PTSD兵士・家族の声

2023.3.1
母との別れ。
場面は覚えていない。
職場の同僚の一人に「親を捨てて行くのか」と言われたことだけは鮮明に覚えている。それは、その通りだったからだし、その一点で悩み逡巡し続けたからでもあるだろう。
黒井秋夫はその時51才だった。
45才でハングルをラジオ講座で学んだ。片言だが自分の要望を伝える程度の会話ならできた。当時の職場の上司に「東京に出てハングルの勉強をしたい」と退職を申し出ていた。
母と10年暮らした家のローンは完済した。貯えで2年くらいは何とか生活できそうだった。山形の実家の兄夫婦、近くに住む弟夫婦にも相談し了解を得ていた。その年8月のお盆には母親は新潟を離れ兄夫婦と同居することに双方が同意納得していた。そうして2000年2月に私は東京に(千葉県市川市に住んだ)出たのだった。
50才を前にして「自分はこのまま新潟で生涯を終えるのか」という「もやもや」を抱えていた。もっと手足は伸びるはずなのに伸ばせない、風船玉に囲まれているような閉塞感があった。閉じ込められている息苦しさがあった。
私は24才の時に山形の兄たちと暮らしていた両親を働き始めたばかりの新潟市の借家に引き取った。3人の暮らしを始めた。父は60才、母は59才だった。
16年後に家を新潟市郊外に設けるが父は敷地は見たが完成前に76才で亡くなった。それから11年、私は母と二人でその家に暮らしたのだ。そして私は50才になった。母は87才だった。
母親は鍋を焦がしたり、買い物車につかまり歩いて、長い歩行は無理だったが口も達者で近所ともとけこんで不自由なく暮らしができた。まだまだ元気だった。
私はその母を、兄たちや弟たちに託して、東京に出ていく決心をしていく。「ハングルの勉強をしたい」と言うのが本当の理由だったとは言えないというしかない。当座の理由ではあったと思うが。
なぜなら、その後の暮らしを立てる手立ての計画は何もなかった。ただただ新潟を出て行くという決心があるだけで、最も大事な生き方や生活する具体的計画は全く存在しなかった。
そんな時に20年以上の付き合いの前の職場の同僚に「親を捨てて行くのか」と正面から言われた。どう返したか、どう話したかは全く記憶にない。ただ「親を捨てて行くのか」という言葉だけが残っている。
兄や弟や、もちろん母親と「東京に出て行く」という相談の中で「親を捨てる」という言葉は誰からも出てはいない。
しかし、同僚からはそう見えたし、周りからしたら「黒井は高齢の母親を捨てて家を出て行く」と映ったのだろう。
そして、それが真実を言い当てていた。たとえある側面から見ればと注釈をつけてもそうだろう。
「風船玉に囲まれているような閉塞感」は母だった。家族だった。
そう断言するのに今も躊躇がある。
「黒井秋夫はこのまま年をとり、このまま死にたくない。もっと何かできるはずだ。新しいことに挑戦したい」そういう思いを実現するには新潟を離れるしかなかったと違う側面もあると主張もできる。
2000年2月末に私は新潟の母の下を去った。その半年後の8月6日早朝に母は突然亡くなった。
5日夕方には近所の人たちと立ち話をしていたが、夜に具合が悪くなり(実家に移るまで同居を頼んだ弟が)病院に運んだがあっという間に息を引き取ったという。深夜に連絡がきて翌日一番の新幹線で向かったが南浦和駅で亡くなったという知らせを受けた。
ホームの柱に掴まって号泣したことを覚えている。母と別れてから半年後、その顔を一度も見ることなくあの世に逝かせてしまった。
「親を捨てて行くのか」から半年後の現実だった。
その言葉は今も私の身体に突き刺さっている匕首(あいくち)だ。
自らが選択した原罪だ。未だにその言葉に明確に返せる言葉は見つからない。
母は亡くなる10年ほど前から大学ノートに日記をつけていた。
私が寝る頃に鉛筆でノートに書いている姿を度々見かけた。
20冊ぐらいの母の日記が残った。今は交流館の棚に袋に入れて保管している。ある研究者に渡したら「黒井さんのことを悪く書いているところはない」ということだった。しかし、私は未だに怖くて読むことができない。
「親を捨てて行くのか」との匕首(あいくち)はこれからも私は身体に刺したまま生きていく。匕首が抜ける事はない。
それでも母よ、あなたの下を去って今の黒井秋夫が存在すると分かってほしい。
私は日本兵の父親の無念の思いを背負って生きている。
父親が戦争によるPTSDを抱えず、働き者で、老いても両親が自立できていたなら24歳から暮らした両親との3人生活はなかっただろう。
母との二人での生活もなかっただろう。そして「親を捨てて行くのか」という言葉をかけられることも無かっただろう。
全てを戦争が原因とはいえないにしても、一因であることは間違いない。
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2023年2月23日(木)午後から晴れ
朝のNHKTV、タレント青木さやかさんのインタビュー番組を最後まで見た。「母から褒めてもらったことがない」青木さんはそう言った。「母が嫌いだった」そうも言った。青木さん自身もガンの手術を受けているが、彼女の母も最期はガンを患いホスピス病院で息を引き取ったという。
生き辛かったと言う。「母が嫌い」は、母から生まれた自分が嫌い、に繋がったのではないかと言う。
彼女はホスピス病院に5時間かけて見舞いに行く。「優しくなくてごめんなさい」と車中何度もセリフ練習して母にその言葉をかけたと言う。見舞を続けるうちに、心のしこりが少しずつ解けていくのを感ずるようになる。そして母を嫌いと言う感情がなくなり、生き辛さも解消していったと言う。
黒井秋夫は父親から優しい言葉をかけてもらった記憶がない。
そもそも何かの会話をした記憶もほとんどない。
1970年、大学3年の時と思うが私は所属した大学から10人の仲間と共に退学処分を受ける。当時、学生寮問題が全大学化して、全学闘争委員会が結成され、私はその中心的活動家の一人だった。
行き場を失った私は工事現場で働く父親と一緒に半年ほど神奈川県横須賀市浦賀で土方仕事をした。夏の暑い盛りから、氷が張る冬の時期まで土方労働者が寝起きする飯場から父と一緒に働いた。
冬になり寒くなったころ、私の元に手編みのマフラーが届いた。一学年年上の女性が編んでくれた丈の長いマフラーだった。何回か手紙のやり取りがあったと思うが、私は次第に彼女にのぼせ上がり結婚まで考えるようになる。
思いつめてある夜父親に打ち明けて相談した。「この人と結婚したいと思っている。山形に会いに行って来たい」と。
1分経ち、2分経ち、5分経ち、10分経っても父親からの言葉は一言もなかった。何も言ってはくれなかった。そしてその場はそれで終わった。
父親のことはその時のはるか前から見限っていたはずだ。高校進学、大学進学、人生の分岐点でも何一つとして父親(母親にも)に相談した事はない。相談できる相手とは見ていなかった。全て自分一人の判断で行く道を決めてきた。
だが、さすがに「この人と結婚したい」と思い悩んだ時には最後のあと押しでも良いから、父親の言葉が欲しかったんだろうと思う。しかし、父親は何の言葉も発しなかった。何の後押しもなかった。
一カ月ほど前、黒井を研究対象にしている方に父とのことを聞かれて、ふとこのエピソードを思い出した。
あの時、父は何を思い考えていたんだろう。
私の思いつめた気持ちをどう受け止めたのだろう。
そもそも、私の気持ちは父親の心に届いていたのだろうか。
父親の心にとどまることなく、ただ、すーっと通り過ぎたのだろうか。今は分からない。
父親は家族や自分に問題が起きても自分で判断しない(できない)人だった。それはずーっと子どもの頃から見ていた事だ。困った事態になっても自分の妻(私の母)や黒井の8歳年長の兄に放り投げていた。兄がいなくなると私にその役割が回ってきた。
しかし、我が子に「結婚」ということで悩みを打ち明けられた時も父親は「無言」で通したのだ。
上等兵まで出世すれば村に大威張りで帰れた時代に部下を持てる軍曹にまで出世できた黒井慶次郎。
1945年、重慶中国政府に向かう長江、宜昌付近の最前線で中国軍と(恐らく15人前後の部下を指揮して)戦闘をしていた黒井慶次郎。部下の命を預かり、前進後退の瞬時の判断ができた黒井慶次郎。多分部下からも上司からも信頼されていたであろう黒井慶次郎。
しかし、復員後に生まれた私が知る父、黒井慶次郎はほんの些細な事さえ何の判断もできない人間になっていた。その過酷で過度な戦争体験は黒井慶次郎の精神をめちゃくちゃに破壊したのだろう。勇ましく逞しい軍人時代の面影は私の知る父親像のどこにも影すら見つけ出せなかった。
黒井秋夫は真の父親を知らないまま育ち、成長し、遂には変わり果てた黒井慶次郎しか知らないままにあの世に逝かせてしまった。
私は父親を知らないままに生涯を終えることになる。
正常な精神や家族関係があるかどうか知らないが、正常な精神はそういう関係でが作られるとしたなら、父親を知らない私の精神はどうなんだろうと思う。
これもまた戦争のなせることに他ならない。
もう取り返せない。
青木さやかさん 母とのわだかまり乗り越え 目指す母と娘の関係とは | NHK
WWW3.NHK.OR.JP
青木さやかさん 母とのわだかまり乗り越え 目指す母と娘の関係とは | NHK

