野崎忠郎 作品集
“恥“ だった父親 野崎忠郎さん 右・野崎さんの父 幸郎さん
黒井さんの活動を知って、父親との経験を語り始めた人もいます。野崎忠郎さん、80歳です。
父親の幸郎さんは、軍医として満州や激戦地のニューギニアに従軍しました。戦後医師として働き始めた幸郎さんでしたが、7年ほどすると記憶がなくなるまで酒を飲むアルコール依存の状態になり、薬物にも手を出すようになりました。当時、思春期を迎えていた野崎さん。酒や薬物に染まっていく父の姿を見て、複雑な感情を抱くようになりました。
野崎さん「こんな親はいやだなっていう思いが強かった。自分の事よりもむしろ他人に知られたくないっていう、だから友達つくらなかった」幸郎さんは、野崎さんが40歳の時、自ら命を絶ちます。幸郎さんが亡くなって40年、野崎さんは父親のことを今まで他人に語ることはありませんでした。
野崎さん 「話せなかったんですよね。やっぱり恥だった。父の事を話す事が自分自身に非常にダメージを与えちゃう」しかし野崎さんは、家庭内暴力やアルコール依存など、戦後の生活の中で元兵士の家族たちを苦しめた様々な経験が掲載されている黒井さんのホームページを見たとき、自分も経験を残すことで、家族たちにも苦しみがあったことを伝えていかなければならないという気持ちになったといいます。そして、父のことをつづった手記を黒井さんのもとに寄せ、自身の経験を初めて他人に語りました。
野崎さんが寄せた手記
野崎さん 「自分にとって1つ何か殻が破れたっていうか。(人生の)最後のとこへ来ちゃってね。やっと、言葉に出せるようになったっていうか」つぶやくように語られたその言葉に、野崎さんの心を縛り付けてきた問題の重さを感じました。経験を “無かったこと” にしたくない
野崎さんは、黒井さんの活動を知ったときのことについて、次のように語っています。野崎さん
「 “パンドラの箱をあけた人がいるんだ” みたいな感じでしたね。直接知ってる人ってだんだんいなくなっていると思うんですよね。だから下の世代に届くかどうか分からないけれども、メッセージをやっぱり死ぬ前に残していかなきゃいけないなって」
私が背負った昭和の業
野崎忠郎
七三一部隊に柄沢十三夫(からさわとみお)という軍医がいた。長野県の農家の出で、十三人目にはじめて産まれた男の子だったので十三夫と名づけられた。成績のよかった十三夫は家と村の期待を担って医大を出、その後軍医学校に進んだ。日中戦争勃発後中国に渡り、防疫給水部(後の七三一部隊)でチフス、コレラ、赤痢の調査、予防に従事、その後満州・平房(ピンファン)にある七三一部隊に所属した。彼は細菌戦を担うために純粋培養された軍医だったといえる.
柄沢はそこで各種病原菌の大量生産を指揮することとなった。そこでの人体実験や実際に実施した細菌戦にはチームの責任者だった柄沢も当然積極的に関わっていたはずだが、満州時代の柄沢がそのことについて残した言葉はない。彼の上司は、柄沢が極めて勤務成績の良好な軍医だったと評しており、柄沢自身も後に「日本軍将校トシテ細菌生産任務ヲ遂行スルタメ全力ヲツクシタリ」と自己評価している。当時の「滅私奉公、尽忠報国」イデオロギー下における、典型的な軍人だったといえる。
七三一部隊のやったことのうち、医学的に専門性の高い事項はアメリカが持ち帰って極秘事項としているが、部隊の概要はいま広く知られている。一九四五年八月九日、ソ連軍がソ満国境を突破して侵攻してきた直後に人体実験用の捕虜を全員射殺して焼却、施設設備は工兵隊が爆破、隊員は家族と共にいち早く日本へ逃亡、という経過も明らかになっている。だがその時、幹部である軍医柄沢は逃げ遅れてソ連軍の捕虜となった。それ以前から部隊は満州全土に細菌戦のネットワークを作りつつあり、その任務のために本隊を離れていた柄沢は取り残されたのだった。シベリヤに送られた柄沢はソ連による軍事裁判「ハバロフスク裁判」で部隊の全貌を供述した。その内容はもう私達が知っていることなのでここには書かない。柄沢はそこで禁固二十年の判決を受け、ラーゲリに送られた。
七年後の一九五六年、日ソ共同宣言に伴って恩赦が決まり、柄沢は釈放されることになった。だが、明日にも帰国命令が出されると思われていた夜、柄沢は自殺した。縊死だった。遺書はなく、遺骨はラーゲリの共同墓地に埋葬されたが、日ソ国交回復後未亡人が現地を訪れて遺骨を掘り出し、故郷の墓地に持ち帰り改葬された。
一九九〇年代初め頃NHKテレビが柄沢を取り上げる番組を放映した。その番組を見た後父の妹である叔母と話をしている時私がそのことに触れると、叔母は「柄沢さんなら私よく知ってるわよ」と驚いた声を上げた。
「柄沢さんとお兄さんは大の親友で、軍医学校時代の柄沢さんは何度もうちに遊びに来て泊まっていったのよ」と、叔母は続けた。ほぼ同年齢だった私の父も医大卒業後軍医学校で学んだ。その時期父の家は東京にあったから、長野から上京していた柄沢は父の家で家庭の味を味わっていたのだろう。
私は父の軍歴を詳しく知っているわけではないが、父は軍医になってすぐ国内の陸軍病院に配属され、一九三七年七月の日中戦争勃発直後中国戦線に出征した。そしてたぶん三八年か三九年初め頃、七三一部隊に配備された。父は柄沢のように軍医学校からまっすぐ七三一部隊に行ったわけではなかったが、私は父も柄沢と同じように細菌戦要員として養成された軍医だったと思っている。父と柄沢は、細菌培養や人体実験をしている部隊の建物と同じ敷地にある、東郷村と呼ばれていた隊員宿舎に隣組同士として住んだ。私はその東郷村で、四十年一月に生まれた。
柄沢とは違い、父は七三一に最期まではいなかった。これも推測だが、四十三年暮頃に、父は南方戦線に配置転換された。その頃の南方戦線は敗北に敗北を重ねていたから、陸軍は満州の部隊を引き抜いて南方に投入するしかなかったのだ。南方戦線では、たぶん五割以上の確率で死が待ち受けていただろう。一方七三一にいればほぼ死はまぬがれる。そんな過酷な人事にも、兵士や軍人は黙って従わざるをえない。家族を内地に帰して南方に向かった父は、その時死を覚悟していたかもしれない。
だが父は死ななかった。米軍に追われて太平洋を北に向かって敗走する日本軍の中で父は本土決戦要員に指名され、硫黄島も沖縄も跳び越して九州に配備された。今度は軍の人事が父を死の淵から遠ざけた。そして無条件降伏によって本土決戦が避けられた後、父は私達のもとに復員したのだった。その時、柄沢は戦争犯罪人としてシベリヤに幽閉されていた。
私の記憶は、ようやくその頃から残り始めている。長野県下の山村で開業医として戦後の生活を始めた父には、敗戦によってうちのめされた翳など全く見当たらなかった。その頃の父はよく村の有力者と酒盛りをしていたが、そこは父が戦争譚を語る独壇場だった。父はその酒盛りの場で、日中戦争やジャングルでの戦闘を語る時と全く同じ調子で七三一でやったことを大きな声で話していた。細菌培養、人体実験、飛行機からの細菌爆弾の投下──襖を隔ててそんな話を聞いていた私はまだ小学校一、二年生だったが、父の話の内容はすべて鮮明に記憶している。幼い心にも、それがあまりにも異常な話だったと思えたからだったろう.一九八〇年代初頭に森村誠一氏の「悪魔の飽食」が出版されて広く知られるようになった七三一部隊の実態を、私は敗戦のわずか一~二年後、六~七歳の時既に心に刻み付けていたのだった。その時、私は確かに昭和の業を背負った。
だがある時期以降、父はその話を全くしなくなった。長い間、私はそれを父の心から戦争体験が薄れたためだと思っていた。けれどある時私は、父の七三一体験が大きな闇を抱えていることに気付いた。戦後のあの酒盛りの場で、父は七三一の最後の場面も声高に話していた。捕虜の射殺と焼却、施設の爆破、父の話していたことのすべては、後に明るみになった部隊最後と全く同じだった。
だが父は敗戦時には満州ではなく阿蘇山に構築したトーチカの中にいたはずだ。その父がなぜ、あれほど正確に七三一の最後を知っているのか。あの頃私の家に電話はなかったし、見知らぬ人が訪ねてきた記憶もない。とすれば父は、戦後どこかで部隊の残党とあっていたに違いない。会ったとすれば、敗戦後九州から長野へ移動する間だったろう。そこで父は残党と何を話し、何を打ち合わせたのだったか。だがそれにしても、秘密厳守であるはずの部隊の内実をああもあけっぴろげにしゃべっていた父にとって、七三一体験とは一体なんだったのか。そしてある時期以降の父の沈黙は、本当にただ戦争体験の風化によることだけだったのか。
長い間解くことの出来なかったその疑問が氷解したのは一九九五年、戦後実に半世紀たった時だった。ある集会で私は七三一研究の第一人者である常石敬一神奈川大学教授と隣り合わせに座る機会を得、自分の父親が七三一の軍医だったことを告げた上で、戦後ある時期以降の父の沈黙について語った。
「ああ、それは帝銀事件のせいでしょう」と、教授はこともなげに、私が全く予期していなかった返事をした。教授の説明は以下のようだった。
一九四八年、帝国銀行椎名町支店で十二名の行員が毒殺された事件の解決は困難を極めた。その捜査の過程で犯人のあまりにも鮮やかな手際から毒物や細菌の扱いに手馴れた七三一部隊の旧隊員の犯行ではないかという見方が浮上、旧隊員に対する事情聴取が始まった。ところがその捜査は突然GHQによって禁止された。アメリカは旧日本軍から秘密裏に入手した細菌兵器に関するデータを独占するつもりだったから、旧隊員の動向が社会的に公然化するのを嫌ったのだ。その時、GHQは七三一に所属していたすべての軍医のもとを回って厳重な緘口令を敷いた。
「長野県には昭和二十○年○月に入っています」
と教授が言った年月を私は忘れてしまったが、父は間違いなく四十八年から四十九年にかけてのどこかでGHQの取調べを受けていたはずだ。父はその中で、七三一のことをしゃべったら命はないぞ、というに近い口止めをされたのではなかったろうか。父はきっと、七三一でしたことを戦争中の手柄ぐらいに思っていたのだ。それは南京大虐殺の中で百人斬りをした兵士がそのことを手柄話としていたことと同じだった。旧日本軍の荒廃しきった倫理を身につけたままの父にとって、GHQの取調べは世界の底が抜けるような驚愕と恐怖に満ちたものだったに違いない。父の沈黙は七三一体験の風化によるものではなく、まして罪の意識にさいなまれたためでもなかった。父は死の恐怖の前で口を閉ざしたのだ。七三一部隊という昭和史の中の巨大な闇に帝銀事件というもうひとつの闇が重なったその時、父の心の中の闇の部分が明らかになったのだった。
だがソ連もまた細菌兵器のデータを欲しがっていた。柄沢他の、逮捕した旧七三一部隊員を執拗に尋問して全貌をつかんだソ連は、細菌戦に関するデータのアメリカ独占を阻止した。つまり父や柄沢が作り出した細菌兵器は、戦後の冷戦構造の中で重要な戦略兵器のひとつになっていたのだが、父はそのことに全く無知だった。ということは、敗戦直後に残党と密会した後、父には部隊に関するどんな情報ももたらせられなかったということになる。闇は闇のまま野ざらしになっていて、父はGHQに喚問された時、突然そのことに気付いたのだった。
