· 

遠藤周作と親鸞。

遠藤周作の「沈黙」を何回か読むうちにキリストというより遠藤周作になら帰依しても良いというような気持になった。彼は分かっている。信仰は「弱い人」にこそ必要なのだと言う事を。弱いからこそ人は強くありたいと思う。しかし強くはなれない。困難に出会えば向かうのではなく逃げてしまう。自分を情けないと思うが変えることはできない。
キチジローは言う「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。踏み絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏み絵を俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かとよオ。俺を弱か者に生まれさせておきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」
私はキチジローに完全に同意する。

イエスキリストはキチジローにも寄り添うのだと司祭ロドリゴは悟る。

親鸞は悪人こそ救われると説いたと言われる。悪人とは仏になるべく自助努力のできない人を言う。欲望を捨て去ることのできない人間。つまり普通の人々、というか恐らくは人間全てという事になるのだと思う。
親鸞は死ぬまで煩悩を捨てられない自分自身と向き合い苦闘した。そして仏の救いは悪人である自分を救うためにこそあるのだと言い切るに達する。

強くはないが故に裏切りもする。人を陥れることもある。それも仕方ないではないか、と遠藤周作と親鸞は言っているように思う。
それが人間なのだ。そいう人間を救い許すためにこそ神と仏がいるのだと言っているように思う。

続きます。2018.2.23現在。