私が背負った昭和の業・野崎忠郎

 

下記の文章が届きました。同意いただきましたので公開します。

私が背負った昭和の(ごう)

 

             野崎忠郎  

 

 

 

七三一部隊に斉藤一郎(仮名)という軍医がいた。○○県の農家の出で、成績のよかった一郎は家と村の期待を担って医大を出、その後軍医学校に進んだ。日中戦争勃発後中国に渡り、防疫給水部(後の七三一部隊)でチフス、コレラ、赤痢の調査、予防に従事、その後満州・平房(ピンファン)にある七三一部隊に所属した。彼は細菌戦を担うために純粋培養された軍医だったといえる.

 

斉藤はそこで各種病原菌の大量生産を指揮することとなった。そこでの人体実験や実際に実施した細菌戦にはチームの責任者だった斉藤も当然積極的に関わっていたはずだが、満州時代の斉藤がそのことについて残した言葉はない。彼の上司は、斉藤が極めて勤務成績の良好な軍医だったと評しており、斉藤自身も後に「日本軍将校トシテ細菌生産任務ヲ遂行スルタメ全力ヲツクシタリ」と自己評価している。当時の「滅私奉公、尽忠報国」イデオロギー下における、典型的な軍人だったといえる。

 

七三一部隊のやったことのうち、医学的に専門性の高い事項はアメリカが持ち帰って極秘事項としているが、部隊の概要はいま広く知られている。一九四五年八月九日、ソ連軍がソ満国境を突破して侵攻してきた直後に人体実験用の捕虜を全員射殺して焼却、施設設備は工兵隊が爆破、隊員は家族と共にいち早く日本へ逃亡、という経過も明らかになっている。だがその時、幹部である軍医斉藤は逃げ遅れてソ連軍の捕虜となった。それ以前から部隊は満州全土に細菌戦のネットワークを作りつつあり、その任務のために本隊を離れていた斉藤は取り残されたのだった。シベリヤに送られた斉藤はソ連による軍事裁判「ハバロフスク裁判」で部隊の全貌を供述した。その内容はもう私達が知っていることなのでここには書かない。斎藤はそこで禁固二十年の判決を受け、ラーゲリに送られた。

 

七年後の一九五六年、日ソ共同宣言に伴って恩赦が決まり、斉藤は釈放されることになった。だが、明日にも帰国命令が出されると思われていた夜、斉藤は自殺した。縊死だった。遺書はなく、遺骨はラーゲリの共同墓地に埋葬されたが、日ソ国交回復後未亡人が現地を訪れて遺骨を掘り出し、故郷の墓地に持ち帰り改葬された。

 

 

 

一九九〇年代初め頃NHKテレビが斉藤を取り上げる番組を放映した。その番組を見た後父の妹である叔母と話をしている時私がそのことに触れると、叔母は「斉藤さんなら私よく知ってるわよ」と驚いた声を上げた。

 

「斉藤さんとお兄さんは大の親友で、軍医学校時代の斉藤さんは何度もうちに遊びに来て泊まっていったのよ」と、叔母は続けた。ほぼ同年齢だった私の父も医大卒業後軍医学校で学んだ。その時期父の家は東京にあったから、○○から上京していた斉藤は父の家で家庭の味を味わっていたのだろう。

 

 

私は父の軍歴を詳しく知っているわけではないが、父は軍医になってすぐ国内の陸軍病院に配属され、一九三七年七月の日中戦争勃発直後中国戦線に出征した。そしてたぶん三八年か三九年初め頃、七三一部隊に配備された。父は斉藤のように軍医学校からまっすぐ七三一部隊に行ったわけではなかったが、私は父も斉藤と同じように細菌戦要員として

養成された軍医だったと思っている。父と斉藤は、細菌培養や人体実験をしている部隊の建物と同じ敷地にある、〇村と呼ばれていた隊員宿舎に隣組同士として住んだ。私はその〇村で、四十年一月に生まれた。

 

斉藤とは違い、父は七三一に最期まではいなかった。これも推測だが、四十三年暮頃に、父は南方戦線に配置転換された。その頃の南方戦線は敗北に敗北を重ねていたから、陸軍は満州の部隊を引き抜いて南方に投入するしかなかったのだ。南方戦線では、たぶん五割以上の確率で死が待ち受けていただろう。一方七三一にいればほぼ死はまぬがれる。そんな過酷な人事にも、兵士や軍人は黙って従わざるをえない。家族を内地に帰して南方に向かった父は、その時死を覚悟していたかもしれない。

 

だが父は死ななかった。米軍に追われて太平洋を北に向かって敗走する日本軍の中で父は本土決戦要員に指名され、硫黄島も沖縄も跳び越して九州に配備された。今度は軍の人事が父を死の淵から遠ざけた。そして無条件降伏によって本土決戦が避けられた後、父は私達のもとに復員したのだった。その時、斉藤は戦争犯罪人としてシベリヤに幽閉されていた。

