「今日のひとこと」集
5月9日(土)終日、暗いくもり。時々強風。
遂に開館前日が暮れようとしている。予想通り慌ただしいこれまでだった。お花が二鉢届いた。びっくりした。健康友の会の仲間が3人来て、お茶を飲んでひと談義していった。話していたら少し肩の力がほぐれた。カンパまでいただいた。花も3人の訪問も予想していなかった。嬉しいことだった。その上、新潟県阿賀野市の山田さんから紅白の饅頭が30セット届いた。新潟では建物の竣工だか棟上げだか団子撒きするのが常識だと言う。饅頭の袋を開くとNO・WARと書かれた用紙に5円玉が括りつけてある。5円玉は縁起物に違いない。芸が細かい!!
「団子を送る」の申し出はかねてからあった。コロナ騒ぎで「開館を祝う会」は延期したので人も集まらないし、5月10日はさばけないからと断ったのに3日前に「9日に届く、もう注文した」との連絡があった。そして確かに今日届いたというわけだ。
午後に来てくれた3人に早速、饅頭をお渡しした。格好がついた。場が盛り上がった。何となくお祝いの雰囲気が出て来た。山田さんのおせっかいには只々ありがとうございますの言葉しかない。私は幸せ者だとつくづく思った。皆さんありがとうございます。
いよいよ明日が開館日です。どんな1日になるのやら想像できません。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」にとっては歴史的な一日になるでしょう。
さあ、大胆に羽ばたこう!!
5月8日(金)快晴、風が強い。交流館入り口のテーブルに置いた衝立の案内板が直ぐにひっくり返る。諦めて室内に仕舞った。
今日、メディアから問い合わせがあった。立ち上げの経過だの、父親のことだのと話しは1時間を越えた。最後の頃に「交流館・お茶飲み処」と「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の今後の活動方向について聞かれた。正直に言うと「確たるイメージはできていない」というのが精いっぱいの今の答だ。「これからの活動の中から、今は分からない何かが生まれてくるのではないか」と、答えることしかできない。進むべき何かがその片鱗を見せた時に気づける感性を持っていて欲しい。見逃がさずにしがみついて、進む力を持ち合わせていたい。
5月6日のこの欄の最後に「武蔵村山・中藤地域にこだわる」と書いた。それは2018年に会を立ち上げた時から強く持っていた気持ちだ。心のどこかに、この地域と、あるいは住む人たちと対峙するような肩肘張った感情があったように思う。少々長いが今年2月15日発行の当会ニュースから以下引用します。
① 谷津自治会、稲荷講の一コマをお知らせします。
・2月11日は中藤集落(谷津自治会)の稲荷講の日でした。8時半から集落内のお稲荷様の掃除。10時から懇親会。
・黒井は稲荷講をすっかり忘れていて、11日朝から「交流館・お茶飲み処」の邪魔になる山茶花を一本斬って、始末をしていたら、ぞろぞろと爺さんたちが通りがかりました。
聞いたら「8時半から稲荷講で掃除だよ!」とのこと。
その場で「交流館・お茶飲み処」の説明もしましたが、行事に参加して、「話せる人に説明しよう」とチラシをポケットに詰め込み、徒歩数分のお稲荷さんと谷津公会堂(寄り合い所)に行きました。
・年一回のお稲荷さんの掃除に来た人は約50人。ほとんどが私と同年配か年長者で、地元の老人会(寿会という)とメンバーが重なる、口は達者だが、身体の動きは鈍い年寄りばかり。
自治会の役員と懇親会の準備は若い人たちだ、がそれでも50代がほとんど。
・私は掃除作業をしながら「交流館・お茶飲み処」の話しを新潟県出身Sさん(黒井は新潟市に25年間住み、家も現存する)に話しました。そうしたら「俺がチラシを配ってやるよ!」というびっくり反応。その場で全員に「黒井さんがこんなの作っているんだって!」と言いながら。配布し始めました。それで私に質問が殺到。PTSDを病んだ父のこと、貧乏だった子供時代、父親の無口や仕事を満足にできなかったのは従軍体験のPTSDが原因だったこと、その父親たちの供養を兼ねて「交流館・お茶飲み処」を作っていることを話しました。
