意見交流の場~私の考え、思うこと~

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家族が日本兵だった、戦争のトラウマを抱えた知り合いがいたなど

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「おしゃべりカフェ」参加の動機・従軍した父親、祖父、叔父などの

参加者の思い出メモ(2019.8.25「おしゃべりカフェ」)

 

 

お書きになった個人ごとに番号をつけ転写しました(判読が困難な部分は省略しました)。

 

 

 

1、       父親が戦争を経験していて私も同じような思いを持っていましたので参加いたしました。あまり多くは語りませんでした。何を聞いても答えることはありませんでした。生まれた家に帰っても義姉がいるので、居づらくて私の家に婿に入りましたと言ったそうです。

 

2、       父は旋盤工で(飛行機の脚)あった時に召集されたため当番兵しか経験していないことを聞かされた。ただ戦後は会社の閉鎖で解雇、新たな就職もままならず自営(下駄屋)となりました。戦後の方が大変だったみたい。

 

3、       父親は他界してしまったが生前は良く「日本は戦争に負けて良かった」と言っていた。従軍中は軍事教練での経験を思い起こすようで「日本が勝っていたら軍人が益々権力を持ち大変なことになっていた」と言っていた。

 

4、       父は37年前に心筋梗塞で63才でなくなりました。今年3月のPTSDの会を知るまで、父をPTSDと考えた事は1度もありませんでした。戦後父は復員し、母と結婚しました。3人の子どもが生まれ父は〇〇市にある〇〇県ビール麦連合会でビール麦を全国に普及する仕事を亡くなるまでしました。(私が父から聞いた戦争の話しは)父は志願兵で農家の次男坊、19歳で入隊し終戦の翌年、19463月に除隊するまで主に中国で戦火に巻き込まれました。父から聞いた戦争の話しは一口で言うと手柄話です。「中国の黄河を渡った時、敵の船との交戦になり、自分は独り者だから先頭に立ち、家族持ちの戦友は後ろにかばったが、戦友は次々と弾に当たり死んでいった。自分は何故か弾に当たらなかった」私は子ども心に「父は凄いな、勇敢に戦ったたんだ!」とまるで戦国時代の武将の話しを聞いているようでした。母は医者の娘でお嬢さん育ちでしたが、私の子どもの頃、おかしなこと言ったことがあります。「人の肉ほどおいしいものはないって、」そして「戦争に行った人は死ぬときは天皇陛下万歳!とは言わない、かあちゃあん!とか奥さんの名前を呼ぶんだよ」と。

 

父は私たち子どもには話せなかったことを、母には少しは戦争の事実を伝えたのだと思います。そして母にも語れなかった事を自分の胸にしまい、毎年815日終戦の日には必ず仕事を休み、町はずれの慰霊塔にお参り黙って祈っていました。

 

前回のPTSDの会の後、私は○○県から取り寄せた父の軍歴を妹に送り、父の戦争体験を話しました。父は中国大陸を横断し、たくさんの罪を犯したのではないか。私たち子どもには知らせない、知らせたくないことがたくさんあるのではないかと。妹も父の軍歴を知りショックを受けていましたが「父は戦争で経験したことを自分の中にしまい込み、戦後おじょうさん育ちの母と結婚して人生をやり直そうと思った気持ちをコントロールしたので身体に負担が来て短命に終わった」と言いました。私は父の辿った中国の歴史、当時起きたできごとをインターネットで調べ気分が悪くなりました。もっと書きたいのですが用紙がなくなり残念です。

 

5、       父の発言。「びんぼう人はいつまでもびんぼうだ」「日本社会党はいつも負けるのだ」新発田連隊に行った。「食事は競争して取りに行った」講演者は質問を受けて答える形式にして欲しい。

 

6、       NHKは国民が見なければいけないフィルムをいっぱい持っていると聞いたことがあります。映画(『この世界の片隅に』が永く上映されていることはとても大事なことです。)TVドラマで戦争にまつわることを学び知ることだけでなく記録やドキュメンタリーで知ることはとても大事だと思います。そこでNHKにどんなフィルムを持っているか、今後の放映計画(案)があれば教えてもらえる知りたいところです。≪現政権と同じく資料が処分されてないとすると≫ハガキを出したり、電話で要望することも方法としてあるようですが、、、まだまだ、知らないこと、知らなければいけないこと、たくさんいっぱいあることがわかりました。憲法9条を守るためにも、学び、話しを聞くことが今できること。市井の人の話しは重いと思うところもありますが、とても大事なことを伝えて下さっていると思いました。