その数年後、私達の一家は長野県下の別の農村に引っ越した。あれは偶然だったのかもしれないが、引っ越した先は柄沢十三夫の故郷である農村の隣村だった。父はそこで当時農村ではまだ珍しかった大型のオートバイで往診に回っていたが、暇な時にはいまでいうツーリングに出かけていた。その途次、父は柄沢の実家に寄ったことはなかったろうか。戦後の父が柄沢をどうおもっていたかは私にはわからないからこれは私の推測に過ぎない。だが私には、父と一緒にその村を歩いていた記憶がある。その村のどこへ、何をしに行ったのかの記憶は全くない。時期的に言ってそれは、柄沢がハバロフスク裁判で禁固二十年の判決を受けた後だった。だからその時期の父は、柄沢はもうこの村へは帰ってこられないだろうと思っていたはずだ。その村へ、父はなぜ私を連れて行ったのか。だがそれもまた、私の推測のひとつでしかない。
移り住んだ村に、私達はわずか三年いただけだった。村の診療所長という枢要な地位にありながら、父は村にいられなくなるような不祥事を起こし、夜逃げ同然に辺鄙な寒村に引っ越したのだった。それ以後の数年の間、それは私が中学から高校にかけての多感な時期に当たっていたが、父は心の中で何かが壊れたように、家族や仕事をかえりみないまま酒と薬物の中に沈んでいった。病者を癒し、病気の蔓延を防ぐことを使命とする医師の身でありながら、逆に大量培養した病原菌をばら撒いて病者や死者を出し、更には罪のない人間を捕まえてきて人体実験をするという背徳の中で生きてきた父の倫理の荒廃が、あの頃、心の奥深くにまで達したのかもしれなかった。
その村にも三年いただけで、父は戦後最初に住んだ山村に舞い戻った。その村は戦後すぐに死んだ私の生母と、その後父が再婚した継母両方のふるさとだったから、私達の親戚が多くいた。父はそんな人たちの支えと励ましを受けながら、おそらく奇跡的に薬物地獄から脱し、正常な仕事と生活が送れるようになった。ちょうどその頃から、私は心理的にも空間的にも父から離れた。青年期の私と父との間はずっと断絶寸前の緊張をはらんでいたが、父から離れることで七三一という不気味な闇や父の心の荒廃から離れられると、私は無意識のうちに考えていたのかもしれない。確かに距離をおくことで、私に中の父に対する気持ちは次第に落ち着いていった。
そう思っていた私が七三一の不意打ちをくらったのは、私が三十過ぎの遅い結婚をした直後、妻と共に父の家を訪ねた時だった。その晩、たぶん私はひとりで勝手に酔っ払って寝てしまったのだと思う。そのあと、父は息子の嫁の酌で飲みながら、ひと晩かかって七三一の話を私の妻にしたというのだ。
「驚いたけど、お義父さん、罪の意識や後ろめたい気持ちは持っていないみたいだったよ」
翌朝妻からそう聞いた時、私は心の奥からにがい、腐臭に充ちた汁が湧き上がってきたように思った。「悪魔の飽食」が出版される前だったから、妻は当然何も知らなかった。父は全くとんでもない結婚祝いを嫁に贈ったのだった。
父の七三一体験の根底にある倫理は、結局戦時中のままだった。それを無造作にしゃべると周囲の顰蹙や反発を買い、更には社会的に抹殺されるような危機さえ招くから沈黙を守っていたにすぎず、その恐れのないところでは、父はやっぱり手柄話のようにしゃべりたかったのだ。父はその倫理の荒廃が自分の人生や家族の心と暮らしをどれほど汚染したかということには、全く気付いていなかった。逆に言えば、そのことに気づく敏感さと倫理的基盤を持っていたら、父は七三一のおぞましさを自覚していたはずだ。だがそれはないものねだりというものだ。そんな繊細さと倫理的潔白感を持っていた人間は、そもそも軍人などにならず、徴兵すら拒否して国家権力に抹殺されていただろう。近代日本の権力は個々の民衆にそこまで過酷な決断と選択を迫っていた。そして戦後の父には、その歴史の限界を乗り越えるような力や機会は、内在的にも、外圧としても遂にやってこなかった。
その数年後のある夜、父は自殺した。縊死だった。遺書はなかったから、死の引き金を引いた直接の原因は全くわからなかった。医師だった父は薬品を使ってもっと楽に、そして無様な姿を見せずに死ぬことはいくらでも出来た。にもかかわらず縊死を選んだ父の脳裏には、柄沢の死に様が浮かんでいたのだろうか。ともあれ、父は最期にもうひとつの大きな闇を私の前に残して逝った。
柄沢の死を知らされた柄沢夫人は、こう語ったという。
「内地に帰っておめおめと生きていかれるような性分の人ではなかったと思います。自分のやったことを日本人が赦してはくれないだろう、と考えたのではないでしょうか。お国のためだという申し開きができることではないと・・・」
その言葉を借りれば、父は戦後三十五年、内地でおめおめと生き続けた。その戦後日本の社会は七三一を不問に付し、あまつさえ戦後世界を支配したアメリカは七三一の悪事が暴かれないように保護し続けた。青年期の私が父の戦争体験に突っかかっていった時、父は苦しそうに「みんなお国のためだった。国の命令は絶対だった」とつぶやいたきり口を閉ざしたが、この国はその言い訳を受け入れ、七三一も、南京大虐殺も従軍慰安婦も全て赦した。その観点に立てば、柄沢は死ななくてもよかった。
だがそうではない。かつて日本軍将校として、同じように細菌戦遂行の任務に全力で取り組んでいたふたりのうち、柄沢は帰国の前夜、自ら命を絶った。その死はソ連軍による尋問と裁判という外からの力がきっかけだったとはいえ、死の直前の柄沢は自らの戦争責任を自覚し、罪を償おうとする地点にまで達していたと思う。そこから先の一歩を、罪を背負って贖罪の生を生きる方向に踏み出すか、死に向かって踏み出すかに、たぶん違いはない。柄沢は死ぬことによって罪を償う道を選んだ。
一方父は生き続けた。私は、父もまた柄沢と同じように戦後の早い時期に罪を悔いて死ぬべきだったと言おうというのではない。最後の場面での柄沢にとって生と死が等価であったとするなら、死を選ばずに生き続けた父は、柄沢の死に匹敵するだけの生を生きるべきだったと思うのだ。先に書いた「日本軍将校トシテ細菌生産任務ヲ遂行スルタメ全力ヲツクシタリ」という柄沢の言葉は、ソ連軍に逮捕された直後に書かれた供述書にあるものだが、そこに見られるのは日本軍将校としての矜持だけで、戦争犯罪に対する自覚や反省の念は見られない。そこから柄沢夫人の言う心境までの距離は私の想像を絶するほど遠い。柄沢はその距離を、逮捕、尋問、裁判という外からの力のもとで埋めていったのだろう。そして最後に、おそらくは絶望にみちたある心境──柄沢夫人の言葉を借りれば「日本人は赦してくれないだろう」という心境にいたり、自死を選んだ。
柄沢の絶望的な予測に反して戦後の日本は七三一を赦したが、その赦し方は奇妙なものだった。「赦し」とは「罪」を自覚し、悔い改め、贖罪のための生を歩み始めた時にはじめて成立する。けれど戦後の日本人や日本国家は七三一を正面から取り上げないまま歴史の表面から抹殺しただけだった。その赦し方は、父にとってとりあえずは都合のいいことだったろう。けれど父は、自分の七三一体験をこの社会が決して受け入れようとはしていないことを知っていたはずだ。父の心の奥底には、逮捕直後の柄沢の心にあったのと同じ日本人将校としての矜持が宿っていた。父は柄沢とは違い、その矜持を戦後もずっと持ち続けていた。そのため、走り出した戦後社会と父の心との間には乖離が生じ、それは次第に拡がっていった。父が転々と引越しをし、不祥事を起こし、酒や薬物に沈んでいったのは、おそらくその乖離から生じる生きにくさのためだったろう。父が死の数年前に息子の嫁に七三一の全てを語ったのは、自分の体験、自分の人生を現実世界に受け止め、認めてもらおうとした最後の試みだったろう。だがそれも空しい願いにすぎないと悟った後の父には、死が残っているだけだった。父が死の手段として柄沢と同じ方法を選んだことには何の意味もない。父の死は、柄沢の死とは全く次元を異にするものだった。
父は最期まで、七三一を含めた自分の戦争体験を考え直すことをしなかった。お国のために人を殺し、お国のために何度も死を覚悟した体験が、父の精神を縛り続けていた。父はその体験と戦後社会との乖離のために道を見失って一度は地底にまで引き降ろされかかり、辛うじてその危機から生還した後も、七三一を含めた戦争体験から脱却することが出来ないまま自ら命を捨てた。
それもまた昭和史の中に無数にあった悲劇の一齣であったと父の生涯を歴史の中に突き放すことで、私はようやく私の人生をも強く呪縛していた「昭和の業」から解き放たれたのだった。
了
ひとさらい
──わがカミングアウト
(二〇〇〇.六)
僕は前なんか向いて
生きたくない
僕は後ろを向いてしか
生きられない
振り向かないで泣くのをやめて
笑うことなんかしたくない
過ぎ去ったことと向かいあって
めそめそしたいんだ
それが僕にとって
生きることなんだ
それは僕の後ろに
未来を生み落としたいため
岡林信康「絶望的前衛」
その日、雄二に家出しようという意思がはっきりとあったわけではなかった。家を飛び出したのは衝動的だった。
いつものように四畳半で夕食が始まったが、誰も一言もしゃべらなかった。継母の鶴代も、そしてまだ幼いふたりの異母弟すら、黙ったまま黙々と食べていた。やがて、父親がへらへらと笑い出した。
茶碗と箸を持ったまま、父親は下を向いて「へへっ、へへっ」と笑い出した。食べかけていた食べ物が食卓の上に落ち、口からそこまで粘ったよだれが糸をひいてのびていた。父親の背中はくたりと丸くなり、体全体がひどく年老いた老人のように小さくしなびて見えた。
それでも誰も何も言わなかった。雄二の横でやっぱりうつむいて黙々と食べ続けている浩の顔が真っ赤になり、額に血管が浮き上がるのが見えた。
「へへっ、へっへっへっへ。へへっ、ひっひっひっひっひ」
父親の薄気味悪い空笑いとよだれは止むことなく続いた。雄二はもうこれ以上食卓に座っていることが出来なかった。
雄二は食器を食卓にたたきつけるように置いて立ち上がった。そして障子を開けるとそれを力いっぱいぴしゃりと閉めて部屋を出た。
「なんだ、お前」
浩の怒り声が背後で聞こえた。
浩は雄二よりふたつ下だが、最近時々雄二をお前呼ばわりした。そのたびに雄二と浩は喧嘩になった。一度、お前呼ばわりされた雄二は炬燵で横に座っている浩の頭を力いっぱい張り飛ばし、次の瞬間浩は雄二がひろげていた教科書の数ページをビリッと引き破って雄二の顔に投げつけた。
けれどその時、雄二は浩が憎くて殴ったのではなかった。それ以前、雄二が通学路でほんの時たま顔を見るだけの女子高生に淡い思いを抱き、その気持ちを新体詩ふうのつたない詩に書いておいたのを盗み見た浩が
「へえ。お前こんな人がいるのか」