・10時から懇親会。爺さんたちは飲み会が本当の目当てなのだ。
・自治会長の挨拶が終わったとたん、Sさんが発言、「黒井さんから記念館のお話しがあります!」私はびっくり。促されて私はその場で立ち上がり、約5分間お話ししました。
終わったら拍手をいただきました。残りのチラシも配布させていただきました。
・飲み会の最中も多くの人たちに囲まれて「交流館・お茶飲み処」のお話しでした。
・子供の頃に直接戦争体験した終戦前に産まれた人、同級生が予科練に志願した人、父親が従軍した人など、戦争についての話しがあちこちで広がりました。
・爺さんたちからは「(交流館・お茶飲み処の)入場料金を100円にすれば気兼ねなく毎日でも行ける」という話が複数の人からありました。皆さん来る気満々!「5月10日の祝う会も行くよ!」と言ってくれる人も!もうびっくりの連続の稲荷講でした。
・飲み会終了後に10人以上がわざわざ建設中の建物を見に来てくれました。感激しました。「案ずるより産むは易し」でしょうか!?
・皆さん!5月10日にお出で下さい!地元の年寄りたちとの交流もできそうですよ!
肩肘張った私の心構えは町内の人たちの「私の活動を自然に受け入れる有様」に出会い、肩透かしを食った格好だった。私は町内の人たちの政治性なりを見誤っていた。ただ保守の塊りのように一派ひとからげに見ていた。それは誤りだった。あの日の予想外の反応が真実を教えている。 また長くなるが5日前5月3日の「今日のひとこと」を引用する。
市内でパン屋さん(知っているパン屋さんでした)を営んでいるという40代と思しき夫婦が散歩途中、掲示板に見入っていたので声をかけました。
話しが弾んで展示パネルを1枚取り出して私の父のことやら交流館前で説明しました。「戦争をしてまともな心で帰られるわけないよね」「知らないことがたくさんあるなあ」などと話して行きました。
自治会の知り合いのOさんは「応援しているよ!」と言ってランニングに行きました。同じく自治会の同世代の顔見知り3人が「そのうちおじゃまします」といってウォーキングに行きました。なんか反応がうれしい。元気の出る3日の午前中でした。
私が言いたいのは「私の予想は事実でそのつど覆された。思ってもみないように事実は進展し展開した」という事です。これがわずかこの2カ月の間に起きたことです。
そして今日から2日後の5月10日(日)10時にひっそりとですが「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は開館します。その日に何人が来てくれるのか、その後はどう推移するのか。分かりません。予想できません。何せ「日本最初で唯一の会館」なのですから。
私はその時の風景、展開の中から次のやることを見つけていこうと思っています。色々考えても、必ず予想外の展開が待っていたのが立ち上げからの2年3か月でした。これからもきっとそうなのです。ただただ必死について行くだけです。「PTSDに苦しんだ、人生を狂わせた100万人単位の日本兵を無駄死にさせない」。その存在を知らない多くの人たちに彼らの叫びを届けたい。知って欲しい。その気持ちをエネルギーにして歩いて行こうと思う。
何度も皆さんに訴えたい。これまでも、これからも皆さんの力添えが、支え、助けだけが私の頼りです。これからも力を貸して欲しい。非力な私の後押しをお願いしたい。
皆さん!諦めずに何ごとも話し合いで解決する勇気を持ちましょう。すべての人々、すべての国々ともいつか必ず仲良くなれる。仲良くなる。暴力に頼ることなく、ましてや戦争に頼ることなく、いつかは必ず肩を組み合うのだという希望を持って進みましょう!
