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父と暮らせば(15)父の支那事変。

1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖の鉄道爆破で満州事変が起こる。
私の父は満州事変の翌年1932年に南満州鉄道独立守備隊として初めて従軍した。20才だった。
父が残した従軍アルバムの「上官訓示及演習記録」に父の箇条書きの記録が残っている。

*「独立守備隊の任務」の項目に以下の文章がある。

一、真剣ニ油断ナク勤務シ男子ノ面目ヲ以テ故郷ニ威張ッテ帰ル様ニセヨ。

独立守備隊の仕事は立派な価値ある仕事なのだから復員し故郷に戻ったら従軍の経験を「威張って」話すように、という上官の訓示があった。と理解できる。
しかしこの時はそう書いた父は私の知る限り威張って話すどころか従軍時代のことに口を閉ざした。なぜなのか?

*1932年(昭和7年)11月30日午前1時に父は大連港に陸軍御用船宇品丸で上陸した。その時の写真に添えてその時の気持ちを 以下のように記している

昭和7年11月30日午前1時
満蒙第一線へ勇み立つ我等若人を乗せた陸軍御用船宇品丸は大連に入港した。
憧れの満州に第一歩を印した。

「勇み立つ我等若人」、「憧れの満州」と書いている。

日本軍兵士として従軍した事に沸き立つような喜びと使命感を感じているさまが伝わってくる。
それは「独立守備隊の任務」を誇りある任務だとして「威張って」話せと訓示を受けた時の気分と同じものと思う。

このころの父の「精神は健康」だった。20歳の若者らしいはつらつとした青年だったと文章から分かる。

しかし、私の知る戦後の父に「はつらつとした若者らしい」時代があったことなど戦争に口を閉ざし続けた暗鬱な父の印象からは想像もできない。
そして満州事変に関する資料・アルバムは残っているが、その後再度従軍した1937年の支那事変以降の資料は一つも残っていない。
父は支那事変以降は長江(揚子江)付近で従軍した事が分かっている。日本軍は戦線を拡大し「泥沼の戦争」と言われる日中戦争に引きずり込まれていったのだ。そこで父は何を経験したのか。何をしたのか。何を見たのか。何を感じたのか。
父はこの時代のことに口を閉ざし続け、何も語らず、あの世に逝ってしまった。

わたしは支那事変以降の従軍体験がPTSDの父親を作ったのではないのかと想像している。

父よ。
あなたはそこで何を経験したのか。何をしたのか。何を見たのか。何を感じたのですか。