2019.12.8
第5回「おしゃべりカフェ」当日資料(抜粋)を公開します。
公開資料は以下の通り(抜粋)
① タイムスケジュール(パワーポイント) p1
② 主催者挨拶、今日の運営方法、ご協力のお願い。 p2~5
③ 「従軍者への思い、語り継ぎたい事メモ」と活用方法。 p6
④ 立ち上げ宣言 p7
⑤ 遠藤美幸さん講演レジュメ
⑥ 朝日新聞(多摩版)コピー p8
⑦ 毎日新聞(東京版)コピー p9
⑧ しんぶん赤旗・ひと欄コピー p10
⑨ 「世界」12月号 戦友会狂騒曲
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」紹介ページコピー。p11
⑩ 『「戦場体験」を受け継ぐということ』 黒井秋夫の書評。 p12~13
⑪ 清水寛さん(埼玉大学名誉教授)から寄せられた資料。 p14~17
⑫ 「従軍者への思い、語り継ぎたい事メモ」事前到着した物。 p18~31
⑬ 「ガンと生きる」 p32~34
以下別冊
⑭ 会員加入申込書
⑮ 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」2016年立ち上げの目的文書。
⑯ アンケート
⑰ 質問用紙
1、主催者挨拶
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」がめざすこと
☆語り継がれない経験は繰り返す。語り継いで未来の命を守りたい。
1.12月8日は日中戦争をアジア太平洋に広げたメモリアルの日です。
(自主参加)着席のままで戦争の犠牲者に黙祷します。
戦争により犠牲となった日本と世界中の人たちに思いを馳せ、戦争をしないという思いと、
特に日本が起こした戦争で犠牲となった人たちを思い(謝罪の意味も込め)黙とうをいたします。
★こころざし半ばで殺害された中村哲さんへの思いも込めたいと思います。
★日本が起こした「アジア太平洋戦争」よる各国死者数。
2000~3300万人(ウィキペディアによる)
・中国1000~2000万人 インドネシア300~400万人 インド150~250万人 ベトナム100~150万人
フィリピン50~100万人 朝鮮40万人 マレーシア・シンガポール10万人
ビルマ15万人 台湾3万人 米国29万人(欧戦含む)ソ連、モンゴルなどが加わる。
日本310万人 合計2000~3300万人 *米国など連合国の死者が加わる。
2.配布資料は以下の通り。
⑱ タイムスケジュール(パワーポイント) p1
⑲ 主催者挨拶、今日の運営方法、ご協力のお願い。 p2~5
⑳ 「従軍者への思い、語り継ぎたい事メモ」と活用方法。 p6
21 立ち上げ宣言 p7
22 朝日新聞(多摩版)コピー p8
23 毎日新聞(東京版)コピー p9
24 しんぶん赤旗・ひと欄コピー p10
25 「世界」12月号 戦友会狂騒曲
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」紹介ページコピー。p11
26 『「戦場体験」を受け継ぐということ』 黒井秋夫の書評。 p12~13
27 清水寛さん(埼玉大学名誉教授)から寄せられた資料。 p14~17
28 「従軍者への思い、語り継ぎたい事メモ」事前到着した物。 p18~31
29 「ガンと生きる」 p32~34
以下別冊
30 会員加入申込書
31 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」2016年立ち上げの目的文書。
32 アンケート
33 質問用紙
3.報道関係者の皆さんへ!
①「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の取材を歓迎いたします。
戦争体験によって精神を侵され社会生活に支障をきたした日本軍兵士が存在した事。共に暮らし
た家族(妻や子どもたち)が精神的、経済的に負の影響を受け続けた事。その連鎖が孫世代まで続いている、つまり戦後74年経ても現在進行形である事。これらは重大な社会問題でありながら日本ではまだまだ知られていません。
精神に障害を受けた兵士たちはその事を「自ら発信することは不可能」でした。家族が気づき発
信するしか術はなかったのです。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」はそのために発足しました。
戦争の負の遺産が今も尚、家族に影響を与え、苦しめている事実を多くの人たちに知ってもらいたいと思います。二度と戦争をしない為にも大切です。報道いただくのは大歓迎します。
②参加者のプライバシーに十分な配慮をお願いいたします。
参加者は勇気を振り絞り「家族の戦争体験」を話します。人に言えない事、隠してきたことも「おしゃべりカフェ」だからこそ話す事ができる。そんな「おしゃべりカフェ」でありたいと思っています。写真撮影などは参加者にその場で了解を得てからお願いいたします。
参加者の皆さんもその場で意志(例えば撮影されたくない)を遠慮なく表してください。
4.語り継いで「2度と戦争をしてはいけない」という世論を
作り続けるために努力します。未来の子どもたちの命を守ります!
広島、長崎では被爆者の体験が世代を継いで若い人たちに語り継がれています。語り継ぐことは「2度と戦争をしてはいけない」という世論を作り続けるでしょう。
同様に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」は、戦争体験により精神を侵された兵士の存在と家族への精神的、経済的な負の遺産が連鎖し続いている現実を「2度と戦争をしてはいけない」という世論を作り続けるために努力します。未来の子どもたちの命を守ります!
★ホームページと「おしゃべりカフェ」の2つで語り継ぎます。
ホームページでは過去4回の「おしゃべりカフェ」の内容が公開されています。参加者が書いた「従軍者への思い、語り継ぎたい事」や発言したことは公開され、いつでも誰でも読むことができます。ホームページは世界中の人たちに開かれ発信できます。ホームページは「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の語り継ぐ発信基地です。
★2019年は約3000人の皆さんがホームページを閲覧しました。
5.「おしゃべりカフェ」と「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を
広く知らせる活動をしています。さらに積極的に広げます。
「おしゃべりカフェ」の開催予告、開催報告、マスコミに報道紹介されたことなどは、そのつどメール、あるいは郵送で以下のように発信しています。更に対象を広げる努力をします。
① NHK、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、しんぶん赤旗。その他出版社。
② 市民活動のひろば、VFPJ(ベテランズフォーピースジャパン)、アジア太平洋資料センター。
③ 「おしゃべりカフェ」の参加経験者、他団体の開催した催しで名刺交換した皆さん。
④ 各種の集会、催しに参加してお知らせチラシを配布しています。
6.「おしゃべりカフェ」は整理して参加者全員に後日報告します。
HPに公開し、マスコミにも発信します。
★スケジュールを確認。
・BSプレミアム「隠された日本兵のトラウマ~陸軍病院8002人の”病床日誌”~」放映終了。
・お願いした発言者のコメントを予定しています。
・遠藤美幸さんから講演していただきます。質問は書式で頂きます。選択し回答します。
★「おしゃべりカフェ」はテーブルを一つのカフェとして進めます。
★「おしゃべりカフェ」の進め方。
・全体の司会進行は黒井秋夫がいたします。
・5つのグループ(1グループ12人)を作りました。
・テーブルごとに司会者をお願いしました。運営にご協力ください。
・それぞれが記入した「従軍者への思い、語り継ぎたい事メモ」を基に参加者全員が順番に発表しその後に交流するやり方で進めます。
☆1人2分以内で自己紹介と「従軍者への思い、語り継ぎたい事メモ」に添いお話しください。
☆一回りしたら2回目も同じ順番で一人2分以内でお話しください。
☆2回りしたらフリーでお話しください。その際も一回2分以内でお話しください。
☆お話しの時間は全員が平等になるよう時間配分しましょう。
★「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が大事にしていることは以下の通りです。
★ おしゃべりカフェで大事にしていること
・お互いどうし、個人それぞれの考えを尊重します。自由な発言を保障します。
・他の人の発言を途中でさえ切ったり、異なる意見でも頭から否定はしません。
・相違点よりも話し合いで共通点を探します。和やかで楽しい交流の場をめざします。
・参加者どうしが友達になれる「おしゃべりカフェ」を作ります!