5月6日(水)曇り、10時半ころからぽつぽつと雨、無風。室温18.9℃。やや寒い。
考えてみたら、私は恩人に囲まれていると言わなければならない。どの人が欠けても今の私はいないのだ。本当にそう思う。ありがたいことだ。感謝で一杯だ。
父親のPTSDに気づくきっかけを作った人は今はニューヨークにいる。心の平静の勤行を勧めてくれた人は高知にいる。会を立ち上げて学習会をしたくても団体でないと地区会館(公民館)も借りられない。そんな時に三多摩健康友の会が建物を貸してくれて、初回の「おしゃべりカフェ」を開く事ができた。参加者はさち子と私を含めても僅かに9人だった。その会場にピースボートで知り合った友人が横浜からあきる野の友達を誘って駆けつけてくれた。私は立ち上げの経過を話しながら、父親に触れる箇所では涙があふれ何度と声が詰まった。
5回の「おしゃべりカフェ」皆勤の人がいて、いつも友達を誘ってくる。遠い昔、私が学生運動の端くれだった時代の先輩も会員になってくれている。同じく学生時代からの「悪友」は関西での私を呼んでの学習会開催の働きかけを進めている。「おしゃべりカフェ」開催ごとに手伝ってくれている我が家の家族たち、妻さち子は懇親会一切を引き受けている。娘も母を手伝う。娘の夫は「おしゃべりカフェ」の音響と映像の係り、12月は彼もメンバーの「タコス」として演奏してくれた。私の甥の一人は受付係を最近2回やってくれ、2月からサンチャゴ勤務になった。もう一人の甥の妻が交流館の2枚の看板を毛筆で書いてくれた。娘の夫の長野のご両親にも支援をいただいている。近くに住む妻の姪は開館祝いの花束を持って家族で来てくれた。家族たちには「いつもいつもありがとうございます」の言葉以外ありません。
生協職員時代の元の同僚の人たちからは「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の建設、開館に物心両面での心づかいをいただいている。最近、肉腫の手術をした彼は片道4時間電車に乗り「おしゃべりカフェ」の手伝いに2度も泊りがけで来てくれた。5月10日の開館祝いに頼んでもいないのに「ご近所や当日来てくれた人に配る祝い餅」を「9日に届く」と電話してきた男がいる。みんなみんな、ありがとうございます。なかばおせっかいな人たちに囲まれて私は幸せです。
兵士のPTSD、関係する歴史研究者の皆さんには、海の物とも山の物とも知れない立ち上げ間もない時から、手弁当で講演などしていただきました。開館に際しては貴重な資料、著作を寄贈・ご提供いただきました。市民運動の活動を続けている皆さんからは当会の活動紹介を広げていただいています。
こうして挙げてみると何から何までお世話になりっぱなしです。私一人でできたことなど何一つない事に気付きます。
「兵士のPTSDの語り部になる」とピースボート航行中に宣言した2年後の2018年1月17日にブログで立ち上げ宣言するまでの逡巡、孤立無援の辻立ち覚悟で始めた活動がわずか2年でここまで来れるとは予想もできませんでした。4紙の新聞、岩波の世界などに複数回紹介いただきました。ホームページも多い時は月に300人以上の皆さんが見てくれています。考えていた何倍もの広がりを持つ活動、存在になっています。
これからも周りの皆さんの力添えが必要です。皆さんの助けだけがこの活動の成否を握っています。これからもこれを読んで下さっている皆さんが頼りです。皆さんのお力をお借りしてこの活動を広げたい。この世では自らの言葉を持てずに、沈黙したままあの世に逝った多くのPTSDの兵士たちの心の叫びを世間の人たちに伝えたい。2度とそういう兵士や苦しむ家族を生むことのないように。
私は地域に、武蔵村山市に、中藤・谷津にこだわってきました。朝起きて顔を合わせる人、畑に行く途中で声を掛け合う人、町内のお祭り、バスの慰安旅行をともする人たちには何より真っ先に理解してもらいたかった。
いずれ、何年か先に私は武蔵村山市中藤3-15-4で息絶える。その時はこの地に眠りたい。この地域の一員としてこの地の土となりたい。こういう人間もこの土地にいたとして・・・。
私は普通に戦争の事を周りの人と話したい。ためらいなく、タブー視しないで、ごく普通に地域の人どうしが話せる空気を作りたいのです。兵士のPTSDや、戦争孤児、空襲、原爆、兵器のことを、派生する平和のこと、非暴力(暴力)の事を普通に、人どうしが遠慮なく話せる世界を地域に作りたいのです。そう願ってきました。「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」開館はそういう意味もあるのです。
5月5日(火)快晴。
今日は15時開館予定です。3日程前、多摩市に住む孫娘ひかりちゃんからTV電話で「子どもの日パーティーに来てね」という絶対ダメと言えない電話があり、娘夫婦のところにお昼食事会なのです。9時出発と妻から言われています。
それまでの短い時間のあわただしい開館準備。
朝にPCを開けたら「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」活動の「恩人」から「書籍贈呈します」とメールがありました!超うれしい!