と、にやにやしながらからかった時にも、雄二は顔から火が出るような思いをしただけで、お前呼ばわりされたことには腹が立たなかった。炬燵で思い切り浩の頭を張り飛ばしたとき、雄二は浩にではなく、父親と、父親がめちゃめちゃにしてしまった家に腹を立てていたのだった。
茶の間を出た雄二は、渡り廊下を通って裏側の家に行った。この家はもともといま茶の間になっている四畳半と三畳、そして八畳間と小さな台所だけの古い家だった。八畳は開業医である父親の診察室だったから、父親は去年家の裏に八畳間を二部屋建て増し、短い渡り廊下で両方をつないだ。八畳のひとつで父親、鶴代とふたりの異母弟が寝、もうひとつが雄二と浩の部屋になった。姉の艶子は高校の寄宿舎にはいっていて、家へは全く帰ってこなかった。
部屋へはいった雄二は自分の勉強机を見下ろした。机にはさっきまで勉強していた教科書と辞書がのっていた。雄二はちらとそれに目をやっただけですぐに部屋を出、横の玄関から表に出た。真っ暗で、何の物音もしなかった。自転車に乗ろうという気はおきなかった。いや、どこへ行こうというあてさえ、雄二には全くなかった。ただこれ以上父親の醜い姿を見たくなかっただけだった。
高校生の雄二にモルヒネの知識は全くなかった。けれどあの注射が父親の心をむしばんでいることは、はっきりとわかった。なんの時だったか、ふだんは開けない父親達の部屋のふすまを開けた雄二は、畳の上にズボンをずり下げた父親がぺたりと座り、太股に注射針をさしている姿を見た。雄二を見上げた父親は怒るでもなく、そしてあわてるふうもなくまた自分の手元に視線を落とし、ゆっくりと注射をし終えた。あれは高校から帰ったばかりの夕方だった。あの夜も、父親はモルヒネに酔ってへらへらと笑い、よだれを垂らしただろうか。そのことは記憶にないが、ここのところずっと、父親は家族の前にそんな姿をさらしているように雄二は思っていた。
暗い道を、雄二は高校のある町の方角に向かって歩き出した。道にそって並んでいる家々はひっそりと静まっていて、両側の山に挟まって細長く行くてに伸びている狭い夜空には星が輝いていた。
あの頃からモルヒネが始まったんだと、雄二は思い出していた。二年前にこの村へ来るまで、雄二の一家はもっと豊かな農村にいた。父親はそこの診療所の運営を任せられていた。
戦争から還って来て六年目の父親は、きっとそこで戦後の人生を築こうとしていたのだろう。その村へ行ってすぐ、父親は村長さんと協力して小さな診療所に手術室と病室を増築し、隣村のお医者さんと一緒に盲腸や扁桃腺の手術をするようになった。村の人達は遠い町の病院まで行かなくてすむようになったのだから、きっと助かったと思う。その頃中学生だった雄二にもそのことはよくわかったし、雄二には父親が村の中で村長さんと同じぐらい偉い人に見えた。
けれど雄二がそんなふうに思っていられたのも一年ぐらいの間だったろうか。ある時から、父親はむちゃくちゃにお酒を飲み始めた。雄二が覚えている頃から父親は毎晩お酒を飲んでいたが、その頃から酔っ払い方が違ってきた。お正月にどこかで飲んでふらふらになった父親がいきなり茶の間にはいってきて家族の顔をじろっと見た時、雄二と浩はぱっと立ち上がって隣の部屋へ逃げ込んだ。父親が怒鳴り声を上げたわけではなかったが、その時の父親の姿は、雄二と浩にとって魔物のように恐ろしいものに見えたのだった。
外で酔っ払って帰ってきた父親が朝まで庭で寝ていたこともあった。朝、泥だらけになった父親は庭でうろうろと眼鏡を探していた。その時が、雄二が父親の惨めな姿を見た初めての時だったかもしれない。鶴代がなぜ庭で酔いつぶれている父親を助けないのか、雄二にはわからなかった。そしてその頃から、雄二は父親が体に悪い注射をしていることになんとなく気づいていた。
それなのに雄二はその頃、モルヒネのことで反射的に父親を守ったことがあった。雄二がまだ中学生の時だった。大掃除で、家族全員がふだん掃除しない鴨居や本棚にはたきをかけたり雑巾がけをしていた。拭いている棚の隅に注射液の小さな箱があるのに雄二は気がついた。それが父親の使っている悪い注射だということに、雄二はとっさに気づいた。そして鶴代がその箱に気づく前に雄二は素早く箱を握り、そっと父親に渡した。父親は黙ってそれを受け取り、ポケットにいれた。僕のやったことは間違ったことだ───雄二にはそのことがはっきりとわかっていたが、それにもかかわらずなぜ自分が父親をかばったのか、自分でもわからなかった。
あの注射のために父親が死にかけたことがあったのだから、雄二は決してあの注射液を父親に渡してはいけないはずだった。その頃のある晩、父親は物を食べかけたまま眠り込んでしまった。口いっぱいにほおばった食べ物は少しずつ喉の奥へ落ちていっているらしかった。意識を失っている父親の体を鶴代が後ろから抱きかかえ、口の中へ手を突っ込んで食べ物をかき出していた。「グエッ、グエッ」と父親の呼吸は時々止まった。艶子と雄二と浩は、鶴代と一緒に父親の体を支え、背中をこすり上げた。
「お父さんのカバンを持ってきて」
と艶子に命じた鶴代は、父親の体を支えて食べ物をかき出そうとしながら
「その注射、それを注射器に吸い取ってお父さんの腕に注射しなさい」
とふたたび艶子に命じた。
「わたし、注射なんかできない」
高校生の艶子は注射液を吸い取った注射器を持ったまま困惑した表情で鶴代の顔を見返した。
「早くしなさい。このままではお父さんは死んでしまうのよ」
鶴代の厳しい口調に気おされるように、艶子は父親の腕に注射針を刺し、注射をした。艶子はとても気性が激しかったから、ふだん鶴代は艶子には遠慮がちなしゃべり方をしていた。鶴代がこんなふうに艶子に命令したのははじめてだったが、それぐらいあのときの父親の命は危機的だったのだろう。
「お父さんは酔っ払って起きないの?」
と、浩が聞いた。
「お酒なら目が覚めるわよ。これは悪い注射のため」
鶴代はそう言いながら、父親の喉の奥に手を差し入れて、気管の入り口にたまっている食べ物をかき出し続けた。
鶴代が口の中にたまっていた食べ物をようやくかき出して気道が通った後も、父親はゴーゴーといびきをかきながら眠っていて目を覚まさなかった。看護婦をしていた鶴代の適切な判断と処置がなかったら、父親はあの時確実に死んでいたと思う。
その頃から三年たっていた。詳しい事情はわからないが、父親はあの村にはいられなくなりこの村に引っ越してきた。田畑が狭く、ずいぶん貧しい村だということは、子供の雄二にもすぐわかった。昼間、雄二は高校へ通っていたから家にどれぐらいの患者さんが来るのかわからなかった。けれどその数が極端に少なく、家にお金がないことはよくわかった。父親は毎月高校へ納める授業料はきちんと渡してくれたが、雄二も浩も小遣いはほとんどもらえなかった。雄二は買いたい参考書が沢山あったが買うことが出来ず、教科書を繰り返し読んで勉強するしかなかった。計算をしたり英作文をする藁半紙も欲しいだけ買えなかったから、雄二は最初薄い鉛筆で藁半紙に筆記し、次にペンにインクをつけてその上に字を書いた。ほとんどの級友が持っている万年筆は、買ってもらえなかった。艶子は、高校の授業料や寮費を死んだ母方の叔父さんに送ってもらっているらしかった。だから夏休みや正月休みにも艶子はおじさんの家に行っていて自分の家には帰って来なかった。
それなのに父親は午後の往診が終わるとそのまま町へ行き、酒場で酒を飲んできた。夜遅く、タクシーで帰ってきた父親がポケットから裸銭をつかみ出して運転手に払い、硬貨がチャリンと道に落ちるのを雄二と鶴代が黙って見つめていたこともあった。タクシーには女の人も乗っていて、「せんせ、また来てね」と窓から手を出してひらひらと振りながら帰っていった。
だからいま、雄二の財布にはほんの少ししかお金がはいっていなかった。衝動的に家を飛び出してきたけれど、こんなわずかなお金ではどこへも行けないし、何も出来ないことは雄二にはよくわかっていた。それでも雄二はもうこれきり家へは帰りたくなかった。
雄二は高校の授業では英語が一番好きで、将来は英語を使う仕事につきたいと漠然と考えていた。このまま東京か横浜まで行って外国航路の汽船の船員になろうか、と考えながら雄二は暗い道を歩き続けた。外人と一緒に働いていれば英語がしゃべれるようになるし、そのまま外国へ行ってしまえばもうあの家へ帰らなくてもすむ、と雄二は思った。けれどいまポケットにはいっているわずかなお金で東京や横浜まで行けるはずはないし、たとえ何らかの方法で行けたとしても、そのあとどうやって外国航路の汽船に乗ってアメリカへ行ってしまえるのか、雄二にわかるはずがなかった。
いけるはずのない外国へ行くことを夢見ながら、雄二は高校のある町に向かって暗い夜道を歩き続けた。部落をふたつ通り越し、いま雄二は村境になっているたんぼ道を歩いていた。
高校への往復以外に、雄二がこの道を通ったことはなかった。この前いた村からここへ引っ越してきたのはちょうど雄二が中学を終えて高校を受験する直前だったから、雄二は高校の受験までむこうの村で下宿をして、受験が終わってから家族と合流した。むこうとこっちの村は高校の学区が違っていたから、入学した高校に雄二と同じ中学を卒業した同級生や上級生はひとりもいなかった。もともと引っ込み思案の雄二は入学してからも友達が出来なかったから、高校から家に帰ってきたら遊びに行くところは全くなかった。雄二ははじめのうち弟の浩と裏山に登ったりして遊んでいたが、家の中が暗くなるにつれてふたりともしだいに不機嫌になり、兄弟で遊ぶことすらなくなっていた。
お父さんは偉かった、と雄二は思った。戦争から還って来た父親が最初に住んだのは雄二達の死んだ母親の実家がある村だった。雄二の母親は、雄二が小学校へはいってすぐ肺病で死んだ。父親が鶴代と再婚したのがいつだったのか、雄二は正確には覚えていない。雄二が小学校四年のとき、異母弟の辰彦が生まれた。その頃の父親は毎日家へ来る大勢の病人や怪我人を診察し、午後には自転車で往診に出かけた。
「今日は汽車で隣村まで行った。駅まで馬で迎えに来ていて山の向こうの開拓部落まで馬に乗って行ってきた」
晩御飯の時に、お酒を飲みながら父親は家族にそんな話を聞かせた。
「この村の人達は長い間塩からい漬物と味噌汁だけでご飯を食べていたから、中風が多いんだ。寝間といって家中で一番寒い部屋に布団を敷きっぱなしにしていてろくに干しもしない。そういう生活を改めなければ病気はよくならないんだ」
ある時には父親はまだ小学生の雄二にそんな説明をしながら、雄二の見ている前で大きな紙に食べ物や布団干しのことを説明する絵入りの説明文を何枚も書いた。父親はその紙を持って公民館などで村の人達に健康指導をするのだといっていた。学校の先生みたいだな、と雄二は思った。
「あの医者は口はきついが見立てはいい。間違ったことがねえ」
と、村のお年寄りが話しているのを聞いたこともあった。
その頃の雄二は、自分の父親が世の中のために働いている偉い人だと思い、誰かにそのことを誇りたいような気がしていた。
けれどそんな明るい日々の中に、時々雄二には理解できない不気味な思い出がはさまっていた。
