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今日のひとこと6月4日~7月5日

7月5日(日)曇り、時々雨。半袖でちょうど良い。

 東隣の中藤地区会館が東京都知事選挙の投票所。多くは車だが歩いて「交流館・村山お茶飲み処」前の道路を通る人も多い。5月10日の開館以来、これほど多くの人がここを通ったことはない。出窓や入り口の掲示板、看板を見入って行く人もいる。会話が聞こえるが、「金、月が休みか」とか建物の存在を知っている人も多いと感じた。

 

 

 6月27日(土)朝日新聞書評欄に「5.15事件 中公新書」が掲載された。私も興味を持ち読んだが以下記したい。

 

 5.15事件は最近私の関心事の一つである。いわゆる昭和維新の思想を実践体現した著名な事件だからです。1912年生まれの私の父は5.15事件の時は20才。その年の暮れに初めて徴集され、11月30日に大連港に上陸している。この時の写真が「満州事変記念フォト」としてアルバムに保存されており、写真の横に「満蒙第一線へ勇み立つ我等若人をのせた陸軍御用船宇品丸は大連に入港した。・・・憧れの満州の地に第一歩を印した」とメモを記している。また次のような記載もある「昭和6年9月18日!それは同胞九千萬更生(*生まれ変わること・黒井)の記念日、昭和維新の第一日であらねばならぬ。南嶺城頭の血庫に斃れたる勇士!それは同胞救生の先駆、昭和維新の導師でなければならぬ(*赤字は黒井)」。

 これらのメモ書きから、父は「昭和維新」という思想に同調していたと思われるし、満州(開拓)にも並々ならぬ興味を持っていたようだ。

 世界恐慌の余波とコメの不作が重なり1930年頃の農村は困窮疲弊していた。若い女性の身売りも多数発生した。コメは当時、反当り2俵の収穫が平均でその6割は税金と小作料として国と地主の物だった。米価も恐慌前の半分に下落した。農村の人々が生活苦から時の政府や財閥、大金持ちに不信や不満を募らせ、政治の変革を望んでいたということは容易に理解できる。

*昭和維新(以下、ウィキペディアより)1920年代から1930年代前半にかけては、戦後恐慌世界恐慌による経済の悪化、排日移民法張作霖爆殺事件などによる国際社会の不安定化などから、軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を誤っている(と彼らには見えた)元老重臣ら側近達への憎しみも凄まじい。代表的な事件としては五・一五事件二・二六事件が挙げられる。

 私の父は小作農民の9人兄弟の9番目だった。20歳ころの父親は自分の環境、将来をどう見ていただろうか。同年代の女性たちが都会に身売りされる様子も見聞きしただろう。コメの価格は半分に暴落し、その収穫の半分以上は国と地主に取られる。9人兄弟の9番目が小作人で生きて行けるはずもない状況で、おそらく夢も希望も自分の周辺環境ではどこにもなかったと想像される。彼は当時推奨された「満蒙開拓」や国家の改造「昭和維新」に希望の光を見ていたと「満州事変記念フォト」の写真へのメモは示しているように思う。彼は20歳の発徴収から途中の5年は内地に帰還したが34歳まで元満州・中国を戦場とする日本軍兵士として過ごした。1946年6月に復員した時、「昭和維新・満蒙開拓」の夢や憧れは父の心の中でどのような変遷をたどっていたであろうか。様々な抱いた夢も破れかなわず帰還したのではなかったろうか。

 

 戦後の父は無気力な人間に変質し、元の職場、田川炭鉱には戻らず、日雇い労働者の道を歩いた家族の生活は貧しかった。

 

 「5.15事件 中公新書」は私には物足りない。5.15事件は新聞報道もあり、実行した若い兵士たちは次第に英雄視され助命嘆願運動が国民の大きな支持を得たとされる。それは上記のような当時の日本の困窮した農村の窮乏を救おうという考えも行動目的に含まれていたからであろう。若き父も又そこに夢の一部を託したと思われる。私が物足りないと感じたのは、5.15事件が国民の大きな支持を受けた社会状況があまり語られないことである。事件が軍部が政治への関与をさらに強める土壌を作るきっかけになったこと、言って見れば軍部独走を国民が後押し、戦争への道を更に拡大した発端と言える事件だが、その国民感情の醸成をもっと書いて欲しかったと思う。「昭和維新」という思想や行動に父が惹かれた理由をより知りたいと私は思っている。

6月30日(火)

  