■2020年12月3日 電話でお聞きし黒井が文章化した。 

自分史を書いている。父親は食料弾薬を揚子江で水上輸送(ランク付け低い)に当たった。1937年から40年。帰還した父は薪取りに一人で行けない精神状態だった。母は国の保障がある「とか手でもなくして帰ってきた方が良かった」と嘆いていた。父は肺炎(結核だったかもしれない)で入院したが見舞に行くお金もなかった。「米一粒ないどうするの?」母子で○○川に飛び込もうとしたこともあった。姉や私を育てるのに母は苦労した。

 父が死んだときベットの布団からなぜか足が出ていたことを覚えている。

 

■2020年12月、来館してのお話し。黒井がお聞きし文章化した。

父親は大正8年生まれ、1940年ごろ初徴集。1942年3月から南方で陸軍航空兵、整備兵。

ベトナムで終戦。1947年日本に帰還。

妻の稼ぎを酒につぎ込みアルコール依存症。「今日食べるコメもない。スーパー貧乏だった」。

父は酒を飲んでは子どもを正座させて戦争のことを話したという。

10才になった頃、里子に出されたがそこでも虐待・ネグレクトにあった。

父親は1975年に55歳の時に火災で焼死したという。

 

今は自分の体験を家族、子どもたちに伝えたいそうです。

 

■2020.12月10日、メールを受信。友人の聞き取りとのこと。

私の父は電気関係だったので軍需工場で働き

戦争には行きませんでしたが、父方と母方の

叔父たちは従軍し、「帰還後は人が変わってしまった」と

いう話をよく聞いたものです。

 

戦時中、母方の叔父が一時除隊してきて、町内会一同が

歓迎の席を準備をして待っているのをすっぽかして、どこか

酒色の巷で飲んだくれていた、という話を聞いていますが、

それは地獄を見てきた人間としてまともだったのではないか、

平気で祝いの席にでられるほうがおかしいのではないかと

 