 

7、       私の関心――(今日は私の81才の誕生日でケーキまで用意していただきありがとうございます。)――は私の人生の総括をすることを卒業生からせまられていますが最大の関心は私の父は何故戦争に行ったのか?3回も召集され、戦死した(父の家系で戦争に行ったものを知らない)そしてどこで戦死したのか(公報では台湾の高雄沖となっているが戦友は日本を出たその日の夜に船が、、、)と戦後伝えてくれた。それを調べること。

 

8、       青木茂さんの著書「万人坑シリーズ」に衝撃を受け江戸川区で青木さんの講演会を開催しました。黒井さんがPTSD、、、の活動を始めていたのでお呼びしてそこで話をしていただきました。私の親族に兵役に従事した者はいませんでしたが、日本の中国・朝鮮・アジア諸国に対する戦争、侵略、植民地支配の責任を考える上で自らの家族の事に引き寄せて考えることは重要だなと思います。

 

9、       戦地で自死するときに「天皇陛下バンザーイ」と言って死ぬのじゃなく母親の名前、おくさんの名前を言って死ぬんだと聞いたという話が印象的でした。自分の父親が戦死して、父親が帰ってきたらどうだったかということで来た人もいました。

 

10、  戦後そして今でも戦争の物理的影響については多く語られて(研究・マスコミ)きた訳ですが本会のテーマ「心理的影響」は浮上していないことが強く印象に残りました。

 

11、  私が育ったのは田舎ですが「精神病院」とか「精神科」というのがありましたが閉鎖的でした。今日の放映で結びつきました。戦後長いこと、今でもその心理的影響があり普通の生活に戻れていないということ。世論にならないこと、触れられていないことがきっとたくさんあるに違いありません。

 

北村先生の「現代社会にも戦争の経験が横たわっているのではないか?」というまとめは非常に興味深い。戦争は決して終わっていないという現実はもっと(研究)知られるべきだと痛感します。貴重な話が盛りだくさんで驚きです。

 

12、父:国鉄(○○)から満鉄に転身。家族4人(父、妻、長男、長女、次女)と共に満州に渡

 

る。

 

   母:実家から看護学校を卒業、満鉄病院に。

 

    ★満州にて父の妻が病死。その後父が業務中のケガにより満鉄病院に入院。それがきっかけで父と母が結婚(父は再婚となる)。

 

    ★中国戦線にソビエト軍が参戦。ソビエト軍、中国軍の支配が進展するに従い困難度高まる。特にソビ

 

エト軍の進軍にともない病院内の重症患者の対応に相当の困難をきたした(異母兄弟からの伝聞)その時のことは母が生きている間、母は何も語らなかった。語りたくなかったようである。

 

    ★1946年、父母、異母兄弟、妹、満州にて誕生した兄と引き揚げてきた。母は一本の注射器だけ持ち帰ってきていた。1946年、母の実家の○○へ。母の日誌があったようだが、母が他界(60才で交通事故)した際、父により処分されたようである。何か語りたくなかったこと、子どもに話したくなかった事とは何だったのだろうか?

 

    ★叔父:関東軍砲兵隊兵士。伍長で終戦。ソビエト軍によってシベリアに抑留。1949年(昭和24年)私が誕生した年にシベリアから帰国。実家の農家を継ぐ。シベリア抑留中の困難の話しをときどき私にしてくれた。凍土の為、夏の間に冬に死亡する戦友(自分のなるかもしれないが)の墓穴を掘る仕事もしたことなど。満鉄病院に勤務する母を母の弟である関東軍兵士であった叔父は病院に何回かたずねたとの事であった。

 