この恩人の本やご本人との交流なしに今の活動はありません。恩人が時々新聞・TVにお出になるので本当に勇気づけられます。元気に頑張ってもらいたい!心から願っています。
武蔵村山市から多摩市聖蹟桜ヶ丘まで15km程度なのに車で1時間以上かかる。それが今日は渋滞なくスムースに行けた。この地で生まれ育った妻がいつも運転する。今は道路わきの色とりどりのつつじが美しい。通行中、何度となく「きれいだねえ」と妻と言い合った。いつの間にか街路樹のマロニエなどが茂ってきて何となくうっとうしい。「切った方がいいね」と思う。
雑草なのだが「カラスノエンドウ」の群生の紫も美しい。雑草というにはふさわしくない見事な姿と思う。10年以上前、コープ共済連の仕事をしていたころ、大阪・西中島南方のホテルから早朝に散歩に出た大阪・淀川の河川敷に遠目からもきれいな紫色に惹かれて近づいたらカラスノエンドウの大群落だった。あの時の感動、驚きがすうっとよみがえった。
5月4日(月)朝からの雨が昼前に上がりました。
17時現在、24℃。少し蒸す感じがあります。
今日は朝から「5月10日(日)開館します」のメッセージをメールで150通、郵送で35通発信しました。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」立ち上げ後に知り合えたみなさんが大多数ですが、生協で働いていた時代の同僚、甥や姪の皆さんにも送信いたしました。
もっと多くの皆さんに直接にお知らせしたいと思っています。これをご覧の皆さん、ぜひ次のアドレスにご連絡ください。時々のお知らせをメール送信いたします。よろしくおねがいいたします。黒井秋夫メールアドレス(qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp)
コロナ緊急事態宣言という事で、「10日開館いたします」と言っても、実際の訪問者はほぼゼロと想像しています。しかし、実際に準備していると意外と作業量があることを思い知らされました。トイレの案内とか表示とか、色々様々細々と。大体の準備は終え、開館の日を待つだけという心境なのですが、その日になれば落ちていることがあり、慌てるシーンも覚悟しています。訪問者が徐々に増えてくれた方が慣れの準備ができて良かったかもしれないと思っています。
さあ、あとは羽ばたくだけ。ひとおもいに巣立ちのジャンプだ!!