ずっと思っていました。

■2020年12月8日 メールで受診。

1947(昭和22)生まれです。父親が亡くなってほぼ40年になりますが、父親から受けた虐待の記憶を、誇張ではなく一日も忘れることなく過ごしております。彼は大正初期の生まれで、太平洋戦争に召集されアジア各地を転戦、どれ程の残虐行為を働いたか、何人の女性を辱めてきた知らないが、私が育てられた大阪市のその地域(町内)では、「〇〇(地域名)の天皇」と呼ばれるほどの人間で、家庭でも我がままの限りを尽くしていました。いつもイライラしていて絶えず家族を怒鳴りつけたり、自分の子どもでも誰でも、人間を見下すような、軽蔑するような態度をとります。私の青年期、夜中に何度となく「この男を殺してしまいたい」と眠れぬ夜を過ごしましたことを覚えています。彼は復員後小さな事業を始めたのですが、晩年には事業上の借金を数千万円もつくって私に後を継ぐように唆し、大学へも行かさず、他の生き方を一切認めない男で、私の退路は全て断ち切られてしまいました。今は特に不自由な生活ではなく、若い時に十分できなかったたことをやりながら比較的まともな暮らしをしていますが、自分の生き方を選択できなかったことのつらさは生涯残ります。私も、自分の生きてきた経過を記録して、ほかの人がこのような人生をおくることのないよう、平和で自由な社会の実現に少しでも努めたいと日々思っています。

 

 

 

私が背負った昭和のごう     野崎忠郎   

 

七三一部隊に柄沢十三夫(からさわとみお)という軍医がいた。長野県の農家の出で、十三人目にはじめて産まれた男の子だったので十三夫と名づけられた。成績のよかった十三夫は家と村の期待を担って医大を出、その後軍医学校に進んだ。日中戦争勃発後中国に渡り、防疫給水部(後の七三一部隊)でチフス、コレラ、赤痢の調査、予防に従事、その後満州・平房(ピンファン)にある七三一部隊に所属した。彼は細菌戦を担うために純粋培養された軍医だったといえる.

 

柄沢はそこで各種病原菌の大量生産を指揮することとなった。そこでの人体実験や実際に実施した細菌戦にはチームの責任者だった柄沢も当然積極的に関わっていたはずだが、満州時代の柄沢がそのことについて残した言葉はない。彼の上司は、柄沢が極めて勤務成績の良好な軍医だったと評しており、柄沢自身も後に「日本軍将校トシテ細菌生産任務ヲ遂行スルタメ全力ヲツクシタリ」と自己評価している。当時の「滅私奉公、尽忠報国」イデオロギー下における、典型的な軍人だったといえる。

 

七三一部隊のやったことのうち、医学的に専門性の高い事項はアメリカが持ち帰って極秘事項としているが、部隊の概要はいま広く知られている。一九四五年八月九日、ソ連軍がソ満国境を突破して侵攻してきた直後に人体実験用の捕虜を全員射殺して焼却、施設設備は工兵隊が爆破、隊員は家族と共にいち早く日本へ逃亡、という経過も明らかになっている。だがその時、幹部である軍医柄沢は逃げ遅れてソ連軍の捕虜となった。それ以前から部隊は満州全土に細菌戦のネットワークを作りつつあり、その任務のために本隊を離れていた柄沢は取り残されたのだった。シベリヤに送られた柄沢はソ連による軍事裁判「ハバロフスク裁判」で部隊の全貌を供述した。その内容はもう私達が知っていることなのでここには書かない。柄沢はそこで禁固二十年の判決を受け、ラーゲリに送られた。

 

七年後の一九五六年、日ソ共同宣言に伴って恩赦が決まり、柄沢は釈放されることになった。だが、明日にも帰国命令が出されると思われていた夜、柄沢は自殺した。縊死だった。遺書はなく、遺骨はラーゲリの共同墓地に埋葬されたが、日ソ国交回復後未亡人が現地を訪れて遺骨を掘り出し、故郷の墓地に持ち帰り改葬された。

 

 

 

一九九〇年代初め頃NHKテレビが柄沢を取り上げる番組を放映した。その番組を見た後父の妹である叔母と話をしている時私がそのことに触れると、叔母は「柄沢さんなら私よく知ってるわよ」と驚いた声を上げた。

 

「柄沢さんとお兄さんは大の親友で、軍医学校時代の柄沢さんは何度もうちに遊びに来て泊まっていったのよ」と、叔母は続けた。ほぼ同年齢だった私の父も医大卒業後軍医学校で学んだ。その時期父の家は東京にあったから、長野から上京していた柄沢は父の家で家庭の味を味わっていたのだろう。

 

私は父の軍歴を詳しく知っているわけではないが、父は軍医になってすぐ国内の陸軍病院に配属され、一九三七年七月の日中戦争勃発直後中国戦線に出征した。そしてたぶん三八年か三九年初め頃、七三一部隊に配備された。父は柄沢のように軍医学校からまっすぐ七三一部隊に行ったわけではなかったが、私は父も柄沢と同じように細菌戦要員として養成された軍医だったと思っている。父と柄沢は、細菌培養や人体実験をしている部隊の建物と同じ敷地にある、東郷村と呼ばれていた隊員宿舎に隣組同士として住んだ。私はその東郷村で、四十年一月に生まれた。

 

柄沢とは違い、父は七三一に最期まではいなかった。これも推測だが、四十三年暮頃に、父は南方戦線に配置転換された。その頃の南方戦線は敗北に敗北を重ねていたから、陸軍は満州の部隊を引き抜いて南方に投入するしかなかったのだ。南方戦線では、たぶん五割以上の確率で死が待ち受けていただろう。一方七三一にいればほぼ死はまぬがれる。そんな過酷な人事にも、兵士や軍人は黙って従わざるをえない。家族を内地に帰して南方に向かった父は、その時死を覚悟していたかもしれない。

 

だが父は死ななかった。米軍に追われて太平洋を北に向かって敗走する日本軍の中で父は本土決戦要員に指名され、硫黄島も沖縄も跳び越して九州に配備された。今度は軍の人事が父を死の淵から遠ざけた。そして無条件降伏によって本土決戦が避けられた後、父は私達のもとに復員したのだった。その時、柄沢は戦争犯罪人としてシベリヤに幽閉されていた。