    ☆私の関心は父母、叔父が生活した満州、そしてその時代とはどんな時代だったのか。どうしてあのような無謀な戦争を始めてしまったのか。そしてそれを指導した政治家、軍の指導者、官僚(特に高級官僚)はその責任をどう受けとめ、どう行動したのか。それらの事を調べ整理していきたいと思っています。図書館に通い、昭和史(大正、明治でではあるが)政治史を中心にあたっている。

 

番外編19816月だったと記憶しているが朝日新聞の「たずね人欄」に長野県○○市で開業医である方からの投稿があった。「私が満州の医学校の学生であった時、コレラに罹患し瀕死の状況の自分を看護し死から救い出してくれた〇〇さん(母の旧姓)をご存知の方連絡を」ろ。たまたまシベリアから引き揚げに農業に従事していた叔父(母の弟)が気づき私に連絡してくれた。その事を妻に話し、妻が198181日、2日に開催された日本は母親大会○○大会に参加した際に投稿された医師の方と面会し、母が勤務していた病院の写真などをいただいた。

 

13、 父は昭和205月比島付近で戦死。海軍水兵長の肩書だったと聞いている。37才。戸籍に残っている。母は再婚した為、父のことはほとんど語らず。私たち子どもも聞くのをためらった。ですから私は父から戦争の事、悲惨さ、心の傷について聞く事ができなかった。だが皆さんの話しを聞き、TV番組を見るにつけその心の痛みを聞きたかったという思いが昨今増してきています。

 

     NHKのTV番組では日本軍の私的制裁、精神病の若者まで徴兵したのが特徴だと言っていました。初年兵に対する教育という名の制裁は相当残酷なものだった聞いています。

 

     これも許せないことの1つです。日本では310万人の人々が死に、アジアでは2000万人の死者を出したと聞いています。日本兵の多くは飢えと病気だった言うこと、補充が成されなかったひどい作戦を強行した日本軍。これも許せない一つです。多くの戦争犠牲者の慰霊と共に彼らの死を無にしない為にもその犠牲の上にできた憲法を守っていくことが大切だと思っています。

 

 

 

14、 若い人の働き方の問題、自身の労働問題を、自衛隊員の人権を通して考えて来ました。最初は本心を語れず、思いを打ち明けられないのなら戦争と同じと言う思いがきっかけでした。その後、歴史、日本軍兵士、法律、基地問題資本主義システムで起きている問題などを学びながら細々と活動しています。

 

     人権を考える立場の方々にも中々理解を得られにくく徐々に広がっていますが黒井さんにイベント案内をいただき参加しました。

 

     参加させていただき、やはり戦争は終わっていないという思いです。国が責任を認めたとしても奪ったもの、傷ついたものは戻らないので後々に生きる者が伝え、考え続け、謝罪しなければ、友好、信頼は築けないと思います。

 

     これ以上の破壊、略奪は止めたいし、そのために利用できる開発も制限が必要だと考えています。30年くらいを振り返っても米軍を後方支援する自衛隊の姿があり、平和と言えません。アメリカではイラク・アフガン戦争の自死が戦死者を上回り問題になりましたが同じころイラク・インド洋派遣された自衛隊も自死数が増えています。防衛省のデータには通院中や退官した方の自死は含まれません。日本軍から引き継ぎ現在進行形のトラウマも共有できる場がありましたらうれしいです。

 

     傷つけて良い、殺しても良い対象を作り「国防」の名のもと開発された兵器、武器を使う。使い手がトラウマを抱えたり社会から孤立する、そのようなことを「国防」や安全保障というのなら、それは誰のためなのか、多くの人と考えていきたいです。本日はありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

8月25日(日)「おしゃべりカフェ」アンケートを公開します。

 

(原文をそのまま転写しましたが、一部、判読が困難な部分は省略しました)

 

 

 

  本日の「おしゃべりカフェ」の感想をお書きください。

 

・盛りだくさんでした!交流の時間、音楽もあって良かったです。

 

・「おしゃべりカフェ」に初めて参加しました。“PTSD”を兵士の方が病んでいたということは初めて聞きました。このような会は存在するのが大切だと思いました。

 

・講演の内容が深く、しかも実践・事実に裏付けされていて本当に感じ入りました。父の父、何よりも「人間」に与える恐ろしい破壊に改めて「いきどおり」を感じています。

 