あの時辰彦はまだ生まれていなかったし、浩はまだ学校へ行っていなかったから父親が鶴代と再婚した直後のことだったと思う。たぶん雄二が小学校二年の時のことだった。ある日突然、鶴代が睡眠薬を大量に飲んで自殺を図った。学校に行っていた艶子と雄二は先生にすぐ帰りなさいと言われて、走るようにして家に帰った。親戚の人が大勢集まって、眠っている鶴代の布団をかこんで立ったり坐ったりしていた。医者であるはずの父親はおろおろと歩き回っているだけで、知らないお医者さんと看護婦さんが鶴代の太股に大きな注射をうったり脈をみたりしていた。雄二には、鶴代はもう眼を覚まさないように思えた。
次に記憶に残っているのは、翌朝鶴代が布団の中から自分の母親になにか言っている場面だった。そのときの鶴代の言葉つきは普段のままだった。だから、なにが起こったのかわからないまま、その事件はそのまま過ぎていった。けれど今考えてみれば、結婚したばかりの時期に自殺を図るということはあまりに異常すぎた。雄二が考えてみても、あれは単なる約束違反などということではないと思ったし、性格の違いというよく聞く理由でいきなりそんなことが起きるとも思えなかった。父親が鶴代に対して、なにかとんでもない裏切りをしたのに違いなかった。
あの頃から、既に父親の心の中には恐ろしい魔物が住んでいたのだろう。あの頃はまだ小さかったその魔物がどんどん大きくふくらんでいって、いま父親の心を占領してしまったのだろうか。
鶴代の自殺未遂事件からしばらくたった頃だったと思う。小学校へはいったばかりの浩が家のお金を盗んだことがあった。いくらぐらい盗んでそのお金で何を買ったのか雄二にはわからなかった。その時、父親は浩のからだを帯で肩から足首までギリギリに縛り付けて畳の上に転がしておいた。ご飯もあげなかった。浩は泣きもせずにじっと転がっていたが、そのうちにおしっこがしたいと言い出した。
「小便なんかそのまましろ」
と、父親が怒鳴りつけたが、鶴代は
「そんなこと、かわいそうに」
と言って帯をほどいてあげた。
おしっこをした後、浩はまた父親の手で縛り上げられた。
盗みは一番悪いことだと雄二も思っていたが、まだ小学校一年の子供をあんなふうに縛り上げてゆるそうとしない父親の恐ろしさに、雄二も震えるような思いがした。だから、いつもは頼もしく、宿題を教えてくれる時など学校の先生よりわかり易く、ていねいに教えてくれる優しい父親の中に、子供にはわけのわからない恐ろしさがひそんでいることに、雄二は小学校にはいった頃から気付いていた。中学の時、酔っ払って不意に帰ってきた父親にじろっとにらまれた雄二と浩がとっさに隣の部屋に逃げ込んだあの時に、雄二は父親の心に住んでいる魔物を、はじめて正面から見たのかもしれなかった。
腕時計をしていないから、何時頃かわからなかった。隣村の部落にはいったが、殆どの家からはもう明かりがもれていなかった。道を通る人も誰もいなかった。
この部落から通ってくる同級生の中山君は数学がよく出来た。雄二にはどうしても解けない微分の問題をあっという間に解いてしまう中山君が、雄二には数学の天才に見えた。理科系の大学に進んで将来は機械の設計をしたいと、中山君が先生に言っているのを雄二は聞いたことがあった。その時、じゃあ自分は何をしたいんだろうと考えてみて、雄二は自分がどんな希望ももっていないことに気がついた。希望どころか、自分に将来があるということが信じられなかった。死にたいと思ったことはなかったが、大人になるまで自分が生きているとは思えなかった。中学の時はそうじゃなかったと思い、雄二はその時愕然とした。
中学生の時、雄二は外交官になろうと思っていた。それは本当は父親に言われたことだった。
「戦場で失ったものは外交で取り戻す、ということがある。日本は戦争でたくさんの領土や植民地を失ったがそれはまた戦争をして取り戻すのでなく、外交で取り戻せばいいのだ。お前はしっかりと英語を勉強して外交官になれ」
雄二が中学生になった時、父親はそう言って、雄二に中学一年用の英語の教科書の読み方を全部教えてくれた。だから、外交官になりたいという雄二の希望は父親に言われたことだったが、少なくともその頃の雄二には、自分が大人に向かって成長していくということが確実に信じられていたし、外交官になろうという夢も持っていた。けれどいま、雄二は自分が大人に向かって成長していくということが信じられなかった。だいいち、もしこのまま卒業するまで高校に通えたとしても、その先どうなるのかが雄二には全くわからなかった。
家中がそうだと、雄二は突然気がついた。将来がなくなっているのは雄二だけでなく、家族全員がそうなっていた。みんな父親に頼って生きていた。その父親がこんな状態では、家族のみんながいつどうなってしまうかわからなかった。
あの時だ、あの時以来、この家には将来がなくなってしまったのだと雄二は思った。
「血だ。血だ」と父親がおびえた声をあげた時、幼いふたりの異母弟を除いた家族全員が父親の布団のまわりに座っていた。雄二が中学二年の時だったから、前の村で父親が診療所勤めをしていた頃のことだった。その時、父親は胃潰瘍で長い間仕事を休んで家で寝ていた。その村には父親のほかには医者がいなかったから、父親は自分で自分の病気を治そうとしていて、看護婦の資格を持つ鶴代がそれを助けていた。
その夜、父親は枕元においてあった洗面器に半分ぐらい、赤茶色の水を吐き出した。胃の中で血管が破裂して大出血したのだ。鶴代が素早く何本かの注射を父親の腕にして、洗面器の血を便所へ捨てに行った。
「こんなに出血したら俺は死ぬ。俺はもう死んでしまう」
父親は布団の上にうずくまり、おびえた声でつぶやいた。顔は真っ白で、唇の色は薄黒い紫色に変わっていた。肩が、がたがたと震えていた。便所から戻ってきた鶴代は無言で父親を布団に寝かせ、それから別の部屋で眠っている異母弟のところへ行ってしまった。
たぶんお父さんはこのまま死んでしまうだろう、と雄二は思ったが、そのことが悲しくも怖くもなかった。これが一番当たり前のことなんだと、雄二はその時思っていた。他の家族の気持ちはどうだったかわからないが、あの時、雄二の心の中で父親は死んだのだと思う。そしてそれ以来、雄二にとって将来がなくなったのだということに、雄二はいまはっきりと気がついた。
けれど父親は死ななかった。遠い町の大学病院で手術を受けた父親は健康を回復させ、また診療所に通いだした。けれど家族にとって辛いことは、それで終わったわけではなかった。それどころか、もっと辛いことが次々に起きた。
ある夜、子供部屋で寝ていた雄二は、両親と異母弟が寝ている部屋から聞こえてくる、「キーッ」という鶴代の悲鳴を聞いて飛び起きた。続いてバタンバタンという物音が聞こえ、「雄二、来てくれ」という父親の声がした。
雄二が夢中で両親の部屋へ飛び込んでみると、父親が布団の上で鶴代を押さえつけていた。
「お継母さんの気が狂っちゃった。診療所に看護婦の今村が泊まっているから、お前行ってこの薬をもらってきてくれ」
父親は鶴代の体を押さえつけながら右手で紙に薬の名前を乱暴に書いて雄二に渡した。その時、鶴代がふたたび「キーッ」という金切り声を上げ、布団の上で背中を持ち上げてエビのように反り返った。
「ヒステリーという女の病気だ。注射をうてばすぐ治る。早く行ってこい」
父親の声を背中に聞きながら、雄二は真っ暗な道に飛び出した。あふれ出る涙を寝間着の袖で拭いながら、雄二は診療所に向かう坂道を全力で走り降りた。玄関の戸をたたくとすぐに電気がつき、今村看護婦が戸を開けてくれた。
「お継母さんの気が狂っちゃった」
雄二はわっと泣き叫びながら今村看護婦の体にしがみついた。
「泣いちゃ駄目。雄ちゃん。大丈夫だから」
今村看護婦はそう言って雄二の涙を拭い、手早く戸棚から薬箱を出して雄二に渡した。
父親が鶴代にその注射をした後、鶴代は深い眠りに落ちた。雄二は結婚したばかりの鶴代が睡眠薬自殺を図ったときのことを思い出して心配になったが、
「もういい。大丈夫だ。部屋へ行って寝ろ」
という父親の不機嫌な言葉を聞いて自分の部屋に引き返した。
鶴代がなぜそんな状態におちいったのか、父親は何も説明してくれなかったから、雄二には全くわからなかった。そしてヒステリーがどういうものかも、雄二にはわからなかった。
けれど高校二年になったいま、雄二にはあの時鶴代を追い詰めたことの原因はもうわかっていた。
ヒステリーの事件があってしばらくたった頃、遠いところにいる父方のおじいさんとおばあさんが泊まりに来て、その時家族全員の記念写真を撮った。村でカメラは役場にひとつあるだけで、そのカメラを借りられるのは村長さん、校長先生、駐在所のお巡りさんや、診療所長である雄二の父親など限られた人達だけだった。役場の人にとってもらったその記念写真には、庭の花畑の前で椅子に座ったおじいさんとおばあさんを中心にして家族全員が写っていたが、後ろの席の一番隅に今村看護婦も写っていた。父親がいつも一緒に仕事をしている人だからと、雄二は少しも不審に思わずに、アルバムに張られたその写真を見ていた。
ところがあるときアルバムを開いてみると、今村看護婦の顔の部分だけが破りとられて穴があいていた。浩のいたずらかもしれないと、雄二は思った。浩は小さい時に家のお金を盗んでひどく叱られたことがあったあと、もう悪いことはしなくなったが、小さないたずらはよくやっていた。また浩がいたずらをしたな、と思った雄二が
「浩がこんないたずらをしてるよ」
と、そのアルバムを艶子のところへ持っていって見せた。
「浩ちゃんじゃないよ」
艶子は言下に否定した。
「じゃ、誰がやったの?」
「お継母さんよ」
なぜ鶴代がそんなことをするのか、雄二には、艶子の言うことが信じられなかった。
「雄ちゃん、知らないの?お父さんと今村さんが出来てるってこと」
「出来てる」という言葉の意味が、雄二にはわからなかった。けれどその言葉には、決して表に出してはいけない秘密が隠されていると思ったし、それは鶴代のヒステリーと関係あることだと、雄二は直感的に感じていた。
その今村看護婦に、雄二はあの時すがりついて泣いた。誰にも助けを求められなかったあの時、雄二は今村看護婦だけが雄二の気持ちをわかってくれると思っていた。その今村看護婦が、鶴代のヒステリーの原因になっているかもしれないと思った時、雄二は自分の心を裏切られたと思って猛烈に腹が立った。その立腹は今村看護婦に対してのものでなく、父親に対してのものだった。その時、雄二は生まれてはじめて父親に対する怒りが自分の中に湧き上がるの覚えたが、そのことに対する後ろめたさを感じない自分に、雄二は内心で驚いていた。
家に中に、しゃべってはいけないこと、質問してはいけないこと、あるいは知っていないふりをしなければいけないことが沢山あった。そしてそれ以上に雄二が気をつけたことは、家の中の秘密を決して外の人に知られないようにすることだった。近所の人や学校の友達にはもちろん、先生にさえ知られないように雄二は家の外では自分の言葉に細心の注意を払っていた。
