今日のひとこと5月28日~6月3日

 

今日のひとこと 528日~62

 

5月28日(木)晴れ。室温 23.2

 

 10日の開館から3週間になろうとしている。昨日までに36人の皆さんにご来館いただきました。心から感謝申し上げます。内訳は武蔵村山市23人(町内8人)、東大和市6人、立川市3人、小平市1人で多摩地域36人。都区内2人、埼玉県1人です。緊急事態宣言で人通りの絶えた周辺の状況の中でも訪ねていただきました。町内のみなさんにもお出でいただき、この地で(武蔵村山市中藤3丁目で、三多摩地域で)活動を続けて行く手ごたえを感じています。

 

 

 

 開館以来、HPの更新頻度が落ちました。理由があります。来館者と私(館主・黒井秋夫)の関係です。当初は来館者に展示パネルや資料をご自分で見ていただく、何か質問などあれば私がお答えするという一般的な資料館のイメージでした。

 

 しかし、いざ来館者を迎えると、展示パネルの説明を私がすることから始める方が自然なのです。今のところ殆んど来館者と二人だけの時間なので、双方が無言というのは不自然で気づまりなのです。

 

 

 

 そうすると、自然に会話・交流になっていきます。そのことから来館者の来館の動機、どうして交流館に興味を持ったのかなどを私は知ることができます。また、来館者は来館の目的から始まって、日本の歴史や戦争に対する考え方、自分や家族の戦争体験、それ以外にもご自分の生い立ちからこれまでの事など等、2時間お話しして帰られた女性の方もいらっしゃいました。

 

 結局、私が来館者のお話しを聞かせてもらう時間がほとんどです。当然その間は他のことはできません。昼食時間や閉館時間も不規則です。

 

 メール送信者(組織)は200人を越えました。郵送者は60人。皆さんから返信が届きます。その返信も遅れ気味で失礼しています。

 

 開館を伝えるお知らせを周辺の700世帯に戸配しました。合計3日間で7時間かかりました。2時間~3時間の戸配は狭山丘陵に階段状の住宅地なので登山と同じなのです。23日から始めた3日目の25日は精神と肉体が分離した感じでぐったり疲れました。今日は28日ですが二日置いてやっと平常な身体感覚に戻りました。8月で72歳の身体は正直です。

 

 

 

 などなど、気持ちはあってもHPの更新に手が届きませんでした。毎日の出納、来館者・HP訪問者の数値のまとめ、開閉館カレンダーの訂正、起きたできごとを書き残す、電話対応、郵便物の整理、発送など事務作業、朝の掃除、看板の出し入れなどなど、小さくても一丁前の一通りのルーチンワークがあるのです。だいぶ慣れてペースがつかめてきました。無理をしないことです。ずうっと続くわけですから!

 

 

 

 しかし、新しい発見であったり新しい輪の広がりが(クラスターの誕生と言っても良い)毎日ありました。まず、立川市で「ひろしまへ~ひろしまから」通信をすでに270号を発刊し、講師を招いた学習会を100回以上主宰している「只者ではない超人」と私が読んでいるTさんです。Tさんは当館の開館だけを報じた通信264号(上の写真)を彼のルートに広げてくれました。それを見た日本と中国の友好の絆づくりをしている団体から機関誌3冊が送付され、機関誌への寄稿の依頼がありました。

 

 また、Tさんは上載の高瀬さんを誘って24日に来館してくれました。その高瀬さんとのピースボート乗船以来の再開が縁でFacebookに紹介いただき、たくさんの反響がありました。

 

 ほかにも、今日のひとことの題材はたくさん出来ました。

 

 

 

 まだまだありますので、おいおいお伝えいたします。

 

 

 

528日(木)

 

 トロツキー・ガンジー・阿波根昌鴻、この3人で私の人生が言い尽くされる。

 

もちろん父親・黒井慶次郎を抜くことはできないが。

 

 

 

 今は「命こそ宝」の阿波根昌鴻さんの生き方をなぞり・めざして息絶えたいと願っています。

 

 

 

トロツキーとガンジーの写真は交流館内正面に額になっています。

 

3人の(に関する)著作は書棚にあります。

 

 

 