 

私の記憶は、ようやくその頃から残り始めている。○○県下の村で開業医として戦後の生活を始めた父には、敗戦によってうちのめされた翳など全く見当たらなかった。その頃の父はよく村の有力者と酒盛りをしていたが、そこは父が戦争譚を語る独壇場だった。父はその酒盛りの場で、日中戦争やジャングルでの戦闘を語る時と全く同じ調子で七三一でやったことを大きな声で話していた。細菌培養、人体実験、飛行機からの細菌爆弾の投下──襖を隔ててそんな話を聞いていた私はまだ小学校一、二年生だったが、父の話の内容はすべて鮮明に記憶している。幼い心にも、それがあまりにも異常な話だったと思えたからだったろう.一九八〇年代初頭に森村誠一氏の「悪魔の飽食」が出版されて広く知られるようになった七三一部隊の実態を、私は敗戦のわずか一~二年後、六~七歳の時既に心に刻み付けていたのだった。その時、私は確かに昭和の業を背負った。

 

だがある時期以降、父はその話を全くしなくなった。長い間、私はそれを父の心から戦争体験が薄れたためだと思っていた。けれどある時私は、父の七三一体験が大きな闇を抱えていることに気付いた。戦後のあの酒盛りの場で、父は七三一の最後の場面も声高に話していた。捕虜の射殺と焼却、施設の爆破、父の話していたことのすべては、後に明るみになった部隊最後と全く同じだった。

 

だが父は敗戦時には満州ではなく九州に構築したトーチカの中にいたはずだ。その父がなぜ、あれほど正確に七三一の最後を知っているのか。あの頃私の家に電話はなかったし、見知らぬ人が訪ねてきた記憶もない。とすれば父は、戦後どこかで部隊の残党とあっていたに違いない。会ったとすれば、敗戦後九州から○○へ移動する間だったろう。そこで父は残党と何を話し、何を打ち合わせたのだったか。だがそれにしても、秘密厳守であるはずの部隊の内実をああもあけっぴろげにしゃべっていた父にとって、七三一体験とは一体なんだったのか。そしてある時期以降の父の沈黙は、本当にただ戦争体験の風化によることだけだったのか。

 

長い間解くことの出来なかったその疑問が氷解したのは一九九五年、戦後実に半世紀たった時だった。ある集会で私は七三一研究の第一人者である常石敬一神奈川大学教授と隣り合わせに座る機会を得、自分の父親が七三一の軍医だったことを告げた上で、戦後ある時期以降の父の沈黙について語った。

 

「ああ、それは帝銀事件のせいでしょう」と、教授はこともなげに、私が全く予期していなかった返事をした。教授の説明は以下のようだった。

 

一九四八年、帝国銀行椎名町支店で十二名の行員が毒殺された事件の解決は困難を極めた。その捜査の過程で犯人のあまりにも鮮やかな手際から毒物や細菌の扱いに手馴れた七三一部隊の旧隊員の犯行ではないかという見方が浮上、旧隊員に対する事情聴取が始まった。ところがその捜査は突然GHQによって禁止された。アメリカは旧日本軍から秘密裏に入手した細菌兵器に関するデータを独占するつもりだったから、旧隊員の動向が社会的に公然化するのを嫌ったのだ。その時、GHQは七三一に所属していたすべての軍医のもとを回って厳重な緘口令を敷いた。

 

「○○県には昭和二十○年○月に入っています」

 

と教授が言った年月を私は忘れてしまったが、父は間違いなく四十八年から四十九年にかけてのどこかでGHQの取調べを受けていたはずだ。父はその中で、七三一のことをしゃべったら命はないぞ、というに近い口止めをされたのではなかったろうか。父はきっと、七三一でしたことを戦争中の手柄ぐらいに思っていたのだ。それは南京大虐殺の中で百人斬りをした兵士がそのことを手柄話としていたことと同じだった。旧日本軍の荒廃しきった倫理を身につけたままの父にとって、GHQの取調べは世界の底が抜けるような驚愕と恐怖に満ちたものだったに違いない。父の沈黙は七三一体験の風化によるものではなく、まして罪の意識にさいなまれたためでもなかった。父は死の恐怖の前で口を閉ざしたのだ。七三一部隊という昭和史の中の巨大な闇に帝銀事件というもうひとつの闇が重なったその時、父の心の中の闇の部分が明らかになったのだった。

 