いま雄二に全然友達がいないのは学区の違うところへ引っ越してきたからだが、ここでも雄二は出来るだけ友達をつくらないように気をつけていた。父親のことを誰にも知られてはならないと雄二は思ったし、もしモルヒネに酔っ払ってふにゃふにゃになってよだれを垂らしている父親の姿を他人に見られたらと思うと、雄二は死にたくなるような思いがした。家に遊びに来るような友達は絶対につくってはならないと、雄二は心に決めていた。
町に出た。町には街灯があったから道は明るかったが、商店の戸はすべて閉じられていた。もう、かなり遅い時間らしかった。雄二は交差点に立って左右を見た。左に曲がれば高校へ行く道だった。けれどこんな夜中に高校へいっても仕方がなかった。だいいち、雄二はもうこれきり高校へは行かなくなるかもしれなかった。雄二は右へ曲がった。すぐ近くが国鉄の駅だった。
裸電球が下がっている駅の待合室へ、雄二ははいっていった。待合室には誰もいなかった。ガラス窓のむこうの事務室では駅員がひとり、事務仕事をしていた。柱時計は十時少し過ぎていた。
雄二は時刻表を見上げた。最終列車はまだだった。けれど雄二の持っているわずかなお金では、東京まで行けるはずがなかった。けれど、東京行きの汽車と接続する終点までの切符は買えそうだった。あの駅まで行ってみようかと、雄二は思った。その後はなんとかなるかもしれない。もう家へは帰れないのだから、とにかく遠いところへ行ってしまわなければならなかった。けれど最終列車が終点に到着した後、上り方向へ向かう汽車の接続はもうなかった。あの駅の待合室で朝まで待っていようかと、雄二は考えた。けれど駅では、たぶん最終列車が着いた後は待合室にいる人間はすべて外へ出して扉を閉めてしまうだろう。だいいち、お金だって持っていない。そのうえ朝になって駅の前や待合室でうろうろしていれば、雄二の同級生が高校へ行くために駅へやってくるはずだ。そんな姿は同級生に絶対見せられなかった。雄二はいま自分が考えていることがあまりにも非現実的だということがよくわかっていた。
茫然として駅を出た雄二はいま来たばかりの道を戻り、ふたたび四つ角にたたずんだ。
そして見えない糸で引かれているように、家のある方向へとぼとぼと歩き始めた。もう、何も考えたくなかった。
歩いている雄二の脳裏には、けれど様々なことが浮かび上がってきた。
辰彦は今夜も寝ぼけて泣いただろうか、と雄二は考えた。
来年小学校へはいる上の異母弟の辰彦は、ここのところ毎晩一度寝ついた後寝ぼけて泣き出した。辰彦は泣きながら布団を出て障子を開け、廊下をふらふらと歩きながら泣き続けた。鶴代が辰彦を捕まえて
「たっちゃん、たっちゃん」
と体をゆすっても、辰彦はおびえたように泣き続けるだけだった。お酒やモルヒネに酔っ払っていない夜は父親も廊下に出てきた。父親は辰彦におしっこをさせ、それから台所へ連れて行って冷たい水を強引に飲ませた。そうすると辰彦はやっと眼を覚まし、泣きやんでまた布団にはいった。
「あれは夢遊病という一種の病気だ。俺が軍隊で診た兵隊は夜中に起き上がると兵舎から出て、物置から荒縄を持ち出して兵舎の周りをぐるっと縄跳びをしてまわり、それからまた寝た。翌朝その兵隊はなにも覚えていなかった」
父親はそんな話をして辰彦の寝ぼけを説明したが、雄二はそんな話は辰彦のことをなんにも説明していないと思った。寝ぼけているときの辰彦の泣き声はなにかにおびえているようで、辰彦は怖いものから逃げるように眼をつぶったまま廊下を歩き回った。
毎晩、辰彦の夢の中にはひとさらいが現れて、辰彦をどこかへさらっていこうとしているのかもしれないと、雄二は思った。前の村にいた時、辰彦はある日突然まるでひとさらいにさらわれたようにいなくなったことがあった。その時いなくなったのは辰彦だけではなかった。下の異母弟の信昭と鶴代と辰彦の三人が、ある日ふっといなくなったのだ。辰彦と信昭はひとさらいにさらわれたわけではなく、鶴代がどこかへ連れて行ってしまったのだった。
父親は、三人がどこへ行ったのかまったく説明してくれなかった。もう帰ってこないのか、帰ってくるとしたらいつになるのか、そんなことも雄二たちにはまったくわからなかった。まるで、鶴代とふたりの異母弟はもともといなかったように、残った家族の誰も三人の事を口にしないで生活を続けていた。けれど家中のみんなが、不意にいなくなった三人のことを一日中考えているんだと、雄二は思っていた。そしてこのこともきっと父親に責任があると、雄二は心の中で確信していた。
その日から、食事は高校へ行っている艶子がつくった。艶子は朝早く起きると、へっついの前にうずくまってご飯を炊いた。それ以前から、父親はひとりだけ別の部屋でご飯を食べたりお酒を飲んでいたから、鶴代がいなくなると、三人の子供だけがちゃぶ台をかこむことになった。誰も、なにもしゃべらなかった。
「お継母さん達、どこへ行っちゃったの?」
と浩が小さな声で艶子に聞いたことがあったが、艶子は
「そんなこと、私が知ってるわけないでしょ」
と、けんもほろろにはねつけた。
艶子のつっけんどんな言葉を聞いた雄二は猛烈に腹が立ったが、その怒りをどこへぶつけていいのかわからなかった。艶子とは口をきくまいと、雄二はその時思った。そのため、家の中はますますひんやりとした雰囲気になっていった。
あのお継母さんはもう家に帰ってこないだろう、と雄二は思っていた。雄二はそのことが特に淋しいとは思わなかった。なぜかよくわからなかったが、仕方のないことだと思っていた。浩もそれきり鶴代のことは口にしなかったし、艶子もまた、鶴代や父親に対する恨みがましいことは少しも言わなかった。
けれど雄二は辰彦と信昭のことを考えるとふたりがかわいそうだと思った。特に辰彦は、小さい頃父親がものすごくかわいがっていたから、突然鶴代にどこかへ連れて行かれて、淋しがったり、怖がったりして一日泣いているんじゃないかと思った。
辰彦は雄二が小学校四年の時、一番最初に住んでいた村で生まれた。鶴代の母乳がよく出なかったので、辰彦は人工栄養で育てられた。粉ミルクをちょうどいい温かさのお湯で溶かしたり、使った後の哺乳瓶を消毒する仕事は、すべて父親の監督のもとで行われた。離乳食を食べるようになると、煮干や鰹節をすり鉢ですって、お粥に混ぜて食べさせた。すり鉢に入れる煮干や鰹節の量は父親が秤で正確にはかり、雄二と浩は交代でそれをすりこぎでごりごりとすった。赤ん坊の頃の辰彦は丸々とよく太り、健康優良児のコンクールに出れば一等間違いないと、大人達は言っていた。
「お前達が赤ん坊の頃、お父さんは戦争に行っていて家にいなかったから、お前達の成長を見ることが出来なかった。だから辰彦は俺が育てるんだ」
父親は雄二たちにそう言いながら、熱心に辰彦の面倒を見ていた。いま思い出してみると、あの頃の父親は母親である鶴代から辰彦を奪い取るようにして育てていたように雄二には思われた。当然のように、辰彦は父親にすごくなついていた。
あんなに熱心に面倒を見てもらい自分でもなついていた父親が、ちょうど信昭が生まれた頃から家庭をぐちゃぐちゃにし始め、子供達とも口をきかなくなったことを、辰彦はどんなふうに思っているだろうかと、雄二は想像してみた。それだけでなく、鶴代にさらわれるようにしてどこか知らない所へ突然連れていかれた時の辰彦の気持ちのことを考えると、雄二は辰彦がかわいそうで涙が出そうだった。
もう帰ってこないだろうと思っていた鶴代と二人の弟は、ある日雄二が学校から帰ってみると家にいた。けれど父親も鶴代も、雄二達には何の説明もしなかった。まるで、三人が一ヶ月近く家にいなかったことが嘘のように、普段どおりの暗い生活がまた続いていった。そしてある日、またふっと三人がいなくなった。同じように鶴代とふたりの異母弟のいない生活が続き、何の前触れもなく、ある日また三人はふっと帰ってきた。そんなことがあの頃三回あった。
三回も続けてふっと家からどこかへ連れて行かれ、そして理由もわからずにまた戻ってくるような経験をした辰彦の心には、いつまたどこかへ連れて行かれるかもしれないという気持ちがこびりついてしまっているのかもしれない、と雄二は思った。それはいつもどこかにひとさらいが隠れているような恐ろしさだろうと、雄二は思った。
あの後、夏の農繁期に村ではじめて保育園が出来た。雄二の家は農家ではないし鶴代が家にいたから子供を保育園に預けなくてもよかったが、父親は社会生活の訓練だと言って辰彦を保育園に預けた。朝、父親は往診用のオートバイに辰彦を乗せて、ダダダダと保育園へ送って行った。けれど辰彦はすぐ、泣きながら家に帰ってきた。
「しょうがない奴だ」
と、父親はまたオートバイで辰彦を保育園に連れて行った。
何度連れて行っても辰彦は泣きべそをかきながら帰ってきた。保育園は隣の部落にあったから、小さな辰彦が走っても一時間近くかかったと思う。その道を一日に何度も、辰彦は泣きながら走って帰ってきた。あの時、辰彦は鶴代にさらわれるようにして知らない所へ連れて行かれた時のことを思い出していたのかもしれなかった。辰彦は知らない人達の所へポツンと残されることが、なによりも怖かったのだろう。あの思い出がいま、辰彦を夢の中で怖がらせているのだと、雄二は思った。そしてまだ小さくて弱い辰彦を守ってくれるはずの父親は、毎晩お酒かモルヒネに酔っ払ってよだれを垂らしていた。
結局は家出も出来なかった、と思いながら雄二は家に向かう道をたどり続けた。たんぼでは蛙がにぎやかに鳴き続け、農業用水の上では蛍が明滅しながらふわふわと浮かんでいた。道は緩やかな上り勾配になっていた。高校へは自転車で通っていたから、朝高校へ向かう時には時々ペダルをこぐだけで町まで下っていけた。そのかわり帰り道はペダルを踏み続けなければならなかった。
一度自転車がパンクした時、雄二はたまたまパンクを直してもらうだけのお金を持っていたので、自転車屋さんで直してもらった。家に帰った雄二がそのことを父親に言うと、父親は
「パンクぐらい自分で直せ。金がもったいないだろう」
と雄二を叱った。自分が町でお酒を飲んでタクシーで帰ってくるお金はあるのに、と思って雄二は腹が立ったが、黙って父親に謝った。その次に町でパンクした時、雄二は小雨の中、びしょ濡れになって家まで自転車を押してきた。風呂場の横のひさしの下でパンクを直している雄二を見た父親は、
「こんな雨の中を歩いてきたのか」
と、また雄二を非難するような口ぶりで言った。
こんな家にいつまでもいたくないと、雄二はその頃から心の奥底で思い始めていたのかもしれない。
そういう気持ちが前からあったから、雄二は今夜家を飛び出したのだろう。けれどどこへも行けなかった。誰も、相談できる人はいなかった。帰りたくない家に帰らなければ、雄二には行くところがなかった。高校にはいった頃の雄二は、成績がよかった。けれどいま、雄二の成績は段々下がってきていた。雄二はもう、勉強する気が起きなくなってきたのだ。教室でも家でも、教科書をひろげてみても気持ちが集中できなかった。授業中に雄二がぼんやりと座っていると、色色なことがとりとめもなく頭に浮かんできた。