・「おしゃべりカフェ」の途中でカンパの呼びかけをいたします。ご協力をお願いいたします。
・タコスのコンサート終了後に皆さんがお書きになった「従軍者への思い、語り継ぎたい事メモ」はお帰りの際にアンケーと一緒に回収箱に入れて下さい。書き終わってからお帰りをお願いいたします。
・遠藤美幸さんの講演内容(レジュメ)、皆さんがお書きになった「従軍者への思い、語り継ぎたい事メモ」、アンケートは12月8日「おしゃべりカフェ」ドキュメントとしてまとめ、後日皆さんに(過去の参加者の皆さんにも)メール、または郵送でお送りいたします。ホームページに個人情報を除いた形で公開します。報道関係などにも発信します。
・「おしゃべりカフェ」ドキュメントは「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動の歴史として蓄えていきます。語り継いでいく基礎資料とします。
・タコス コンサートをお楽しみください。
・懇親会を黒井秋夫の自宅を会場に開きます。20名程度までOKです。参加希望の方は休憩時間に司会の黒井までお知らせください。
■2019年8月25日(日)「おしゃべりカフェ」会計報告(概算)
・資料代・収入 15,700円
・会場カンパ 7,800円
*収入 合計 23,500円でした。
*地区会館会場費、飲料、菓子代、資料印刷代、カクテル―チェ謝礼、ドキュメント郵送代などに充当しましたが当日収入ではまかなえませんでした。
・12月8日の収支も概算になりますが、後日お送りする「本日のまとめ」に記載します。
・2020年は資料代とカンパの収入で支出と均等になる運営をめざします。
■「おしゃべりカフェ」以外の場で寄付がありました。ありがとうございます!
★2019年7月〜12月7日現在。
・80円切手、10枚➡寄付者1人。寄付金合計 10,000円➡寄付者3人。
コピー用紙 2500枚➡寄付者1人。
2020年「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の予定
★「おしゃべりカフェ」2020年の開催予定。
*アジア太平洋戦争終結、広島長崎原爆投下のメモリアルの8月(来年は8月23日)と太平洋戦争に拡大した12月8日に近い12月6日を予定します。
・8月23日(日)中藤地区会館(あるいは84人収容の武蔵村山市公民館・私立7小に併設)
・12月6日(日)中藤地区会館(あるいは84人収容の武蔵村山市公民館・私立7小に併設)
★「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」ニュースを発行します。
・内容は活動日誌、イベント情報、HP紹介など。定期発行したいが、軌道に乗るまでは2カ月に一回程度の不定期から始めます。メールと郵送。ご自分の周囲の方に輪を広げて下さるよう皆さんにお願いいたします。
★第1回会員総会を開きます。中藤地区会館で10月18日(日)を予定します。
・「語り合う会」の目的。会則。会員について。運営方法。組織体制。「おしゃべりカフェ」の位置づけ。HPの活用方法。財政。など「語り合う会」の基本を定め団体として出発したいと思います。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の
あなたも会員になり、活動を支えて下さい!
・2020年10月開催予定の第一回総会にご参加ください。
・「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の輪をさらに広げる力をお貸しください。
・次回2020年8月23日(日)「おしゃべりカフェ」を成功させましょう。
「おしゃべりカフェ」をみんなで準備し運営して多くの参加者を迎えましょう。
・みんなで「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を人間の温かさが感じられる豊か
な活動を作りましょう。
2019年12月8日(日)
タイムスケジュール
• 10:00 「隠されたトラウマ〜精神障害兵士8002人の記録」放映。110分。
・ 12:00~13:00 昼休み・休憩。
• 13:00 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」挨拶。
・戦争犠牲者に黙とう(自主参加)。
• ・「おしゃべりカフェ」進め方。40分(発言者の時間含む)
• 13:40 講演 遠藤美幸さん。80分。
• 15:00 休憩 (講演への質問用紙を受け付けます)
• 15:20 講演への質問への回答 書籍紹介があります。10分。
• 15:30 テーブルごとに「おしゃべりカフェ」開始。75分。
• 15:45 休憩 10分。
• 17:00 タコスのコンサート 30分。
• 17:30 すべてのプログラム終了。
☆「従軍者への思い。語り継ぎたい事メモ」、アンケートは
回収箱に入れてください。書いてからお帰り頂くようお願いいたします。
☆ 18:00(後片付け終了後)黒井宅で懇親します。
★懇親に参加希望の方は休憩時間に司会の黒井までお知らせください!
2、立ち上げ宣言「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」
父は戦争の事だけでなく他の事にも無口でした。
1948年生まれの私はそういう父を生来の父の姿と思ってきました。
しかしベトナム戦争で米兵の3割前後が悲惨な戦争体験で精神を崩し
元の社会に復帰できないという。
同じような日中戦争や太平洋戦争を体験した日本兵も、つまりは私の父たちも
精神を侵されたとして不思議ではない。
本当は父は正常な精神に戻りたいと必死に戦後社会を生きていたのではないだろうか。
私は快活だったかも知れない出征前の父は知らない。
復員した後の無口な父しか知らない。
私は「本当の父」を知らないままに父を亡くしたのではないだろうか。
2~3年前からそんな思いで父を振り返るようになりました。
だとしたら、父も私も不幸だった。
本当の自分を見せることも心の内を語ることもできずに苦しんだかもしれない父。
そんな風には生前一度も思ったことの無い息子。
その無口の父に反発し続けた私。
父を通じて私も又戦争の傷を心に負ったのかもしれない。
私たちの世代にも呼びかけたい。
父親たちを見直そう。
父親たちの精神世界を想像してみよう。
語り合おうではないか。
若い人たち、我々の子供たち、孫たちにも戦争は兵士のみならずその家族をも
戦争が終わったその後も家族を通じて長い間影響を与え続けるのだと伝えたい。
この指にとまってほしい!
2018年1月17日 黒井秋夫。
3、講演 遠藤美幸(神田外語大学)レジュメ
主催)「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」 2019/12/08
非体験者による「戦場体験」を受け継ぐということ
~ビルマ戦場を事例に~
はじめに 戦場研究に出会うまで
Ⅰ ビルマ戦とはどのような戦場か
Ⅱ どのようにして元兵士に「戦場体験」を聞いてきたのか
Ⅲ なぜ「戦場体験」に拘るのか
Ⅳ 聞き取りから学んだこと
*****************************************************************************************
はじめに ~戦場研究に出会うまで~
1985年6月ニューヨーク便の機内で小林憲一さん(拉孟戦の生存者)と出会う。
1985年8月12日 123便御巣鷹山墜落事故を契機に、私は自分の生き方を問い直す。
1988年4月 6年近く勤めたJALを退社。同年結婚。
1990年4月 慶應義塾大学大学経済学研究科にて歴史研究者(英国音楽史)の道を志す。
2児の子育てと研究の両立に行き詰り、1998年に大学院を去る。
2002年8月 小林さんから拉孟戦の史料が自宅に届き、拉孟戦研究をはじめる。
2002年から戦場体験者の聞き取りを開始。
2005年から第二団勇会(戦友会)のお世話係になり、現在に至る。
2010年1月 JALは経営破綻する。
Ⅰビルマ戦とはどのような戦場か
†日中戦争の泥沼化の延長線上にあるビルマ戦線
1.日本軍の英領ビルマ侵攻の主要な目的とは?
1)英米連合軍の蒋介石軍への補給路(「援蒋ルート(ビルマルート)」の遮断⇒拉孟戦
2)ビルマ人の反英ナショナリズムを利用してビルマ内部から英領の弱体化をはかる。
2.ビルマ戦線の経緯(1942年1月から1945年8月)
1942年5月 ビルマ全土を制圧
1943年末~ 圧倒的な兵力と物量をもつ連合軍の猛烈な反攻
1944年 ビルマ防衛作戦の破綻 インパール作戦の失敗、拉孟守備隊の全滅
1945年3月末 イラワジ会戦(撤退作戦)、アウサン率いるビルマ国軍の反日蜂起
1945年4月 ビルマ方面軍の崩壊
3.ビルマ戦場の特徴
①苛酷な自然環境…地形と気候の戦い
②多種多様な人びと…英、米、中、日、植民地支配下の人びと、ビルマの多民族国家
③寄せ集めの戦場(11師団)(2D,49D,53D,15D,31D,33D,54D,55D,18D,56D,5FD)
④医学の戦い…病原菌の巣窟、ダニ、蚊 ヒル、アメーバ赤痢、マラリアなど
⑤輸送の戦い…補給路の遮断、補給の限界(飢餓)
空路のビルマルート(ハンプ空輸)から陸路のビルマルートへ⇒拉孟戦
⑥帝国主義国家の侵略戦争と反英独立運動の狭間で(ビルマ側から見る戦場)
「抵抗と協力の狭間」(根本敬、)※ビルマは「親日的」なのか?
