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父と暮らせば(19)「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」ができた理由

■「父と暮らせば」を書き継ぐのは時に苦しい。私の知っている父は覇気に欠けた。困難に会うと立ち向かえなかった。私にはそう見えた。今は亡き父を一方的に断罪しているとも言える。既に父は反論できない。子が父の恥を晒していると非難されても仕方がないし同調できないという人もいるだろう。

 

・それでも私は書き続ける覚悟だ。

「覇気に欠けると見えた」のが戦争体験によるPTSDだったとしたならどうなのだ。

だとしたら「覇気に欠けると見えても」それは父の責任ではない。戦争が原因ではないか。日本が戦争を始めたのが原因ではないか。「従軍したが故に心に傷を負い」本来の自分とはかけ離れた(時にはかもしれないが)息子には覇気がないと見える

父親としてしか生きることができなかったとしたらどうなのだ。

そして否応なく影響を受けざるを得なかったPTSDの復員日本兵の子供たちや家族はどうなのだ。

 

・父の恥、家族の恥として自分たちの心の中に仕舞い込むのも一つの方法だ。

しかし、それでは戦争中に戦争神経症の兵士や負傷兵を「一人前の兵士ではない」として扱い、無い事にしたり、恥と

した戦前と同じ発想に繋がるのではないのか。

 

・私が本当に言いたいことは「私の父はPTSDの復員日本兵だった」と言う事ではない。

 本当に言いたいことは「私の父をPTSDの復員日本兵にしたのは戦争だ。日本が戦争を始めたから起きた事だ」と言う事なのだ。 「戦争が無かったら、日本が戦争を始めなかったら覇気のない父親ではなく、はつらつとした父親が存在したかもしれない」と私は言いたいのだ。

 

・「私の父親は覇気に欠ける人間だった」と言う事を公にしたいのではない。

「覇気に欠けるように見えた父親にしたのは戦争だ。日本が戦争を始めた事が原因だ」と私は言いたいのだ。

 

・「私の父はPTSDの復員日本兵だった」と声を出すことは様々な重圧や葛藤と向き合い続ける事だと言わなければならない。

 

・たしかに、私の父にはそれと分かる重いPTSDではなかったかもしれない。

医者や病院の精神科で治療を受けたこともない。

 

・しかし、腑に落ちない事が多々ある。満州事変に従軍した時のアルバムに記したはつらつとした青年らしい姿が私の知  

 る戦後の陰鬱な父の印象とは余りに隔たっているのだ。

戦争体験が父の精神に大きな変化をもたらしたとしか思えないのだ。そうだとしたら腑に落ちるし説明がつく。

しかし確証はない。

 

・この文章を読む皆さんの中にも私と同じように「腑に落ちない父親像」に悩んでいる人たちがいるかもしれない。

 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」はそういう人たちが「心を開いて語り合う場所を提供する」為にできたのです。そういう場所はまた心ある多くの人達の優しいまなざしがあって初めて成立するのだと思います。

 

・「腑に落ちない父親像」に自分だけで悩んだり苦しんだりするのは止めにしようではありませんか。

意見交流の場に集ってほしい。声を上げてほしい。みんなで渡れば怖くはない。

そうだ!みんなで渡れば怖くはないのだ!