12月8日(日)
「おしゃべりカフェ」講演者
遠藤美幸さんです!!
神田外国語大学非常勤講師(歴史学)
★「戦場体験」を受け継ぐということ
高文研・2014年
★岩波書店「世界」8~12月号に
「戦友会狂騒曲」を連載中です!
2019.8.25「おしゃべりカフェ」に参加され、以下のようなお話をされました。
遠藤美幸さん 神田外国語大学教員(歴史学)
2002年から戦場体験者の聞き取りを続けています。主にビルマの戦場の生存者の聞き取りを行っています。インパール作戦の後、1944年6月から9月に、北ビルマと雲南省の境の2000mの山上で約1300人の日本兵が全滅した戦いがありました。これは拉孟戦といいます。現地では「松山戦役」と呼ばれています。「ラモウ」とは日本軍が勝手につけた呼び名です。拉孟戦はほとんどの日本人は知らない戦争ですが、私は関係者に出会ったことがきっかけで、その戦争を追うようになりました。なかなか資料もなく、日本の公文書は怪しい。そこでイギリス、アメリカ、中国の資料を捜しました。並行して全滅戦なので生きている人も余りいないのですが、「生きている人を探そう」と思って、いろいろな慰霊祭などに足げに通ったり、部外者が入れてもらえないが戦友会を紹介してもらいました。2005年からガダルカナル戦とかビルマ戦に従軍した戦友会に、研究者というよりも「お世話係」という形で関わる事ができるようになり、今年で14年目になります。そこではひたすら黙っておじいさんたちの話を聞いていました。当時はおじいさんたちもまだ80才台で元気で付添人はいませんでした。しかし、だんだん付添人でお嬢さんとかお孫さんが一緒にいらっしゃるようになります。
戦友会でどんな話をしているかというと、軍隊特有の隠語が飛び交ったりして、最初は何を言っているのか分かりませんでした。しかし、質問はできません。ただひたすら耳を傾けました。そういう状態が長期間続きました。そのうちに安倍政権下になり「戦友会=右翼のうさんくさい団体」思われがちですが、イメージが先行してか保守系のいろんな人がやってきます。しかし、戦友会のおじいさんたちはそれほど保守でもない、ちょっと違う顔が出てきます。そういう中で「戦友会とは何なんだろう」「お爺さんたちの戦場体験とはどういうものだったんだろう」とか少しずつよそから入ってくる保守系の若者たちの揺さぶりで見えて来るものがありました。揺さぶりの1つが2015年の怒涛の如く押し寄せたマスコミでした。マスコミはインパクトのある記事を書くためにぱっと来てぱっと帰ります。一回か二回来るだけです。そうするとお爺さんたちは喜びそうな定番の戦場体験を用意している。何度も何度も同じ話をするのですが、本当の話はそう簡単には話せません。戦友会でも言えない話がたくさんあることが今になって分かります。上官がだんだん死んでいきます。そうすると話せる話しもありますし、上官がいても「言っていることに対してあれは少し違う」とこっそりと私に教えてくれました。半面、いろんな人が戦友会に入ってくると、戦友会が戦友会でなくなっていくという状況になっていきます。このようにして資料には無い戦場、北村先生がおっしゃっていた「オーラルヒストリー」という方法で聞く経験を積んできました。当時は20名くらい在籍していた戦友も、いま現在は参加できる方はお一人、「最期の一兵」になってしまいました。
相次いで亡くなられるので、お世話係としては、葬式に行くことが度々あり、初めてご遺族(息子さんや娘さん)に出会うことがあります。そうすると「父が足しげく通っていた戦友会は大嫌いだ」と言われることもあります。あるいはまったく連絡が取れなくなる。しばらくすると一通の手紙が届いて「父とは縁を切っていました」との文面。また90歳後半になると娘さんが付き添いでいらっしゃいます。そうなると女同士なので娘さんと交流していくうちにお父さんが亡くなった後に資料を頂いたり、お父さんがどういう人だったのか初めて娘さんの目線で聞くことがあります。今ちょうどその機会が訪れています。次の世代に戦後70年以上を経てどんなふうに家庭の中で体験が伝えられて行くか、もしくは家庭内で起きている色々な事を否応なしに聞く機会が出てきました。私はおじいさんがあと一人なので戦友会を閉じられると思っていましたが、娘さんやお孫さんや奥様も来ています。女性だけが戦友会に集まってきて、その会が小さい「おしゃべりカフェ」になっていると思います。私はタイムリーな時にこの会を知って参加することができて良かったと思います。 しかし、元兵士のトラウマ経験をご家族たち同士が話せると言うのは良い取り組みですが、それができるのもお父さんたちが生きて帰ってきたからです。慰霊祭に行くとビルマでも33万人の兵士の三分の二、19万人が死んでいる。おじいさんたちは「俺の両脇には帰って来れない戦友が二人いるんだ」とよく言っていました。拉孟戦もそうですが中国戦線は遺骨収集や慰霊活動ができないのでなおさらです。お父さんが戦没した遺族の人たちとお父さんが生還して戻った人との温度差がすごくあります。戦争が終わったあとの70数年というのは多面的で色々なグラデーションがありますし、様々なところに波及したことが分かって興奮状態です。
今、真っ最中ですが、岩波の「世界」という雑誌で「戦友会狂騒曲」というタイトルで、「お世話係は見た戦友会」を連載で書いています(8月号から12月号までの連載)。