活動日誌

ホームページの訪問者数をお知らせします。

★7月 632 ★8月 882 ★9月 547 ★10月 1662  ★11月 531

 

 

11月17日神戸学生青年センターにお出でいただいた皆さん本当にありがとうございます。43人とお聞きしました。30人と予定したようですが心から感謝申し上げます。皆さんに交流館の雰囲気を感じてもらおうと交流館に展示しているパネルを(大きな絵画用カバンに入れて・妻さち子が用意してくれました)会場に持ち込み、展示しました。コープ共済連時代にお世話になった生協関係の人たち、ピースボートで私の「父と語れば」の父親たちを語る会に参加してくれた人たち、交流館通信の読者の人たち、遠く広島大学の先生にもお出でいただきました。同窓会のような、身内の集まりのような雰囲気の中でお話しできました。とてもアットホームでした。皆さん本当にありがとうございました。2月11日にも講演会を予定しているグループからの依頼も受けました。この文章を帰りの新幹線で書いていますが、とても幸せな神戸でした。皆さん、本当にありがとうございました!!!https://youtu.be/rVKyEV9492c

2020年11月8日(日)三多摩平和交流ネットワーク主催の講演会での私のお話しがYouTubeにアップされています。dmeneサイトで「黒井秋夫YouTube」で検索すれば出てきます。あるいは黒井秋夫のFacebookにアップしていますので黒井秋夫のFacebookに接続すればご覧いただけます。

VFPJ(ベテランズ フォーピースジャパン)のスピーキングツアーの11月15日のゲストスピーカーとして黒井秋夫が開始から20分位から10分間お話ししました。11月16日、ユーチューブにアップされました。VFPJのFacebookにアクセスしても視聴できます。どうぞご覧ください。

新潟県阿賀野市・山田幸巳さん武井由起子弁護士(VFPJ)から

寄贈いただきました!

向かいの児童館・学童保育の子どもたちの来館が増えています。

子供向けの絵本、漫画本、書籍を充実させたいと思います。

ご支援可能な皆さんからの寄贈をお願いいたします。

当館宛にお送りいただくと助かります。

寄贈いただいた方の氏名を子ども図書室に掲載いたします。

子どもたちに平和な未来を残しましょう!!

 

子ども用書籍送り先

〒208-0001武蔵村山市中藤3-15-4

「PTSDの日本兵と家族の交流館・

村山お茶飲み処・子ども図書室」

黒井秋夫 08011213888

 

 ホームページ https://www.ptsd-nihonhei.com

 

★メールアドレス qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp

 

 

ねりま9条の会ニュース94号・寄稿文全文

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」で実現したい事。

「日本兵のPTSD」を課題に掲げる活動組織は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が日本最初で唯一であり、その資料館も「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」しかないと言う事実がこの問題の困難さ、底深さを物語っています。

私の父・黒井慶次郎(1912~1989)は20歳で徴兵され34歳で復員するまで2回従軍しました(1932~19341941~1946)。彼は戦争体験含めて、一日中口を開かず、笑顔のない暗い人間でした。復員後の彼は定職を持たず。出身地山形県近在の工事現場の日雇い労働者で暮らしは貧乏でした。家族に降りかかる問題は、いつも妻や私・黒井秋夫より7歳年長の長男(1941~2017)に押し付け、無責任で中学、高校と進むにしたがい「父のような男には絶対なるまい」と思うようなり、相談をしたり、尊敬の念を持つことも終生ありませんでした。情愛が通いあう親子関係はありませんでした。

201512月、私は妻と乗船したピースボートの船内企画でベトナム戦争のアメリ軍帰還兵、アレン・ネルソンさん(19472009)のDVDを見ました。「戦場体験で心が壊れてしまった。恐ろしい光景が夢に出てくる。昔の自分には戻れない」と沈痛に話すアレンさんと父親の無口な暗い顔が、その瞬間に重なりました。父親も戦争体験で心が壊れ、元々の自分に戻れない別人になった黒井慶次郎を、本来の父親と見間違っていたのではないか!それは雷に打たれたような衝撃でした。それから「父と暮らせば」として従軍した父親を語る交流会を船内で3回開きました。