そして、今頃父親はどうしているだろうと家のことを思い浮かべる雄二の脳裏に、最近ひとつの場面がひんぱんに浮かび上がるようになった。それは雄二が思い出そうとして思い出すことではなく、記憶のほうが突然雄二の心の中に割り込んでくるような感じだった。
あの時にも、鶴代とふたりの弟はいなかったから、たぶん何度目かの家出の時だったろう。父親は体の具合が悪く、昼間から布団を敷いて寝ていた。艶子と雄二と浩の三人が、父親の布団のまわりに座っていた。
「ほら、見てごらん。お父さんのお尻はこんなふうになっちゃった」
父親はそう言うと、立ち上がって後ろ向きになり、パジャマとパンツをずり下げてお尻を出した。足を開いて前のめりになった父親の肛門のところに、どす黒く紫色の肉の塊が垂れ下がっていた。
「脱肛といって、腸がお尻の穴から出ちゃったんだ。指で押し込んでもまた出ちゃう」
父親は顔だけ振り向かせて、そう言った。その顔は、雄二がそれまで見たことのない、じつに情けなさそうな顔だった。馬のように大きなお尻とその間にぶら下がっている腐った肉のような塊、そしてこちらを振り向いているなんとも言えず情けない父親の顔。その場面が、ここのところ繰り返し繰り返し雄二の脳裏に浮かび上がってくるのだった。なぜ父親はあんなものを自分の子供に見せたのだろうと、雄二はあの場面が脳裏に浮かび上がってくるたびに思った。
親が子供のお尻を見るのなら、まだわかった。雄二だって、信昭が赤ん坊の頃はよくおむつを替えてやったことがあった。その時には、お尻の穴のまわりをていねいに拭いてきれいにしてやらなければならなかったから、信昭のお尻はしょっちゅう見ていた。けれどそれは赤ん坊相手のことだった。いくらお尻の穴が病気になったとしても、大人がそれを見せるのは医者に対してだけのはずだった。自分の子供を三人も並べて、気持ちの悪い脱肛を見せる父親の心が、雄二にはよく理解できなかった。父親はあの時、苦しんでいる自分のことを誰かに同情してもらいたかったのかもしれない。けれどあんなものを見せられた雄二に父親に同情する気持ちは全く起きず、逆に気持ちの悪さと父親に対する幻滅の気持ちがわいただけだった。だいいち、本当に同情してもらいたいのは、父親以外の家族全員のほうであるはずだった。あの時、雄二の中で父親に対する気持ちが根本的に変わったように、雄二は思った。そしてあの惨めで気持ちの悪い父親の姿が、いま雄二の脳裏にふわっ、ふわっと浮かび上がってくるのだった。
けれど奇妙なことに、その場面が浮かび上がる時、必ずもうひとつの父親の姿が雄二の心の中に同時に浮かび上がってくるのだった。それは雄二が実際に見た姿ではなかった。雄二がまだ小学生だった最初に住んでいた村で、父親は何度も山奥の開拓部落へ往診に行った。そのことを、雄二は父親から話で聞いただけだったが、いつのまにか雄二の心の中では、馬にまたがって山道を歩いていく父親の姿が見えるようになった。それは雄二にとって誇らしい姿だった。雄二は小さい頃から何度も父親のその姿を心に浮かべ、僕のお父さんは立派な仕事をしている偉い人なんだ、と思っていた。その誇らしく、尊敬できる父親の姿と、自分の子供に垂れ下がった脱肛を見せて恥ずかしいとも思っていない、情けなさそうな父親の姿―――同時に脳裏に浮かび上がってくる全く正反対の父親の姿にはさまれて、雄二はもう勉強なんかしてもしょうがないという気持ちの中に、だんだんと落ち込んでいった。
いつのまにか、雄二は家の前まで来ていた。そこには雄二の家と、山に向かう小さな道をはさんだ隣の家の他には人家はなかった。二軒の家はともに灯かりを消してひっそりとしていた。あたりには、人影もまったくなかった。雄二の家の通りに面した方は父親の診察室と茶の間にしている四畳半だけで、食事が終わればみんな裏の部屋へ行くからいま灯かりがついていないのは当然だった。夜もすっかりふけているからもうみんな眠っているんだろうと、雄二は思った。鶴代やふたりの異母弟がいなくなったあの時、残された家族の誰もが、まるであの三人がもともと家にはいなかったように暮らしていたように、今夜も家の者はまるで雄二という人間などはじめからいなかったようにご飯を食べ、そのあとみんなで寝てしまったのかもしれない。そんな家に帰っても仕方がないと思った雄二は家に背を向け、農業用水にかかっている小さな橋を渡って川のほうへ歩いていった。
川原に出た雄二は、砂利の上に仰向けに寝た。寝る前に、雄二はよく真っ暗な庭に立って星を仰ぎ見た。満天に星がかかっていた。小学生の頃、雄二は星が大好きだった。大きくキラキラと光っている星や、消え入りそうに瞬いている小さな星はどれほど見ていても飽きなかった。星を見ていると、たくさんの星が雄二に語りかけているような気がした。じっと空を仰いでいると、時々音もなくすっと星が流れた。
その頃の父親はよく雄二に話しかけてくれた。
「ほら、星が流れただろう。あの流れ星と彗星とは違うんだ」
と、父親はふたつの違いを教えてくれた。
「あそこに星がみっつ行儀よく並んでいるだろう。あれがオリオン座。北斗七星はあれだ。わかるかな。七つの星がひしゃくの形で並んでいるのが」
父親は雄二と並んで星空を見上げながら、いくつかの星座の名前を雄二に教えてくれた。
あの頃のような家族にもう一度戻れないだろうかと雄二は思ったが、もう決して戻れっこないということも、雄二にはよくわかっていた。それどころか、今夜家を出たために、自分にはもう家庭も家族もなくなったんだと、雄二は思った。それなのに雄二はいま家のすぐ近くまで帰って来ていた。なんて勇気がないんだろうと雄二は自分が情けなくなってきた。けれどもう、なんにも考えたくなかった。もう真夜中のはずなのに、不思議に雄二は眠くなかった。雄二はじっと仰向けになったまま、星空を見上げていた。
この川には、河鹿がいた。夕暮れになると黒い、小さな蛙と同じ形の河鹿は、たんぼでゲロゲロ泣いている普通の蛙とはまったく違うきれいな声で、コロコロと鳴き交わした。雄二は何度か河鹿を生け捕りにして自分で飼ってみようとしたが、河鹿は用心深く、ちょっとでも人間の姿を見ると川へ飛び込んで逃げた。雄二は河鹿を生け捕ることはもうずいぶん前に諦めていたけれど、高校から帰ってきた後、しばしばひとりで川原へ来た。
雄二は近所に友達も同級生もまったくいなかったから、家にいたたまれなくなると川原しか行くところがなかった。雄二はよく川原で、棒切れをノックバットにして石を拾ってノックした。向こうに見える丸木橋を越えたらホームランときめて雄二は長い間ひとり野球をした。体育が苦手の雄二は石のノックでさえ三度に一度は空振りをし、それどころか自分で放り上げた石ころ相手でさえ、三球三振することがあった。うまく当たった時、石はコンという乾いた音を残して丸木橋に向かってカーブをえがきながら飛んでいった。絶え間ない水音、河鹿の鳴き交わす声、時々バットが石のボールを打つコンという弾んだ音、他に人がまったくいないそんな世界だけが、雄二にとってもっとも心安らぐ世界だった。
少し寒くなってきた。それにやっぱり、眠くなってきた。そっと家に帰ってみようかと、雄二は思った。不意にいなくなった鶴代達がある日ふっと帰ってきた時だって、誰も何も言わなかった。いま雄二がそっと帰っていっても、明日の朝、家族の誰も何も言わないだろう。この家はそういう家なんだ。雄二はそう思いながら、たんぼの間の細い道を家に向かってゆっくりと歩き始めた。
家に向かって歩いていると、暗闇の向こうに誰かが立っているような気がした。おや、と思い、雄二は立ち止まった。次の瞬間、立っていた人影は雄二に向かって突進してきた。そして雄二が考えたり避けたりするひまもなく、その人影は雄二にぶつかり、そのまま雄二の腕にすがりついた。鶴代だった。
「ああ、ああ、ああ」
と、鶴代は喉の奥から声をしぼり出すようにして泣いた。雄二は片方の腕にすがりつかれ、歩けなくなった。たんぼの間の細い道に立ち止まり、雄二は茫然としていた。
なぜお継母さんは泣くのだろう、と雄二は不思議に思った。この家では、家族の誰もが他の家族のことで心配したり気遣ったりしなくなっていると、雄二は思い込んでいた。家族ひとりひとりの心はバラバラになって、みんなが自分の心の中をのぞきこんでいるだけだ、だいいち家族の中心である父親が家族のことをまったく考えなくなってしまったんだから、それは仕方のないことだと雄二は思っていた。だからいま、鶴代がこんな夜中まで雄二を探していて、見つけた雄二にしがみついて泣いていることが、雄二には不思議に思えた。
「よかった。よかった。雄ちゃんが生きていた」
雄二は腕にしがみついたままの鶴代を引きずるようにして歩き始めた。そして道を横切り、家の玄関の前まで行ったとき、中から玄関の戸が開き、浩が出てきた。
「お兄ちゃんが帰ってきたよ」
浩は振り返って家の中に向かって言った。雄二は何かに操られるような感じで玄関の敷居をまたいだ。鶴代はまだ雄二の腕にしがみついていた。奥から父親が出てきた。
「そうか。帰ってきたか」
父親はそう言っただけで障子を開け、自分達の部屋へ戻った。なんだ、怒られないのかと、雄二は拍子抜けした。けれど考えてみれば、雄二たちが小さい頃にはよく子供を叱って時にはげんこつまでくれていた父親は、モルヒネを使い始めた頃からまったく子供を叱らなくなっていた。いま父親の心の中にはもう子供は住んでいないのかもしれないと、雄二は思い、けれどそれがむしろ当たり前のようにも思った。本当の親である父親が雄二の家出を心配するふうでもなく、継母の鶴代がこんなふうに泣いていることが雄二にはひどく理不尽なことに思えた。けれど雄二は鶴代が心配してくれる気持ちが嬉しいとは思わなかったし、鶴代にすまないという気にもならなかった。
「もう寝るから」
雄二はそう言って鶴代の手を振りほどき、自分の部屋にはいった。浩も後に続いた。
雄二と浩の布団が並んで敷いてあった。たぶん浩が敷いてくれたんだろうな、と思いながら雄二はぼんやりと布団の上であぐらを組んだ。
何時だろうと、本棚の上の時計を見ると二時少し前だった。さっき川原にいたときには眠かったが、いま雄二の眼はさえ、まったく眠くなかった。
浩が布団にはいったので、雄二も布団にはいり電気を消した。
暗闇の中で、浩がヒソヒソ声で雄二に話しかけてきた。
「俺がご飯食べ終わって部屋へ来てみたらお前がいないから、お兄ちゃんがいないよってお父さんに言ったんだ。お父さんは外へお前を探しに出たけどふらふらしているから、俺が一緒に行ったんだ。お父さんは山へ行ったんだ。そして、あの岩の向こうで雄二が死んでるって言ってわんわん泣くんだよ。そのくせ岩の向こうへお前を探しに行こうとはしないんだよ。ただ雄二が死んでる、雄二が死んでるって言って大声で泣いてるだけなんだ。俺はお前が絶対死ぬわけないって思ってたよ。ただお父さんがあんなだから腹を立ててちょっと外へ行っただけですぐ帰ってくるって思っていたよ。だけどそんなことお父さんに言ったってしょうがないから言わなかった。お父さん、わんわん泣いて、泣くだけ泣いたらまたふらふらしながら家に戻ってきたんだ」