6月30日(火)朝から雨が時々降っています。予報では強くなるとのことです。
今日のテーマは館主の一日です。
朝5時前に起き出します。
 6時半までは居間と台所の2台のラジオを聞きながらルーチンが始まります。洗面が済むと洗面ユニットを洗剤とスポンジで洗います。トイレ掃除も私の分担です。「交流館・村山お茶飲み処」の来館者用に母屋のトイレと手洗い場所を解放しているので私の毎日のルーチンになりました。
 済んだら健康診断です。血圧、血糖値、脈拍数をノートに記入します。10年前から糖尿病対策に血糖値測定を毎朝始めたのがきっかけです。10年続いています。2015年の前立腺ガンの全摘手術後にひどい尿漏れに苦しみ、尿漏れ量も改善するまでその後半年ほど記入しました。そして血圧測定値を加え、昨年末の心房頻拍の手術後は脈拍数も記入しています。
 サイクルが妻とは違うので朝食は1人です。ここ4カ月は写真のパターンです。800w、3分の温野菜サラダ。自家野菜が増えました。なす、とまと、きゅうり、いんげん、南蛮、玉ねぎ、にんじんなどなど。たまねぎ、にんじんがめちゃくちゃ甘い。オリーブオイルとマヨネーズの味付け。ヨーグルトとナッツ。生姜湯、味噌汁。そして最近は妻特性の山形の「だし」を乗せたご飯が美味しい。そして500ccの水。
 
 そのあと、仏壇に祈ります。3年前にキリスト者のFさんに勧められ始めました。
「妻と今日も仲良く楽しい一日を過ごす事ができますように。妻が機嫌よく鼻歌を一日中歌っている一日でありますように」から始まって、病気の友人たちと兄嫁の完治、娘夫婦や孫娘、甥や姪、その子どもたちが楽しい一日を過ごせますように」などとお祈りします。自分への言い聞かせ。一種の自己暗示ですが確かな効用があります。小心なのにカッとしやすい私ですが、その瞬間に「一呼吸」おけるようになりました。気まずい「言い合い」は殆んどなくなりました。まあ、いさかいの原因の大部分は私にあったということですね。そうなると好回転のサイクルで、本当にこの頃、妻は時々鼻歌を歌っています。
 その後は小型で扱いやすい充電掃除機(娘夫婦からの交流館開館祝い)で母屋と交流館の掃除です。我が家は半野良の猫が4匹いるので猫の毛を掃除機がたくさん吸います。垣根の根元に処理する毎朝、その量に驚きます。これが終わると大体7時頃です。
 今朝はその後、200mほど離れた狭山丘陵の高いところにある8アールの畑作業でした。主には草取り。きゅうり、なす、いんげん、小松菜、名称不明の菜っ葉、ゴーヤ、枝豆、あずき、とまと、落花生、ねぎ、にら、さつま芋、里芋、かぼちゃ、ジャガイモ(山形庄内では・にど芋と言う)、えんどう(庄内・よど豆。新潟下越では・さんど豆)、いちごを育てています。金柑、八朔、柚子、びわ、キウイ、いちじく、杏も実をつけます。お茶の木が縁にあり今春も新茶ができました。みょうがも出てきます。グラジオラスとひまわりも植えました。はまゆうが咲いています。作業は9時まで。帰宅して作業道具を洗います。地下足袋などは梅雨で一日で乾かなくなりました。2足必要です。その後「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の10時開館に備えます。
 
 毎週月曜日と金曜日は交流館の休館日ですが、その月金は、私はシルバー人材センターの仲間3人で市内大南東公園の掃除の日です。8時から12時まで4時間の仕事です。落ち葉は秋のものと思っていましたが、常緑樹は新芽が出るのと交代で春に葉を落とすと、この仕事をして初めて知りました。蟻も大中小、たくさんの種類がいることも知りました。
 また、月に4回ほど午後5時15分から10時15分まで東隣の中藤地区会館の管理人の仕事もしています。それら併せてシルバー人材センターの配分金が3万円くらいの収入になります。年金(だんだん減っている!)200万円とシルバー人材センターからの収入が生活費の全てですが年間数回、元の職場コープ共済連から職員学習会の講師の仕事が入って臨時収入になることもあります。
 
 土日、火・水・木は「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の開館日で10時~17時。休館日の月、金はシルバー人材センターの公園掃除日になります。交流館の開館日でも開館時間前2時間は畑仕事。これが私の毎日のルーチンです。
 言って見れば「労働者生活」と言えるでしょう。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」活動と「労働する」生活、この二つのどちらにも偏らずに、ずうっと続けて行く。そのような生活の人生を送ること。そうありたいと思っています。
 それは尊敬する阿波根昌鴻さんのような生き方を目指したいと願っていることに通じています。生きることが即ち、ある種の闘いでもあるような。そのようにして息を引き取る。いま、思うことです。

 

 

 

6月23日

 沖縄慰霊の日 沖縄全戦没者追悼式で朗読された「平和の詩」の全文を掲載します。

声を出し読み上げたら何度となく涙があふれだしました。一気には読む事ができませんでした。

 