 

私の記憶は、ようやくその頃から残り始めている。長野県下の山村で開業医として戦後の生活を始めた父には、敗戦によってうちのめされた翳など全く見当たらなかった。その頃の父はよく村の有力者と酒盛りをしていたが、そこは父が戦争譚を語る独壇場だった。父はその酒盛りの場で、日中戦争やジャングルでの戦闘を語る時と全く同じ調子で七三一でやったことを大きな声で話していた。細菌培養、人体実験、飛行機からの細菌爆弾の投下──襖を隔ててそんな話を聞いていた私はまだ小学校一、二年生だったが、父の話の内容はすべて鮮明に記憶している。幼い心にも、それがあまりにも異常な話だったと思えたからだったろう.一九八〇年代初頭に森村誠一氏の「悪魔の飽食」が出版されて広く知られるようになった七三一部隊の実態を、私は敗戦のわずか一~二年後、六~七歳の時既に心に刻み付けていたのだった。その時、私は確かに昭和の業を背負った。

 

だがある時期以降、父はその話を全くしなくなった。長い間、私はそれを父の心から戦争体験が薄れたためだと思っていた。けれどある時私は、父の七三一体験が大きな闇を抱えていることに気付いた。戦後のあの酒盛りの場で、父は七三一の最後の場面も声高に話していた。捕虜の射殺と焼却、施設の爆破、父の話していたことのすべては、後に明るみになった部隊最後と全く同じだった。

 

だが父は敗戦時には満州ではなく阿蘇山に構築したトーチカの中にいたはずだ。その父がなぜ、あれほど正確に七三一の最後を知っているのか。あの頃私の家に電話はなかったし、見知らぬ人が訪ねてきた記憶もない。とすれば父は、戦後どこかで部隊の残党とあっていたに違いない。会ったとすれば、敗戦後九州から長野へ移動する間だったろう。そこで父は残党と何を話し、何を打ち合わせたのだったか。だがそれにしても、秘密厳守であるはずの部隊の内実をああもあけっぴろげにしゃべっていた父にとって、七三一体験とは一体なんだったのか。そしてある時期以降の父の沈黙は、本当にただ戦争体験の風化によることだけだったのか。

 

長い間解くことの出来なかったその疑問が氷解したのは一九九五年、戦後実に半世紀たった時だった。ある集会で私は七三一研究の第一人者である常石敬一神奈川大学教授と隣り合わせに座る機会を得、自分の父親が七三一の軍医だったことを告げた上で、戦後ある時期以降の父の沈黙について語った。

 

「ああ、それは帝銀事件のせいでしょう」と、教授はこともなげに、私が全く予期していなかった返事をした。教授の説明は以下のようだった。

 

一九四八年、帝国銀行椎名町支店で十二名の行員が毒殺された事件の解決は困難を極めた。その捜査の過程で犯人のあまりにも鮮やかな手際から毒物や細菌の扱いに手馴れた七三一部隊の旧隊員の犯行ではないかという見方が浮上、旧隊員に対する事情聴取が始まった。ところがその捜査は突然GHQによって禁止された。アメリカは旧日本軍から秘密裏に入手した細菌兵器に関するデータを独占するつもりだったから、旧隊員の動向が社会的に公然化するのを嫌ったのだ。その時、GHQは七三一に所属していたすべての軍医のもとを回って厳重な緘口令を敷いた。

 

「長野県には昭和二十○年○月に入っています」

 

と教授が言った年月を私は忘れてしまったが、父は間違いなく四十八年から四十九年にかけてのどこかでGHQの取調べを受けていたはずだ。父はその中で、七三一のことをしゃべったら命はないぞ、というに近い口止めをされたのではなかったろうか。父はきっと、七三一でしたことを戦争中の手柄ぐらいに思っていたのだ。それは南京大虐殺の中で百人斬りをした兵士がそのことを手柄話としていたことと同じだった。旧日本軍の荒廃しきった倫理を身につけたままの父にとって、GHQの取調べは世界の底が抜けるような驚愕と恐怖に満ちたものだったに違いない。父の沈黙は七三一体験の風化によるものではなく、まして罪の意識にさいなまれたためでもなかった。父は死の恐怖の前で口を閉ざしたのだ。七三一部隊という昭和史の中の巨大な闇に帝銀事件というもうひとつの闇が重なったその時、父の心の中の闇の部分が明らかになったのだった。

 

だがソ連もまた細菌兵器のデータを欲しがっていた。柄沢他の、逮捕した旧七三一部隊員を執拗に尋問して全貌をつかんだソ連は、細菌戦に関するデータのアメリカ独占を阻止した。つまり父や柄沢が作り出した細菌兵器は、戦後の冷戦構造の中で重要な戦略兵器のひとつになっていたのだが、父はそのことに全く無知だった。ということは、敗戦直後に残党と密会した後、父には部隊に関するどんな情報ももたらせられなかったということになる。闇は闇のまま野ざらしになっていて、父はGHQに喚問された時、突然そのことに気付いたのだった。

 

その数年後、私達の一家は長野県下の別の農村に引っ越した。あれは偶然だったのかもしれないが、引っ越した先は柄沢十三夫の故郷である農村の隣村だった。父はそこで当時農村ではまだ珍しかった大型のオートバイで往診に回っていたが、暇な時にはいまでいうツーリングに出かけていた。その途次、父は柄沢の実家に寄ったことはなかったろうか。戦後の父が柄沢をどうおもっていたかは私にはわからないからこれは私の推測に過ぎない。だが私には、父と一緒にその村を歩いていた記憶がある。その村のどこへ、何をしに行ったのかの記憶は全くない。時期的に言ってそれは、柄沢がハバロフスク裁判で禁固二十年の判決を受けた後だった。だからその時期の父は、柄沢はもうこの村へは帰ってこられないだろうと思っていたはずだ。その村へ、父はなぜ私を連れて行ったのか。だがそれもまた、私の推測のひとつでしかない。