5月3日(日)薄曇り。室温は正午現在、25.9℃。
今度の日曜日、1週間後の5月10日(日)10時に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を開館します。
入館者表(受付表・感想記入)用意し記入用のガラス板を2枚テーブルに配置しました。カンパ箱も置きました。開館日、休館日のカレンダーを掲示板に出しました。開館時間、休憩時間も用意しました。トイレと洗面所には悩みましたが、さち子と相談の上、母屋のトイレを使用していただく事に致しました。その案内も掲示しました。掲示板を書き換え『2日で交流館周辺550戸にお知らせ配布しました、5月10日開館します、コロナに負けずに頑張ろう!』としました。
私の日常はすっかり変わりました。現役時代の出勤退勤生活に戻ったようです。
交流館に皆さんをお迎えする用意、準備の毎日の仕事を順序だてて手際よくこなす必要があります。開館の看板を出したり、暖簾を下げたり、付近の掃除、花壇の水遣り。掲示板の書き換え。などなど。解放する母屋のトイレや洗面所の掃除も当然毎日の私の仕事です。家族には120%協力してもらっているのでこれ以上の負担はかけられません。
朝食はさち子と生活リズムが違うので毎日私一人で食べます。その後、家事の自然にできた役割分担の掃除やら片付けやらします。
仏壇への勤行は高知のキリスト者の友人に勧められ(友人はイエス・神への祈り)続けて3年くらいになります。家族友人と仲良く楽しい一日になるように。癌などの病気と闘っている友人達の完治を祈ります。周囲の皆さんどうしも仲良く楽しい一日であること。大きく言って世界の人たちどうしが仲良く楽しい一日であること。などなど今は亡き父母、兄弟の写真に向かって祈ります。不思議と心が落ち着くようになりました。
開館の準備作業をして分かったことは「店舗を毎日開くのと同様の仕事があるのだな」という事です。
母屋の仕事が終わったら必要道具を手提げに入れて交流館に出勤します。そこから店舗の主人としての仕事が始まると言う訳です。昼を挟んで夕方5時に退勤。パソコンなど仕事は全部会館に置いて行きます。そうでないとメリハリがつかないと分かりました。
市内でパン屋さん(知っているパン屋さんでした)を営んでいるという40代と思しき夫婦が散歩途中、掲示板に見入っていたので声をかけました。
話しが弾んで展示パネルを1枚取り出して私の父のことやら交流館前で説明しました。「戦争をしてまともな心で帰られるわけないよね」「知らないことがたくさんあるなあ」などと話して行きました。
自治会の知り合いのOさんは「応援しているよ!」と言ってランニングに行きました。同じく自治会の同世代の顔見知り3人が「そのうちおじゃまします」といってウォーキングに行きました。なんか反応がうれしい。元気の出る3日の午前中でした。
5月2日(土)予報通りの夏日になった。16時の室温27℃。
さっきさち子が抹茶蜜まめを届けてくれた。口触りが良い。実はその時、ロフトで寝ていた。風が気持ちよかった。
ここは狭山丘陵の一角の住宅地なので結構な昇り下り、高低差がある。朝、7時半から配布を始めて9時にいったん戻り休憩した。その時点で「疲れたなあ」と独り言。水とコーヒー、菓子をお腹に入れて再度出発。11時に終わった。撒き切った。昨日より、今日の地域の方が土地勘があるので気持ちに余裕があった。
遂に昨日と今日で550戸にA3お知らせを印刷した分は配布しきった。しかし、配布できなかった区域が残った。150戸くらいはあると思う。自治会情報では対象区域は400戸台と聞いていた。しかし、実際は700戸くらいあると分かった。谷津自治会は165会員。寿会(老人会)の会員は60人台。という事は自治会に加盟ししているのは対象の25%という事になる。4分の3は未加盟だ。寿会に至っては対象の推定10%台だろうとの予測がつく。