 トロツキーは言わずと知れたロシア革命のリーダー、外務人民委員(外務大臣)、赤軍創設者。彼が革命の前線にいた時のことは自身の著作・ロシア革命史で良く知られる。トロツキーはスターリン派の勢力拡大で国内で少数派となり、やがて国外追放となり、遂には命をつけ狙われ、ヨーロッパからメキシコへと亡命を転々として、最後はスターリンの刺客により殺されて生涯を終える。少数派になってからも、スターリンのロシアであっても、労働者の国ロシアを帝国主義の包囲網から防衛せよ!としてスターリン派に「暴力で対抗せよ!としなかった」トロツキーを私は評価する。スターリン派の暴力にさらされながらも、自身の支持勢力の暴力による対抗を否定したことに、の非暴力主義にたどり着く土台形成として影響を受けている。自伝や評伝を読んでもトロツキーはある種、天真爛漫で、楽天的で文学的だった。暗殺者に脳天にピッケルを撃ち込まれる寸前(記憶なので正確ではないが)「窓から心地よい風が入ってくる。この世界は美しい」と書いている(ドイッチャーによる)。息を引き取る時に妻に「愛している」と言ったと伝わる。私を長い間支えてくれたのは「暴力で対抗してはならない」と教えてくれたトロツキーの戦い方だった。

 

 

 

 ヨーロッパ人が地球が丸いことを証明し、航路を開き、アフリカ人を奴隷とし資源を力で奪い、アジアを植民地とし、アメリカ大陸の先住民の土地を奪い植民する歴史が、その先住民たちの対等な関係をめざす反撃に、500年後の子孫たちが遭遇していることに、暴力で押さえつけ築いた世界に揺り戻しの大きな歯車が回っていると感じている。暴力は関係する勢力が納得するまで平衡しない。そういう世界の流れが少しずつではあれ動いていると感じている。

 

 多国籍軍(米軍)のイラク侵攻のとき、私は千葉県に住んでいた。それは暴力に暴力でし返す戦争と私は思った。暴力の連鎖という最も解決困難な泥沼を連想させた。私はいてもたってもいられず、署名用紙を用意してJR船橋駅で署名の呼びかけを一人で実行した。その署名活動は政治活動というなら30年近い空白を経た私の決起であり復帰とも言えた。

 

 

 

 あれから17年が経った。暴力で押さえ強い方がその時は平衡を作っても、押さえつけられた方は時をうかがい、必ず後の世で反撃する。暴力では絶対に平衡な安定した社会は作れない。どんなに時間がかかっても、あり得ない理想主義と言われても、結局は話し合いによる双方納得できる着地点を見つけるしかないのだ。

 

 話し合いによる解決をめざす考えにたどり着いた私は「ガンジーの非暴力主義」の本を幾つか読んだ。「家族が暴漢に襲われても暴力で対抗してはならない。身体を張る勇気で対抗する」という非暴力の実践に正当性は賛同するが実践できる勇気に私は自信がない。やはり、暴漢には棒切れにせよ持ってしまうような気がする。心から尊敬しているが情けないがガンジーを実践する勇気が私にはない。

 

 

 

 最後に阿波根昌鴻さん。ブログの読書紹介にくどくど書いている。詳しくはそこに譲る。私は2015年のピースボートの船上で沖縄で活動するジャーナリスト、ジョン・ミッチェルさんの講演で初めて阿波根昌鴻さんを聞いて衝撃を受けた。米軍に力で農地を奪われながら、悪いのは軍であり兵士ではない。その兵士に手を上げてはならない。話し合いで説得し味方になってもらうのだ」と阿波根昌鴻さんは住民に言い続けたという。諦めず、粘り強く続ければ戦いに必ず最後は勝利すると確信していたという。

 

 私は衝撃を受けた。

 

「諦めず、粘り強く!敵を作らず、敵と見えても話し合いで味方にする」

 

まさにその地平こそ私が求めていた考え方でした。

 

 

 

凄い先人がいた。

 

その時から私の生き方、活動のスタイルは決まりました。

 

 

 

 

 

5月29日(金)快晴、室内23.2

 

 10日開館の前後から精神的にも肉体的にも余裕がなかった」と感じている。明日のことの想定もできず、教科書的なシナリオもなく、気がついたことの順番にただただこなしてきた。準備したつもりでも事態にいつも少しずつ覆された。

 

 気持ちはいつも前向きだった。気付いた課題は順序良く当たって行こうと思っていたしそのように手当てしたつもりではある。だが、25日夜に襲われた疲れは経験したことのない物だった。身体ボロボロとはこういうことか」と思わせた。立つとか座ることが困難を越えて、50kgの身体を一致して動かすとか、維持できないような疲れだった。へたりこんだ。