 

移り住んだ村に、私達はわずか三年いただけだった。村の診療所長という枢要な地位にありながら、父は村にいられなくなるような不祥事を起こし、夜逃げ同然に辺鄙な寒村に引っ越したのだった。それ以後の数年の間、それは私が中学から高校にかけての多感な時期に当たっていたが、父は心の中で何かが壊れたように、家族や仕事をかえりみないまま酒と薬物の中に沈んでいった。病者を癒し、病気の蔓延を防ぐことを使命とする医師の身でありながら、逆に大量培養した病原菌をばら撒いて病者や死者を出し、更には罪のない人間を捕まえてきて人体実験をするという背徳の中で生きてきた父の倫理の荒廃が、あの頃、心の奥深くにまで達したのかもしれなかった。

 

その村にも三年いただけで、父は戦後最初に住んだ山村に舞い戻った。その村は戦後すぐに死んだ私の生母と、その後父が再婚した継母両方のふるさとだったから、私達の親戚が多くいた。父はそんな人たちの支えと励ましを受けながら、おそらく奇跡的に薬物地獄から脱し、正常な仕事と生活が送れるようになった。ちょうどその頃から、私は心理的にも空間的にも父から離れた。青年期の私と父との間はずっと断絶寸前の緊張をはらんでいたが、父から離れることで七三一という不気味な闇や父の心の荒廃から離れられると、私は無意識のうちに考えていたのかもしれない。確かに距離をおくことで、私に中の父に対する気持ちは次第に落ち着いていった。

 

そう思っていた私が七三一の不意打ちをくらったのは、私が三十過ぎの遅い結婚をした直後、妻と共に父の家を訪ねた時だった。その晩、たぶん私はひとりで勝手に酔っ払って寝てしまったのだと思う。そのあと、父は息子の嫁の酌で飲みながら、ひと晩かかって七三一の話を私の妻にしたというのだ。

 

「驚いたけど、お義父さん、罪の意識や後ろめたい気持ちは持っていないみたいだったよ」

 

翌朝妻からそう聞いた時、私は心の奥からにがい、腐臭に充ちた汁が湧き上がってきたように思った。「悪魔の飽食」が出版される前だったから、妻は当然何も知らなかった。父は全くとんでもない結婚祝いを嫁に贈ったのだった。

 

父の七三一体験の根底にある倫理は、結局戦時中のままだった。それを無造作にしゃべると周囲の顰蹙や反発を買い、更には社会的に抹殺されるような危機さえ招くから沈黙を守っていたにすぎず、その恐れのないところでは、父はやっぱり手柄話のようにしゃべりたかったのだ。父はその倫理の荒廃が自分の人生や家族の心と暮らしをどれほど汚染したかということには、全く気付いていなかった。逆に言えば、そのことに気づく敏感さと倫理的基盤を持っていたら、父は七三一のおぞましさを自覚していたはずだ。だがそれはないものねだりというものだ。そんな繊細さと倫理的潔白感を持っていた人間は、そもそも軍人などにならず、徴兵すら拒否して国家権力に抹殺されていただろう。近代日本の権力は個々の民衆にそこまで過酷な決断と選択を迫っていた。そして戦後の父には、その歴史の限界を乗り越えるような力や機会は、内在的にも、外圧としても遂にやってこなかった。

 

その数年後のある夜、父は自殺した。縊死だった。遺書はなかったから、死の引き金を引いた直接の原因は全くわからなかった。医師だった父は薬品を使ってもっと楽に、そして無様な姿を見せずに死ぬことはいくらでも出来た。にもかかわらず縊死を選んだ父の脳裏には、柄沢の死に様が浮かんでいたのだろうか。ともあれ、父は最期にもうひとつの大きな闇を私の前に残して逝った。

 

柄沢の死を知らされた柄沢夫人は、こう語ったという。

 

「内地に帰っておめおめと生きていかれるような性分の人ではなかったと思います。自分のやったことを日本人が赦してはくれないだろう、と考えたのではないでしょうか。お国のためだという申し開きができることではないと・・・」

 

その言葉を借りれば、父は戦後三十五年、内地でおめおめと生き続けた。その戦後日本の社会は七三一を不問に付し、あまつさえ戦後世界を支配したアメリカは七三一の悪事が暴かれないように保護し続けた。青年期の私が父の戦争体験に突っかかっていった時、父は苦しそうに「みんなお国のためだった。国の命令は絶対だった」とつぶやいたきり口を閉ざしたが、この国はその言い訳を受け入れ、七三一も、南京大虐殺も従軍慰安婦も全て赦した。その観点に立てば、柄沢は死ななくてもよかった。

 

だがそうではない。かつて日本軍将校として、同じように細菌戦遂行の任務に全力で取り組んでいたふたりのうち、柄沢は帰国の前夜、自ら命を絶った。その死はソ連軍による尋問と裁判という外からの力がきっかけだったとはいえ、死の直前の柄沢は自らの戦争責任を自覚し、罪を償おうとする地点にまで達していたと思う。そこから先の一歩を、罪を背負って贖罪の生を生きる方向に踏み出すか、死に向かって踏み出すかに、たぶん違いはない。柄沢は死ぬことによって罪を償う道を選んだ。

 

