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父と暮らせば(13)父と息子。

私は父ときちんと向き合って話したという事がついに一度もなかったように思う。打ち解けて心が通いあうという経験もほとんどしたことがない。「戦争の事は話題にしてはならないという父が放つバリアー」がその他の事まで影響していたのかもしれない。父と息子との会話は少なかった。しみじみとした親子の心の交流を作り出せないままに私と父は永遠の別れをしてしまったように思う。そういう関係が兵士としての父の人生と私が向き合えなかった、想像力を働かせることがなかった遠因になっていたのかもしれない。もっと言えば父は兵士時代の父親の事を詮索してはいけないという風に仕向けたのかもしれない。

父は自分の兵士時代の人生を恐らく自分自身で説明できなかったと思う。自分のやったことなら最大限の価値を見出したいと思うのが人間だろう。家族や知人に自慢したいのが普通だろう。しかし口をつぐんだ。父は自分を納得させる言葉を見つけられなかったのではないかと思う。戦争とそれに参加した自分自身の兵士時代の10年(正確には私は知らない)を総括することができなかったと思う。

酷な言い方になるがどのような言葉でも合理化できない戦争であり経験だったという事だったのではないだろうか。父は自分の戦争体験を置き所もなく心に抱えたままあの世に逝ってしまったように思う。本当に痛ましい。そんな苦しい人生を歩むために父は生まれて来たのか!そうではないはずだ!父は中国の人達への謝罪の心は持っていたと思う。本当に悔いていたと思うし思いたい。同時にそういう兵士に仕立て上げた物(者)に対する怒りもあったのではないだろうか。しかしそれを発散することもなく父は無口のまま逝ってしまった。

私は父の思いを引き継ぐ決意をしている。「父と暮らせば」に出てくる父の思いを引き継ぐと言う事である。
父が実際に経験したことから言えば万分の一にも比較できない重さでしかないのは分かっている。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げたのはそういうことなのです。