⑦日本軍による加害(ビルマ側から見る戦場)
ⅰ 慰安所60か所以上、徴発(強奪)、住民虐殺など
ⅱ 泰緬鉄道「死の鉄道」…労務者(強制労働)、連合軍捕虜虐待
ⅲ カラゴン村事件(600人以上虐殺)…ビルマ最大の住民虐殺事件
ⅳ 徴発(強奪)、放火など
地獄のビルマ
ビルマ戦線の戦死者は膨大で、投入した約33万人の兵力のうち約19万人が戦死。戦死者の約8割が、マラリア、赤痢、脚気、栄養失調などが原因の餓死や傷病死。
→戦争栄養失調症の大半が戦争神経症(吉田裕,2017)→PTSD
「ジャワは天国、ビルマは地獄、生きて帰れぬニューギニア」、「白骨街道」、「靖国街道」
Ⅱどのようにして元兵士の「戦場体験」を聞いてきたのか
†戦史叢書(旧防衛庁編纂)と呼ばれる公的な文献史料の限界を克服するため
1.元兵士への聞き取りの実践→戦友会、慰霊祭、証言会へ
15年間の「参与観察」と聞き取り…「お世話係」として月1回「勇会(有志会)」に参加
†お世話係の仕事とは?…連絡係、送迎、食事の手配、お茶くみ、会場予約、慰霊祭、
花見、旅行などの準備と雑用および会計業務
†現在、龍兵団永代神楽祭代表世話人、勇兵団永代神楽祭代表世話人
2.元兵士の家族との交流を重ねて信頼を得る(地道に時間をかけて誠意をこめて)。
家族の協力と支援なしでは「聞き取り」はできない。
⇒元兵士なきあとも家族と交流を続ける⇒家族を通して聞ける「戦場体験」、史料の譲渡
Ⅲ なぜ「戦場体験」に拘るのか
1.「戦場体験」と「戦争体験」との違い
戦闘員であるか否か? 加害性と切り離せない「戦場体験」
ある兵士の言葉;「他所の国で戦争をしちゃいかん」
†「戦場体験」に戦争の「本質」がある。
2.「戦場の歴史学」の必要性(戦場の現実を知る)
従来の上層部から見た「上から目線」の戦訓や戦闘史を越えた「兵士の目線」から見た
「戦場の現実(リアル)」を知る。
Ⅳ「聞き取り」から学んだこと
†戦争の「本質」を学ぶ
1.話したくないこと、話せないこと
上官に、遺族に、男性(女性)に、家族に、日本人に、
戦時性暴力、野戦病院の自決、敗走戦の白骨街道…
2.多面的で複雑な「戦場体験」を学ぶ
元兵士の証言の矛盾やねじれ、戦友会でも「話せない話」
生い立ち、戦闘時期、場所、階級、兵科、敗戦の迎え方、戦後の生き方の相違
3.元日本兵士の「戦争とトラウマ」⇒妻や子どもや孫などへの影響を知る。
おわりに ~非体験者による「戦場体験」の継承~
第二次安倍内閣の時期(2012年末から2019年9月)から戦後70(2015)年にかけて、勇会有志会には右派団体の人たちが大勢押し寄せて来た。
意外かもしれないが、このような人たちの歴史認識や現代社会に対する見解に、元兵士や遺族がある一定の違和感を示した。右派団体の人たちの主張や行動が、元兵士や遺族を勇会有志会から遠ざけ、最終的にはが同会が閉会に追い込まれる事態を招いた。彼らは「自蔑史観」を否定し、先の戦争は侵略戦争ではなく「聖戦」で、「植民地解放戦争」であったと主唱すれば元兵士らが皆喜ぶと思い込んでいた。ある元兵士は私の耳もとで「今の若い人は浅いね」と呟いた。戦友会の元兵士らは右派勢力の中心に必ずしもならなかった。凄惨な戦場を体験した戦場体験者ほど不戦を訴え、軍事大国化の歯止めになってきたのである。戦場体験者がいなくなること、戦場体験の世代間の伝達や継承がうまくなされないこと、すなわち戦場の現実を想像できないことが、いまの日本の右傾化や軍事化の拡大を生む一因になりうる。それゆえに、軍事史研究者の吉田裕さんも指摘しているが、従来の戦訓や戦闘史を越えた兵士の「目線」から見た凄惨な戦場の現実を描き出す「戦場の歴史学」が必要である。
最後に、勇会有志会のその後について述べたい。2017年3月に閉会後、元兵士らの要望で半年後の10月に再開した。おじいさんたちはみな口を揃えて「私たちが死ぬまで続けてほしい」と訴えた。2018年に4名が相次いで亡くなり、私が「お世話係」になって6名を見送った。皆さんを見送った後の勇会有志会は、残された人たちの悲しみを分かち合い思い出を語り合える場となった。現在の勇会有志会は、高齢の父親の世話をしてきた妻や娘たちが互いの気持ちを分かち合う、「女たちの戦友会」とでもいうべき性格の会になりつつある。「お世話係」は、元兵士らが家庭ではどういう人だったかを彼女たちの口かはじめて聞いた。前会長夫人は夫に殴られ眼鏡が飛ぶのは当たり前、たまに身体も飛んでいたという。ある遺族(娘)は、再放送を重ねているBS1「隠されたトラウマ―精神障害兵士8002人の記録」を母と視聴し、亡父(夫)も戦争のトラウマを抱えた「心の病」だと知って、「父も苦しかったと思います」と今までの父親に対するわだかまりが消えたと涙ながらに語った。戦友会では朗らかで暴言や暴力をふるうような人には見えなかっただけに、戦友会でも解消されない戦場のトラウマが家庭の中で戦後を通じて消えなかった現実を知る。
昨年、中村江里著『戦争とトラウマ』(2018年)が出版され、一気に日本兵士のトラウマの研究に注目が集まるようになった。日本兵のPTSDの実像を家族の語りから掘り起こす試みは、戦場体験者が消えゆくいま、戦場の凄惨さを伝え残す有効な方法となり得る。
戦場体験者が1人もいなくなる日もそう遠くはない。現在、勇会有志会の元兵士は1人となった。「お世話係」として最後の「一兵」まで見守り、お世話する覚悟を固めた。それとともに「勇会有志会女子会」を立ち上げようと思う。従来の勇会の元兵士の語りとは異なる子どもや孫などの家族のトラウマを紐解くことで戦場や戦友会研究の新たな進展が期待できるにちがいない。
戦場(戦争)を知らない非体験世代が、非体験世代に「戦場(戦争)体験」を伝え受け継がなければならない時代がやってきた。非体験者だからこそ、多面的に検証した奥行のある「戦場体験」の継承が求められる。右派も左派にも言えることが、自分と見解が違うからと拒絶してはつまるところ浅い理解に繋がる。相手を知るためにはその懐に入る覚悟と粘り強さが必要だ。戦場体験を「戦友」から直接聞けた最後の世代、戦友会の中に身を置いてきた人間の責務は重い。
4、遠藤美幸 『戦友会狂騒曲
おじいさんたちと若者たちの日々』250p~252p 抜粋。
「世界」2019年12月号から ―「家族が語り合う会」を抜粋しましたー
元兵士の娘だけじゃない。息子だって頑張っているのだ。