 

 

あなたがあの時

 

沖縄県立朱里高等学校3

 

高良朱香音(たから あかね)さん

 

 

 

「懐中電灯を消してください」

 

一つ、また一つ光が消えていく

 

真っ暗になったその場所は

 

まだ昼間だというのに

 

あまりにも暗い

 

少し湿った空気を感じながら

 

私はあの時を想像する

 

あなたがまだ一人で歩けなかったあの時

 

あなたの兄は人を殺すことを習った

 

あなたの姉は学校へ行けなくなった

 

あなたが走れるようになったあの時

 

あなたが駆け回るはずだった野原は

 

真っ赤っか  友だちなんて誰もいない

 

あなたが青春を奪われたあの時

 

あなたはもうボロボロ

 

家族もいない 食べ物もない

 

ただ真っ暗なこの壕(ごう)の中で

 

あなたの見た光は、幻となって消えた

 

「はい、ではつけていいですよ」

 

一つまた一つ光が増えていく

 

照らされたその場所は

 

もう真っ暗ではないというのに

 

あまりにも暗い

 

体中にじんわりとかく汗を感じながら

 

私はあの時を想像する

 

あなたが声を上げて泣かなかったあの時

 

あなたの母はあなたを殺さずに済んだ

 

あなたは生き延びた

 

あなたが少女に白旗を持たせたあの時

 

彼女は真っすぐに旗を掲げた

 

少女は助かった

 

ありがとう

 

あなたがあの時

 

あの人を助けてくれたおかげで

 

私は今 ここにいる

 

あなたがあの時

 

前を見続けてくれたおかげで

 

この島は今 ここにある

 

あなたがあの時

 

勇気を振り絞って語ってくれたおかげで

 

私たちは知った

 

永遠に解かれることのない戦争の呪いを

 

決して失われてはいけない平和の尊さを

 

ありがとう

 

「頭、気をつけてね」

 

外の光が私を包む

 

真っ暗闇のあの中で

 

あなたが見つめた希望の光

 

私は消さない 消させない

 

梅雨晴れの午後の光を感じながら

 

私は平和な世界を創造する

 

あなたがあの時

 

私を見つめたまっすぐな視線

 

未来に向けた穏やかな横顔を

 

私は忘れない

 

平和を求める仲間として

 6月22日(月)

梅雨らしく朝から雨。

室温24℃。

 今朝の朝日新聞4面・国際欄、隣人・『触れ合えば互いの心わかるはず』故李秀賢さんの母、辛潤賛さん(69才)の記事に私の言いたいことが書いてある。長くなるが以下引用する。

 

『韓国人留学生の李秀賢さん(当時26)が、線路に落ちた日本人を助けようとして死亡した事故から19年が過ぎた。それから毎年欠かさず日本を訪れる。多くの日本人と交流するうち、日本に抱いていた偏見が消え、物事を是々非々で眺めている自分に気がついた。‥‥略・・JR新大久保駅の現場で献花をしました。わざわざ私に会いに現場まで足を運んでくれた年配の日本人女性3人が、色紙に書いた手紙までくださいました。本当にありがたいことです。…略・・・私の知っている日本人と日本の政治家の態度には差があり過ぎて戸惑っています。・・・略・・・事故が起きるまで、私は日本を訪れたこともなく、歴史認識問題などでは日本に反感を持つ、ありふれた韓国人でした。事故の後に大勢の日本人と会ったお陰で、中立的に物事を見られるようになりました。日本にも韓国にも足りない点があると気がつきました。・・・略・・・色々な人と会って、多様な考えに触れることが大事です。韓国人の中に、日本に対する被害者意識があるのは事実ですが、触れ合えば触れ合うほど、お互いの心の中にしまっている考えも知る事ができると思います。・・・略・・・日本は元徴用工や元慰安婦らを傷つけたことを認め、しんしな気持ちで謝って欲しい。しんしな気持ちというのは、準備された原稿を読むようなものではありません。日本人女性が色紙にしたためた言葉のような、人間味が感じられる行動であってほしいと思います。・・・略・・・韓国と日本は隣同士です。断絶など決してできません。お互いに、色々な人とお付き合いを続けて行くべきです

 

 辛さんの心を変えたのは「わざわざ私に会いに、現場まで足を運んでくれた年配の3人の女性」のような(行動で辛さんの心を溶かした)多くの日本人と触れ合い出会ったからです。日本人と触れ合った見たら「本当にありがたい」ことをしてくれる人が日本人の中にもいると気付いたからです。つまり簡単なことです。韓国人も日本人も触れ合えば優しい人たちが沢山いる、触れ合えば仲良く付き合う事ができる、と辛さんは気付いたと私たちに教えています。

 