・司会者をおいて報告者にプログラムの時間を守るようにしてください。

 

 北村毅さんの報告について。戦争のPTSDが家庭の中で起こす問題点を分析的に話した内容はさすが学者としての講演だと思いました。

 

 室田元美さんの報告について。全国79か所を取材した内容に共感しました。私も長崎県の伊王島「軍艦島」満蒙開拓記念館、浅川地下壕の調査に行きましたので良く理解できました。

 

・戦争に関わった中心の側近から資料が報道されたり、1953年に作られていた映画が最近上映されたり、戦争で戦地で過ごしたご家族がお話しして下さることは、今できることとして意味あることだと感じました。

 

 このことを「戦争とは」を全国民、全世界の人がしっかり考えて伝えていくことだと思います。領土を戦争で採り戻す。とうことはとんでもない発言だと思った時しっかり戦争は絶対ダメと言い続ける。

 

コンサートとても良かった。着物姿の楽器演奏とてもステキでした。ありがとうございました。

 

  ・今回で3回目の出席です。だんだんマスコミ、地域と広がり始めていますね。最初は「PTSD」に興味を持つだけでしたが回を重ね深く知る事ができてきました。これからも関わりを持ち続けひろめていきたいと思います。

 

  ・たいへん勉強になりました。ありがとうございました。

 

  ・質問、答える対話集会・カフェにして欲しい。個人的な発言を十分保証してほしい。

 

  ・汚れちまった悲しみにいたいたしく怖気づき 汚れちまった悲しみになすところなく日は暮れる・・・詩人中原中也の父は軍医であった。日露戦争、シベリア出兵での精神障害兵士を見ていたのではないのか!中也の友人の大岡昇平さんは太平洋戦争末期に召集されたが戦時中に中原中也の「詩」を口ずさんでいたとの事であるが、これが「俘虜」なる発想を思いつかせ生きて帰ってこれたと考えます。戦争は平和を勝ち取る為にあるので「平和」を守ることに疑問を感じる。争いよりも和をもって貴しの方が低いのでは。

 

  ・私は一般市民です。当市にも村山遺族会があり入会しています。改めてその会がどんな役割を果たしているか、さもなければならないか自問します。PTSDについても詳しく知らず無知でしたが今日の生のお話しを聞き学習しなければと思いました。

 

  ・父が戦争に行ってレイテ沖で撃沈され一晩海に浮いていたという体験は聞いたことがありますが、父も語らず私も聞かず、という状態でした。私自身は社会学を学んでいた1970年代、人間疎外がかなりの当時のテーマでしたので戦争を国としてある程度国民が食べられるようになっても振り返り、戦争の事を検証することがなく最近では事実さえもなかったことにするのを見ていて、自分でもできることはやろう!と思うようになって本日こちらに来るモチベーションは高くたくさんの意識ある方々とより深い学びの場を共有できたことに感謝です。講演、コメントの方々の情報量が多すぎて私には少し消化に時間がかかるでしょうがおいしいケーキと心豊かになる音楽で頭のこりもほぐれ、またこれからも学び続ける力とさせていただけました。ありがとうございました。

 

  ・今回はとても学びが多かったです。12月8日もできる限り参加したいですが、やはり「おしゃべりカフェ」なのでみんなでワイワイ話せる時間がもっとあると良いと思います。人は話すことでつながることができますね。黒井さんお体を大事に頑張ってください。

 

  ・はっきり言って「欲張りすぎ」のメニューでしたね。北村先生の話しももっとじっくりお聞きしたかったし室田さんの話しも同様です。

 

   その他の「発言」の方たちももっと時間をかけてお話ししたかったでしょうし、こちらも聞きたかったです。お話しして下さる方を絞って「じっくり」お話ししてもらう構成を今後は考えて欲しいと思います。

 

  ・ためになりました。

 

  ・主催者挨拶で述べられたようにPTSD問題がこの1年間ほどの間に社会的にクローズアップされたことを実証した感じがします。北村さんの報告・研究は大変良かったと思います。報告者を多くとりすぎて時間が足りなくなった感じですが、次につなげるということでこれで良かったのかな?