一方父は生き続けた。私は、父もまた柄沢と同じように戦後の早い時期に罪を悔いて死ぬべきだったと言おうというのではない。最後の場面での柄沢にとって生と死が等価であったとするなら、死を選ばずに生き続けた父は、柄沢の死に匹敵するだけの生を生きるべきだったと思うのだ。先に書いた「日本軍将校トシテ細菌生産任務ヲ遂行スルタメ全力ヲツクシタリ」という柄沢の言葉は、ソ連軍に逮捕された直後に書かれた供述書にあるものだが、そこに見られるのは日本軍将校としての矜持だけで、戦争犯罪に対する自覚や反省の念は見られない。そこから柄沢夫人の言う心境までの距離は私の想像を絶するほど遠い。柄沢はその距離を、逮捕、尋問、裁判という外からの力のもとで埋めていったのだろう。そして最後に、おそらくは絶望にみちたある心境──柄沢夫人の言葉を借りれば「日本人は赦してくれないだろう」という心境にいたり、自死を選んだ。

 

柄沢の絶望的な予測に反して戦後の日本は七三一を赦したが、その赦し方は奇妙なものだった。「赦し」とは「罪」を自覚し、悔い改め、贖罪のための生を歩み始めた時にはじめて成立する。けれど戦後の日本人や日本国家は七三一を正面から取り上げないまま歴史の表面から抹殺しただけだった。その赦し方は、父にとってとりあえずは都合のいいことだったろう。けれど父は、自分の七三一体験をこの社会が決して受け入れようとはしていないことを知っていたはずだ。父の心の奥底には、逮捕直後の柄沢の心にあったのと同じ日本人将校としての矜持が宿っていた。父は柄沢とは違い、その矜持を戦後もずっと持ち続けていた。そのため、走り出した戦後社会と父の心との間には乖離が生じ、それは次第に拡がっていった。父が転々と引越しをし、不祥事を起こし、酒や薬物に沈んでいったのは、おそらくその乖離から生じる生きにくさのためだったろう。父が死の数年前に息子の嫁に七三一の全てを語ったのは、自分の体験、自分の人生を現実世界に受け止め、認めてもらおうとした最後の試みだったろう。だがそれも空しい願いにすぎないと悟った後の父には、死が残っているだけだった。父が死の手段として柄沢と同じ方法を選んだことには何の意味もない。父の死は、柄沢の死とは全く次元を異にするものだった。

 

父は最期まで、七三一を含めた自分の戦争体験を考え直すことをしなかった。お国のために人を殺し、お国のために何度も死を覚悟した体験が、父の精神を縛り続けていた。父はその体験と戦後社会との乖離のために道を見失って一度は地底にまで引き降ろされかかり、辛うじてその危機から生還した後も、七三一を含めた戦争体験から脱却することが出来ないまま自ら命を捨てた。

 

それもまた昭和史の中に無数にあった悲劇の一齣であったと父の生涯を歴史の中に突き放すことで、私はようやく私の人生をも強く呪縛していた「昭和の業」から解き放たれたのだった。

 

 

 

                          了 

 

 

 

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0001

  従軍したのはどなたですか?

 

 

  帰国後に仕事はなさいましたか?

 

復職。大阪大空襲で職場は燃える。

 

  戦争体験を家族に話しましたか?それはどんなお話しでしたか?

 

話さなかった。19392月に出征、上海から南京へ入り南昌で負傷し現地で手当てを受け19399月南京港から日本へ帰る。陸軍病院に入院していた。

 

  いま、思い出して普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?

 

1回、1か月しゃべらなくなる。夜、大声で叫ぶ。母とはうまくいかなかった。父を理解できなかったのかと思う。

 

  従軍したその方の思い出などお書きください。

父は祖父に勧められて母と結婚した。母は祖父の言う通りに、教育勅語を大切にした人なので13歳も離れた父と仕方なく結婚した。

母の兄は学徒動員され24歳で1945.8.16にソ連で戦死した。私が8歳の時、祖父は自宅の納屋で首つり自殺した。父は自分の責任とまわりから責められた。私は自殺するのではと予感していたのでずっと自分を責めていた。200010月に死ぬ10日前に私を呼んで、祖父にやさしくできなかった、中国の人に悪い事をしたと泣いていました。

戦場も大変でしたが帰国後もつらい思いをしていました。

 

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0002

    従軍したのはどなたですか?:

 (1999年に他界)


    帰国後に仕事はなさいましたか。どんな仕事でしたか?:

出征前に働いていたに会社で機械の組み立てをしていました。

    族に暴力や暴言などふるうことはありませんでしたか?:

ありませんでした。

    神科の医療機関に通院、入院はありましたか?:

 ありませんでした。

    争体験を家族に話しましたか?どんな内容でしたか?:

私と兄には話しませんでした。母にその理由を聞いたら「泣いてしまうから」との返事が返ってきました。

傷痍軍人を街角で見かけた時は当時小学生だった私に100円玉を渡し「渡してきなさい」と言ったことを覚えています。

いま思い出して、普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?:

 ありませんでした。

⑦従軍したその方の思い出などお話しください。:

 子供に手を上げたことのない優しい父親でした。労働組合の役員をしていたこともあります。

 

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0003

  従軍したのはどなたですか?

父(00)です。疑問に思うことは、父方の親戚で徴兵された方を聞かない事です。

ある方が「お父さんのような重要な方が申請すれば行かなくて済んだのになぜ行ったの?」と

 

  帰国後に仕事はなさいましたか?

昭和1928日に戦死しました。3回目の徴集でした。仕事そのものは国際無線電信の社員であったり工学を大学で教えたりしていました。

 

  戦争体験を家族に話しましたか?それはどんなお話しでしたか?

 

一度も話したことはありません。そして私も80を迎え終活の一環として戦死した父のことを子や孫に伝えなくてはいけないと決心したのが昨年の8月の誕生日です。それから終活は2年と定め、父の徴集や戦跡を調べ始めましたが、まだ手をつけたばかりです。入隊した部隊は北部方面に行く部隊なのになぜ台湾の高雄沖が戦死地なのか、、etc次々と疑問が湧きます。国立文書館や靖国神社にも調べに行かなければと思っていますがまだ果たせません。今、出身の00から戸籍を取り寄せています。

 

  いま、思い出して普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?