私がコープ共済連の仕事で連合会(当時は新浦安にあった)に着任したのが2000年。結婚して妻の実家のある武蔵村山市に移ったのが2003年。17年経った。地域に馴染もうと自治会の種々の行事に積極的に参加した。老人会にも誘われそれらの末席の役員だが何度か引き受けた。65才を越してからシルバー人材センターや健康友の会にも仲間ができたが、居住地の自治会・老人会の顔見知りの存在感の占める比率は高いと感じていた。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げた時、おシャベルカフェを真ん前の中藤地区会館での開催を決めた時、「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の建設を決めた時も自治会や老人会の知り合いの受け留めを真っ先に気にした。彼らはどう思うだろうか!?と。お祭りの旗揚げ作業などには80人前後の自治会員が集まる。各種の飲み会には40人くらい集まる。普段の私が声を掛け合う、知り合い・世の中、世界の範疇のほぼ全てが彼らなのだから。彼らにプラスの受け留めをしてもらうことは、少なくとも「交流館・村山お茶飲み処」の成否には大きくかかわると覚悟して来た。
550戸(地域全体は700戸ある)を撒いて思ったことは地域での自治会員の割合が少ないこと、圧倒的に少数派である事。別の言い方をすれば、この地域700戸全体を第一地盤・対象地域にお知らせ配布などを考えようと言う事だった。何かくびきのような物から少し自由になったような気分がある。
今日の配布中に出会い声を交わしたのは6人。全てが自治会の知り合いだった。彼らの反応は悪くない。2人は「交流館・村山お茶飲み処」に入ってくれた。これからだ。私がしっかりせねばいけない。
5月1日(金)
2019年6月4日のHPブログに阿波根昌鴻さんの「命こそ宝」の感想に次のように書いた。
「反対派より多数になって実現する」と「反対派の人たちにも納得してもらい実現する」では社会への働きかけの一歩から違うだろう。すべての人が支持をする。すべての人が納得する。ある面ではそれはあり得ないように見える。多分近い未来ではあり得ないと思う。少し宗教的にも思える。しかし、その事を最終目的にして諦めずに追求しづける、納得してもらうまで話し合いを続ける、その心が活動する者たちに必要なのではないのか。それは言うまでもなく暴力では実現できない事なのだ。
おそらく、上記の考え方は今後も私が活動を続けて行く根本であり続けると思う。「私に敵は一人もいない。誰とでも手をつなぐ心構え」に徹するつもりでいる。そうすると気が楽になる。今はどのように意見に隔たりがあっても話し合えばどこかで折り合える地平があるはずだ。そういう精神で人と接したいと思う。人を色分けする必要がない。そもそも、そういう見方から自由でありたい。
どんな意見でも聞く耳を持とうと思う。正面から向き合いたいと思う。違う世界の意見だと言うような線引きはしないつもりだ。どこかに接点があるはずだと探したいと思う。私はしつこく食いついて行きたいと思う。逃がしたら駄目なのだ。指一本でも良いから握り合える接点を探すつもりだ。
この世の中から戦争を無くしたい。暴力による解決は絶対にしない。どこまでも話し合いで解決する道を探す。としたら、お互いの合意できる何かを相互に確認し合うことが必要だ。
それは難しいことだろうか?私はそうは思わない。きちんと向き合えば必ず見つかるに違いない。私は探し続ける。話し合いを止めない。とことん相手の意見の中に入って行こうと思っている。
今日、2020年5月1日(金)、ご近所300戸にお知らせチラシを郵便受けに配布して歩いた。明日も午前中は今日の場所よりも北側一帯に同数位を配布して歩くつもりだ。昨日、4月30日、武蔵村山市役所に行った。市議会事務局に市議20人分、市長・副市長、観光課に同じお知らせを渡してきた。
政党とか会派とか私は区別しない。今日の戸配でも家々の所々で支持政党のポスターを掲げている家があった。支持政党などお知らせを配布するかしないかに関係ない。全ての人たちにお知らせしたい。接点を持ちたい。そういう私の意思表明でもあるのだ。
「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は誰彼なく自由な会話がある、交流がある、そういう場所にしたいと思っています。めざすこと、夢も大きく持ちたい。ここから何かが生まれる、なにかが変化する、そういう場所にしたいと思っています。
私がしっかりしなければならない。
阿波根昌鴻さんはそう言っていると思う!