 本当にそうなのです。日本にせよ韓国にせよ触れ合うこともせずに、食わず嫌いのように、ただ政治家やマスコミの言う事を鵜呑みにすることから、自分の頭で考えてみようと私は言いたいのです。本当にそうなのか。全部がそうなのか。本当に敵なのか。仲良くする道はないのか。自分で考えてみれば、簡単に見えて来るものがあると思います。どこの国も全て一色ではない。アメリカにせよ日本にせよ、トランプ支持者がいれば、抗議デモに参加する大勢のアメリカ人がいる。安倍さんの支持率は30%前後しかない。過半数の日本人は違う意見を持っている。それは韓国も同じこと。文政権支持者もいればそうでない韓国人もたくさんいる。どの国も一色ではない。

 

 だとしたら、どこの国にも「みんな仲よくしよう。手をつなぎ平和をめざそう」という人たちが少数だろうが、表面的に今は身を潜めていたとしても必ずいると考えつくはずだ。私はそういう人たちと手を結びたい。諦めず、歩みを止めず、手を最大限に伸ばして手をつないでいきたい。いつの日かその歩みが多数の人たちの心をとらえ、世界を変える、花が咲く時が来ると信じています。

 

★辛潤賛(シン・ユンチャン) 1950年生まれ。亡くなった息子への見舞金を生かし、2002年に日本で学ぶアジア出身の留学生を助ける奨学会が発足。1月の命日に加え、10月の奨学金授与式の時期など、年数回の訪日を続ける。

 

 6月21日(日)

朝雨、のち曇り  当会の活動が下記書籍に紹介されました。

 

★県内市町村史に掲載された 

中国での戦争体験記を読む

~沖縄出身兵100人の証言

南京・沖縄をむすぶ会 沖本裕司

★発行日 2020年6月23日

編著者 沖本 裕司

 

連絡先 稲垣絹代 ☎090-8796-5112

                 沖本裕司 ☎090-1948-6673 

頒価 1000円

 

 6月19日(金)

終日雨降り。室温24℃、寒い

 日本軍兵士のPTSDの原因は入隊から除隊まで兵営内の上級兵士、古参兵士からの精神鍛錬と称する不断に加えられる暴力への恐怖を初めとして、戦場体験その物の恐怖も精神を侵される原因となった。人間を殺傷する体験の精神に与えるダメージは私には想像もできない。しかも相手が兵士ではなく武器を持たない一般人(農民、女性、子ども、老人)の殺傷体験だったとしたら終生ぬぐえるものではないように思う。

 戦場から帰還したとしても、敗残兵が温かく迎えられるような空気の日本ではなかった。英雄と称賛されるような戦後社会ではなかった。兵士たちの生死をかけた壮絶な体験にも心の内にも耳を傾けてくれる日本人はいなかった。戦場と帰国した日本社会とのギャップにも彼らは戸惑い苦しんだと思う。戦後社会に順応できずに「腑抜け、ふうてん、無気力」になった帰還兵も多数存在したことが分かっている。

 

 そういうPTSDの兵士たちの心の病を取り除く、ケアする組織も体制も生活の保障の用意も国にはなかった。ただ、そのまま放り出された。誰も面倒見てはくれなかった。精神を侵された兵士は「自己努力」を課されただけだった。

 

 PTSDの兵士たちはどうすれば兵役前の「健全な自分」に戻る方法を見つけられただろうか。兵士のPTSDは何をどうすれば解消できただろうか。どうすれば彼らの心を救う事ができただろうか。それは「自己努力」で解消できるようなことだったろうか。

 

 兵士のPTSDは日本が始めた戦争に元々の原因がある。戦争を始めた責任は彼らにはない。原因を作ったのは兵士たちではない。原因を作ってもいない兵士たちに「自己努力」を強いるのはお門違いだ。戦争を始めたことに責任のある人たちが、国が、軍が、「日本が始めた戦争」について正当なら正当と、間違いだったら間違いと帰還した兵士たちに(もちろん国民にもだが)彼らに強いた何年かの価値を、生きていたことの意味を説明する義務があったと私は思う。彼らが闘ったことの意味を共に確認することがPTSDの兵士たちの精神を解きほぐす一歩だったのではないだろうか。兵士たちにまっとうな生き方をしてもらうためには、彼らを交えて「戦争の時代」の功罪を、是非を、その価値を共有する必要があったと思う。まっとうな生き方の羅針盤を一緒に探す努力を、彼らへの優しさを持って欲しかったと思う。しかし、責任ある人たちはそうはしなかった。ただほおかぶりした。それではPTSDの兵士たちは救われない。私は兵士たちに(もちろん国民に)率直に間違いは間違いと詫びて欲しかった。心から謝罪してほしかった。病んだ精神を解きほぐす一歩はそこからなされるべきだった。

 

