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「和解のために」朴裕河

和解のために 教科書・慰安婦・靖国・独島」 朴裕河 平凡社

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。奢れるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。

 

1185年壇ノ浦に平家が滅ぶ。100年経ずして平家物語は作られた。この時代の人たちは短い時間でも歴史を総括した。権力に永久はないと12世紀のこの時代の人たちは既に感じ取った。しかし、明治から150年経ても、先の大戦から70年経ても我々は総括できていない。明治の亡霊や、日本帝国が再び甦るかのように考えている人たちが現在の日本の政権中枢にいる。

 

ギリシャもローマ帝国も、唐も元も滅びた。地球を二分したポルトガル、スペインの栄光は今はない。破竹の勢いだったドイツ、日本もあえなく敗北した。

 

アメリカ、中国が覇権を競う時代にも必ず終わりの時が来る。いつかは分からない。しかしその時は必ず来る。今は通用していても強国の論理が通らない時が必ず来る。盛者必衰の理がその事を教えている。

 

私は考えている。この世は必ず平和に向かう。物事は暴力では最終的に解決しない。あるいは暴力では本当の解決ができない。屈した者は納得しない。必ず後世でぶり返す。平衡になるまで本当の解決はない。歴史はおそらく落ち着く所に行きつく日が来ると私は思っている。いつの日か世界は例えばEUのように合衆国とか国家連合を経て国境が無くなる日が来るだろう。

 

 

 

□本題はここから

 

和解のために」から教えられたこと。武力衝突、事件、一見非和解的な物事でも根っこをほぐせば解決の道が見えて来るということ。

 

対立する当事者が解決しようという意思を持っていれば、心を割って話し合えば、いつかは握手しようという姿勢があれば、相手に勝つことではなく仲良くする、和解することを最終目標に持っていればどれほど時間が掛かろうと必ず平和的に解決する日が来るのだと教えられた。

 

問題は対立する双方が「相手と和解する」という意思、「今は対立している相手とも最後は必ず握手をするのだ」という目標を確固として持つことが大事なのだと思う。

 

 

 

 何より私は韓国人である朴裕河さんが自国・韓国の人たちにこの本を書いたこと、書くことができたというその信念の気高さに驚くのだ。私は朴裕河さんの「和解を目指す意志」に全面的に賛同する。しかし、韓国では主に「日本の犯した罪を免罪する議論」としての批判が厳しい。元慰安婦の人たちに事実誤認として提訴され朴さんは控訴しているものの高裁段階では有罪判決を受けている。私は韓国の人たちの朴さんへの批判・非難には根拠があるしその心情はよく理解できる。批判する人たちが「和解のために」を韓国側からの免罪の意思表明と日本人が誤解するという懸念も理解できるしその懸念は間違っていない。多くは正しい。だとしても、都合よく解釈・誤解する日本人だけではないということ、誠実に向き合おうとしている日本人も少なからず存在していることにも目を向けて欲しいのだ。韓国・朝鮮の人たちと心を開いて和解の道を探し求めている日本人も数多いということも知ってほしいと思うのだ。

 

 どのように言っても国と国も、人と人もいつかは和解する道しかないのだ。一時の優位など時と共に崩れていく。紆余曲折あるとしても平衡になるまで落ち着くことはないし、いつかは落ち着く。繰り返すかもしれないが。これまでの歴史が教える通りだ。

 

 

 

 仕掛けた側の日本人として大声で言うのは気が引ける。しかし、それでも私は仲良くなれることを心から願っている。

 

 

 

 徴用工の韓国最高裁判決への日本政府・加害企業の態度は本当にいただけない。加害の責任も申し訳ないという謝罪の気持ちもひとかけらもない。それは人間にあるまじき姿勢としか言いようがない。加害者であったのは紛れもない事実である。全てのことの起こりはそこにある。その解決が不十分だと被害者が言っているのだ。第一歩はその主張を素直に聞くことではないか。十分だと言ってもらえるまで解決の方策を探すことではないか。

 

 問題は日本政府・加害企業が加害者の立場をわきまえ、それでも「和解するのだ」という意思を持っているようには見えない事だ。まさに、「和解のために」に逆行する日本人の姿に他ならない。日本のこういう姿が韓国の人たちの朴裕河さんへの批判非難の根拠を作り出している。和解の道は更に遠ざかる。

 

 それでも朴裕河さんの「和解のために」の主張が揺らぐことはないだろう。なぜなら「それしか進む道はない」からだ。隣人同士が共存するなら仲良くするしか道はないのだ。どんなにこじれても最後は握手するのだという意思をしっかり持つことしか悲劇を繰り返さない道はない。

 

 

 

加害者と被害者。和解の道はあるのか。先進国と非先進国。帝国主義と被植民地国。今もその基盤の上に国際社会はある。強国の論理がまかり通っている。核兵器の保有が許される国と許されない国がある。自国第一主義は強国だけが主張できる論理だ。現代世界は正義ではなく強国の優位性がまかり通る世の中ではある。

 

しかし歴史は教えている。どのような強国も永遠はない。いつかは強国の論理が通らない時が来る。いつかは分からない。それでも必ず来る。

 

日本政府は「強国の優位性の論理」にくみしている。恥ずかしい事だ。それを現実主義と呼び容認する立場の人たちも多い。つまり現実主義とは不正義でも(例えば自国第一主義)やむなしと是認しているということなのか。現実主義はあるべき社会を志向する意欲や萌芽は持たないのか。高らかに社会のあるべき理想を掲げる政治勢力はいないのか。政治家はいないのか。

 

 

 

 徴用工訴訟判決に対する日本政府の姿勢は「和解のために」の姿勢ではない。「対立容認」の姿勢だ。駆逐艦からのレーダー照射問題も同じ姿勢だ。韓国側との違いを強調し、非和解的なように演出しているように見える。違いを際立たせている。政府は解決の意志を内包しているのか疑わしいように見える。解決の意志を持っているか。非妥協的な姿勢、批判のための批判の態度に見える。

 

すべては朴裕河さんの「和解のために」に逆行する姿勢だ。

 

 

 

 私は「現実から出発する」のが現実主義なら否定しない。しかし、その現実主義には「理想の姿・目指す姿」を内包していて欲しいのだ。「和解のために」はそういう方法しかないように思う。

 

 

 

朴裕河さんを孤立させてはならない。彼女が孤立するもしないもすべては日本人にかかっている。

 

 

 

2018・12・26  黒井秋夫。