 

 2日置いて、28日朝になってようやく以前の人間らしい気持ちを取り戻した。ほっとした。無理をした意識はなかった。が、お知らせを3日間7時間、700戸の階段の登り下りのチラシ配布を含めて、やはり少し張り切りが過ぎた。思いが肉体を越えていた。これでは長続きできない。反省している。天国の父親やPTSDの兵士の思いを多くの人たちに伝え続ける責任が私にはある。もっと長生きせねばならない。簡単にくたばるわけにはいかない。と、言い聞かせています。

 

 

 

 23日の100戸に続いて24日にチラシを交流館の南側地域に200戸に配布した。そうしたら開館を待っていたように、その地域の戦前生まれの女性から電話がかかってきた。「従軍した兄が酒乱でした。寄り合えるお茶飲み処もとても良い。こういう物を私は待っていました。」。そして、その午後には前日23日に100戸配布した北側地域の女性が来館しました。「父親は気に入らないと突然ちゃぶ台をひっくり返したり、柱や壁を足で蹴ったり異常な行動があった。」という。

 

 わずか300枚配布しただけなのに、その中に従軍兵士のPTSDと思われる行為に苦しんだ家族が2組もいた。びっくりしました。この地域だけでも家族が声を出せずに埋もれている事例が、もっともっと存在するに違いない!私はそう思いました。その思いは3日連続25日に300枚配布する原動力になりました。午前中はシルバー人材センターの請負仕事の大南東公園の掃除の仕事。午後はそれでも2時間休んで2時から5時まで300戸の配布で階段道路(写真の通り)の登り下りを3時間。そしてへばり、まともに口も聞けない敗残兵のように帰宅したのです。

 

 気持ちは若い!やる気満々だ!しかし冷静な判断ができていない!自分が分かっていない!

 

 

 

 今日29日は午后から三多摩健康友の会のあつまりがあった。この会は5人以上の構成員がいないと地区会館(公民館)も借りられない市の規定に困っていた時に「3階のホールを使用しても良い」と救いの手を差し伸べてくれた「大恩のある人たち」なのです。そのおかげで、2018513日、参加者僅か9人でしたが「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」旗揚げの集まりを開く事ができました。

 

 今年からは、友の会定例の集まりと交流館の開館の曜日がかち合い参加が難しくなります。それでも今年も役員を指名されている。さちこに話したら「その時は代わりに私が店番するよ」と言ってくれた。

 

 交流館のお茶やコーヒーの支度、お菓子の買い出し、チラシ折り、などなど、たださえ負担をかけている。こちらからは言い出しづらい。そう言ってくれて嬉しかった。ありがたいことだ。

 

家族はじめ、私の活動は何から何まで多くの皆さんに支えられて続ける事ができている。心から皆さんに感謝申し上げたい。これからも宜しくお願いいたします。皆さんのお力添えを頼りにこれからも身の丈と相談しながらがんばります!

 

 

 

530日(土)15時現在は薄曇り。

 

室温26.5 Tシャツにエプロン。

 

 

 

【大好き💛武蔵村山ひと文化教養商店街】https://www.facebook.com/groups/494525814021844/というFacebookのグループに昨日加入しました。その前日にネットで偶然に5月10日の毎日新聞に当館が紹介された記事を上記商店街のメンバーがシェアしてグループに紹介されていることを発見したのです。しかもその投稿に20人が「いいね」している。初めて聞く名称にもびっくりしました。3万2千世帯の武蔵村山市だが「商店街」メンバーが330人とある。世帯で見れば100戸に1人がメンバーという事になる。全市を網羅している。ある種意識的な人たちのグループだと思う。これはすごいと思った。目的は商店街の活性化はもちろんだが文化教養人になろうと言う事でもあるようだ。

 

 メンバーを見ると多種多彩、市長の与党・野党いずれも含んだ市議会議員さん、商店主、勤め人、教育関係者などなど。当会の紹介をシェアしてくれた人は元武蔵村山市民俗資料館の人だった。自治会区分で言うと隣の原山自治会副会長さんだと言う。

 

早速、5月20日発信した「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」開館のお知らせチラシを「長くて恐縮です」と断ってアップした。

 