 彼らはただ放り出された。疲れた精神で、折れた精神で何ができただろうか。多くの兵士は戦争体験を沈黙して生きた。いかに「自己努力」しても次なる生き方の、人生の羅針盤はみつからなかった。

 

 

6月17日(水)

朝から晴れ。  夕方17時50分 室温27℃

 コロンブス像が全米各地で破壊されている。https://www.cnn.co.jp/usa/35155134.html

Ridolfo Ghirlandaio Columbus.jpg

 コロンブスは1490年代にヨーロッパから西に回り西インド諸島に到達した。数度の航海で南米にも上陸した。いずれの地でも先住民を根絶やしにする虐殺の限りを尽くしたと歴史は教えている。その銅像が全米各地で引き倒されている。アフリカの黒人たちを奴隷としてアメリカ大陸に送り込んだ歴史、南北アメリカの先住民の生活基盤、文化を暴虐の限りを尽くして破壊し、今に繋がる南北アメリカにヨーロッパ人の文化、生活を反映させる礎となった先駆者がコロンブスだ。

 

 5月28日の「今日のひとこと」で私は次のように書いた。

ヨーロッパ人が地球が丸いことを証明し、航路を開き、アフリカ人を奴隷とし資源を力で奪い、アジアを植民地とし、アメリカ大陸の先住民の土地を奪い植民する歴史が、その先住民たちの対等な関係をめざす反撃に、500年後の子孫たちが遭遇していることに、暴力で押さえつけ築いた世界に揺り戻しの大きな歯車が回っていると感じている。暴力は関係する勢力が納得するまで平衡しない。そういう世界の流れが少しずつではあれ動いていると感じている。

 コロンブスの銅像を引き倒す行動の評価はもう少し時間が必要だ。しかし、5月28日に指摘した「平衡を求める力学」の一つの形態であることは間違いない。この動きに対して、ヨーロッパ人はどう動くのか。先住民の子孫はどう動くのか。暴力的行動、非暴力の行動、この先が私は気にかかる。

 このアメリカの動きは日本人にも深く関係している。明治以来の朝鮮、中国、台湾、アジア各国への侵略戦争、付随する侵略政策、暴力的統治をおこなった歴史的事実を国の責任として今だ明確にアジア諸国民に日本は謝罪していない。韓国、中国から指摘される徴用工問題にせよ、慰安婦問題にせよ、南京大虐殺にせよ、関東大震災時の朝鮮人虐殺にせよ、謝罪はおろか「そういう事実はなかった」などと言い張る政治指導者が日本中枢に存在している。そのような言い分は歴史の回天の中で正されることは必然だ。「平衡を求める力学」はアジアと日本との間でも働く。双方が納得いく地点まで地殻は動き続ける。

 今を生きる私たちが子どもたちや孫たちやその先の子孫に解決を任せて死ぬわけにはいかないと私は思う。アジアの人たちが上げている声に誠実に応える姿勢が必要だ。明確な謝罪、その気持ちが何より大事だと思う。私たちも私たちの子孫たちもアジアの人たちと、国々と手をつなげる関係、肩を組み合える関係、仲良く平和に暮らしていける関係、その為に何が必要なのか、どうしたらよいのか考え続けよう。声を上げよう。行動を起こそう。今からでも遅くはない。 

 

 6月10日(水)

外はすでに真夏の気温。館内冷房中。それでも室温28℃

 6日に続いて朝日新聞 2019年10月2日(水)「異論のすすめ」佐伯啓思への私の異論を述べたい。 『戦後日本は米軍の核の傘に依存して国家の安定や平和を維持してきた。その現実に目をつむり、対米従属という戦後日本の基本構造を問わない運動や思想は、本当のリアリティを持ちえない「ごっこ」に過ぎず虚構の中の遊びである』と佐伯さんは言う。 日本は先の戦争で連合国に敗北し米国の占領により、主体性を失い米国の属国になった。ならば日本が自立した国家に復活するとは対米従属から(米国の核の傘から)脱して自主防衛の国へと自立した時だと言う。その時に「世界」というリアリティに直面し日本人のアイデンティティ「一身独立、一国独立の精神」が回復する時なのだ。佐伯さんがめざすのはそういう日本(世界)なのだ。

 

 一つ目に「戦後日本は米軍の核の傘のおかげで国家の安定や平和を維持してきた」を聞いたら朝鮮、中国、アジアの人たちはこう言うだろう。「1945年以来、日本が戦争を仕掛けてこなかったから私たちの国は平和だった」と。アジアの民の視点からすれば「日本が明治維新以来、常にアジアに戦争を仕掛けていたから、アジアにはいつも戦争があり平和がおびやかされた」と言わなければならない。