2018年1月、東京都武蔵村山市在住の黒井秋夫さん(当時69歳)が「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会(以下「家族が語り合う会」)をたった一人で立ち上げた。黒井さんの父親は、中国戦線で戦闘し復員。父は戦争を子どもには全く語らず、無口で人生に対しても無気力であたったという。黒井さんはそんな父を正直、尊敬できなかったと告白している。
2015年以降、父が生きていたら「安保法案」に反対したのではないかとふと思い始めた時に、ベトナム戦争やアフガン戦争から帰還した米兵のPTSDの現実を知り、心に深い傷を負った米兵と中国戦線で戦った父の姿が重なった。無気力で無口であり続けた父もまたPTSDに苛まれていたのではと思うとなるほどが辻褄があう。
旧陸軍では精神を病んで通常の兵役を果たすことができなくなった兵士は、国府台陸軍病院(千葉県市川市)のような精神疾患専門の陸軍病院に戦地から送られた。
『戦争とトラウマ』(2018年)の著者である中村江里さんによると、同病院には終戦まで「戦争神経症」を含む患者約一万人が入院していたが、当時の陸軍では「皇軍の精神的卓越」を強調し、「皇軍に戦争神経症はいない」と見なされ、精神を病んだ兵士は暴力的な戦場や兵営での体験が原因ではなく、患者個人の精神的脆弱性などがその原因だとみなされた 。すなわち精神疾患を軽視、あるいは無視する傾向が日本軍にはあったので、戦後の日本社会でも元兵士の精神疾患を軽視、忌避、隠匿する傾向が受け継がれた。
そのような中で、戦友の無残な死に遭遇し、敵兵や民間人への殺戮や暴力を繰り返し見る・やる・聞き続けた元日本兵士たちは誰でもが大なり小なり戦争のトラウマを抱えて、戦後社会や家庭生活の中で生きてきたのだ。「日本兵士の隠されたトラウマ」の影響は小さな社会である家庭の妻、嫁、子ども、孫、他の身内にどんな影響を与えてきたのか、あまりに身近で個別的な問題だけに家族の中に埋没し社会がきちんと向き合ってこなかったように思える。
2018年、黒井さんもNHKの「隠されたトラウマ」を何度も観て、中村さんの著書に出会って、日本軍兵士のPTSDの現実を知り、これは本人だけでなくともに暮らした家族の心にも深い傷を残していることを確信する。黒井さんは日本軍兵士のPTSDの実像を家族の語りから掘り起こし、世に出す「語り部」になりたい願っている。この試みは、戦後七五年を迎えやがて元兵士が姿を消す中で、戦場の凄惨さを伝え残す有効で社会的な意味のある活動になっていくだろう。
黒井さんが今夏に主催した「家族が語り合う会」、通称「おしゃべりカフェ」に私も参加し、PTSDの元日本兵と暮らした家族の告白をいくつか聞いた。四〇代の男性は、中国戦線から復員した祖父が酒を浴びるように飲みながらたくさんの「チャンコロ(中国人に対する蔑称)」を惨殺した「武勇伝」をニタニタした独特の顔つきで語る光景が心に深く長く記憶され忘れられないと語った。告白した彼は、直接、このような祖父に育てられた父との関係性にも深い悩みを抱いているのだ。
私もある戦友会の温泉旅行に参加した時、懇切丁寧に雲南戦場の話しをしてくれた元兵士が、襖一つ挟んだ別室で嗚咽しながら、「お前だけじゃないんだ」と戦友になだめられている場に遭遇した。否応なしに耳に入ってくるフレーズが「チャンコロを・・・」で、その光景が夢に出てくるというものだった。酒が入ると封印していた戦場のトラウマが顔を出すのだ。しらふで語れる話ではないのだろうが、「武勇伝」のごとく残虐行為を雄弁に語る元兵士もいれば、家族にも戦友にも言えず心を壊す者もいた。
戦争の心の傷跡は、本人だけでなく次世代にも受け継がれる。父や祖父の「戦場体験」が家庭という場で子どもから孫世代の心にも深く長く残り続けて次世代の「隠されたトラウマ」となるケースは「勇会女子会」と「家族が語り合う会」で勉強中だ。世代を超えて戦争がいかに人間の心と身体を蝕み、個々人の人生に影響を及ぼすかを、私たちはもっと真剣に受け止めなくてはならないだろう。各世代のトラウマの中身を知ることが、父や祖父らの「戦場体験」の実像を次世代に受け継ぐことに繋がるのだ。
5、書評「戦場体験」を受け継ぐということ 評者・黒井秋夫
―ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を訪ね歩いてー
著者 遠藤美幸 高文研
この本の感想を述べるのは難しい。簡単には書けない。
この本には遠藤美幸さんの生き方、それも器用とは言えないその時々の人生の選択が綴られる。
遠藤さんは二つの出来事で人生のベクトルの角度を変えた。
日航で会社寄りの労働組合から第一組合に労組を変えた。もう一つは「戦場体験」の元兵士と出会った。後の方がこの本の主要テーマであるが、二つの選択は遠藤さんの生き方、人となりを読者に伝える。一本の線で二つの選択も貫かれている。彼女は誠実に人と事柄に向き合い道を選ぶ。読者は遠藤さんの二つの選択に深く共感する。この本の感想を書くということは遠藤さんの生き方、人となりに物を言うようで書き終われないのだ。正直に言う。私には重すぎる。この文章も遠藤さんの真意に迫れていない物足りなさが残る。この文章も通過点と遠藤さんに許してもらいたい。私の一生をかけて書き上げたいと思う。それだけこの本の中身は深く重い。
そして、読者の心をゆさぶるのは、本に登場する元兵士は“みんないい人”なのだ。その人たちが戦場では中国人を蔑視して「チャンコロ」と呼び、女性でも子どもでも構わず殺したのだ。食料も現地調達を強いられ中国の農民の作物を強奪した。なぜ「いい人」がそんな鬼のような事ができたのか。やったのか。
全編読むと拉孟の日本軍兵士たちは本当に良く戦ったことが分かる。彼らは中国軍と15対1の戦力で戦わされた。それでも3か月間持ちこたえた。驚異というしかない。戦争の常識からすれば称賛に値する。しかし、彼らの死は読者の腑に落ちない。納得できない。
負け戦を命じた人たちと玉砕し命を落とした兵士たちのその後の軌跡を見ると、勧善懲悪とはならず、いわば勧悪懲善が結末であった。作戦参謀は生き延びた。辻政信参謀などは戦後も逃げ回った。戦争の最高責任者・昭和天皇はもちろん生き延びた。「理不尽・余りの不公平・無責任で卑怯・勝手な祀り上げ」というしかない結末ではないか。
『「9月7日夕、松山陣地が敵に占領され、横股陣地に降りて来た時、眞鍋大尉らは、ウワーと歓声をあげながら敵の中に斬り込んでいった。つづいて三苫曹長等も濠から飛び出して、『チャンコロ出て来い』と叫びながら飛び出していった」こうして拉孟守備隊は力尽きて全滅した』
涙なしには読めない。余りに痛ましい最後ではないか。これが人としての死に方(生き方)なのか。無残でならない。彼らは死ぬために飛び出していった。そんなことがなぜできたのか?
