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父と暮らせば(4)小野田寛朗さん横井庄一さんを父はどう聞いたか。

終戦後27年を経て1972年グアム島から横井庄一さんが、29年を経て1974年にフィリピン・ルバング島から小野田寛朗さんが帰還した。二人とも直立不動の姿勢で敬礼をしてタラップを降りた。その際に「恥ずかしながら帰って参りました」という横井さんの挨拶は有名になり私にも衝撃として響いた。
東条首相の時に制定した戦陣訓の一節「生きて虜囚の辱めを受けず 死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」に反して捕らわれ生きて帰国したことを恥じ、日本国民(あるいは天皇)に許しを願う言葉かと思う。

「父と語り」始めて、ある時突然この出来事を思い出した。2年ほど前だったと思う。
帰国した横井さんにも小野田さんにも国民世論は「一人になっても戦い抜いた立派な日本軍の兵士」という賛辞が大半だったと思う。しかし、このニュースに触れた時に父にはどういう感情が流れただろうか。

父は中国で終戦を迎え捕虜になった。そして1946年に復員した。戦時の体験を世間にも家族にも口を閉ざして生きてきた。終戦後24年が過ぎ父は60才になっていた。戦争の事など遠い出来事になりかけた頃に突然降って湧いた事件。横井さんたちは投降を拒否し戦い続け、ある種英雄のように国に迎えられた。しかし、父は投降し捕虜になった。「生きて虜囚の辱め」を受け復員したのだ。

この事件の時に父がどういう反応だったか全く記憶にない。恐らくこの時も無言だったのではないかと思う。なぜなら二人に「恥ずかしい」と言われたら立つ瀬がないではないか。自分が捕虜になり帰還した後も戦い続けた兵士がいた。彼らを批評する資格が自分にはない。父は深く傷ついたのではなかったか。

2年ほど前にあの事件を思い出し、父の立場で考え直してみた。父は彼我を比較して深く傷ついた。自分を情けなく思ったかもしれない。そんな父の感情にはその時少しも思い及ばなかった。全く考えなかった。私は二人のニュースに「凄いなあ」とか「偉いなあ」とか父の前で言ったかもしれない。だとしたら、父は何にも話せなかったに違いない。息子の言葉はどれほど更に傷つけたことだろうか。何という配慮の無さ。想像力の貧困。
父よ、許してほしい。バカな息子だった。一番身近な家族の心さえ考えることのできないような人間が(私はその時24歳くらいだが)社会に対してあれこれと分かったようなことを言っていたのだ。情けないのは私の方だった。

そして70歳になる今になって初めてここに辿り着いた。
戦争は1945年8月15日に終わったのではない。父にとっては復員したそれ以降も執拗にまとわりついていた。
父は従軍した事、従軍した意味を自分なりに整理することができただろうか。