その中で、ある女性の父は特攻隊でしたが出撃数日前に終戦の815日となりました。普段は普通なのに、スイッチが入ると妻(話し手の母)に暴力を振るいました。90才を越えて認知症を発症し、病床で戦友の名を呼び「✖✖よー、俺は卑怯者だ。許してくれえ!」と元の兵士に戻り、叫びながら亡くなりました。またある人の義弟は戦争前、働き者だったのに、復員後は徘徊の毎日で「ふうてん」と呼ばれていました。そういう実例からPTSDの日本軍兵の存在を初めて知り、これを歴史に埋もれさせず、多くの人たちに戦争の真実を知らせたい、という思いから私は20163月に「亡き父と二人三脚で日本軍兵士のPTSDの語り部になりたい」と皆さんに宣言し下船の2年後、2018117日に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会=以下、語り合う会」を立ち上げました。以降5回の学習交流会を開催し日本兵のトラウマの研究者、中村江里(慶応大)さん、北村毅(大阪大大学院)さんの講演や参加者どうしの体験交流会を実施しました。2018年に放映されたNHKの「隠された日本兵のトラウマ~陸軍病院8002人の病床日誌」が反響を呼び「語り合う会」ホームページの閲覧者が跳ね上がりました。

私は2015年に前立腺ガン摘出手術をしましたが、20198月に再発し2か月間放射線治療を受けました。また心臓頻拍のために12月に手術を受け、自分が健康なうちに「語り合う会」を形あるものに残したいと「PTSDの兵士の資料館」建設を思い立ち、20201月着工、510日に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処=以下、お茶飲み処」を開館しました。

 お茶飲み処は①PTSDの復員日本兵と家族」の声、情報を発信します。②「PTSDの日本兵と家族」の心の傷が癒される交流を続けます。③子供たち、高齢者、地域の人たちが集い笑顔溢れる交流を作ります。④日本から中国、朝鮮半島、アジア、世界に平和と仲良しの虹の架け橋を渡します。以上4項目の目標を掲げています。

510日の開館以来、930日までに187人が来館されました。来館者にはそのつど、展示パネルの説明をしています。

823日の「お茶飲み処主催の村山うどんを食べる会」に参加した中国人女性(中国師範大学大学院教授、現在、桜美林大学講師)が公主嶺出身と聞いて驚きました。20歳で徴集された父親の初任地が公主嶺なのです。父親の引き合わせと直感しました。「悪いことをしたと私の代わりに謝ってくれ」と言っている父親の声が聞こえました。

私は先生に「あなたのご両親、村の人たちに父親がなしたであろう殺害など非道な行為と多大なご迷惑を息子である私は心から謝罪します。どうぞ父親を許してください」と謝罪しました。先生は私の手を握り「日中友好、日中友好!」と返してくださいました。その後先生から次のようなメールが届きました。『お父様の代わりに謝罪して下さったことに、中国人として、とても感激しました。あの戦争は指導者の責任だと思っています。お父様は普通の庶民として、戦場に行かされたのであって、お父様の責任とはいえません。お父様は加害者であったけれども、被害者でもありました。国境や民族を超えて、平和な社会を作るために、お互いに協力し、頑張って行きましょう。中国に黒井さんの活動を伝えたいと思いますし、民間レベルでの平和のための活動にお互いに頑張っていきましょう。』

 私は先生のメールを額にして仏壇の父親の写真の目に飾りました。

 お茶飲み処には小中学生の来館が増えています。その為、児童図書コーナーも作りました。5年後、10年後の子供たちの成長が楽しみです。そこから語り部の後継者が生まれるかもしれません。

 2020年は「語り合う会とお茶飲み処」が全国20の新聞社に26回(1016万世帯・全国20%)紹介されました。日本兵のPTSDへの社会の関心の広がりを感じています。

 現在、海外派兵された自衛隊員にもPTSDが発生し、50人を越える自殺者、病床から起き上がれない自衛隊員も出ています。兵士のPTSDは現在進行形、未来形の日本の問題でもあります。「語り合う会・お茶飲み処」は「誰もが安心して暮らせる平和な社会」をめざして活動を続けます。