 つまり、戦後日本が平和だったのは「日本がアジア各国に戦争を仕掛けなかったから平和が保たれた」という簡単なことに行きつく。日本の明治維新以来のアジアで戦争が絶えなかった最大の原因は、朝鮮、中国、台湾、ロシアに「恒常的に日本が戦争を仕掛けていたから平和ではなかった」というのが事実だと私は思う。つまり、1945年前のアジアの平和を乱す元凶は日本の存在であり、その日本がここ75年間、アジア各国に戦争を仕掛けなかったから日本自身の平和も保たれた。これがまっとうな歴史家なら行き当たる結論ではないだろうか。つまり、私は米国の核の傘が日本の平和を守ったなどと考える前に、「日本が戦争を始めなかったから平和が保たれた」と考えることが日本人の教訓として抑えるべき事柄ではないのかと佐伯さんに言いたいのだ。

 

 『対米従属という戦後日本の基本構造を問わない運動や思想は、本当のリアリティを持ちえない「ごっこ」に過ぎず虚構の中の遊びである。対米従属から(米国の核の傘から)脱して自主防衛の国へと自立した時、その時に「世界」というリアリティに直面し日本人のアイデンティティ「一身独立、一国独立の精神」が回復する』と佐伯さんはめざす日本の将来像を提示する。

 分かりやすく言うと「1945年以前の日本の姿に戻れということだと私は理解する。また、1945年以降の日本人の生きざまを「ごっこ」と言い放ち、その価値を認めない考えだと私には思える。佐伯さんからすると「対米従属」に挑戦し「自主防衛」をめざさない一切の活動、行為、思想はリアリティーのない「ごっこ」だと映るらしい。

 戦後75年間をほとんどの日本人は「ごっこ」で生きてきたかもしれない。しかし「戦争のない平和な日本」で生活できたとすればどうして価値がないと言えるだろうか。ならば、「一身独立、一国独立の精神」の世の中にいた戦前の日本人の暮らしはどうだったというのだ。徴兵年齢に達すれば戦場に駆り出された。アジアに攻め込み多くのアジア人を殺害した。数えきれないほどの日本の若者が戦場に斃れた。その事に異を唱えれば牢獄に繋がれた。言論の自由もなかった。参政権も一部の男性にしかなかった。当時の日本こそ「世界の情勢と自分自身の力」を冷静に見ることも判断することもできずに国全体が「ごっこ」の幻想の中にいたのではないかと私は言いたい。

 『日本人のアイデンティティ「一身独立、一国独立の精神」』などと簡単に日本人のアイデンティティを決めないでもらいたい。そもそも、「一身独立、一国独立の精神」が戦前の日本人のアイデンティティと括ることにも学者らしくない軽率な結論だと私は思う。「万世一系の天皇が統治する神の国、無謬の国、アジア・世界をリードする国民」そういう歴史観、そういう国の国民なのだ教育された、国家が押し付けた国民像を日本人自身がたどり着いたアイデンティティと認めることはとても学者らしい科学的選択とは思えない。少なくとも私はそういうアイデンティティにはくみしない。

 私もいくつかの国を見て来た。日本人以外の色々な人たちと接して来た。どの外国でも嫌な思いをしたことは殆んどない。人たちは親切だった。優しかった。どの国の国土も風景も美しかった。同じように日本でも人たちは親切で優しく風景は美しい。親切も優しさも、逆に意地悪や嫌な思いは国や地域や人種や宗教の違いで異なるのではないと私は言いたい。様々な事情で意地悪や嫌な思いは起きてくる。日本だから外国だからということで特別視するのは真実を見る目を曇らせると私は思う。

 アイデンティティの捉え方にもよるが私はそういう特別な物・他とは違うものというこだわりは余り賛成しない。「誰彼と違う独自の精神」を特に日本とか日本人とかで言おうとするならば、明確に私は賛同しない。

 「サムライ」とか「精神力」とかそういう勇ましい言葉が語られる時には特に賛同できない。それよりも「優しさ」とか「思いやり」とか「平和」とか「仲良くする」とかそういう言葉で語られる日本の未来であって欲しいと私は思う。そのことが「アジアや世界の元凶」であったかつての日本には決して立ち返らない、立ち返らせない今の日本人に必要なのことではないだろうか。

 

 6月6日(土)

16:20現在 曇り 室温 28.6℃ 弱い風が時々室内にも入る。

 皆さんに室田元美さんの著作を読むことをお勧めする。ルポ悼みの列島(2010年)、ルポ土地の記憶(2018年)いずれも社会評論社。

 私は「土地の記憶」から入った。友人主催の学習会に室田さん本人も参加していて紹介された「土地の記憶」を買い読んだ。読み進むうちに深い感動があった。戦跡の保護活動、朝鮮・中国(強制連行含む)の労働者がその地域の工場、鉱山、軍事施設で過酷な労働を戦争中強いられ、多くの人たちが命を落とした全国18か所の事例を、その地域の人たちが語り継ぐ活動が紹介されている。