浩はそれだけ言うと、寝返りをうったようだった。それきり何も言わず、すぐに浩の寝息が聞こえてきた。雄二は真っ暗闇の中で眼を開けていた。何も見えなかった。物音もまったくせず、しーんという音が耳の奥で聞こえていた。
雄二には、父親が泣いたということが、今度は不思議に思えた。帰ってきた雄二の顔を見た時の父親には、雄二のことを心配していたような感じがまったくなかった様に、雄二は思っていた。いなくなった雄二を探し回り、山で大声で泣いたという父親の気持ちが、雄二には理解できなかった。雄二自身、家に帰りたくないとは思っていたが死のうなどとはまったく考えていなかった。父親はどうして雄二が死んだと思ったのだろう。
雄二は父親のぐにゃぐにゃになった姿を見たくなくて家を飛び出したのだった。だから雄二のことを本当に心配するなら、父親がお酒やモルヒネをやめてくれなければならないはずだった。それなのに雄二が死ぬために家出をしたと思い込んだ父親は、結局雄二の気持ちを全然わかってくれていないのだと、雄二は思った。そんな父親に泣いてもらっても、雄二は全然ありがたいとも、申し訳ないとも思わなかった。
もういいや、と雄二は思った。これ以上考えたってしょうがないと思い、けれど眠れないまま雄二は闇の中でじっと眼を開け続けていた。
ひとさらい―――ふっと雄二はそう思った。毎晩辰彦の夢の中に出てくるひとさらいが、自分のところにやってこないかと、雄二は考えた。
結局自分の力では家を出ることが出来なかった。ひとさらいがやってきて、雄二をどこか別の世界へ連れ出してくれないだろうか。どんなところでもいい、この家よりひどい地獄はないはずた。
ひとさらいよ、出てきてくれ。もうこれ以上辰彦を怖がらせず、かわりにこっちへ出てきてくれ。父親のあの惨めな姿、あの気味の悪い脱肛、数知れないつらかった思い出、そういうものを全部この家の中に置き捨てて、どこか知らない世界へ連れて行ってくれるひとさらい。
ああ、ひとさらい、ひとさらい、どうかここから別のことろへさらって行ってくれ。
雄二は闇の中で眼を開いたまま、いつまでもひとさらいが出てくるのを待っていた。
昭和のへの挽歌
野崎忠郎
(一) 父の原像
見渡す限り短い草が生えた平原で、地平線まで樹木は一本も見えなかった。やや離れたところに粗末な家が十数軒かたまって建っていた。マンジン(満州人)部落である。母をはさんで姉と私とが三人横並びに立ち、母はまだ赤ん坊の弟を抱いていた。私達が立っていたのは、私達の家の庭だった。家はレンガ造りで屋根にはオンドルの煙突が立ち、遠くに見える集落の粗末な家とは全く違っていた。庭には花畑があり、私達の前には父が立っていた。
父は軍服を着て戦闘帽をかぶり、革の長靴を穿いて腰には軍刀を下げていた。父の前に黒い豚の死体がひとつ転がっていた。豚の死体の横に、小柄な男が一人土の上に正座していた。マンジンだった。父は右手に拳銃を持ち、銃口を男の頭に向け、指を引き金にあてていた。男は両手を上にあげて何事かを喚き、それから土に額をつけてひれ伏し、父に向って詫びていた。男は大声で泣いていた。父がマンジンに言っていることの意味が、私には理解できた。
「いいか。お前たちが放し飼いにしている豚が、何度となく俺の庭にはいってきて花畑を荒らした。俺はお前たちに何度も警告したが、お前たちは豚の放し飼いを止めなかった。だから俺はお前たちの豚を殺した。いいか!今度お前たちの豚が俺の花畑を荒らしたら、俺はお前を撃ち殺すぞ!」
男は再び両手を上げて何事かを喚き、それから泣きながら父の前にひれ伏して体を震わせていた。
私は弟を抱いた母と姉との三人で、父の後ろに立ってその光景を眺めていた。おそらく私が四歳の時の記憶だ。けれど私には人が人に銃を向けていることの意味が分からなかった。
その時私が見た光景が、私にとっての父の原像である。
その後父は戦場に去り、私達は内地に引き上げたから、父と共に暮らすようになったのは敗戦の年の秋に父が復員してからだった、私はその時小学校にはいっていた。幼少年期の私の心に父の原像が浮かんでくることはなかった。けれど思春期を過ぎて青年期にはいるころから、あの、父の原像が次第に強く私の脳裏に浮かびあがるようになった。そしてその頃には、人が人に、それも全く無防備な人間に銃を向けるということの意味が、私にはわかっていた。私はその原像、というよりは私の眼前で起こっていた現実、そこに絶対者として立っていた父親をどう受け止めるべきなのか、わからなかった。父の前に出ると、あの原像の父が必ず浮かび上がり、私は父とどう向かい合ったらいいのかが分からなくなっていった。父が生活を崩したこととも重なって父と私との間の心理的距離は次第に離れ、しかもよじれて解くことが出来なくなっていった。
大学にはいるために父の元を離れた私は父との間にあった緊張の糸が切れたように転々と居場所を変え、当然のように仕送りがなくなったために大学はやめ、父にとって私は行方不明の存在になった。そんな暮らしの中で、私の中で父とあいだの心の関係が逆転した。私が高校の頃酒と薬物の地獄に沈んでいた父がそこから生還した時、今度は私が精神医療の患者になっていた。あるメンタルクリニックで丁寧な面接治療を受けていた時、私のとりとめのない話を聞いていた医師が「あなたはお父さんの前で土下座をしたいのではないんですか」と問いかけてきた。ハッとした。心の一番奥に隠していた急所にスッと触れられたように思った。私は何も答えられず、医師もそれ以上の事は言わなかった。その治療がどんな風に終わったかの記憶はないが、あの時の医師の言葉はずっと私の心に残った。
無防備の人間を銃殺する、そのことが絶対に許されないことであるのに私はそれをただ眺めるだけで阻止しようとしなかった。けれどそれは私が四歳の時のことだったから当然のことだ。けれど病的に混乱していた私の心の中では、時間や状況の断片がジクソーパズルのピースのようにバラバラになっていた。私は父の前に立ちはだかって「撃つな!どうしても撃つならマンジンの前に僕を撃て」と言って父の行動を阻止しなければならなかったはずだ。けれど現実の私は父の後ろに立ってマンジンが撃たれようとしているのをただ眺めていただけだった。あの時の父は絶対者としてマンジンと私たち家族の前に立っていたから、私がその父の前に立ちはだかることは出来なかった。その私に出来ること、それは私もまたマンジンと共に父の前で土下座をして赦しを乞うことだけだ・・・あなたはそう思い込んでいるんでしょう、その思考の混乱と心理的葛藤を乗り越えない限りあなたは今の苦しみから解放されませんよ・・・それがあの時医師が私に言っていたことだったのだ、私がそう気づいたのは医師の言葉を聞いてから十年以上過ぎ、父が自裁した後のことだった。
私は、戦争後遺症として心を病んだ父がおちいった酒と薬物の依存症から生還して私を大学に進ませてくれたにもかかわらず、それを放棄して父との縁を切ったことに強い罪悪感と劣等感を抱いていた。私は父に合わせる顔がないと思い続けていた。その罪悪感・劣等感と戦うことが、私の青春の十年間のすべてだった。けれどその十年の中でチリジリになっていたジクソーパズルのピースを拾い集めて絵を作り直していたら、その最先端に、マンジンに銃を突き付けている父の姿が浮かんできた。その時、「原罪」という言葉がふいに浮かんだ。あれが私の原罪であり、父の原罪であると思った。その原罪の光景から医師の指摘まで三十年、そしてその意味が分かるまで更に十年以上・・・「父の原像」は私の人生の最も大切な時期のすべてを、最も奥深いところで支配していた。
だがそれは、私一人だけのこと、私の父ひとりだけのことだったのだろうか。
(二)傷痍軍人
一九六五年のある日、私は東京・山の手地区にある大きな社会福祉法人を訪ねた。広い敷地には様々な施設があった。知的障害(その頃は精神薄弱と言っていた)児・者施設、児童養護施設、老人ホーム、母子寮、保育園などが軒を並べていた。近くに大学もあるその一帯は文教地区と言ってもいい住宅街だった。その中になぜ多くの福祉施設があったかというと、その広い敷地が敗戦まで兵舎のあった国有地だったからだ。赤紙をもらった招集兵はそこに集合し、各部隊に編成されて戦場へ赴いていったのだった。戦後国はその敷地に様々な福祉施設を建て、戦後処理にあてたのだろう。
そのうちのひとつ、私が訪ねたのは重度身障者施設だったのか、生活保護法による宿所提供施設だったのか、もう記憶は定かではないが、その施設は戦前に兵舎だった木造の建物をそのまま使っていた。大きな建物の真ん中に奥までまっすぐ廊下があり、両側に部屋が並んでいた。廊下に照明装置はなく、薄暗かった。「廊下の真ん中を歩くと穴が開いていて足を突っ込むので端っこを歩いて下さい」と注意された。何しろ戦前から使っている建物なのだ。その施設に収容されていたのは傷痍軍人だった。両足を失った人、両手を失った人、両眼を失明した人、中には両手、両足を失った人達が、薄汚れたベッドの上に転がされていた。
敗戦直後、松葉杖や義足に白衣姿で街に立ち、アコーデオンやハモニカを奏しながら喜捨を乞う傷痍軍人がいたということは田舎の子供だった私も知っていた。けれど私が上京した戦後十年以上たった時には、傷痍軍人のそんな姿はもう街では見られなかった。だから傷痍軍人という言葉は私の脳裏からは消えていた。その人達に、私は不意に出会ったのだ。その驚きに、私は視線を逸らすことも声を出すことも出来なかった。ベッドの上に転がされている人達も何もしゃべらず、視線を動かすこともなかった。その人達が壊されているのは体だけでなく、心もまた壊されていることは明らかだった。その姿と心で、その人達は既に戦後二十年「生きていた」。
それよりも障害の軽い人達(といっても片手、あるいは片足をなくした人達)は、知的障害者を小間使いにして軍人恩給でタバコや酒を買いに行かせ、昼間から酒を飲みながら花札賭博にふけっているという。職員が注意すると「てめえら、誰のお陰でそうやってのうのうと飯を食って生きていられると思ってるんだ。俺達がどんな地獄をくぐってこんな体になって帰ってきたか知ってるのか。偉そうなことを抜かす前に俺の腕を返せ」とすごむので、怖くて注意も出来ないんですよ、と若い職員は言っていた。理は傷痍軍人の方にあった。
前の年には東京オリンピックがあり、日本は戦争の惨禍を乗り越え、経済大国としての道を歩み始めたことを世界に向かって高々と宣言した。そして数年後には大阪万博の開催が決まっていた。その〚繁栄〛の裏側で、傷痍軍人達はそのあとまだ数十年は続くだろう闇の人生を送ることを強いられていた。それが私達の戦後の一面だった。