 

  ・講師お二人の講演、スピーチ4名の方々のお話し、リアルでフィールドワークに裏打ちされて、それぞれ感動をさせていただきました。私もボチボチと一つのテーマに沿って研究しておりますが元気を十分いただきました。

 

  ・大変勉強になりました。北村先生のお話しを聞くと戦時中の暴力はその後も続いているのを実感しました。もう少し参加者の方が話せる時間が取れると良かったと思います。千葉や、群馬、京都などずいぶん遠くから来ている方もいましたので。次回に(おしゃべりの機会を)やると言っても大変なのかなと思いました。

 

  ・みなさん熱心。若い人との交流を持って行きましょう(この話題・テーマのみでなく)。有意義な活動をされている方の参加が増えそうです。貴重な話しも聞ける一方で「庶民」も参加しやすい会が存続しますように。

 

・ 「中帰連の碑」の話しから・・・・個人で抱え込まないこと・・非常に大事。何事も。

 

 

 

   12月8日(日)予定の「おしゃべりカフェ」の希望などお書きください。

 

・12月8日予定を開けて何とか参加させていただきます。

 

 ・多くの方をつなぎ、共有する場、盛会をお祈りしています。

 

 ・どの場面から切り込んでもPTSDの闇は見過ごせないと思いました。運営の心づかいありがとうございます。よろしくお願いします。

 

 ・現在、日韓問題に大きな関心が集まっています。朝鮮を36年間占領、植民地にした反省のない安倍政権こそ反省が必要です。「徴用工問題」の本質を報告できる人を講師にして下さい。日本の教育は近現代史を学ぶ機会がありません。戦争、国民の被害、外国への侵略など市民が憲法の関係で学ぶ必要があります。

 

 ・講演会をお願いしたい。その後、質問、話し合いの時間を設けて欲しい。

 

 ・3月の会では参加者全体の話しが聞けて良かったです。次回は参加者一人一人の意見を言う時間を長くとってほしいです。意見を言うことで会に対して能動的になれると思います。

 

 ・12月8日は必ず来ます!次回は本日の学びと情報と共感しあえる方々と、それぞれの方のお話しをお聴きしたいと思います。

 

 ・ご自身の家庭のお話し(傷に向き合った)それぞれの方のお話し、できるだけ私も自己開示できるように、それまで自分と向き合うつもりでいます。

 

 ・今後もまいります。

 

◎BS1スペシャル

◎隠された日本兵のトラウマ~陸軍病院8002人の「病床日誌」~を観て

 

 

 

大門健一

 

 

 

 この8002人という数字は、日中戦争から太平洋戦争と続く8年間に、千葉県の国府台陸軍病院に送られてきた精神を病んだ兵士の数。しかし、日本軍と政府は日本軍には1人も精神を病んだ者がいないと内外に公言してきたが故に、すべては秘密裡に進められたし、「病床日誌」というカルテもすべて闇の中に葬り去られようとしていたのである。したがって、家族もまた今回初めて見たのであり、多くの人も今回初めて真相を知った。

 

 冒頭のナレーションで「戦争は人を壊す」という言葉が流れる。「戦争は人間の殺し合いだ」ということは知っていても、この記録を観て「戦争は人を壊す」ということを初めて実感した人が多いと思う。私もそのひとりだ。

 

 記録は日中戦争時には、中国の北支から病院に送られて来た兵士が多い。それは、北支の広大な占領統治区を少ない軍隊で守らされ、長大な輸送路を守ることを強制された結果、狙い撃ちにさらされ、無差別攻撃を受けるという緊張と恐怖が兵士にストレスやトラウマを与え、精神をむしばんでいったのである。さらに上官による暴力がそれに拍車をかけ、「誰のために、何のために戦っているかわからなくなり、精神的な病気を深く進行させたのである。そのため、眠っている時に幻視、幻聴に襲われ、さらに悪感に襲われる。全身がけいれんし、まさに映像は「人間が壊れていく姿」を写し出していく。日中戦争の初めには600人であった数が年々増え、ついには1000人を超す。

 

