託す「中国人に対する謝罪を墓に刻んでくれ」と。家族に相談したが、兄の反対もあり刻めなかった。倉橋さんは「中国で何があったのか」を調べ、中帰連のことを知る。戦後の日本人の加害意識の欠如に気づいていく。最後は葛藤の末に墓に刻む。墓に刻まれる前に1998年1月ETV特集で「戦場の父の罪をめぐる対話」というタイトルで放映された。
② 「私の従軍中国戦線」―村瀬守保写真集 兵士が写した戦場の記録 日本機関誌出版センター
1937年召集された村瀬さんは従軍記者ではないが3000枚の膨大な戦場写真を残している。南京事件の生々しい焼死体の写真、兵士が順番待ちしている「慰安所」の写真など。キャプションや解説も本人が当時を思い出して入れたようだ。1980年代になってはじめて渋谷の山の手教会の戦争展で公開。「一人一人の兵士を見るとみんな普通の人間であり、家族では良きパパであり、良き夫であるのです。戦場の狂気が人間を野獣にかえてしますのです」(P154)
③ 「金子さんの戦争」中国戦線の現実 熊谷伸一郎著 リトルモア
当時、軍隊では私的制裁、初年兵教育は日常でした。それに関する話は中帰連にはたくさんの証言があります。(参照ください。金子さんの戦争)
金子安次(やすじ)さんの証言の中に「女(婦人)に抵抗されて古年兵が強姦しそこなった。その女性を引きずり回して井戸の中に投げ込んだ。先ほどまで女が抱いていた4,5歳の子供が母親恋しくて井戸の周りをぐるぐる回ってそのうちに踏み台をもってきて中をのぞいて、マーマーと叫んで井戸の中に飛び込んだ。これを見ていた古年兵は「金子、これじゃかわいそうだから、手りゅう弾をぶち込んでやれ」と言った。金子さんはその後、「自分が子を持ち孫を持つようになると、その子らを見るたびにこの時のことが頭に浮かぶんです。」そう金子さんはやっとの思いで、私に語った。
参照「私たちが中国でしたこと」P117から要約
金子さんは、「女性国際戦犯法廷」で証人になって強姦の発言をしている。NHKで放映されたが、(前の晩にNHKから電話で放映してもよいですねと念を押されたが、)そのシーンは政治家の干渉で改竄され放映されなかった。
(中帰連の人たちが書いた本を読んでいると)中国の現地では「刺突訓練」という言葉が、必ず出てくる。従軍した初年兵のほとんどがやらされる。そこらの捕虜や農民を縛って的にして直接銃剣で刺し殺している。必ず通過儀礼のように試練として肝試しとしてやらされる。医師などは外科医になる為に生体解剖をさせられる。(将校は試し斬りをさせられる。しないと部下に馬鹿にされる)そういう事がかなりの数で出ている。
中帰連のこと
「中帰連」の人たちは日中戦争に、従軍した「満州国」のトップの官僚、医師、将官、佐官級、憲兵から2等兵までの1000名ちかくの将兵たちです。単なる戦友会とは違います。高学歴の者から貧しい農民の出身のものまで幅広くいました。
彼らは、中国で散々残虐なことを行ってきました。敗戦後、シベリアに抑留され、その後1950年中華人民共和国の撫順戦犯管理所に移管されました。(戦後、山西に残留して太源戦犯管理所に収容されたものもいます。)当初はひどく反抗していましたが、人道的待遇の中、有り余る時間を使って自分たち自身の今まで知らなかった学習と指導員の献身とによって彼らは、自分たちが犯した罪を次第に認め中国の被害者と和解した稀有な集団です。彼らは、日本に帰ってきてから洗脳集団とか中共帰りと言われ差別され就職もままならなかったですが、強い信念を皆持って活動してきました。日本の軍国主義が復活してきたときは、彼らはいち早く立ち上がりました。自分たちの加害証言活動を行って警鐘をならしてきました。
以上
★遠藤美幸さん。
神田外国語大学教員(歴史学)。2002年から戦場体験者の聞き取りを続けています。主にビルマの戦場の生存者の聞き取りを行っています。インパール作戦の後、1944年6月から9月に、北ビルマと雲南省の境の2000mの山上で約1300人の日本兵が全滅した戦いがありました。これは拉孟戦といいます。現地では「松山戦役」と呼ばれています。「ラモウ」とは日本軍が勝手につけた呼び名です。拉孟戦はほとんどの日本人は知らない戦争ですが、私は関係者に出会ったことがきっかけで、その戦争を追うようになりました。なかなか資料もなく、日本の公文書は怪しい。そこでイギリス、アメリカ、中国の資料を捜しました。並行して全滅戦なので生きている人も余りいないのですが、「生きている人を探そう」と思って、いろいろな慰霊祭などに足げに通ったり、部外者が入れてもらえないが戦友会を紹介してもらいました。2005年からガダルカナル戦とかビルマ戦に従軍した戦友会に、研究者というよりも「お世話係」という形で関わる事ができるようになり、今年で14年目になります。そこではひたすら黙っておじいさんたちの話を聞いていました。当時はおじいさんたちもまだ80才台で元気で付添人はいませんでした。しかし、だんだん付添人でお嬢さんとかお孫さんが一緒にいらっしゃるようになります。