だがソ連もまた細菌兵器のデータを欲しがっていた。斉藤他の、逮捕した旧七三一部隊員を執拗に尋問して全貌をつかんだソ連は、細菌戦に関するデータのアメリカ独占を阻止した。つまり父や斉藤が作り出した細菌兵器は、戦後の冷戦構造の中で重要な戦略兵器のひとつになっていたのだが、父はそのことに全く無知だった。ということは、敗戦直後に残党と密会した後、父には部隊に関するどんな情報ももたらせられなかったということになる。闇は闇のまま野ざらしになっていて、父はGHQに喚問された時、突然そのことに気付いたのだった。

 

その数年後、私達の一家は○○県下の別の農村に引っ越した。あれは偶然だったのかもしれないが、引っ越した先は斉藤の故郷である農村の隣村だった。父はそこで当時農村ではまだ珍しかった大型のオートバイで往診に回っていたが、暇な時にはいまでいうツーリングに出かけていた。その途次、父は斉藤の実家に寄ったことはなかったろうか。戦後の父が斉藤をどうおもっていたかは私にはわからないからこれは私の推測に過ぎない。だが私には、父と一緒にその村を歩いていた記憶がある。その村のどこへ、何をしに行ったのかの記憶は全くない。時期的に言ってそれは、斉藤がハバロフスク裁判で禁固二十年の判決を受けた後だった。だからその時期の父は、斉藤はもうこの村へは帰ってこられないだろうと思っていたはずだ。その村へ、父はなぜ私を連れて行ったのか。だがそれもまた、私の推測のひとつでしかない。

 

移り住んだ村に、私達はわずか三年いただけだった。村の枢要な地位にありながら、父は村にいられなくなるような不祥事を起こし、夜逃げ同然に辺鄙な寒村に引っ越したのだった。それ以後の数年の間、それは私が中学から高校にかけての多感な時期に当たっていたが、父は心の中で何かが壊れたように、家族や仕事をかえりみないまま酒と薬物の中に沈んでいった。病者を癒し、病気の蔓延を防ぐことを使命とする医師の身でありながら、逆に大量培養した病原菌をばら撒いて病者や死者を出し、更には罪のない人間を捕まえてきて人体実験をするという背徳の中で生きてきた父の倫理の荒廃が、あの頃、心の奥深くにまで達したのかもしれなかった。

 

その村にも三年いただけで、父は戦後最初に住んだ村に舞い戻った。その村は戦後すぐに死んだ私の生母と、その後父が再婚した継母両方のふるさとだったから、私達の親戚が多くいた。父はそんな人たちの支えと励ましを受けながら、おそらく奇跡的に薬物地獄から脱し、正常な仕事と生活が送れるようになった。ちょうどその頃から、私は心理的にも空間的にも父から離れた。青年期の私と父との間はずっと断絶寸前の緊張をはらんでいたが、父から離れることで七三一という不気味な闇や父の心の荒廃から離れられると、私は無意識のうちに考えていたのかもしれない。確かに距離をおくことで、私に中の父に対する気持ちは次第に落ち着いていった。

 

そう思っていた私が七三一の不意打ちをくらったのは、私が三十過ぎの遅い結婚をした直後、妻と共に父の家を訪ねた時だった。その晩、たぶん私はひとりで勝手に酔っ払って寝てしまったのだと思う。そのあと、父は息子の嫁の酌で飲みながら、ひと晩かかって七三一の話を私の妻にしたというのだ。

 

「驚いたけど、お義父さん、罪の意識や後ろめたい気持ちは持っていないみたいだったよ」

 

翌朝妻からそう聞いた時、私は心の奥からにがい、腐臭に充ちた汁が湧き上がってきたように思った。「悪魔の飽食」が出版される前だったから、妻は当然何も知らなかった。父は全くとんでもない結婚祝いを嫁に贈ったのだった。

 

父の七三一体験の根底にある倫理は、結局戦時中のままだった。それを無造作にしゃべると周囲の顰蹙や反発を買い、更には社会的に抹殺されるような危機さえ招くから沈黙を守っていたにすぎず、その恐れのないところでは、父はやっぱり手柄話のようにしゃべりたかったのだ。父はその倫理の荒廃が自分の人生や家族の心と暮らしをどれほど汚染したかということには、全く気付いていなかった。逆に言えば、そのことに気づく敏感さと倫理的基盤を持っていたら、父は七三一のおぞましさを自覚していたはずだ。だがそれはないものねだりというものだ。そんな繊細さと倫理的潔白感を持っていた人間は、そもそも軍人などにならず、徴兵すら拒否して国家権力に抹殺されていただろう。近代日本の権力は個々の民衆にそこまで過酷な決断と選択を迫っていた。そして戦後の父には、その歴史の限界を乗り越えるような力や機会は、内在的にも、外圧としても遂にやってこなかった。

 