2020.5.1 黒井秋夫。
4月30日(木)
3点のお知らせをいたします。
①写真右 「武蔵村山市報ひろば」5月1日号に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」5月10日開館します!の案内を掲載いたしました。
②写真左上 東京・多摩地地域を中心とした市民活動情報誌「市民活動のひろば」5月号に「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」5月10日開館します!の記事が掲載されました。
③写真中 A3版のお知らせを武蔵村山市の市長、市議会議員、商工観光課にお届けします。同じお知らせを「交流館・お茶飲み処」周辺500戸に配布します(ウォーキング兼ねて頑張ります!)。谷津自治会、中藤自治会、寿会(老人会)の皆さんに行き渡るように頑張ります。
4月28日(火)朝から晴れです。午後は昨日同様に雨になるらしい。
昨日27日、秋田、新潟、千葉、都内から荷物や便りが届きました。いずれも「交流館・村山お茶飲み処」の開館に関する事柄でした。
看板は私の甥の妻、直実さんが書いてくれました。力強い立派な書です。写真の通り早速入口に飾りました。私の家族、妻さち子、娘家族、甥や姪の家族にいつも後押ししてもらっています。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。力をもらっています。
本当にたくさんの皆さんに支えられて、この活動ができていることを実感しています。自分の思いの発露が発端ですが、多くの皆さんの思いも既に合流しているのだ、そのように動いている活動なのだと思わされました。皆さんのお力添えには本当に感謝しています。同時に公的存在としての自覚・責任も持たなければならないと思っています。皆さんの励ましに助けられてきましたが、時には厳しい意見、ご批判、ご指摘も遠慮なくお願いしたいと思っています。これからも宜しくお願いいたします。
今朝、白い子犬と散歩の女性が通りかかり「コロナに負けずに頑張ろう」の看板を指して「いいですねえ!」と声をかけて行きました。また、自転車の女性が足を止めて花壇の「やまハンショウヅル」の花を「きれいですねえ」と言ってくれ、そこから話が弾んで、アイヌ刺繍の暖簾や鯉のぼりの掛物に感心するので作者のさち子を呼びました。それから、さち子の手芸サークルに参加する話しに繋がり連絡先を書いて行きました。
コロナの外出自粛でほとんど人通りは絶えましたが、そんな中でも声を掛け合えば新しいつながりができていきます。嬉しいですね。緊急事態宣言が解ければ人通りも戻ります。そうすれば今以上のつながりや交流ができるという確信に近い予感を持てています。
新潟市議会議員・中山均さんのFacebookを時々見ています。新コロナウィルスの発生の原因、経過をYouTubeの動画を日本語訳して掲載しています。黒井秋夫のFacebookでもシェアして掲載しています。ぜひご覧ください。コロナウィルスはコーモリから始まったという説があります。
コーモリの活動範囲が人里離れた森林地帯にあった頃は人間社会と遠かった連環が、人類が居住地をどんどん広げてコーモリの生息地に近づいたことで接触機会が増えて、遂にコロナウィルスに人間が感染した、という説明の動画です。中山均さんのFacebookにコメントしましたが感染症と自然破壊(コーモリの都市近郊への住処の移動)の繋がりに戦慄を感じました。「猿の惑星」は核戦争が人類を滅ぼす未来ですが、そのような大げさな事件ではなく、普通の人が普通に生きて来た事(経済活動)が自覚なく自分自身の首を人類は締めているという告発です。底の見えない泥沼を見ている思いがします。
4月27日(月)陽は射しています。薄曇り。風は余り感じません。
今日は7時半に家を出て8時から12時までの半日、3人の仲間と大南東公園の掃除作業です。5月も6日間シルバー人材センターの請負仕事です。午後13時に開館予定です。行って来ます!!