 私は武蔵村山に、中藤地域に根を張った活動、周りの人たちに支えられた「交流館・村山お茶飲み処」になることにこだわってきました。地域の人たちが寄り合い、平和・戦争の事も何のわだかまりもなく口に出せる、おしゃべりの話題にできる場作りにこだわっています。だからこそ、「おしゃべりカフェ」は自宅東隣の中藤地区会館を会場にしました。「交流館・村山お茶飲み処」も自宅玄関前に作りました。お知らせチラシ700枚を周辺に配布しているのも、市議会や市長さんに同じお知らせをお渡ししているのもその為です。地域に根差したい。「交流館・村山お茶飲み処」を発信基地・人たちのたまり場にして大きな流れを作り出したい、波紋が広がるように何かが変わっていく場所になりたい!と思ってきました。その事に弾みをつける有力な場に上記商店街がなりそうな期待を感じています。思いをまた一歩前進させる、また一つ新たな挑戦の場を発見しました。わくわくします。

 

 今日から、「お茶飲み処」まえのお待ちいただくスペースのテーブルに妻・さち子製作の手作りマスクを置いて価格300円で販売を始めました。さち子は既に知己包括支援センター(郵便局)に手作りマスクを提供しています。コロナ感染を機に白一色のマスクから小池知事のマスクが話題になるように、これからは色もデザインも形も様々なおしゃれなマスクの時代になるでしょう。私でさえ、さち子製作の鳥や蝶や虫の絵のマスクをしていますさち子は手芸サークルを主宰しています。「交流館・村山お茶飲み処」をその手芸サークル会場として(時々)使用する予定なのでサークルの紹介にもなるでしょう。

 

 「交流館・村山お茶飲み処」からさまざまな輪が広がる!

 

諦めず粘り強く、少しずつ少しずつ、本当にゆっくりですが前進しているようです!

 

 

 

 

 

531日(日)曇り。室温24.5

 

午後から風があり、肌寒い。薄手のジャンパーを羽織っている。

 

 5月10日の開館から3週間、20日経過しました。緊急事態宣言中にもかかわらず、これまで36人の皆さんにご来館いただきました。心から感謝申し上げます。明日、6月1日からは東京都は制限がステップ2に緩和されます。「交流館・村山お茶飲み処」のような小さい交流館は3密さえ注意すれば来館の呼びかけも問題ありません。

 

 

 

 来館者と話していると、パネル展示された以外の「PTSDの従軍兵の事例」を尋ねられることがあります。「他にもありますよ」と答えてきましたが、今日は原稿打ち作業をしましたが。写真にあるように【家族の手記「従軍兵のPTSD」】という冊子を作ることにしました。A4、5ページです。これからの活動で事例が集まればそのつど、加えていく予定です。開館以降に何人かの方から電話で「私たちも苦しんだ」というお話を聞いています。直にうかがえたら事例として付け加えていきます。また、展示パネルの更新でも新たな「従軍兵士のPTSD」の事例を紹介したいと思います。*ご希望の方はメール送信いたします。

 

 連絡先は黒井秋夫のアドレスまで。 qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp

 

 

 

 今日31日は朝、6時半から先週配布した南側地域に「お知らせ」を150戸に配布しました。今日の区域は狭山丘陵の南の平らな区域なので90分のウォーキングになりました。明日か明後日にあと150戸に配布予定です。1週間で1000戸に配布することになります。武蔵村山市32千戸の3%にあたります。この作業を月1回のペースで続けようと思います。

 

 武蔵村山市の市長、副市長、市議会議員、観光課にお渡しし、「交流館・村山お茶飲み処」周辺1000戸には戸配、【大好き💛武蔵村山ひと文化教養商店街】330人にFacebookで発信。メール、郵送を加えて武蔵村山市民に定期的に情報発信していきたいと思います。

 

 焦らず、あきらめず、ゆっくりで良い、の精神で進みたいと思います。

 

 

 

閑話休題

 

 

 

 今朝の配布のウオーキング途中で空堀川沿いを歩いていたら、道路上に熟した桑の実がたくさん落ちている。見れば小振りだが赤黒い熟した実を沢山付けた桑の木が傍らに立っている。この辺は昔は蚕を飼っていた農家がたくさんあったという。そのせいで今も畑に桑の木をあちこちで見かける。鳥か何かが実を食べて種子を落としたのであろう。

 