元兵士は語る。「戦争というものは、人間の感情を麻痺、鈍化させ、死という恐怖心も人間性も、何もかもなくさせてしまうものである。無感覚になった将兵には、笑いも怒ることもなかった。あるのは食うことと寝ること、そして敵を刺し殺すことだけである。戦友が戦死しても、段々と何の感情もなくなってゆく気がした」
その時兵士たちはもはや人間ではなかった。人間という心を失くして武器を持つ単なる生き物になっていた。そういう動物に仕立てられていたと言っても良い。
人間であれば、そもそも人など殺せない。人間の命を大事にするなら戦争などできない。人間を生き物ではなく駒として使えてこそ戦争を遂行できる。戦争を命じた者は「自分の為に兵士たちが存在する」のであり周囲を守る兵も、民も全て自分の防波堤であり捨て石に過ぎない。そう割り切ってこそ戦争(殺し合い)ができる。戦争する、人を殺すとは人間らしい生き方を捨てさせてこそ可能なのだと思う。戦争には意義も大義も人間らしい情愛もありはしないのだ。人殺しに大義名分などあってたまる物か。私はそう思う。
10人を越える拉孟戦にかかわった「戦場体験者」が登場する。彼らすべてを最終的に繋いだのは遠藤美幸さんだった。「戦場体験者=いわば神」は「戦場体験を受け継ぐ人=いわば預言者」を本能的に探していたように思う。幾多の偶然と幾多の壁を越えて双方は「戦場体験を託す人=神」と「戦場体験を受け継ぐ人=預言者」に一本の絆で結ばれていく。読み進めるにつれ、パズルの空白が埋まるように、遠藤美幸さんという預言者を通じて読者は自分も又「戦場体験を受け継ぐ人」の一員になっていることに気づくのだ。
私の父、黒井慶次朗は1944年6月~9月拉孟戦の頃、長江中流の漢口(武漢)にいた。1944年3月にソ連・中国国境のアムール川河畔から転戦を命じられ南へ南へと行軍した。大陸打通作戦の一環と思われる。長江の漢口に1944年6月26日に到達している。この時、拉孟は激戦の最中だった。拉孟陣地はインドシナ半島の南から、父親たちは長江に沿い東方向から重慶の中華民国政府と対峙していたことになる。この本を読み拉孟戦を知ったが、初めて、より立体的に父の戦場を知ることができた。そうだったのかと理解した。 拉孟「玉砕」のその後、父は1945年4月26日には更に重慶に近づき、長江河畔の宣昌にいた。そこで終戦を迎え武装解除されて1年間の捕虜となった。私の父親もまた中国の人たちを「チャンコロ」と呼んだだろう。中国の人たちの収穫物を強奪しただろう。この本に出てくる日本軍兵士と同様に村を焼き、邪魔とみれば平気で中国の民を殺したに違いない。そして私の父親は精神を病みPTSDの兵士として帰還したのだ。
拉孟の元兵士たちも私の父も今はもうこの世の人ではない。あの世にいる。
彼らは(神は)私たちに何を受け継いでほしいと思っているだろうか。
遠藤さんが雑誌「世界12月号・戦友会狂騒曲」の末尾に書いている言葉こそそれだと思う。『90歳を越えた老兵たちは最期のその時まで「戦争だけは絶対するな」と叫び続けた。彼らの声は死んだ兵士の声であり、日本兵が殺めたあまたの人々の声でもあるのだ。「戦場体験」を元兵士から聞けた最後の世代として、これらの「声なきこえ」も掬い上げ、元日本兵らの非戦の思いを受け継いでいきたい。』と。
私・黒井秋夫は思う。『為政者や権力を持つ人たちの指示で戦争をしてはならない。人を殺してはならない。戦争では問題を何一つ解決しない。物事は話し合いでこそ最終的に解決できる。落ち着く。今は対立していても、いつかは肩を組み合い、手を携え仲良くできるという希望。回り道でも、心を割って話し合い、共に生きて行ける世界、社会をめざしていくしか人間らしい道はないのだ』と。私はその事を「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の「おしゃべりカフェ」を続けながら語り継ぎたいと思う。
「語られない経験はくり返す。語り継ぐことで未来の命を守りたい」。
2019.11.27 黒井秋夫。
6、『「おしゃべりカフェ」に寄せられた思い』
従軍した父親・肉親への思い・語り継ぎたい事(参加の動機)などお書きください!
事前到着分
★○○さん
私の父親と二人の叔父が戦争から帰ってきますが、二人の叔父に「聞く」という発想すらなかったことに今頃になって気づきました。話をした家族もあるのでしょうが、それは少数なのではないかと思う。世間全体が「見ざる・言わざる・聞かざる」に呪縛状態だったのではないか。ここが大問題だと思う。話し合わない、触れない、意識から消してしまう。負の経験から学ぼうとしない国はどんなふうになるのか真剣に考えなくてはならいと思う。
★〇〇さん
両親(母)の朝鮮からの引き揚げの記録。(家族の氏名は全て仮名)
☆文中には「ロスケ」とか「○○はバカ」とか差別的な表現がありますが、死没した○○さんのお母さんの言でありそのまま記載しました。(「おしゃべりカフェ」主催者)。
父 ○○ 〇〇 大正4年生まれ ○○県
母 ○○ 大正7年生まれ 〇〇県
昭和15年10月25日結婚 北朝鮮に渡る
長男 ○○ 昭和16年11月25日 生まれ ○○で出生
昭和20年11月1日(3歳11か月)朝鮮にて死亡
次男 〇〇 昭和19年11月17日生まれ ○○で出生
昭和20年11月26日(1才)朝鮮で死亡
長男、次男の死亡届 昭和21年7月9日受理。母が帰還後、父の長兄が届け出。
結婚後、両親は朝鮮に渡り、父は日鉄(日本製鉄)で働き母は日鉄の社宅で主婦として過ごす。
昭和16年長男の出産のため、○○市に戻り、産後、長男と共に朝鮮に渡る。
昭和19年次男の出産のため、○○市の実家に連れて戻る。次男を11月に出産したが戦争が激しくなってきたため朝鮮に渡るのは止めた方が良いと家族、親族に説得されたが母の強い意志で三たび舞鶴港から一昼夜かけて朝鮮に渡る(現在でも乳児を連れての旅行は大変ですが、どのように汽車や船の旅をして行ったのか私には想像できません)。
まもなく戦争が激化する。昭和20年8月12日 日鉄工場で父、母、長男、次男と最後の面会をする。(後に、父が捕虜時代に父の長兄に出した手紙に書いてある)。
8月13日、ロシア侵攻の為、母、長男、次男の3人で家を発つ。(父は戦争のため連絡取れず)。母はそう遠くない日に終戦になり、社宅に戻れると思い、家財道具を床下(オンドル)に隠し、子どもと必要な物だけ持って逃げる。社宅を出て母子3人で38度線を越えるべく歩いて南へ南へと移動する。
途中ロシア軍の列車に南に連れて行くと言われ、母子3人と日本人引揚者多数が列車に乗る。すると、南ではなくどんどん北へ移動する。貨車に乗せられ暑いため子どもが泣き、子どもがかわいそうである事と、他の人の迷惑になるため、とても困った。こんなことが何回かあった。
母は次男をおんぶし、長男3歳を歩かせていたので、長男の足の指から出血し、オムツで包んで歩かせていた。最後には足の指は傷で一本ずつ区別できなくなり、一つになっていた。長男を励ますと「内地に帰るまで頑張る」と言っていた。
避難の最中は北朝鮮の大きな川を何度か渡ったが、ある場所で川を渡る前に河原で野宿することになり、引揚者の多くは夕食の用意をしていたが、母は乳児と幼児がいる為、川の上を走る線路を渡ろうと、歩き出して、川の水がゴーゴーと流れる上まで来たとき、河原から水の音に混じって人の声が聞こえ、気がつくと汽車が近づいて来ていた。「もうだめか」「これでだめか」と思った瞬間、線路の傍らに線路工夫が身を寄せる木製のカゴがあるのに気がつき、長男を抱えて素早くカゴに身を寄せるとその瞬間、汽車が通り過ぎた。
■「夕食の用意をしていた」と母が言った時、私が母に「夕食って何を食べたの」と聞くと「その辺に生えている草と、朝鮮人からもらったお結びをお粥にして食べた。夕食の時間になると河原にある大きな石を拾い集めてかまどの様にして火を焚いた。薪は流木を使った。あちこちから火が上がっていた」■
8月15日に終戦になっているにもかかわらず、北朝鮮からの引揚者は終戦を知らず、野山を駆けずり回り、川を渡り38度線をめざしロシア軍(兵)から逃げ続ける。
■川を渡る時は荷物を頭に載せていた。「渡った後は濡れた服はどうしたの」と聞くと「みんな脱いで河原で干した」と言っていた。■
夏から秋・冬へと季節が変わり、北朝鮮の11月は寒さも厳しく避難所では夜、若い男の人の「お母さーん。お母さーん」という小声でうなり声があちこちから聞こえた。朝になると何人も亡くなっており、生きている人は亡くなった人の衣類をはぎ取りそれを着ていた。毎朝、避難所の広場には日本人の死人の山ができた。寒さ(低体温)と栄養失調によるものと母は言っていた。亡くなった人の皮膚は真っ赤だった。