ホームぺージhttps://www.ptsd-nihonhei.com

 ☎080-1121-3888(代表・黒井秋夫)qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp 

連絡先 🏣208-0001 武蔵村山市中藤3-15-4

 

 

 

第19回日本トラウマティック・ストレス学会

戦争における加害のトラウマについて考える

 

(シンポジウムS-14)

上記シンポジウムに黒井秋夫はシンポジストとして約20分間お話しし、討論に参加しました。お話しの要旨は下記の通りです。

 

黒井秋夫の発言要旨

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」代表

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」館主

(1)「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の立ち上げと「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の建設開館の経過。

★今から5年前67歳の時に、ベトナム戦争でアメリカ兵の3割以上が戦争体験の後遺症・PTSDに苛まれ社会復帰にできない状態で帰還すると知り、一日中ほとんど口を開かず、定職に就くこともなく、仕事のない時、60歳以降働くことを止めた後も家に籠り外出することもなく、一家の大事な判断が求められる時には、その責任を私の母や7歳年長の長男に押し付けた無責任な父親が戦争体験による戦争神経症により人間が変わった戦後の父親だと確信しました。

2018117日、「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げる。武蔵村山市内の公共施設でこれまで5回の交流会、学習会を開催した。

★昨年8月以降5年前の前立腺ガンの再発、放射線治療、心臓頻拍のカテーテル手術が続き、元気な内に活動を形の見えるに残したいとの考えから2020510日に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を建設開館した。8月24日現在今日現

★交流館を映像で紹介します。

日本最初・唯一の

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」

510日(開館日)~8月23日

134名の皆さんに

ご来館いただいています!!

 武蔵村山市66名 東大和市13名立川市10名 瑞穂町など多摩地域12名

都区内25名 埼玉県 5名 神奈川県 3名

ご来館ありがとうございました!

どなたでもお気軽にお立ち寄りください!

★日本最初・唯一の「PTSDの日本兵と家族の

交流館・村山お茶飲み処」はめざします!

①「PTSDの復員日本兵と家族」の声、情報を展示、発信します。

PTSDの日本兵と家族」の心の傷が癒される交流を続けます。

子供たちに地域の高齢者が戦争体験を語り継ぐ場にします。

みんなの食堂・サークル活動で笑顔溢れる交流を作ります。

日本最初で唯一の交流館を武蔵村山市の名所にします!

「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」と

PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」が

この1年間で

18の新聞社に22回紹介されました。

社会の関心が増していると感じています。HPの訪問者が月に700人を越えています。

PTSDに苦しんだ日本兵と巻き込まれた家族のことが社会に知らせることが「二度と戦争を起こさない、PTSDの兵士を作らない」に繋がるなら何でもやろうと思っていますので、マスコミに更の取り上げられることを願っています。

2020730日(木)~

共同通信配信で全国15の新聞社

合計632万世帯にお知らせされました。

2020730日から信濃毎日新聞(発行部数・46万部) 沖縄タイムス(16万部) 北海道新聞(95万部) 青森県の東奥日報(21万部) 山梨日日新聞(19万部) 岩手日報(19万部) 

高知新聞(16万部) 東京新聞(45万部) 山形新聞(20万部)紹介されました!

更に820日までに 中日新聞(213万部) 京都新聞(35万部) 山陰中央新報(18万部)

徳島新聞(20万部) 宮崎日日新聞(20万部) 南日本新聞(28万部)で紹介されました!

日本の世帯総数は5410万世帯

(配布された632万は11.%に当たります)

 PTSDの日本兵と家族」の存在を多くの皆さんに知っていただくことが「二度と戦争を起こさない」ことに繋がると信じて活動を続けます。皆さんのお力添えを宜しくお願いいたします! PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処通信」を20204月以来4号まで発行している。武蔵村山市役所(市長・副市長。市議会議員・観光課)に毎回渡している。交流館周辺900戸に戸別配布をしている。

・「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」通信をメール160人の支援者、団体に送信(複数のメーリングリスト)。同じく郵送。主要新聞に毎回送信している。

・大きな集会、地元の集会でお知らせチラシを配布、発言。

★「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」ホームぺージの役割、目的。

20207月の訪問者数 632人。 訪問者数632×12カ月=7000人の訪問者。

 (2)加害について。

★兵士のPTSDの発生原因は戦争の加害行為が根底にあるが、加害の事実を否認する(加害行為はなかったと主張する勢力)政権者、マスコミ、論壇の戦後の日本社会の経過と現状が種々の困難をうんでいる。