一九七〇年頃だったと思う。私は都立松沢病院という大きな精神病院に勤務する医師から、こんな話を聞いた。「松沢に戦争で頭に大怪我をして脳に傷がついた人達がまとまって入院している病棟があってね。その病棟では気圧が変化する時期になるとざわざわ荒れだすんだ」「なぜ気圧の変化が精神症状に関係するんですか?」「ほら、例えばむかし捻挫した関節や骨折した後が天気の悪い日にはしくしく痛むことがあるでしょう。あれと同じことで、脳という一番デリケートな生理器官が気圧の変化に敏感に反応するんだな。昔から木の芽時(コノメドキ)になるとキ印の人はおかしくなるっていうけれど、木の芽時というのは春先、気圧配置が冬から春に変わる時期でしょう。その時期になると脳損傷のある人は、気圧に精神が反応するんだな」「どうするんです、そういう時には」「決め手はない。けれどその病棟が荒れた時には医者が行って軍歌を唄うと収まるんだ」
医者と精神病者が肩を組んで《貴様と俺とは同期の桜》って唄うのか、おかしいな、と若かった私はその時思っただけだった。けれどその後、私の中であの時の医師の言葉の持つ意味が変わっていった。医師や看護者は、荒れる病者を鎮めるために様々な試みをしただろう。無論鎮静剤も使っただろうがその効果も一過性のものに過ぎない現実に直面した医師が苦し紛れに病者と共に軍歌を唄った時、思いがけなく荒んだ病者の心が鎮まった、そんなことがきっかけだったのかもしれない。医師にとってそれもまたその場しのぎの一策だったとしても、病者にとってはその時医師が治療者としての上からの目線を捨て、病者と同じ目線に立って自分達の苦しみや悲しみ、湧き上がってくる戦場での恐怖や絶望を共有してくれたと感じたのではなかったか。その時、病棟は戦友会の場になった。元兵士達にとって、戦友会だけが戦場で体験した恐怖、絶望、死との直面、苦悩を語り合い、共有し、一時のカタルシスを得るたった一つの場だ。医師は病者と一緒に軍歌を唄うことで戦友会の一員になった。いっさいの医療行為が無効だと知った時、医師はその先に、人間として悲しみや絶望を共有するという境地を見出した。たとえそれもまた一時的な効果しか持たないことだとしても、それこそが、そしてそれだけが、心と体を病んだ病者にとっての唯一の治療法だということを、医師は私に教えてくれたのかもしれない。あの時松沢に入院していた人達は、おそらく生涯閉鎖病棟に閉ざされた末、ほとんどもう死んでいるだろう。あの医師も既に亡くなった。
この先私に許されている時間がどんなに短くても、私はあの医師と病者たちに教わったことを決して忘れず、可能ならばそのことを次の世代の人達に伝えることが、私にとっての最後の役割として残っていると思う。
(三) 従軍慰安婦
ホームページ「731部隊展」のトップページを開くと、左側に様々なページが目次、あるいは見出しとして列挙されている。そのうちの『第5回 戦争の加害・パネル展(横浜)2020年開催』、のページを開くと、展示される項目がいくつか並び、その内容が簡単に紹介されている。その項目の一つに「従軍慰安婦」があり、そこには以下のように書かれている。
「満州事変、日中全面戦争、アジア太平洋戦争、15年にわたる戦争の中で、日本軍は朝鮮半島などの植民地や占領した中国、東南アジアの女性を強制的に日本兵士と性行為をさせる「慰安婦」を作りました。」
この紹介文では、慰安婦にされたのは植民地や占領地の女性であって、日本人女性が慰安婦にされたという記述はない。なぜだろう。この文の前提にあるのは、「日本人女性はやまとなでしこ、日本軍がやまとなでしこを自国兵士のための慰安婦にするわけがない」という認識、というより根拠のない思い込みがあるからだろうか。それとも日本人慰安婦のことは隠しておかなければ国際的、国内的に都合が悪いという政治的思惑で私達の全員が洗脳されているからだろうか。
一九六〇年代初頭の数年間、私は東京・練馬にある婦人保護施設「いずみ寮」という福祉施設の職員をしていた。昭和33年3月に成立した売春防止法に基づいて建てられた施設だったが、売防法の根底にあったのは(国家が売春を公認していたのでは国際的にメンツが立たない)という恥の意識だったろう。それはともかく、私は居住棟の外に建てられた作業棟であるクリーニング工場で働いていた。入所者は女性だけの施設だったから、居住部分には施設長などの管理職以外の男性は出入りしないということが暗黙の規則になっていた。だから私はMさんとは話をしたことはもちろん、会ったこともなかった。Mさんは脊椎損傷で寝たきりで、それは梅毒菌によることだと聞いていた。Mさんは日本人だが慰安婦だった、ということも聞いていた。そのMさんが、「私がたどらされた道、経験しなければならなかったことを大勢の人に知ってもらいたい」という動機で毎日ベッドの上で自叙伝を書いていると聞いた時、私ははじめ不思議に思った。普通人間は、無残でみじめで恥ずかしい過去は隠す。慰安婦体験はそのきわみにあるといっていい。その、人間としての極北の体験のすべてを敢えてさらけ出そうとしているMさんの心が、その時の私にはわからなかった。それにたとえMさんがその手記を書ききったとしても、そんな文章を出版してくれる書房があるとも思えなかった。
その後「いずみ寮」を運営する法人は千葉県・館山市にもっと大きな婦人保護施設を建
てることになり、その動きからはじき出されるようにして私は「いずみ寮」を辞め、婦人保護施設とは縁が切れた。「いずみ寮」との縁が復活したのはつい最近である。そして私は、Mさんが練馬の「いずみ寮」から館山に出来た「かにた婦人の村」に移りそこで亡くなったこと、そしてかつてMさんが書いていた手記=自叙伝を法人が出版してくれて本になっていることを知った。本のタイトルは「マリヤの賛歌」といい、著者名は「城田すず子」というペンネームになっている。誕生から脊椎損傷で寝たきりになるまでを時系列に従って書かれている本の内容についてはここでは触れない。
この本の「あとがき」は、「いずみ寮」「かにた・・・」両施設の初代施設長だった深津文雄氏(故人)が書いている。その中に、城田さんが深津氏に口頭で言った言葉が書かれている。
「兵隊さんや民間人のことは各地で祀られるけれど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足手まといになると放り出され、荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬か狼の餌になり、土にかえったのです。軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特
殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手をさせられ、なんど兵隊の首をしめようとおもったことか。半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうり込まれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を・・・」
この血の叫びが創作であるはずがない。にもかかわらず、なぜ私達の戦争史、昭和史には城田さんの叫びが書かれていないのだろう。例えば細菌戦、ガス兵器などの史実を隠蔽しているような厚い壁が、日本人慰安婦の史実を隠しているわけではない。ならばなぜ・・・見たくないものからは顔をそむける、それ以上の理由は、私には想定できない。
城田さんが深津氏に語った言葉には続きがある。「四〇年たっても健康回復は出来ずにいる私ですが、まだ幸いです。一年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建てて下さい。それが言えるのは私だけです。」深津氏はその願いを受け入れ、資金を集め、館山の山上に元慰安婦の霊を祀る慰霊塔を建て、毎年その慰霊塔の前で慰霊祭が催されている。広島、長崎での原爆被災の慰霊祭は全世界からの参列者を集め、終戦記念日には国家が慰霊祭を開き、靖国神社があり、千鳥ヶ淵には全戦没者のための墓苑もあり、国中から慰霊の心が参集する。けれど館山の山上にある日本人元慰安婦のための慰霊塔を知っている人はどれだけいるだろうか。
大阪大学大学院准教授の北村毅先生は、次のように言われている。
「沖縄末期の戦場では、沖縄の遊郭の女性、慰安婦、看護婦、軍属・軍人の女性を引き連れて、沖縄末期の戦場を逃げ回っていた将校、下士官クラスの敗残兵が多く目撃されています。これは戦後へと続くこの国の女性全体に対する扱いの問題ではないかと思います。」
沖縄には『ひめゆりの塔』がある。沖縄戦末期に看護要員として学徒動員され、戦闘の中で死亡した女性のための慰霊塔である。それはそれでいい。だが前記、北村先生の文にあるような、実質的に慰安婦とされた女性たちもまた、そのほとんどが負け戦の中で命を落としているはずだ。にもかかわらずここでもまた、彼女たちのことは歴史に記されず、慰霊・鎮魂の碑も建てられていない。彼女達もまた城田さんが言う「ジャングルの穴のほうり込まれ・・・」と同じ運命をたどり、そして歴史や記憶からさえ無視されてきた。
(四)結語
私はこの小文を「父の原像」から書き始めたが、書き終わるためにはもう一度「父の原像」に戻らなければならない。けれどここに書く父の原像は、敗戦後私たち家族のもとに帰還して以後の父の生き様が主題となる。
私の父は敗戦の年(1945)の秋に妻(私の実母)の実家のある、長野県の山村に復員した。けれどその時妻は既に肺結核で死の床に就いていた。翌年の5月、私が小学校に入った翌月、妻は死んだ。医師だった父はその農村で看護婦を雇って開業医をしていたが、その翌年、海軍病院で看護婦をしていた人と再婚、再婚相手とそれまで父の看護婦をしていた人とは同じ村の隣部落出身の幼馴染だった。父と再婚した後妻(私の継母)は、結婚してすぐ服毒自殺を図ったが、失敗して命を取り留めた。父が雇っていた看護婦の腹に父の子がはいっていたのだ。その数年後、父は別の農村に移り住んでそこの診療所長をしていたが、そこでも看護婦に手を付け、村から追放されている。父の心の中では戦後になっても、城田さんや北村准教授がいっているように、身近にいる看護婦は慰安婦だったのだ。そのために後妻を含めた三人の女性の心にぬぐうことのできない傷と屈辱を与え、そして私がまだ子供だった私達の家庭は氷のような冷え冷えとした空気の中に沈んだままだった。それが私にとって、戦後における「父の原像」であり、これもまた戦争の残した後遺症だったと言っていい。
私達が昭和の中へ置き捨ててきた負の遺産は、限りなく大きく、重い。
(2021.1)
※「マリヤの賛歌」
著者 城田すず子
発行所 かにた出版部
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かにた婦人の家
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「マリヤの賛歌」取り扱い
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