 太平洋戦争が始まると、病院に送られて来る兵士は、ニューギニアなどの南方方面の兵士が多くなる。ひとつは艦砲射撃や空襲による恐怖が原因であり、ひとつはマラリアによって脳がやられ、神経障がいを引き起こす。また「上官によって人を殺すことを命令され、その中には自分の娘や子どもの年頃の者もいたという。こうした場面に直面した者は、だれでも精神を病んだという。自責の念も発病する大きな要因だということがわかる。

 

 さらに、夜通しの行軍、それに対する襲撃は疲労、不安、恐怖も合わさって精神を病む兵士は一挙に増大する。しかし、南方から送り返された兵士は、ごく一部で圧倒的多数は戦場に見捨てられ、殺されたという。ニューギニア島から病院に連れてこられたのは58人で、20万人のうち18万人が戦場で、なんらかの形で生命を落としたことをみればそれは明白である。悲惨という他はない。

 

 また、病人ではないが多くの兵士が「自分だけが生き延びた」ことで自分をせめ続けているという記録が報告されている。これも特に日本軍の中に他国より例が多いらしい。

 

 また、1944年~45年に向かって戦局が悪化すると政府と軍部は数合わせのために、内密で障がい者を戦場に送ったという記録も残っているという。日本軍の悪質な戦争政策はここにも凝縮している。

 

 戦争の恐怖のために、年少兵に自殺した兵士が多かったという記録もある。これも病気の重要な一部である。自殺が下級兵士に多いのは、上官の暴力をはじめとして、多くの矛盾と圧力が下級兵士に集中したことの証明。理由もない私的制裁というのは日本軍特有の体質であり、病人を増やした一因であることがわかる。

 

 精神を病んだ兵士に対しては眠ること以外に薬はなく、なんの科学的根拠のない電気治療は、苦痛を強制するだけだったらしい。太平洋戦争の後半には送られて来る病人は3倍になったが収容する施設はなく治療というより、国民から隠すことが目的化された。

 

 そのため病気になった兵士は戦後も故郷にも家族のもとにも帰れば、就職もできず、施設も介護もシステムもなにまま、せいぜい国立療養所に入れられ、生活保護もなく貧困のまま投げ出され、差別を受け続けた。

 

 まさに「戦争は人間を壊す」のである。このフィルムがなければ、多くの事実は闇の中に消えていただろう。

 

 

 

OSさん。

 

祖父が戦争へ行き、今思うとPTSDだったのかなと思います。すでに、祖母も母も亡くなっており話をできる人がいません。

 

ですが、あの時の祖父の思いを知りたくてメッセージを送りました。

 

私自身の若い頃感じた、まだ戦争は終わってないんだという気持ちをよく覚えています。いろんな人の話を聞いてより深く理解したいです。

 

2018.10.28OSさん。

藤井さん

 

『 隠された日本兵のトラウマ 』 を見て軍隊の恐ろしさ思いました。 それは暴力そのもので 権力の罪を

 

感じました。 私の父も37歳 赤紙一枚で戦場へ送られ 様々な苦しみの中で 海に沈んでいきました。戦争は

 

人々の生活を奪い 心を奪い 命まで奪いました。 そこに正義は全くありません・・。 もし軍隊へ行かなければ

 

平穏な人生を送ったであろう人々を思うと 戦争を起こした国の犯罪に怒りを感じますね。

 

 

 

今もアメリカの基地を沖縄に また原発被害の処理を福島に押しつけている政府のやり方を見る時 80年前と全く

 

変わっていないと思います。国家の罪ですね。 社会の陰で家族とも共に暮らせず 病院で人生を終えていった人々。

 

何の為の人生だったか 同情を禁じ得ません。

 

 

 

NHKスペシャルの中で 初年兵が入隊した日から 殴られ通しで ただ怯えの毎日の中で精神疾患となり 戦後も

 

故郷に帰れず 孤独に亡くなっていった人々。 8002名の病床日誌が今 社会の明るみに出て 

 

『繰り返してはいけない』と思う人々が 増えていくことが 戦争を防ぐ力になってくれると思います。

 

 

 

数は少なくとも 精神障害兵士に寄り添い PTSDの苦しみを明らかにしていく人々がいたことを

 

知り 有り難く思いました。 黒井さんもその一人です。 頑張って下さい ! 