母の長男も栄養失調のため11月1日に亡くなり、次男がその後11月26日亡くなった。昭和20年の終戦から2カ月半後のことでこれが残念でとても悔しい。次男は母のお乳を吸ってはいたが、だんだんお乳が出なくなることにいじれて、大きな声で泣いていた。しかし、母も栄養失調のため、母乳が出なくなっていた。次男の声はだんだん小さくなり泣かなくなった。
母はお金を持っていたため、日本人の亡くなった人たちの山とは一緒にせず、近くにあった朝鮮の儒教のお寺の奥さんに頼んでお経をあげてもらう。二人の子供の爪と髪の毛を切り布に包みお腹にくくりつけた。自分で子どもたちを葬る穴を掘り、足の方から土をかけたが、顔にはかけられなかった。お寺の奥さんが母に「あっちを向いていて」と声をかけてくれた。この時、お寺にお布施を5円払った。
子どもたちの死後は母は子ども達の爪と髪の毛を内地まで持って帰ろうと、38度線めざしロシア兵から逃げる。夜間就寝中、ロシア兵に若い独身の女性だとわかると強姦されるので、母は髪の毛を丸刈りの坊主頭にし、男物の服を着ていた。また、夜中にロシア兵が女の人に近づくため、女の人に抱き着いたロシア兵はムチで叩かれた。朝鮮の山々は日本人の避難民が草木を食べ尽くしてしまい、坊主頭になっていた。特に食べた物はナズナ、たんぽぽ、つくしでこれらは上等の方で食べられる物はなんでも食べた。
母も避難所で一時、体調を悪くし寝込んだ。実家の水道の水がチョロチョロ流れる様子を夢見心地で見て「水が飲みたい。水が欲しい」と水道の水が瞼から離れなかった。そんな時、まわりから「〇〇さんもそろそろだね」と言う人たちの声が聞こえた。母は「なにくそ死んでたまるか」と思った。「〇〇さんもそろそろだね」と言った人たちは、少なからず母の着ていた衣類を剥ぐことが頭にあったのかもしれない。食料も薬もない中、生命力の強さからか母は体調を回復する。
昭和21年7月頃?38度線を越えた時は物資が豊富で人間らしい食べ物を食べさせてもらい、ただただ安堵感で流れる涙を抑えられなかった。
舞鶴港から汽車で帰ってきたが東京を通った時は東京大空襲で真っ黒い大地だった。○○駅で汽車を降りて歩いて10分程の実家へは腰が抜けそうで中々家に着かなかった。家に着き玄関で立っていると、中から母親が出て来て勢い良く中へ戻り、今度は兄が勢いよく出て来て母を追い払おうとした。(母も兄も乞食と間違えた)。
目に涙をためて立っている母を見て妹ではないか?と思った兄は「〇子か?」と声をかけた。すぐは返事できなかったが頷くと兄は「〇子だ、〇子だ、〇子が帰ってきた」と大声で家の中へ入る。「子どもはどうした?」と聞かれ、子どものことを話すと一家で落胆した。しかし、母を責めることはなかったという。まず、お風呂を沸かし入った。母の姿は頭は伸びたざんぎり頭で、着ている衣類は汚いものでやせ細り、足はパンパンにむくみ、お腹は臨月のように大きく膨らんでいた。近所の人は母のお腹の中にロスケの子を孕んで帰ってきたと噂がたった。その状態は草しか食べていないので、ほかの栄養素は摂っていないため、低タンパク質症状による全身のむくみの症状です。
お風呂に入って一段落して嫁ぎ先の○○の家に挨拶に行った。父の兄から○○で過ごすことも勧められたが、百姓はできず、少し静養したいとの思いから実家に居候することにした。
母は実家で100円のシンガーミシンを買ってもらい洋服などを作っていた。
父はシベリアに捕虜として捕らえられるが間もなく初期の肺結核に罹っている事がわかり、出身地の○○に帰され○○の傷痍軍人療養所に入院となる。軽症だったために比較的短期間で退院できる。
どういう経緯で母が父に手紙を出したのか分からないが、戦後初めて母が父に手紙を出した。その手紙を受け取った父はこれは幽霊からの手紙ではないかと思った。父は朝鮮からの引き揚げは厳しい状況だと風の便りに聞いていたので生きた母に会うことは無いと思っていた。
3千人いた日本人が38度線を越えた時は300人程になっていたという。
―朝鮮人(北朝鮮)とのふれあい、朝鮮人の人情―
引き上げる途中、北朝鮮の人たちと触れ合う機会もあり、長男、次男を連れている時は「二人の子どもを連れて日本に帰るのは大変だ。このまま朝鮮に留まるように」とか、又「子どもだけでも置いて行ったらどうか?」と何人からも言われた。しかし、母は何としても内地に帰り、父親に子どもを会わせたいと強い気持ちを伝えた。
また、子どもたちの死後は一人になった母に朝鮮人は後妻にならないかとか、嫁になって朝鮮に留まらないかと勧められた。(母はこの時27歳)しかし、二人の子どもの爪と髪の毛は内地に持って帰りたいと意志を貫いた。食料も時々いただいた。母は朝鮮人はバカだ(口の悪い母の表現の仕方)。だけど人情が厚く思いやりがあり、とても優しい民族だと常々言っていた。
―ロシア(ロスケ)について―
「ロスケはこすい」が口癖だった。父の退院後は商品の中に日用品、塩、タバコなどの雑貨類などの販売をして生計を立てていた。商品の中にロシアから輸入した箱入りのロシアンクッキーを仕入れて売っていたが、箱に8個入りと記載されていても7個しか入っていない物もあり、そんな時は「ロスケはこすい。こういうことを平気でする」と言っていた。
-母は比較的明るい性格だったー
問屋から仕入れた商品を整理しながらアリランを歌っていた。いま思うと、どんな思いで歌っていたのか?私には理解できない。幼子を亡くした苦痛から解放される時もあったのか?オモニ、アボジなどハングルも教えてくれた。
私は幼い頃から二人の兄のことを母から聞かされていた。そして、母と一緒に毎朝、夕、仏壇に向かい手を合わせお参りをしていた。
母は晩年には兄二人と、引き揚げ後に産まれて病死した4男の戒名や般若心経を書いたり唱えていた。
母は二人を葬った寺院、墓地は空港になったと聞いたが北朝鮮へはお参りにも行かれないし、どうしようもないと言っていた。
二人の兄が亡くなった事にはいうに言えない程の苦しい出来事であるが、朝鮮人に預けて来たらどうだっただろうか?母にはやっぱりあり得ない選択だろうが、もし預けて来たら、二人の兄をあれこれ心配し正常な精神状態ではいなかっただろうと思う。
母にこれらの事柄を聞いたのは私が10歳ころだったと思う。それ以前の私は幼く、聞いても理解できなかったし、それ以降は私がゆっくり聞いている時間がなかったと思う。私は母の言う事をただ聞いているだけだったが、あれこれ聞き返すことなく聞いていることで、母は話しができたのではないだろうかと思う。今となればもっと色々と聞いておけば良かったと思う。
母が子育て、孫育てが終わり、晩年はハーモニカ、ハンドベル、編み物、陶芸、書道、生け花などをしていたが、私が引き揚げのことを書いてみたらどう?と言うと「地名とかみんな忘れた」と言っていた。
母は95歳で認知症が現れ96歳8か月で亡くなった。
私は両親が亡くなり、二人の幼かった兄たちが北朝鮮で戦争の為に無残な死を遂げたにもかかわらず、永遠に朝鮮の地で眠らざるを得ないことに、とても深い無念さを感じている。戦死した人たちは、どこかに名を残し法要などされている中で、兄たちも戦争の犠牲者でありながら、どこにも名前すら残っていないことにやり切れない思いがある。
しかし、今年3月、私の長男が帰省した際、戦争の話題になり兄たちの話しになった。そして母の遺品の中から出て来た父の手紙を読んだ。その中に以前から気になっていたが、表紙さえ読まずに片付けていた小さな古い冊子があった。その冊子に長男が気づき読み始めた。その冊子は日鉄で殉職、死亡した人たちの名簿だった。
★冊子の表書き(縦書き)。以下の通り。この中の「○○家族」の死亡者一覧の中に兄二人の名前が書いてある。
○○さん
<母ちゃん、タダシの死んだノモンハンだよ。>(人名は全て仮名)
★その1
大正4年生まれの母は82歳で、亡くなった。
穏やかな死に顔だった。
(兄夫婦は○○に住んでいる。母は70の時、○○で私たち家族と同居を始めた)
一番大変な時に育て、一番愛した長男を病院のベッドで待っていた気がして。
「母ちゃん、兄貴は忙しくて来れないって。待ってても無駄だよ・・・。ごめんね」
そう耳元でささやくと、ツーと一滴の涙を流し、1時間後に息をひきとった。
騒がせすぎた割りには・・・・何と穏やかで、清しく仏になったことか!