 私の田舎は山形の庄内だが子どもの頃は桑の実が自然の御馳走だった。口の中を紫色にして食べた。今朝もつい手を伸ばした。何個も食べた。甘酸っぱい美味しさは昔通りだ。よし、写真に撮ろう!と思い、ズボンのお尻ポケットを探ったが無い!えっ、どこかに落とした!?配布予定の半分のチラシが残っているがそれどころではない。中途にして急いで帰宅した。トイレに置き忘れたに違いないと思ったからだ。戻ったら案の定、妻が「携帯がトイレにあったよ」。

 

 配布作業は今日はこれで終了にした。焦ることではない。明日で良い。長続きのコツだ。家は逃げない。それにしても最近は置き忘れがひどい。開館日に車を移動したときに使用した車のカギがいまだに出てこない。車屋さんに聞いたら注文すると29千円もかかるという。びっくりした。しばらくは不自由で良い。探すことを続けることにした。  

 

 

 

 

 

62日(火)朝は霧雨。午後は陽射しは感じられるが曇り。14時現在、室温25.6

 

 

 

 6時半から携帯の置き忘れに仰天して中断したチラシ配布でした。150戸に配布。先週から始めて1週間かかったが1000戸に配布した。「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」が属する谷津自治会の区域と隣接する中央2丁目・3丁目で武蔵村山市3.2万世帯の3%に当たります。谷津自治会の会員は163世帯なので、地域の85%は自治会に組織されていないことになります。会員を増やすという自治会方針はありますがほぼ何もしていません。会合で地域の戸数を400戸と聞きました。実態も違っています。チラシ配布でその2倍以上が住んでいると分かりました。歴史ある造り酒屋が撤退したり、広い畑は住宅地に代わりました。その跡地に次々と何十戸という単位で住宅ができて大きく変化しているのです。「交流館・お茶飲み処」は東西方向に狭山丘陵が立ち上がる南側第1番目の丘陵と第2丘陵の谷間に位置します。丘陵南側の平地から第1第2丘陵の階段状の住宅地1000戸に配布したわけです。

 

 

 

  「明日できるなら今日はやめる」

 

  おそらく何をやるにしても成功のセオリーの一つは「先手必勝とか、できることは早くやる」だろう。私もそう思ってきたし、ひと月前まではそうしてきた。しかし、そうでもない!と思うようになった。理由の一つは先週25日に第1丘陵・階段道路の3時間登り下りの配布で、ずたずたにへたり込んだこと。体力はもちろん、精神状態までも平常に戻るのにまるまる2日を要した。そして悟った。こんなやり方では続かない。続くやり方が必要だと。この活動は始まったばかりだ。しかも今は殆んど私だけだ。私が倒れたら万事休す。活動は途絶える。

 

 粘り強く、諦めず、勝つまで続ける」が続けられない。それでは元も子もない。それで決めた。先ず焦らないこと。自分に鞭を打つような過度のプレッシャーをかけないことだ。これまではやり残すことに罪悪感というか、だめだなあというような落ち込む感情が必ず湧いた。それが3時間のチラシ配布で狭山丘陵3時間登山に繋がり、身体崩壊を招いた。

 

 急がば回れのことわざもある。結局はゆっくりと無理しないことが目的地に確実に到達するコツなのだ。そう悟った。おととい、携帯を置き忘れ帰宅したが「今日はこれでおしまい!残りは明日か明後日やればよい」としたのはそういう訳だ。

 

 今日は空堀川の桑の木地点で桑の実を幾つか頬張ってからチラシ配布を再開した。1時間と少しで150戸を配布して所期の目的を達したのである。時間はかかった。しかしそれで良いのだ。

 

 

 

 「交流館・お茶飲み処」の元の土地には3種類のバラ、牡丹、何本かのつづじ、南天の木、山茶花が花を咲かせたりしていた。2種類のあやめ、ホトトギス、チューリップ、水仙、ねじ花などの花もあった。工事屋さんに極力移植できるようにお願いした。それでも幾つかは心ならずも絶やしてしまった移植してから毎日罪滅ぼしのように水やりしたせいか写真のとおり、あやめ、バラは今咲いている。花期は終わったが牡丹も立派に咲いてくれた。本当に嬉しい。生きていてくれた花木たちに心からありがとうと言いたい。花たちよこれからも長い道のりだ。晴天もあれば雷雨もあるだろう。日照りの時もあるだろう。ときには雪も降る。台風もある。それでも私たちと一緒に耐えて頑張ろうではないか!その時々に花を付け、私や家族、通る人たちの心を和ましてもらいたい。さらに大輪の花を咲かせようではないか。