 

2018.12.4 藤井 正直

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

2018.11.25BS1スペシャル

隠された日本兵のトラウマ・陸軍病院8002人の病院日誌  視聴した感想

 

戦場での兵士の被害というと犠牲になった方、また大けがをして傷痍軍人になられた方の話はよく聞きますが、

 

精神を破壊されたり深い心の傷を抱えたまま、その後何十年もの日々を病院で送って二度とそこから出てこられなかった人たちがいたこと、

 

そのすさまじさに言葉もありませんでした。

 

とくに侵略戦争を行った中国での戦争帰還兵にそのようなPTSDが多く見られたことは、何を意味するのか

 

考えずにはいられませんでした。

 

 

 

また、知的障がいを持った人たちまでもが戦場に送られ、

 

集団行動ができないといって酷い目に遭わされ、

 

傷病兵となって帰還したあとは軍人恩給ももらえなかったという話には、ただただ怒りが湧いてきます。

 

 

 

解説をしていた研究者たちが、強い言葉で怒りをあらわにしていたのが印象に残りました。

 

 

 

PTSDを負う兵士はどんな戦争にも必ずいます。

 

殺人マシーンになれというほうが無理な話で

 

まっとうな精神の持ち主は加害者、被害者、どちらになるにせよ人知れず苦しむことになるのでしょう。

 

本人のみならず家族や社会にも大きな弊害を与えます。

 

これから先、日本が戦争も辞さない国になるというなら

 

そういった兵士たちを私たちの社会が抱えていく覚悟があるのかと問いたい。

 

 

 

ペンネーム MM

 

2018.11.25BS1スペシャル

隠された日本兵のトラウマ・陸軍病院8002人の病院日誌  視聴した感想

 

  

柳 道彦さん  2018.11.30

  見ましたよ。重いテーマでした。戦争と言う国家や組織が市民の命を勝手にやり取りする強制行為が

 

  大きな不幸を生む事が今更のように浮き彫りにされました。過去(の事実)から目を背けることなく

 

  学ばなければなりません。教科書作成に携わる専門家の中には歴史から学ぶことは無いと傲慢にも

 

言い切っていました。

 

 

 

  またこのように膨大な資料を守り、後世に伝えようとした人の存在は大きい。

 

  振り子を反対の振る勢力がある中で、それでも人の世は少しずつ良くなって行く事の証かも知れません。

 

 

 

 柳 道彦

 


 

 

 

佐藤正兵さん

 

1125NHKBS1で放映された「隠された日本兵のトラウマ~陸軍病

 

8002人の“病床日誌”~」を録画しながら見ました。

 

その前日の24日、江戸川区で「中国・万人坑を考える講演会@江戸川」として

 

青木茂さんをお呼びし「中国人強制連行・強制労働と万人坑(人捨て場)

 

という講演を聞いた直後でした。

 

中国に侵略した日本軍が、何の罪もない中国人を、無差別に殺害していました。

 

軍の命令でそれを実行させられた兵士たちは、精神に異常をきたさないのがむしろ不

 

思議な状況だったと思われます。

 

精神障害兵士たちが送られた国府台陸軍病院では、引き取る家族もなく、

 

軍人恩給も受けられないという現実がありました。

 

本来なら最も手厚く保護されるべきなのに、・・・これは個人の人権が尊重されない日本の

 

特殊な状況では・・・という研究者の言葉が印象的でした。

 

戦後の「平和日本」は、中国や朝鮮・アジアへの侵略加害を謝罪せず、都合よく忘れています。

 

そこに帰ってきた帰還兵は、自らの居場所を失いました。

 

日本軍国主義・総動員体制の下で、侵略戦争に加担し、加担させられた兵士たちの

 

無念の思いを、共有することが必要だと思います。

2018.12.3  佐藤正兵さん

 

No.1

ジミーフジイ さん

 

私のブログへのコメントありがとうございました。私も黒井さんのホームページ楽しみにしていました。

これからゆっくり読ませていただきます。

私の戦争体験は無いに等しいですが 少しマイブログに書きました。

私は自然環境に傾斜していますが どれも大事な問題です。どうぞ継続して下さい。