およそ3年の間、寝たきり・徘徊・被害妄想・惚け 歳とればどの道も通るすべての経過を辿って、母は逝った。
激しく、壮絶に、派手に・・・「娘に焼き殺される」「年金を盗られる」「髪をつかんで廊下を引きずって怪我させた」 警官が来た事2度。弁護士に頼んだこと1度。その他モロモロ・・・・。
そして、入院のちょっと前までは・・・時々すっかり娘時代に戻る”まだらボケ”であった。
「○○、TVにタダシと似た人が出てる!」
「このオーバー買ってきたよ」 何と・・真っ赤で黒い毛皮の襟つき。
「タダシ」はお医者さんだった。
「タダシ」は母の許婚だった。
「タダシ」はノモンハンで死んだ。
本当はお医者さんの奥さんになるはずだったのに!
本当は「タダシ」のお嫁さんになるはずだったのに!
私がもの心ついた時から、そう教えられた。
何度も写真を見せられた。
夫婦ケンカして家出する時、タダシの写真も切り取っていた。
私のダンナに最初に見せた写真がタダシだった。
死んだ青い鳥を追いかけ続ける母・・・。
という訳で、私は昔お嬢様のままの母を好きでなく、深くは考えたことなかった。
両親が死んで、10年以上たって、自分が還暦を過ぎて、一人になる時間が多くなって・・・そして
”富士国際”の新聞で「ノモンハン」という地名を見た時、突然に母のことを考えた。
ノモンハン・・・・タダシの死んだところ。
ソ連の戦車が一杯出た、近代戦だったというところ。
母が生きていたら、最期に娘に戻った母だったら・・・きっと行きたかったに違いない。
思えば、満鉄勤務の父と暮らした大連、二人の兄が生まれた大連も、父母が生きてる間に行こうと考えたことなかったっけ。引き上げ後のことの苦労話はいっぱいいっぱい聞いたけど・・・「満州」での話しは聞いたことがなかった。
そして、大連の防空壕で生まれた兄と「満州」の大連に行ったのは、ほんの数年前。
レンガ住宅の並ぶ大連の街並みに房をたれるライラック(リラ)を発見した時、「リラの花が咲いてきたねぇ。この花好きだよ」と母は良く言っていたっけ。あれはこの風景をなつかしがってたんだ。
あの戦争最中に子どもを生んで、育てること。着のみ着のまま引き上げてきた両親の世代のこと。
私はどのくらい知っていたのだろう?
どのくらい考えただろう?
母の底の底の思いを・・・振り返ったことがあっただろうか?
五味川純平の本を読んだ。
辻正信の本を読んだ。(この本は吐き気がして途中で止めた)
こんな理不尽なことで。こんな不条理なことが。
戦争を指揮した人がのうのうと暮らす?
「鴻毛より軽い人の命=肉弾戦」「現地調達」(食料から陣地から)「虜囚になるより死ね」
そして、それが15年戦争の最期までの日本軍(皇軍)の真髄だった。
そして、知った。タダシだけではなく、理不尽な死を迎えた兵隊たちのこと。
兵隊ばかりでなく、満蒙開拓団の4千人を超える人たちの最期。
集団自決。お墓をつくってくれた新生中国。一人ぼっちになった養父母への感謝の墓。
米どころ○○平野よりもっと整然とした田んぼ。これは70歳の岩手の人の技術指導によるもの。
(すごいこと。日本のノー政に頭に来たに違いない!)
帰ってきて、仏壇に母の写真を返し、そして、私は、とても素直な気持ちで、母に言えた。
「母ちゃん、タダシに会いに行きな。タダシの傍に行きな。父ちゃんはこの世で苦労かけたからね。父ちゃん?大丈夫。一番可愛がられた私が納得させるさ!」
戦争さえなければ・・・・一人ひとりに違った人生があった。
(その前に私が産まれていない、ということか!!!)
まぁ、でも、こうやって死んだ許婚と一緒になりなって良いと娘に承認された母は・・・あの世で、やっぱ
お前を産んで良かったって・・・大人になった娘を褒めてくれてる気がする。
★その2
母は品行方正なお嬢さんでした。地元○○では大地主で、お医者さんになった「タダシ」とはきっと”理想の結婚”と親族一同寄せる期待も大きかったのでしょう。でも、タダシがノモンハンで戦死し・・・すべてが狂ったのです。
成り行き上”結婚”した父は、○○県の片田舎の<草分け>の長男でした。
着の身着のまま満州から子ども3人連れて引き上げ転がり込んできた長男一家5人家族を迎えた父の実家は、妹一家が父の両親と暮らしていました。
それも妹の夫は戦死し、その弟と再婚し、両親と暮らしていたところへの帰還。
長男一家がこのまま居ついたらどうなるか・・・と言う訳で、村中にうわさが広まるくらいの虐待をされる状態になったということでした。
ここから分家し一家を構えた後に生まれたのが <私>、という訳です。
今回のノモンハン行きは、したがって、私が生まれる前の、母の初恋と思しき人の戦死した地へ、母に代わって逢いに行こう、という殊勝な気持ちが、なぜか私の中に芽生えたからでした。
アルバムをめくりながら、何度、軍服姿の「タダシ」の事をきいたでしょう?!小さい頃、特に、そういう事が多くありました。母は楽しい人だけど酒乱で女癖の悪い父を嫌っていました。
それはずっとずっとでした。なので、小さいながら、私は父が他に女をつくるのはしょうがない、という割り切りようでした。3人の兄の一番下に生まれた女の子として私は本当に父に可愛がられました。
母は、兄たちを可愛がらなかったのに、難産の末生まれた私だけ溺愛する父を嫌うのと同時に私を好きでなかったのです。
なので、死んだ人を思い、父を悪く言う母を、私はずっと「山のかなたの青い鳥を追いかけて・・」と、愚かしさをののしっていました。
あの戦争中に、満州で次男、防空壕で3男を産み、子どもを育てるということ・・。敗戦の声を聞いて3人の子を連れて引き揚げ船で日本に帰ってくるということ。「どこの馬の骨やら・・」と言われさげすまれた昔のお譲さんは・・・、本当に「タダシさえ生きていれば・・」と何度々々思ったことでしょう?
こんなハズではなかった人生を・・父と共に暮らして、80歳の声を聞いても「離婚する」と家出を繰り返し・・・父が死んで・・・すっかりお譲さんに若返って、最後の買い物は真っ赤なオーバーで。命がけで育てた長男は、その優しさを奥さんに向け、ここでも母は裏切られた、
と、夜中にムクッと起き出してはブツブツ言い、頭が狂うのではないか、と思われる狂態を示したのでした。
父は大正2年、母は大正4年生まれ。まさに激動の時代。価値観の転換の時代を生きて長男は親の面倒を看る、などは通用しない時代に老人となり、価値観の転換を図れなかった”品行方正”な母は、昔に戻るしか自分を保てなかったのではないか?と言う気がします。
あの世で、父は忘れてタダシに逢いに行ったらいいよ・・帰ってきて仏壇に写真を戻しながら私は”あなたも戦争の犠牲者”という気持ちになって、母に線香をあげる事が出来たのでした。
私の母の一生かけたドラマ、完結!!!
行けども行けども草原の内モンゴルをバスに揺られながら、”食料現地調達””肉弾戦””生きて虜囚の辱めを受けず”の日本軍隊の15年戦争の基本線がこのノモンハンで造られたのだ、と実感できました。辻正信という名前を知ったのも、また、太平洋戦争の前だったことも、「ノモンハン事変(宣戦布告なしなので)」としか表現してないことも、今回のツアーのおかげで勉強できたからでした。
氏名○○ ○○
7、「ガンと生きる」ブログより抜粋 2019.12.8
私、黒井秋夫の前立腺ガンの現状をお知らせします。
幸い、「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動で、助けていただいている多くの仲間の笑顔に助けられ、元気に活動を続けています。今後もよろしくお願いいたします!
