私が加入している三多摩健康友の会・村山支部機関誌「つむぎ」から転載します。
戦争を考える 「職業軍人の父は戦後働けず」 W・K
「人生100年時代」といわれる現在だが、私が生まれた頃は「産めよ増やせよ」のスローガンの時代だった。職業軍人で青森県の騎馬隊に所属していた父は射撃の名手で、山形県の米沢に帰省するたびに子どもができ、8人兄弟姉妹でにぎやかだった。昭和20年の夏、プールで泳いでいたら、集合ラッパで堤防下に集められた。今上天皇の玉音放送ラジオで聞かされ、敗戦を知り、これからの日本はどうなるのかと子供心に心配になった。
退役軍人の父親は、腑抜けになり、まったく働く意欲を示さず、一家の生活は困窮。母親は農地改革で、実家からの分与された土地を売って暮らす「タケノコ生活」を余儀なくされた。私と妹は、家の手伝いをさせられた。
その後結婚して、調理師の免状を取り、東京銀座の料理屋に勤めた。立川の砂川から自転車で昭島駅へ。一番電車で新橋の築地で、食品を仕入れて店でお客に提供する料理人を退職するまで続けた。
★以下、私の感想。
「退役軍人の父親は、腑抜けになり、まったく働く意欲を示さず、一家の生活は困窮。」という文章に注目する。
父親はどうして「腑抜け」になったのだろうか。まさにPTSDそのものだったのではないだろうか。
絶対の正義と信じて命を懸けた戦争を戦後日本は「信義の無い侵略戦争だったとして全否定」した。命を懸ける何の意義もない戦争だったと言われたら兵士たちが費やした日々は一体何だったのだ。命を落とした戦友たちの人生はどういう価値があったのだ。命を懸けた人生を全否定されたら生きて行く指針を直ぐに見つけることは可能だろうか。そういう社会にすぐに順応できるだろうか。混乱する精神を自分らしい生き生きしたものに取り戻せないとしてそれを本人の責任に課すことは正しい事だろうか。
私はそう思わない。そんな簡単な事ではないと思う。自分自身が納得できる視点を人生最後まで持てない程の悲惨な体験が心に刻まれたのではないか。
戦後社会に素早く順応できたよりも腑抜けになる方がはるかに人間らしいと私は思う。
働かない父親のせいで家族の生活は困窮を極めたとある。
戦争の傷跡は戦場に立った兵士本人だけでは終わらない。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が語り継ぎたい経験をした方がここにもいらっしゃった。
「語る会」としてはW・Kさんとお会いしてお話を聞きたいと思っています。
できる事なら公の席で自らの体験を共に語り継ぐ同志になってくれたらと念じています。