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父と暮らせば(1)ベトナム帰還兵

井上ひさしの戯曲でも父親は原爆で亡くなりもういない。会話は娘の頭の中に住んでいる今は亡き父親が相手だ。
外から見れば娘の自問自答にすぎない。だが、そうとも言い切れない。
カギは父親の目を通して事柄と自分自身を見ているという事だ。
娘は自分だけでは整理できなかった事象を父親の見方をフィルターにすることで理解し自分自身の心の整理を付けていく。

私のここ2~3年の変化もそれと似ている。
「自分は父親のようにはなりたくない」いつからかそう思うようになった。
困難に立ち向かっていたのは常に母で、父はいつもその陰に隠れているような人だった。
壁が現れるとすぐに気力を失い立ちすくんだ。私にはそう見えた。

父は1946年に復員したと聞いている。2年後に私は生まれた。
子供の頃は軍服だの脚絆だの飯盒だのマントだのがまだあった。父は戦争の傷跡に膏薬を貼って治療していた。
出征前は地元の炭鉱で働いていたという。戦争中に閉山となり復員しても仕事場はなかった。
私の記憶をたどると父は年中出稼ぎ仕事をすることで我が家の暮らしは成り立っていた。私が小学生の頃に魚の行商を始めたが長続きしなかった。そしてまた出稼ぎ仕事に戻った。
無口な父の生き方からはエネルギーを感ずることは無かった。無気力な生き方に見えた。
家が貧乏なのもそのせいだと思っていた。

父は1912年、明治45年に生まれた。私は父が36才の時に次男坊として生まれた。
私は高校も大学も国の奨学金があったから行くことができた。大学生時代、親からの仕送りはなかった。
高校の図書室で「川上肇の貧乏物語」が目に留まり読んで目が覚める思いがした。
貧乏は「人間が成るのではなく社会から作られる」と私は理解した。
私に父は変えられない。しかし社会なら変えられるかもしれない。
私の生涯の基盤はその時に方向づけられた。