その数年後のある夜、父は自殺した。縊死だった。遺書はなかったから、死の引き金を引いた直接の原因は全くわからなかった。医師だった父は薬品を使ってもっと楽に、そして無様な姿を見せずに死ぬことはいくらでも出来た。にもかかわらず縊死を選んだ父の脳裏には、斉藤の死に様が浮かんでいたのだろうか。ともあれ、父は最期にもうひとつの大きな闇を私の前に残して逝った。

 

斉藤の死を知らされた斉藤夫人は、こう語ったという。

 

「内地に帰っておめおめと生きていかれるような性分の人ではなかったと思います。自分のやったことを日本人が赦してはくれないだろう、と考えたのではないでしょうか。お国のためだという申し開きができることではないと・・・」

 

その言葉を借りれば、父は戦後三十五年、内地でおめおめと生き続けた。その戦後日本の社会は七三一を不問に付し、あまつさえ戦後世界を支配したアメリカは七三一の悪事が暴かれないように保護し続けた。青年期の私が父の戦争体験に突っかかっていった時、父は苦しそうに「みんなお国のためだった。国の命令は絶対だった」とつぶやいたきり口を閉ざしたが、この国はその言い訳を受け入れ、七三一も、南京大虐殺も従軍慰安婦も全て赦した。その観点に立てば、斉藤は死ななくてもよかった。

 

だがそうではない。かつて日本軍将校として、同じように細菌戦遂行の任務に全力で取り組んでいたふたりのうち、斉藤は帰国の前夜、自ら命を絶った。その死はソ連軍による尋問と裁判という外からの力がきっかけだったとはいえ、死の直前の斉藤は自らの戦争責任を自覚し、罪を償おうとする地点にまで達していたと思う。そこから先の一歩を、罪を背負って贖罪の生を生きる方向に踏み出すか、死に向かって踏み出すかに、たぶん違いはない。斉藤は死ぬことによって罪を償う道を選んだ。

 

一方父は生き続けた。私は、父もまた斉藤と同じように戦後の早い時期に罪を悔いて死ぬべきだったと言おうというのではない。最後の場面での斉藤にとって生と死が等価であったとするなら、死を選ばずに生き続けた父は、斉藤の死に匹敵するだけの生を生きるべきだったと思うのだ。先に書いた「日本軍将校トシテ細菌生産任務ヲ遂行スルタメ全力ヲツクシタリ」という斉藤の言葉は、ソ連軍に逮捕された直後に書かれた供述書にあるものだが、そこに見られるのは日本軍将校としての矜持だけで、戦争犯罪に対する自覚や反省の念は見られない。そこから斉藤夫人の言う心境までの距離は私の想像を絶するほど遠い。斉藤はその距離を、逮捕、尋問、裁判という外からの力のもとで埋めていったのだろう。そして最後に、おそらくは絶望にみちたある心境──斉藤夫人の言葉を借りれば「日本人は赦してくれないだろう」という心境にいたり、自死を選んだ。

 

斉藤の絶望的な予測に反して戦後の日本は七三一を赦したが、その赦し方は奇妙なものだった。「赦し」とは「罪」を自覚し、悔い改め、贖罪のための生を歩み始めた時にはじめて成立する。けれど戦後の日本人や日本国家は七三一を正面から取り上げないまま歴史の表面から抹殺しただけだった。その赦し方は、父にとってとりあえずは都合のいいことだったろう。けれど父は、自分の七三一体験をこの社会が決して受け入れようとはしていないことを知っていたはずだ。父の心の奥底には、逮捕直後の斉藤の心にあったのと同じ日本人将校としての矜持が宿っていた。父は斉藤とは違い、その矜持を戦後もずっと持ち続けていた。そのため、走り出した戦後社会と父の心との間には乖離が生じ、それは次第に拡がっていった。父が転々と引越しをし、不祥事を起こし、酒や薬物に沈んでいったのは、おそらくその乖離から生じる生きにくさのためだったろう。父が死の数年前に息子の嫁に七三一の全てを語ったのは、自分の体験、自分の人生を現実世界に受け止め、認めてもらおうとした最後の試みだったろう。だがそれも空しい願いにすぎないと悟った後の父には、死が残っているだけだった。父が死の手段として斉藤と同じ方法を選んだことには何の意味もない。父の死は、斉藤の死とは全く次元を異にするものだった。

 

父は最期まで、七三一を含めた自分の戦争体験を考え直すことをしなかった。お国のために人を殺し、お国のために何度も死を覚悟した体験が、父の精神を縛り続けていた。父はその体験と戦後社会との乖離のために道を見失って一度は地底にまで引き降ろされかかり、辛うじてその危機から生還した後も、七三一を含めた戦争体験から脱却することが出来ないまま自ら命を捨てた。

 

それもまた昭和史の中に無数にあった悲劇の一齣であったと父の生涯を歴史の中に突き放すことで、私はようやく私の人生をも強く呪縛していた「昭和の業」から解き放たれたのだった。

 

 

 

                          了