2018年までPTSDの日本兵(と、その家族)の「活動組織ができなかった」こと。声を上げられなかったのはなぜか。何が問題なのか。

★戦争のトラウマから加害者・日本兵(2次被害者の家族)が抜け出す、心が解放される道筋。

加害者が自分の加害行為に気づき(気づかされ)、その精神的苦しみから抜け出す道は被害者への謝罪から始まるでしょう。加害者の謝罪に被害者が赦しで返してもらえたなら、加害者の精神の苦しみは和らいでいくのではないでしょうか。

 

★国(政府)が日本の戦争加害をきちんと認めていない。

今年の815日、安倍首相は式辞で「今年も加害に触れず」「歴史の教訓消える」と報じられた。アジア諸国に先の戦争で被害を与えたことに一切言及しなかった。

★「日本を取り巻く世界情勢から日本が戦争を選択したのはやむおえない情勢だった」とする保守政権の認識がある。日本の加害を主張する日本政府の方針に反対している雰囲気がある。

★今の政治情勢も日本の戦争加害の声を上げにくくしている。PTSDの日本兵の問題が社会に受け入れられる空気を阻害している。

★声を上げられなかった事、活動組織ができなかったことは戦後日本社会の加害の否定の流れが主流だったことが大きな原因だ。

★平和、戦争反対の運動も「PTSDの兵士の存在と問題」を取り上げる問題意識、必要性を認識していない。

★4人の閣僚が靖国参拝。

 

・戦後73年を経て初めて組織が誕生し、活動が開始された(余りの遅さ)ことに問題点の核心がが現れている。

 

★日本には「PTSDの日本兵とその家族」の活動組織は会員20名の「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」ただ一つしかない。

★日本には「PTSDの日本兵とその家族」の記念館・資料館も「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」一つしか存在しない。

★原爆や空襲など「戦争被害」の活動・組織は数多く存在するし被害の実態も知られている。沢山の記念館・資料館が存在する。余りの落差ではないか。日本の平和運動はPTSDの兵士の存在やPTSDが連鎖し今も続いている家族の苦しみを知らないできた。置き去りにしてきた。

★日本遺族会は存続しているが、現在は抑留者の会と傷痍軍人の組織は会員の高齢化が原因で解散している。

(3)戦争神経症の父親が自分の精神形成にどういう影響を与えたか考察する作業に終わりはこない。活動を続けると、新しい気付きが毎日ある。自分自身の精神に常にはね返ってくる。(黒井秋夫の事例)

・父親が亡くなった(1989年)あと、26年後の2015年に戦後の私の知っている父親が戦争による精神障害状態だったことに気付いた。その時は母親も亡くなっていた(2000年)。

・戦後、きちんと働かず、一日中口を開かず、無責任で、どこにも出かけない父親を、黒井秋夫はただただ駄目な人間だとレッテルを貼り、終生一人前の人間としての口をきかない子供で終わった。情愛が通い合う親子の関係はなかった。そういう親子の情愛を感じた経験もない。もちろん父親を尊敬したことなど一度もない。

・そういう風に育った子どもの精神が月に例えると満月の精神が持てたとは思えない。どこか歪(いびつ)で欠けているような気がする。でも自分では分からない。今の自分とどこが違うのか想像できない。それを考えると、つらい苦しい感情が湧いてくる。

・旧満州、華中へと1932年、20歳で徴集されてから34才で帰国するまでの軍歴、1944年当時は国民党政府との最前線の宜昌(イイチャン)の戦場でおそらく10~20人程度の部下を闘いに指揮できた軍曹時代があったことは、戦後の無責任で、黒井家の問題解決を母や長男に投げて、自分では何の判断もせず、問題から逃げて無責任だった戦後の父親の姿からは想像できない。

・復員してからの父親は無責任で無気力の別人になったと理解するしかない。

 