戦友会でどんな話をしているかというと、軍隊特有の隠語が飛び交ったりして、最初は何を言っているのか分かりませんでした。しかし、質問はできません。ただひたすら耳を傾けました。そういう状態が長期間続きました。そのうちに安倍政権下になり「戦友会=右翼のうさんくさい団体」思われがちですが、イメージが先行してか保守系のいろんな人がやってきます。しかし、戦友会のおじいさんたちはそれほど保守でもない、ちょっと違う顔が出てきます。そういう中で「戦友会とは何なんだろう」「お爺さんたちの戦場体験とはどういうものだったんだろう」とか少しずつよそから入ってくる保守系の若者たちの揺さぶりで見えて来るものがありました。揺さぶりの1つが2015年の怒涛の如く押し寄せたマスコミでした。マスコミはインパクトのある記事を書くためにぱっと来てぱっと帰ります。一回か二回来るだけです。そうするとお爺さんたちは喜びそうな定番の戦場体験を用意している。何度も何度も同じ話をするのですが、本当の話はそう簡単には話せません。戦友会でも言えない話がたくさんあることが今になって分かります。上官がだんだん死んでいきます。そうすると話せる話しもありますし、上官がいても「言っていることに対してあれは少し違う」とこっそりと私に教えてくれました。半面、いろんな人が戦友会に入ってくると、戦友会が戦友会でなくなっていくという状況になっていきます。このようにして資料には無い戦場、北村先生がおっしゃっていた「オーラルヒストリー」という方法で聞く経験を積んできました。当時は20名くらい在籍していた戦友も、いま現在は参加できる方はお一人、「最期の一兵」になってしまいました。
相次いで亡くなられるので、お世話係としては、葬式に行くことが度々あり、初めてご遺族(息子さんや娘さん)に出会うことがあります。そうすると「父が足しげく通っていた戦友会は大嫌いだ」と言われることもあります。あるいはまったく連絡が取れなくなる。しばらくすると一通の手紙が届いて「父とは縁を切っていました」との文面。また90歳後半になると娘さんが付き添いでいらっしゃいます。そうなると女同士なので娘さんと交流していくうちにお父さんが亡くなった後に資料を頂いたり、お父さんがどういう人だったのか初めて娘さんの目線で聞くことがあります。今ちょうどその機会が訪れています。次の世代に戦後70年以上を経てどんなふうに家庭の中で体験が伝えられて行くか、もしくは家庭内で起きている色々な事を否応なしに聞く機会が出てきました。私はおじいさんがあと一人なので戦友会を閉じられると思っていましたが、娘さんやお孫さんや奥様も来ています。女性だけが戦友会に集まってきて、その会が小さい「おしゃべりカフェ」になっていると思います。私はタイムリーな時にこの会を知って参加することができて良かったと思います。 しかし、元兵士のトラウマ経験をご家族たち同士が話せると言うのは良い取り組みですが、それができるのもお父さんたちが生きて帰ってきたからです。慰霊祭に行くとビルマでも33万人の兵士の三分の二、19万人が死んでいる。おじいさんたちは「俺の両脇には帰って来れない戦友が二人いるんだ」とよく言っていました。拉孟戦もそうですが中国戦線は遺骨収集や慰霊活動ができないのでなおさらです。お父さんが戦没した遺族の人たちとお父さんが生還して戻った人との温度差がすごくあります。戦争が終わったあとの70数年というのは多面的で色々なグラデーションがありますし、様々なところに波及したことが分かって興奮状態です。
今、真っ最中ですが、岩波の「世界」という雑誌で「戦友会狂騒曲」というタイトルで、「お世話係は見た戦友会」を連載で書いています(8月号から12月号までの連載)。
★北村毅さん
・北海道出身。早稲田大学人間科学部で文化人類学、心理学を学んだ。大阪大学大学院で5年経過。准教授。
「戦争は家族に何をもたらすのか。ある家族のケースから考える」というテーマでお話をいただきました。
★西中誠一郎さん。
・フリージャーナリスト。1964年生まれ。韓国と日本の歴史的関係などに関わるお話をしていただきました。