「発作性上室性頻拍」でカテーテル手術します
(2019.12.24入院、25日手術、26日退院予定)。
数年前からごくたまに動悸・不整脈で立ち眩みの時のように、目をつむり嵐が過ぎて心、拍が正常になるまでやり過ごすような症状がありました。それがこの一年、頻度が増しました。先週の月曜日11月18日11時頃から公園掃除中(シルバー人材センターの仕事中)から動悸が始まり、午后にも止みません。意を決して立川の主治医に診察してもらいました。若干の検査を経て、災害医療センターへの紹介状が出されました。
11月21日、立川の災害医療センターで「発作性上室性頻拍」と診断され12月25日のアブレーション手術が決まりました。生涯3回目の手術です。前立腺ガンの放射線治療が終わったばかりなのにまた手術。さすがに昨日は気落ちしました。重篤な手術ミスの可能性も含めて承諾のサインをしました。
0.01%の発生でもゼロではない訳で心配の種を一つ抱えた気持ちです。
病院では妻にも同席してもらいました。2時過ぎに帰宅して私が気落ちした様子を心配して「2階で少し横になったら」と言ってくれました。私はいったん2階に向かいましたが、階段途中で思い直しました。「寝てなんか、していられない!」12月8日には「おしゃべりカフェ」が待っている。楽しみにしている参加者が待っている!何としても成功させなくちゃ!遠藤美幸さんの講演も楽しみ!
気持ちで負けまいとリュックを背負い市役所へ散歩に出かけることにしました。そうしたらさち子に「こんにゃくとキノコを途中で買ってきて」と頼まれました。
ここまでは21日のこと。23日は椿山荘で私の甥がブラジル人と結婚した(先週届け出)お祝い会。女性は4才の娘がおり、甥も再婚。精一杯祝福しなくちゃ!
人が生きて行くのは「山登り」と似ていますね。越えたと思っても、その先にはまた次の峰。でも時に美味しい水があり、きれいなお花畑あり、絶景の展望も待っている!
まだまだ、いや息を引き取るまでは悟りきれないし、まだまだ未熟。それでも、人間たちの未来への希望だけは持ちつづけ、歩いて行くことにします!ファイティング
25日(月)は午後1時に災害医療センターの診察です。21日の検査結果を踏まえて、手術の最終判断があると思います。もう覚悟はしましたので特段の緊張もありません。ファイティング!
2019.11.22
再発した前立腺ガンの放射線治療
9月11日に始まり10月16日で22回目、全35回で残すところ13回となった。平日は毎日、武蔵村山病院放射線治療室に通う。放射線を受ける時間は10分程度に過ぎない。
2015年3月5日に全摘の手術をしたので私の前立腺は既にない。ただ元の前立腺の場所の位置に放射線は照射される。35回で70Gyの放射線を受ける。局所照射なので生命に別状ないが、全身に一気に浴びたらすぐ死に至る線量らしい。見えないから恐怖感はないが「ジージー」という照射を知らせる音を、仰向けのベッドで聞くのはあまり気持ちよくない。量はどうあれ身体に毒であることに変わりない。
日増しに便通が困難になる。そして便意がいつもある。
医師は直腸が放射線で火傷して膨れ便通が悪くなるのだと言う。
いつ解消するかと聞いたら「わからない」とひとこと。16日、座薬を処方された。
昨日はシルバー人材センターの3人の仲間と月6回請け負っている、大南東公園の作業の日だったが便意が収まらず休んだ。 請け負って3年間皆勤だったのに、同僚に迷惑をかけた。今週金曜日も出番だが心配だ。
前立腺ガンのマーカー・PSAは手術直後には0だった。3年後でも2018年6月に0.158だったのが、1年後の2019年8月に0.446に急上昇して再発と診断された。医師の説明では細胞は倍々に増殖するので一気に数値が上がるのだと言う。 ガン細胞は確かに増殖中なのだが、0.446くらいでは微量すぎて、どこに存在するか、現段階で場所の特定はできない。経験則で元の前立腺の場所が増殖の可能性が高いのでそこに照射すると言う。本当にそうならガン細胞を死滅させて完治する可能性がある。希望を持ちたい。それが効果がないと、違う臓器で増殖していることになる。となると、次はホルモン治療、その次は抗がん剤というふうになるらしい。
主治医は治療が不首尾でも「あと5年は大丈夫生きられますよ」という。私は5年で死ぬ気はない。というか死ぬわけにはいかないのだ。何としてもあと10年、できることなら20年、90歳まで生きたい。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が軌道に乗り、私の思い(従軍した父親たちの思い)を共有する熱意ある語り部が生まれるのを確かめなければならない。
思いさえあれば活動は続けられる。あとはまわりの人たちが助けてくれる。立ち上げて2年になろうとしているが、共感し、助けの手を差し伸べてくれる多くの人たちがいることが良く分かった。理念が「まっとう」なら、必ず人は集まるのだ。困って途方に暮れたことが何度とあったが、その度に必ず助けてくれる人たちがいた。綱渡りではあったが恵まれた。
これを読んでくれている人たち、今は見守ってくれている友人たちに呼びかける。
私を(従軍した父親たちを)助けて欲しい。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の会員になってほしい。
「おしゃべりカフェ」の会場準備、会の進行、報告書の作成と発行・発信などに人手が必要だ。
人手があればもっと多くの活動や働きかけが可能だ。できそうなことがいっぱい見えているのだ。
会の運営にはお金も当然必要だ。力を貸して欲しい。
離れてくれないガン治療で少々ナイーブになっているかもしれない。それでも私は元気です。
次の12月8日(日)の「おしゃべりカフェ」に向けて一つひとつ準備しています。
多くの皆さんが武蔵村山市中藤地区会館に集まってくださることを願っております。
みなさんもお元気でいて下さい。
2019.10.19 黒井秋夫。
先輩たちのように。
樹木希林さんの最後をNHKのドキュメントで見たが、撮影スタッフを気づかったりする落ち着きに圧倒された。田部井順子さんが高校生を富士登山に引率するドキュメントも凄かった。自分がガンの為に呼吸が苦しいのに「時間がかかっても必ず登頂できる」と若い人たちを励ますやり取りは、鬼気迫る映像だった。
かつて月山や、安達太良山、新潟の山に何度となく同行したI さんは、ガン宣告から何カ月もせずに旅立ったが、彼は妻に家庭菜園の世話をメモにして託したと聞いている。最後に臨んでもごくごく日常的な事柄を淡々と送っていたように思える。
青年時代に反戦活動を共にしたTさんはホスピスの枕元に手塚治虫のブラックジャックが積んであった。彼は京大に籍を置いた論理明晰な活動家だった。あと1~2か月の最後にブラックジャックを読む心境は私ははかりかねた。
もう何度と読んだに違いないが何が疑問で何を確かめたかったのだろうか。
いずれもガン患者の先輩で今はもうこの世にいない。
私は主治医から「あと5年は大丈夫です」と言われた。「最短でも5年は生きられる」ということと理解している。もし、そうなら偶然にも父親や兄と同じ76歳の人生ということになる。本当のことは死ぬまで分からない。希望通りもっと長生きできるかもしれないし、短いかもしれない。
9月11日開始の35回の放射線治療は明日で終了する。
先週、放射線治療科の医師に「今回の治療結果はいつ判明するのか?」と質問したら「長い人生の中で分かる」という返答だった。まともに答えていない!と腹が立ったが、治療前に「PSA数値では根絶できたように見えても、更に微小なガン細胞で再再発する可能性がある」と言われたことを思い出した。そのことを言っているのなら医師のいうことは正しい。私が求めたのは「今回の治療の取りあえずの成果はいつ分かるか?」と聞いたのだが、「ガンは数値に一喜一憂する病気ではない」という医師の戒めだったかもしれない。
確かに先輩たちは泰然としてガンと生きガンに死んだ。
私もそのように生きることができるだろうか。自信がない。
テレビで見たホスピスの医師は真心と笑顔で末期のガン患者に接して、最後の安寧を与えていた。
ところが、彼は自分自身が末期ガンの宣告を受けたら精神が不安定になり、半ば錯乱状態になり医師を続けられなかった。生前からは想像できない目を疑うような最後の姿だった。
私はどちらだろうか。
2019.11.5 黒井秋夫。