 

その親戚の方が「お父さんは行かないで済ませられたのに何故3回も、兄弟は誰も行かないのに応召したのか?お父さんは義務感があったのか?死ぬつもりだったの?5人もの子がありながら何故?」と言っておられました。それを聞いたのは私の小学校時代です。今となってはその真意をお聞きすることはできません。しかし、浮き上がってくる父の像は?何しろ私は昭和13年に生まれ父の戦死が19年2月、この間に3回の出征。私はそんなわけで2~3回会った記憶とわずかの間、共に暮らした記憶しかありません。

 

  従軍したその方の思い出などお書きください。

 

出征の前に家族で伊豆の大島に行き、旅館の2階?の窓に腰かけて見た夕暮れの伊豆半島の向こうに見える富士山が忘れられません。

私が結婚し、子どもたちを連れて大島に行き全く同じ光景に接しました。すると、その時に泊まった港は?同じ?同じ旅館だった?その驚きは今も忘れません。(あれはどこ?今は逆に思い出せないのです。何しろもう40年も前のことですから)。

あの光景を子供や孫たちにどう伝えるか、、、記憶の連帯と家の連続性がどう繋がるか、、、

そんなこんなで終活の一部として、父(00家)と母の(00家)の二つを調べています。

そして終活として「00県の高校生の地域作りの歴史」をまとめろと言われています。

 

 

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1000
人アンケート・①従軍したのはどなたですか?:

1000
人アンケート②帰国後に仕事はなさいましたか。どんな仕事でしたか?:

 沖縄終戦地。故鄕00には帰らなかった。仕事は転職をくりかえした。長期続いたのは、米軍施設

1000
人アンケート③家族に暴力や暴言などふるうことはありませんでしたか?:

なし

1000
人アンケート④精神科の医療機関に通院、入院はありましたか?:

なし

1000
人アンケート⑤戦争体験を家族に話しましたか?どんな内容でしたか?:

 満州から沖縄宮古島入りした・その事しか聞いてない。殆ど話さず51才で死亡。幼ない頃から終戦直後の帰壊兵の映像みるたび、何故父は故瑯00に帰らなかったのか?と不思義な気持がした。

1000
人アンケート⑥いま思い出して、普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?:

 なし

1000
人アンケート⑦従軍したその方の思い出などお話しください。:

 背中に大きなやけどのあとがあった..私が小6のとき,左うでのひじから手にかけてやけどをした時父の処置で病院も行かずに治った。何年かはめだったけど

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」に関するお問い合わせがありましたらお書きください:

 

父がPTSDだったとは思えないけど、長男なのに故瑯に帰れない理由って?と思う。今月3月ようやく軍歴証明書を手に入れ、父の部隊野戦重砲兵第一連隊第一大隊(0000)がわかった。父の足跡を知りたいと思っているけど、軍歴証明証の地名がわからず、苦労している
調べる方法ありますか?

 

 0005公開用


1000
人アンケート・①従軍したのはどなたですか?:

 従兄(母の兄の長男)

1000
人アンケート②帰国後に仕事はなさいましたか。どんな仕事でしたか?:

 家業の農家を継いで普通に働いていたように思います。

1000
人アンケート③家族に暴力や暴言などふるうことはありませんでしたか?:

 近所で親せき付き合いをしていましたが、それらしいことは聞いていません。

1000
人アンケート④精神科の医療機関に通院、入院はありましたか?:

 ありません。。

1000
人アンケート⑤戦争体験を家族に話しましたか?どんな内容でしたか?:

 敗戦から数年後、私がまだ小学生のころに、聞いた話ですが、叔父さんは、中国戦線に従軍していたようで、八路軍との戦闘の様子を話していました。銃撃戦で敵は逃走したようなことだったと思いますが、それ以上のことは覚えていません。

1000
人アンケート⑥いま思い出して、普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?:

私が大人になってからも時々会うことがありましたが、普通の農家のおじさんという感じでした。

1000
人アンケート⑦従軍したその方の思い出などお話しください。:

記憶にあるのは上記の銃撃戦についてだけで、中国人をかなり見下し自慢そうに話していたように思います。

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0006公開用

  従軍したのはどなたですか?

 

  帰国後に仕事はなさいましたか?

はい。

 

  戦争体験を家族に話しましたか?それはどんなお話しでしたか?

全然しません。

 

 

  いま、思い出して普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?

 

特に感じませんでした。

 

 

  従軍したその方の思い出などお書きください。

 

真面目に仕事していました。親戚の土建・建設業に従事。途中から大手セメント工場に勤めていて1970年、労災で死亡しました。お酒の好きな父でしたが冗談ひとつ言わない人でした。

 

 

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0007公開用

  従軍したのはどなたですか?

 

   父

  帰国後に仕事はなさいましたか?

 

しました。

 

  戦争体験を家族に話しましたか?それはどんなお話しでしたか?

 

してません。それ以前に、家族で語り合う風景のない家庭でした。

 

 

  いま、思い出して普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?

PTSDとすぐ結びつけることは慎重に考えたい。

父の絶対権力の寒々とした家庭。父が56才で死亡後は母も父に似た点が沢山あった。

母は力の暴力はなかった。

 

  従軍したその方の思い出などお書きください。

 

 

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0008公開用

  従軍したのはどなたですか?

母方の兄弟が戦争中に4人、病気や従軍で戦中に亡くなっています。

 

  帰国後に仕事はなさいましたか?

 

死亡しています。

 

  戦争体験を家族に話しましたか?それはどんなお話しでしたか?

 

具体的な話は聞いていません。

 

 

  いま、思い出して普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?

 

ありません。

 

 

 

  従軍したその方の思い出などお書きください。

 

ありません。

 

 

 

 

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0009公開用

  従軍したのはどなたですか?

 父。

 

  帰国後に仕事はなさいましたか?