4月26日(日)快晴です。
午前9時半ですが風が強く肌寒く感じます。犬の散歩も含め交流館脇を通る人はほとんど見かけません。湘南海岸も戸越銀座商店街も1週前とは大違い、昨日は閑散。日本人は真面目だなあと思います。今の局面では大事な事と思います。ただ、政府や軍やマスコミに操られ戦争に突き進んだ日本国民の過去の歴史と重ねると・・・・。しっかり自分の意見、考えを持って指示する人たちの真意を見極める目を持ちたいとも思います。
昨年9月~11月に前立腺ガン再発で放射線治療を受け、12月には心房頻拍で心臓のカテーテル手術から間もない我が身の免疫力からして、新型コロナウィルスは本当に脅威です。逃げ回るしか方策はありません。
昨日、昭和15年1940年5月8日付けの父親・黒井慶次郎あてのラサ工業、田川炭鉱発行の表彰状が見つかりました。何度となく見たはずですが一番分厚い満州事変記念アルバムに挟んだ状態で出てきました。業務精励により貯蓄債権を授与するという内容です。
ラサ工業、田川炭鉱は1960年まで開鉱していて434人が閉山時に働いていたとあります。ラサ工業は現存し東証一部上場企業とあります(ウィキペディアより)。私は父が日本に復員した時には徴集前に働いていた炭鉱は閉山していて失業したと思っていました。しかし、実際は私が12歳(中学生)になるまで前の職場は現存していたのです。
推測ですが、炭鉱に戻ることができたのに復職しなかった、ということだったのでしょう。父が復員後に仕事を探しても定職に付けなかったのではなく、帰るべき職場があったのに戻らなかった。勤労意欲を失っていた、というのが真相に近いのではと思います。
正直、新しい発見に少し驚いています。本当に我が家の家計は火の車でした。貧乏な暮らしでした。どうして父は定職につかないのか。そういう努力をしないのか。全ては父親がだめだから・・・・。情けない男、私はそう思っていました。
さらにはっきりした思いです。戦争の後遺症・戦争神経症の状態だった、と私は確信します。元の職場に戻りたくても戻れなかった。そういう意欲は戦争神経症状態では湧いては来なかった。そういう風に理解することができるでしょう。
徴集されたころの昭和維新の先駆者足らんとした若者は15年後に様変わりした祖国の価値観に戸惑い、右往左往し、自分の羅針盤を失い苦悩の日々を送っていたのだと。何といたわしい。
4月25日(土)快晴です。
昨日24日は以前から予約をいただいた二名に入館いただきました。初めてお迎えした訪問者でした。10時半から1時間半ほど興味を持っていただいたことやら、お仕事の事やらお聞きしました。当然ながら「交流館・村山お茶飲み処」の建設趣旨や展示物の説明を私はいたしました。
お二人とも71歳の私からすると子供世代の方ですのでとてもうれしい時間で頼もしく思いました。仕事場も立川市内で近いのでこれからの交流も約束できました。
昨日は組み立てを断念したログハウス風テーブル。提供者の阿賀野市の友人山田さんから心配して何度か連絡をいただき、やっと理解でき、朝の挑戦で一発でできました。できてみれば「コロンブスの卵」でした。私の硬い頭では想像できなかった組み立て方法ですが、分かれば簡単。こんなことは他にもありそう。何となく反省しました。「交流館・村山お茶飲み処」の室内も全て木造なのでテーブルは早くも馴染んで存在感抜群です。山田さんには心から感謝です。ありがとうございました。
姪夫婦から頂いた花を飾りました。免疫力が高まりますね。
多くの皆さんに支えられていると感じています。沢山のありがとうをお送りします。
昨夜の雨で空気が洗浄されて、近くの竹林の高台から予想通り、雪の富士山が
きれいに見えました。
館内はパネルも展示しています。会の活動記録もファイルにして公開しています。
5月10日(日)の正式な開館には十分間に合う状態です。道路側の掲示窓にも5月10日(日)開館と記しました!!多くの皆さんに助けられ、支えていただいていることに心から感謝申し上げます。期待に応えられるよう進んで行きたいと思います。これからも皆さんのお力添えを宜しくお願いいたします。 親父!見てるか!