NHKラジオ深夜便をラジルラジル聴き逃しで聞きましょう!「遺族女性の手記をまとめて~終わらない心の戦争」山形県の戦争と暮らしを語り継ぐグループ「遥かな日のつどい」代表 八島信夫さん

私は放送の最後の89歳の八島さんの「叫びに」涙を流しました。

ラジルラジルででぜひお聴きください!

10月2日放送のNHKラジオ、ラジオ深夜便4時台の「遺族女性の手記をまとめて~終わらない心の戦争」山形県の戦争と暮らしを語り継ぐグループ「遥かな日のつどい」代表 八島信夫さんのお話しです。ラジルラジルの「聴きのがし」で10月9日まで聞く事ができます。八島さんは89才。戦没者の妻の手記の発刊を30年以上手掛けています。

放送の最後に八島さんは下記の太字のように「武器を取るな。争いごとはただちにやめろ。テーブルの席につけ。何でも話し合いで決めることだ。平和が大事なんだ」と叫びました。

私、黒井秋夫も全く同感です。

 

 

武器を手に取るな。

争いごとはただちにやめろ。

テーブルの席につけ。

何でも話し合いで決めることだ。

平和が大事なんだ。

 

 

2019102日(水)午前4時~NHKラジオ深夜便。

 

「遺族女性の手記をまとめて~終わらない心の戦争」山形県の戦争と暮らしを語り継ぐグループ「遥かな日のつどい」代表 八島信夫さんのお話し。

 

1943年(昭和18年)旧制中学に入学した。その学校は軍への協力校で山形県神町の飛行場建設に生徒を動員していた。校長が慰問に来て生徒に次のように話した。「君たちを卒業させるつもりはない。軍の学校(予科練)に行き天皇陛下の為に死んで下さい」と。その通りだと思った。予科練に行くつもりだった。しかし、非工場建設の作業中に(重労働で)生徒たちが次々と倒れた。私も肺結核になり帰宅を命じられ療養生活になり、復帰できないまま終戦・1945年(昭和20年)815日を迎えた。

 

近所の人たちと自宅で終戦の天皇陛下のラジオ放送を聞いた。ザーザーという雑音で聞き取れなかったが大人たちは「アメリカを迎え撃ち戦え」と理解した。私は「戦争に日本は負けた」と聞き口にしたら「日本が負けるはずがない。お前は非国民だ」と言われた。

 

学校の同期生もたくさん死んだ。私は死ねませんでした。「申し訳ありません」という気持ちをずうっと持っている。

 

その後、市役所職員になり厚生課で遺族会関係の仕事をした。

 

戦後40年を期して(1975年)戦没者家族の手記を刊行することになり編集の仕事に当たった。戦没者の父母、妻、兄弟、子どもに文章を書いてもらった。手記の半分以上が妻の物だった。それで「妻編」を継続刊行することになった。

 

当時の妻たちはぎりぎりのところで生活していた。国全体も貧しかったが輪をかけた、三度の食事も取れない環境で必死に働き糧を売るために苦労した。昭和2526年ごろまでは食うや食わずの生活だった。

 

妻の心境は「必死に子どもを守って、遺児は夫の形見として育てねばならない」責任は大きかった。農家に米を分けてもらうのも大変だった。配給制度は名ばかりで頼れなかった。

 

手記の1つ。

 

「子どもを抱えて線路で死のうとした。線路に座ったら轟音を立てて列車が来る。気が付いたら子供の手を引いて夢中で坂を下りた。呆然と見送った。死ねなかった」

 

子どもが母を線路から外したのだと思う。「生きなくちゃならない。子どもがいたから。子どもがいるから」妻たちは並々ならない決意で生きたと思う。

 

(社会で)戦死の話しは良く聞くが戦没者の妻の話しはあまり聞かないが、「生き残った人も死んだ人と同じような、それ以上の苦しみを味わっていると思う。死ねないんだもの。泣いておれない。子どもために生きねばならない。死んだ人の遺志でもある。妻の遺志でもある」「死んだ人は帰ってこない。私は(妻は)何をすればいいのか?」その問いを(妻たちは)抱えて生きて来たと思う。

 

私も同じだ。「私は何をすればいいんだ?」だから本(妻編)を作った。後世の人たちに「こんな時代があったということを知らせる必要がある。妻たちに書いてもらわねば駄目だ」という考えに変化した。妻たちに書くことを強要したかもしれない。そういう後悔もある。妻たちに冷酷(書くことを強要するようなこと)になることは「つらいですよ。とてもつらい。それでも後々までも子供や孫たちに知ってもらわねばならない」妻たちの「私だけで(つらい体験は)たくさんだ」という思いを。

 

30年続けている「妻編」の編集作業は大変と思わなかった。自分に課せられた責務と思っているから。

 

八島さんに言いたいこと。

 

(「戦争しか解決方法はない」というような発言について)要職にある人のそのような発言は素晴らしい憲法があるのに(戦争による解決方法)その方に国を持って行きたいと持っているのではないか。非常に危険だ。

 

(憲法ができた時)「うれしかったですよう。戦争放棄。うれしかったですよう。あの感激。言葉に表せない。あの気持ちは忘れたくないと思う。(このことを)ひたすら本を通じて若い世代に伝えたい」

 

世界に叫ぶとしたら。

 

「武器を手に取るな。争いごとはただちにやめろ。テーブルの席につけ。何でも話し合いで決めることだ。平和が大事なんだ」