 

会社員。

 

  戦争体験を家族に話しましたか?それはどんなお話しでしたか?

 

武勇伝が多かったです。黄河を渡ったとき、自分は独身だからと先頭に立ち、家族がいる戦友を後方にしてかばったが不思議に弾に当たらなかったと。まわりはバタバタと倒れたと。

 

  いま、思い出して普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?

 

ほとんどありません。母にも語っていなかったと思います。武勇伝が多かった父ですが、逆に語れない事実がたくさんあったのではないか?と思います。長男を猫かわいがりしていました。

 

 

  従軍したその方の思い出などお書きください。

 

父は志願兵でした。農家の次男に生まれ性格は情熱的だったと思います。戦後は母と結婚し、仕事も熱心でまじめな性格でした。毎年815日の終戦の日には仕事を休んで戦没者のお参りを欠かさずしていました。生前、父は「戦争でストレスを受けたので自分は長生きできないだろう」と語り、東京に出張する予定日、63才で亡くなりました。

 

NO、10

①従軍したのはどなたですか?: 実父

②帰国後に仕事はなさいましたか。どんな仕事でしたか?: 議員秘書、工場経営、住み込みの寮管理人、など

③家族に暴力や暴言などふるうことはありませんでしたか?: 今思えばギャンブル依存症でした。

ト④精神科の医療機関に通院、入院はありましたか?: ありません。(35年ほど前に亡くなっています)

⑤戦争体験を家族に話しましたか?どんな内容でしたか?: 晩年になっても戦友が夢に出てきて、申し訳なくて泣いて目が覚める、とよくいっておりました。

⑥いま思い出して、普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?: 借金や使い込みを重ね、夜逃げを繰り返しても競馬やパチンコがやめられなかったようです。

⑦従軍したその方の思い出などお話しください。: 酒は飲まず、私たち子供に暴言を吐くようなことはほぼなかったのですが、母は苦労したようです。傷痍軍人の年金を担保に借金をする、無断で保険解約、老後の住まいのために買った土地を売ってしまうなど、経済面での暴挙が主でした。

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」に関するお問い合わせがありましたらお書きください: 皆様のお話を伺える機会があれば是非参加したいと思っております。宜しくお願い致します。


 1000人アンケート・①従軍したのはどなたですか?: 祖父


1000
人アンケート②帰国後に仕事はなさいましたか。どんな仕事でしたか?: 職を転々、日雇いや行商

1000
人アンケート③家族に暴力や暴言などふるうことはありませんでしたか?: 暴言や陰気くさく、無口。

1000
人アンケート④精神科の医療機関に通院、入院はありましたか?: なし

1000
人アンケート⑤戦争体験を家族に話しましたか?どんな内容でしたか?: 余り話さなかったようです

1000
人アンケート⑥いま思い出して、普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?: アルコールばかり飲んでいた。晩年はアルコール性肝硬変になった。定職につけず、職を転々。家族に無関心、思いどうりにならないと、大声で暴言を吐くなど。祖母から聞きました。

1000
人アンケート⑦従軍したその方の思い出などお話しください。: 私が一歳のときに亡くなりました。

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」に関するお問い合わせがありましたらお書きください: 祖父がPTSDで、問題行動により祖母は大変苦労し、その中で育った父も経済的に苦労し、自己肯定感が低く、私達こどもや母に対するモラハラ、人間関係を築けず職を転々、空気が読めずに他者に対して失礼な発言をするパーソナリティ障害と思われます。
現在わたしは40代、こどもが居ますが、自分が育ったような子育てはしたくないのですが、無意識にこどもの気持ちを無視して威圧的に言っていないかふとした瞬間心配になります。この負の連鎖を断ち切るにはどうしたらよいのでしょうか?

この訪問者はプライバシーポリシーに同意しました。メッセージ送信日時: 2020-06-18 22:59:23 JST


1000
人アンケート・①従軍したのは?:

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人アンケート②帰国後に仕事は?:

★日本 自動車関係 教員を勧められたが、人を教える人間でないと断った

1000
人アンケート③家族に暴力や暴言などふるうことはありませんでしたか?:

★良くありました。熱い味噌汁を母に投げ付けた

1000
人アンケート④精神科の医療機関に通院、入院はありません

1000
人アンケート⑤戦争体験を家族に話しましたか?どんな内容でしたか?:

★フイリッピンで、パイナップル畑に数人で食料調達に行き、持ち主と鉢合わせをして夫婦をうち殺してしまった。女性は妊婦だったと。死の1年前くらいに聞きました。(95さい)
航空隊にいて、特攻を命じた若者を十数人死なせてしまった、生き残ってしまって申し訳ないと仏像を彫っていました。

1000
人アンケート⑥いま思い出して、普通ではないと思うようなこと、戦争によるPTSDではないかと思うようなことはありませんでしたか?:

★ともかく怒りっぽかったです。特に自分の思い通りにならないと怒鳴る、殴るがあり、小さな事でカッとなりました。影響が子供3人に出たのか、ビクビクして育ち、自己開示ができなくて社会人になった頃は人とのコミュニケーションがうまくいかなことがあったように思います。

1000
人アンケート⑦従軍したその方の思い出などお話しください。:

 ★初年兵の時の制裁の話を何度もし、又、軍隊生活を青春の一コマの様に話すので、聞くのが嫌でした。後から、本当はその奥のつらい事を話したかったのではないかと気づきました。(私も年齢を重ねてやっと分かりました)

PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」に関するお問い合わせがありましたらお書きください: ★信濃毎日新聞で、そちらのことを知りました。一度そちらに伺いたいと思いますが、コロナが収まるまで、動けません。ピースボートの事も教えていただきたいと思っております。来年申し込んであります。コロナで中止の可能性もあるので、行けるかどうか分かりませんが。
この訪問者はプライバシーポリシーに同意しました。メッセージ送信日時: 2020-07-31 15:05:16 JST