 私はその事実の殆んどを初めて知らされた。確かにそれらの活動はマスコミをにぎわすことはなかった。それゆえ、日本人の多くはその存在を知らない。  ①廃墟の島の歴史実話・長崎県軍艦島、伊王島 ②たなばたの夜、空から降ってきたものは・山梨県甲府の空襲 ③日中韓の若者たちと訪ねた、鬼伝説の山 京都府・大江山ニッケル鉱山 と続く。

  室田さんが紹介したような活動が「未来の日本社会を内包している」のではないか、未来につながる希望の芽であり、やがては樹木に成長すると私は予感するのだ。私は昨年、朝日新聞 2019年10月2日(水)「異論のすすめ」佐伯啓思の寄稿に反論を当時のHPに公開した(詳細はHPに譲る)。

 そこで触れたが、日本列島を鳥瞰した時、森林は安倍政権の樹木が天空を覆い他の樹木は見えないだろう。しかし、大樹の根本周辺には無数の低木や樹木の芽が吹き出しているのだ。私は佐伯さんは天空を覆う樹木だけ見て歴史を認識している。年月の変化と共に樹木層も変わるように、天空を覆う大樹だけで語る未来は予測を誤ると批判した。大樹のもとに芽生えた小樹がやがて成長し、他の小樹と共に大地を覆う日が来るかもしれないと私は書いた。

 佐伯さんは以下のように言う。

 「憲法に関して言えば、護憲派も改憲派も、そもそも根本的な問題をいっさい問おうとはしない。それは、占領下にあって主権を持たない国家が憲法を制定しうるのか、また憲法とは何か、主権者とは何か国家の防衛と憲法と主権者(国民)の関係は、といった根本的な問題である』

「今日の世界は、それを導く確かな価値も方向感覚も見失い、また、人々の生存への必死のあがきや、あるいは、個人や国への尊厳へ向けた命がけの戦いともほとんど無縁になっているからである」

 

 彼は天空から世界を鳥瞰する。アメリカも日本も中国もロシアも、並べ上げたらきりがないが、それらの国々の指導者から心を打つ未来ビジョンは提供されない。まさに「導く確かな価値も方向感覚も見失っている」と見える。彼には大樹の根元で息づいている小樹が見えていない。そして未来に吐息をつく。

 私はそれは違うと言いたい。あなたには小さくても無数にうごめくように活動している人たちの息づかい、どんな状況下でも手を取り合い、諦めず、歩みを止めない人たちが見えていない。彼ら小樹こそ「確かな価値や方向が」示して内包し成長していくかもしれないのだと。

 

 佐伯さんよ!歴史は大樹だけで作られるのではない。大樹の下の名もない人々の声を上げ続ける活動が、何時の日か大きな流れを巻き起こすかもしれないではないか。ベルリンの壁を打ち壊したのはだれか。ポーランドの独裁政権を倒したのはだれか。アラブの春を巻き起こしたのはだれか。国家の軍事力ではない。かつては小樹に過ぎなかった無数の樹木たちが、最後のひと伸びで朽ち果てる大樹に代わったのだ。街頭を埋めた圧倒的な民衆が銃ではなく勇気で、手を携える力で未来を拓くことがあったではないか。

 

 室田元美さんが紹介する様々な活動は言わば今は小樹だろう。しかし、全国各地に無数にあるのだ。彼らの活動は一部分でもそれぞれが未来のビジョンの片鱗を私たちに提示している。それらを繋げて見れば未来の社会が見えて来る。国や民族や人種や性別が異なろうとも、いつかは仲良く手をつないでいるであろう未来が見えるではないか。

 だから私は未来を悲観しない。夢と希望を持っている。私が生きている時代に実現しないだろうが、人類のそういう未来をめざす人々が全国で、いや全世界で息づいていることは希望だ。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」も「PTSDの日本兵と家族の交流館」も無数の小樹の一つとして息づいていきたい。室田さんの著作はその事を私に教えてくれた。

 

 

 6月4日(木)終日曇り。

15:45の室温 27.8℃

 

 昨日3日も2日に続いて来館者はなかった。負け惜しみではないが力をもらえる事柄があった。遠い昔の学生時代の大阪に住む友人(Oさん)から11月に神戸で私の話しを聞く催しが決まったと連絡があった。2月20日の大阪(20人の参加者があった)に続いて2回目の機会を作ってくれた。というか、「戦争や平和の語り部として黒井秋夫を呼んでください。交通費などの経費は掛かりません!」と昨年来HPやチラシで広報しているが、決まったのは今回含めて二つだけで、いずれもOさんの働きかけなのだ(コロナ感染で時期は未定ですが打診はいくつかあります)。