(4)活動の目的

・戦争被害者を将来に作らない。PTSDの兵士、家族を作らない。そういう考えの人たちが多くなることで戦争がおこらない社会を作る。

PTSDの兵士の存在、家族への2次被害、連鎖、孫世代へ。

・日本は二度と戦争を起こさない。PTSDの連鎖が現在も続いている。従軍兵の孫世代に連鎖している。更に連鎖して続いて行く可能性がある。

・兵士のPTSDの存在は知られていない。戦争でPTSDの兵士が3割~5割の割合で現れる、生涯付きまとう、家族への実力行使の暴力、言葉の暴力、種々のネグレクト、無気力になり働かない、家族の生活、精神がゆがめられる。

 

・戦死、身体障碍は広く知られる。その事の家族への影響は、国のケア、生活保障は?

 

歴史教育者協議会発行の「歴史地理教育2020年9月号」の裏表紙の「探訪ミュージアム」のコーナーで「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」が紹介されました。

みんなの食堂「村山うどんを食べる会」は

33人の参加者で大成功しました!

事前の雷雨予報ははずれて、雨も風もなし。村山うどんに「おいしい!」のたくさんの声!沖山グループの歌ではみんなが歌い、踊りでは飛び入り参加も!参加者どうしの交流が時間いっぱい続きました。「コロナに感染しない、感染させない」とフェイスシールド、飛沫遮断幕などの対策を取りました。庶民の知恵と底力を発揮して大盛り上がりの「村山うどんを食べる会」は大成功でした。お手伝いの皆さん(調理、会場づくり、映像中継・音声、受付)、本当にありがとうございました。

次回の「みんなの食堂」もよろしくお願いいたします!

 

2020.8.23 みんなの食堂「村山うどんを食べる会」まとめ

★初回のみんなの食堂

「村山うどんを食べる会」は

大成功と評価します!

・参加者は33人。(親と一緒の4才と小学校1年生の児童)、中学2年生、大学3年生から83歳まで幅広い皆さんに参加いただきました。地域的には武蔵村山13人、多摩地域6人、都区内9人、神奈川3人、埼玉2人とコロナ感染下にかかわらず駆けつけてくれた皆さんに心から感謝申し上げます。

・沖山さんたち二人組の歌と踊りは最高でした。笑いと合唱、飛び入り参加で会場の雰囲気が一気に和みました。会話と交流を促進するきっかけにもなりました。感謝でいっぱいです。

・当日の食材、飲み物が参加者からも提供いただきました。加えて北海道や山形の友人たち、支援してくださるみなさんからも寄せられました。本当にありがとうございました。

・会場設営では前日から会館を建設した飯塚棟梁が駆けつけて下さり、テーブル、飛沫遮断幕、雨除けシートなどを作っていただきました。また、片付けに翌日も来てくださいました。感謝でいっぱいです。

・受付係はこれまで2回来館してくれた地元の中学校2年生が担当してくれました。片付けも最後までしてくれました。テキパキと積極的にこなしてくれてとても心強く思いました。

・何と言っても、朝から調理、配膳、片付けをしていただいた地元の女性の皆さんありがとうございました。成功を支えた最大の力になりました。

・黒井の妻さち子が献立を決め、食材を仕入れ調理し、料理の提供方法から片付けまで、手伝いに来てくれた仲間たちと協力し仲良く取り仕切ってくれました。第一の功労者です。ありがとうございました。また私の縁者の人たち、甥や姪の家族、娘家族たちにもささえてもらいました。皆さんからは会場に来るなり手伝いをしてもらいました。私の娘の夫・内山大樹さんには会場が3か所に分散するのでズーム中継をしてもらいました。踊りと歌の音声も担当してもらいました。いつものことながら頼りにしています。感謝でいっぱいです。

・コロナ感染が広がり、政府はGOTOトラベルの一方でお盆の帰省自粛を言うなどちぐはぐな方針。社会は感染非難を恐れるあまり及び腰になり、様々な催しが中止されています。そういう中だからこそ「村山うどんを食べる会」は「コロナに感染しない、感染させない」を合言葉に、主催者と参加者が十分な対策と注意をすれば開催は可能と判断して実施しました。