 ここで公開するにはばかられる事象含めてOさんと私の関係は深い。人柄を書くと悪口風になるので書かない。本当に愛すべき男なのだが何せ言葉に遠慮がない。その言動は多くの人に誤解を与える。理解するには時間がかかる損なたちの人間なのだ。気付いているのか、いないのか一向に改まる風もない。もう悪口めいてきたが、私は彼を本当に尊敬しているし信頼している。あいつは俺を裏切らない」と絶対的に信じている。70年間、多くの人と出会い、多くの人との親交があった。彼はその中で別格に大事なやつなのだ。波乱万丈の青年時代を彼と短期間ではあれ共に経験した事は私の財産になっている。そういうならOさんは私のかけがえのない財産だ。大阪で自分の人生のひと時を私を招くために尽力している彼を思うと「あいつの為にも頑張ろう!恥はかかせられない」という気持ちになる。私の同志だと勝手に思っている。

 

 メディアからの電話がありました。8月は毎年、平和・戦争の特集が報道されますが、企画段階という断りでお話しがありました。同じ会社の方から2日前にも同様の問い合わせがありました。まだそれぞれの判断で動いているのかな、と思いました。それでも「日本軍兵士のPTSDを社会に知らせる」ことにメディアの協力は欠かせません。企画の実現を願っています。

 

 来館者は4日の今日も0人で終わりそうです。それでも焦りというような物はもありません。盤上に碁石を置くように布石となりそうな動きは少しずつでも動いていると感じています。まだまだ始めたばかり。耕地を見つけ出し、木株や石を取り除き、種を撒き、水遣りをする、作物が育ち、やがて実をつける。私はまだ耕地さえきちんと把握できていない段階です。実をつけた時は私の次の代になっているでしょう。私は開墾者が開墾地をようやく訪ね当てたという所でしょう。先は長い。米軍から強奪された阿波根昌鴻さんの農地は、彼の死後18年経過した今もまだ戻っていません。子孫に彼は後を託しました。焦らず、諦めず、勝つまで続ける彼らの闘い。私には荘厳とさえ映る非暴力の闘いが続いているのです。

 

 

 6月3日(水)晴れ。

11:50の室温 26.6℃

 今年初めてTシャツ1枚で丁度良い。午後は更に気温が上がり蒸し暑くなりそうだ。この国に住む全員に10万円の一律給付。書類が届いた翌日には投函したので2週間は経過したと思う。入金の確認もしにリュックを担いで銀行までウォーキング(10万円の入金はまだだった)。5月20日頃に作成したチラシが70枚ほど残っているので、道すがら戸配もやりながら。本当に武蔵村山は行き止まりが多い。そしてそのほとんどは新しい住人の家で、彼らは自治会に自主的に加入することはない。自治会の把握で聞いていた区域の対象戸数は400戸。しかし実態は約1000戸ある。チラシ配布して分かった。

 妻の生家の隣といって良い場所に住んで15年、今までは自治会の人たちが地域繋がりの全部だった。それ以外は見えていなかった。しかし、この地に根を張る活動ならば163戸の自治会員だけが相手にはならない。周辺1000戸に目を向けた活動を模索することが重要だ。

 

 開館してあと少しで1か月になる。月・金は休館したが、以外の日はすべて約束通り、時間通りに開館した。家の仕事、畑のこと、シルバー人材センターの仕事との兼ね合いも少しずつとれるようになってきた。開館時間中は大きくここは離れられないが、10時の開館前、5時の閉館以降にできることを増やしたいと思う。地区会館が使えず休んでいた毎週火曜日の中国語サークル、畑仕事、読書、ウォーキングなど少しずつ取り入れていきたい。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動を特別な別枠の時間ではなく、生活の一部に取り込む工夫ができれば良い。毎日の生活の中に「活動」が溶け込む感じの気持ちの在り様になれば良い。活動と日々の生活が混然一体となり気持ちでも融合しているというように。おそらく、そうなりたいと思っている阿波根昌鴻さんの場合も、生活も闘いも分けられるものではなかったと思う。生活が闘いであり、闘いも生活であるような。そうなりたい。

 

 今日、郵便局で通帳記入したら入金者の名前に記憶がない。交流館に戻り、関係文書を確認してその方を鮮明に思い出した。5月11日に「新聞を読んだ」として電話をくれた人だった。たしか「従軍した兄にPTSDの症状があった」と告げた女性だった。直ぐにお礼の電話を入れた。確かにあの声だ。話しているうちにこみ上げる物があった。「あなたのしていることは大事なことよ」と言ってくれた。従軍兵の妹なら80歳以上だろう。この人の思いに「応えねばならない!」そういう熱いものがこみ上げた。また新しい力を私はいただいた