庶民は神代の昔から、為政者がどう言おうが、楽しむときは楽しみ、時には法のほころびを見つけてでもお祭りや観劇、お伊勢参りなどを楽しんできました。「村山うどんを食べる会」も、しぶとく生きた先祖の心意気を引き継いで「みんなの食堂」を実施しました。

・中国師範大学の先生で現在は日本の大学で教鞭をとられている67歳の中国人女性の方が取材参加されました。先生が公主嶺出身と聞いて驚きました。20歳で初徴集された私の父親の満鉄独立守備隊の初任地が公主嶺なのです。父親の引き合わせと直感しました。私に現地で採れた穀物の粟をお土産にいただきました。父も食べたであろう中国産粟を見て感無量となり涙、涙でした。 あの世の父親が「息子よ、悪いことをしたと私の代わりに謝ってくれ」と言っている声が聞こえたように思いました。

私は先生に「あなたのご両親、祖父母たち、村の人たちに従軍した父親がなしたであろう殺害などの非道な行為と多大なご迷惑を加害兵士の息子である私は心から謝罪します。どうぞ父親を許してください」とお話ししました。最後には先生は私の手を握り肩をたたいて「日中友好、日中友好!」と返してくださいました。その言葉を聞いて、私は再度、涙、涙でした。ほんの少しですが私は心が軽くなりました。この気持ちを大事にして活動を続けたいと思います。

・「PTSDの日本兵と家族」という重いテーマの活動ではありますが、多くの人たちに知っていただき関心を持ってもらうには、「また参加したい」という気持ちになっていただく楽しい企画で和やかな雰囲気の催しでありたいと思っています。これまで最近の「おしゃべりカフェ」では2回の音楽コンサートが好評でした。これからも楽しいと感ずる催しとして「みんなの食堂」や各種の企画を実施いたします。

 

★費用について 

★再使用可能品(数回~相当回数の使用可能な物)

フェイスシールド 16.390

トレー      17.940

体温計       4.738

(消毒液       2.723

★あと数回は使用可能な物品の経費  41.431円  参加者一人当たり(33人)1.255

 

★食材、会場設営経費

会場設営      7.000

食材・食器    16.492

★今回消費経費   23.492  参加者一人当たり(33人)711

★経費合計     64.923

 

★収入 

会費        4.700

当日カンパ    22.000

★収入合計     26.700

 

★経費の評価

・初回ということで経費をほとんど考慮しないで進めてしまいました。結局、参加者一人当たりの経費が711円かかりました。不足分を蓄えた皆さんからのカンパで負担することになりました。

・初回ということを考慮しても、もっと計画性を持つべきだったと反省しています。

・次回は参加者の会費と当日カンパで収支が取れる「みんなの食堂」を計画したいと思います。

 

★参加者の当日感想を紹介します。

(主催者が前置き部分など割愛しています)。

 

*「村山うどんを食べる会」は510日にうかがってから、楽しみにしていました。今までは電車とバスでしたが、今回は車で来ました。友人知人をさそってここに来る計画を立てるためです。

  献立表があったのはうれしい。食べきれないほどの量と多様な野菜・果物をおいしくいただきました。ごちそうさまでした。食材が北海道、山形、地元産と豊富。これも平和なればこその多様性と感じ、多くの方々の手で作られたものに、調理してくださった奥様とボランティアの方々、協力賛同の方々、本日参加の皆さまの力が集まり、楽しくおいしい会ができたと思います。

 これからも何かあれば来ますし、何もなくとも友人知人と一緒に通いたいと思っていますので、今後とも宜しくお願いします。

 

*楽しくすごさせていただきました。食事がたっぷり、すごい。私の父も(大正7年生)兵役を経験しました。母方の実家に行くと、必ず天井下に兵隊姿の遺影の写真が置いてありました。私は(69才)実体験はないですが戦争の影を感じてきました。また機会があったら話を聞かせてもらいに来ます。(一国平和主義の日本人を恥ずかしく思っています)戦争を含めた運命の荒波にほんろうされた人々をもっと知って理解する必要を感じています。

 

 

*おいしいうどん、小茄子漬、とてもおいしくいただいて、歌や踊りとにぎやかで、暑い暑いと思っていたのが、皆さんと一緒に楽しませていただき、暑さ忘れて幸せな気持ちで帰ってきました。本当にありがとうございました。