祝 開館1周年!
祝 来館者1000人突破!
日本最初・唯一の
「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」は
2020年5月10日の開館日から2021年10月16日まで
1250人の皆さんに
ご来館いただきました!
2021年8月11日(水)朝日新聞
黒井秋夫が生まれた部落のお寺は泉流寺と言い徒歩5分です。
このお寺に斉藤秀一(1908~1940という)エスぺランティスト、ローマ字普及者がいた。
斉藤秀一が今朝の朝日新聞で紹介されている。
私は幼い頃、父から「偉い人」として斉藤秀一を教えられたことを覚えている。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」
7月1日号公開します!
黒井秋夫のオンライン講演(2021年2月11日)を
視聴した田中章子さんの感想などを紹介します!
掲載誌【原発の危険性を考える宝塚の会ニュース229号(2021年4月30日発行)】
戦争のもうひとつの暴力 ~復員日本兵の心的外傷ストレス障害= PTSD を考える ~ 毎年2月 11 日に宝塚の7団体が開催している『ぶっとばせ軍国風 宝塚集会』も 35 回目を迎えました。
戦争のできる国に段々近づいているのではないかしらと心配な現在 です。コロナ拡大を危惧しながらですが、戦争を考える機会にしたいと Zoom も活用し 集会を開くことになりました。しぶとく継続していくことが大切だと思ってのことです。
今年は≪PTSD の復員日本兵と暮らした家族が語り合う会≫代表の黒井秋夫さんのお 話を聞きました。実行委員の 1 人が是非この方の話を!と推挙されたことが納得できる 実のある講演でした。
黒井さんは、職に就かず無気力な、母に苦労をかけどおしの父を疎ましく思い、父親失 格と見ていました。が、父の死後、ベトナム帰還兵アレン・ネルソンさんから戦争後遺症 で家族と良好な関係を築けなくなったという話を聞き、初めて父も戦争によって傷つき 長く苦しんでいたのかと思い至ったのです。そして、父親に対する自分の気持ちを後悔 の念で振り返り、≪PTSD の復員日本兵と暮らした家族が語り合う会≫を立ち上げ、多 くの復員兵家族と体験談を共有してこられました。
復員兵の家族は、アルコールや薬物やギャンブル依存、暴力を振るう父親のことを恥 と思って語れずにいましたが、この会に参加し、同じような体験をした方々と話し合う ことによって、心に変化が訪れカラを破ることができたと言われます。戦争から時間が 経ったことで語れるようになったということもあります。
父親がなぜ PTSD を発症したかの黒井さんの分析は、「命をかけた戦争を戦後国民が 全否定し、アメリカから与えられた平和憲法を受け入れ、子ども達は父親がやったこと を悪と見なし、子どもに否定された父は心を病んでいったのではないか」というもの。 表向きは「日本兵に精神障害はひとりもいなかった」と医師が証言していたが、820 万人の復員兵のうち約 1/4 が PTSD ではなかったかと推測され、何の治療もなく家族 の元へ帰された。傷病兵の治療に当たっていた陸軍病院の精神疾患患者のカルテ 8000 人分が、敗戦時に出された焼却命令に背いて(ドラム缶に入れて埋め)残されたが、のち 精神科医による分析の論文が書かれただけ。個々の記録は関係者が生存する 50 年間は 公表しないようにと元軍医からの指示が守られ、闇に沈んだままだった。論文は医学に は役立ったかもしれないが、50 年間の医学の沈黙は、復員兵自身や家族には長い苦しみ を与えることとなり、一番苦しんだ人は亡くなっていった。
黒井さんは、今からでも遅くないから解明してほしいと願って活動しておられます。
戦争責任を取らないのは国だけでなく、部下の PTSD の原因を作った上官(その人もま た戦争の被害者でもあるが)も反省していない。復員兵士の PTSD についてもっと知る ことで、戦争の悲惨、後の時代や子ども世代にまで続く被害を明らかにして、「戦争をし てはならない」というメッセージを発信していこうとされています。
そのため、思い返し理解を深め、今になってようやく家族が語り始めた戦争の傷跡を 内輪だけにはせず、黒井さんは自宅を≪PTSD の日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み 処・子ども図書館≫として開放することにしました。
「父親の振るった暴力は、父の本性ではない。戦争の PTSD だ」ということを知り、 家族が癒されるのが第一段階とすれば、第二段階は子どもや青年に語り継ぐことと黒井 さんはおっしゃいました。交流館が子ども図書館でもある所以です。
ひとつのエピソードを話してくださいました。父の赴任地であった中国のある地方か ら日本に留学している女性教師が来館された。その時父が「秋夫、謝ってくれ」とこの人 を呼び寄せたと感じた黒井さんが、「父親たちを許してほしい」と伝えると、彼女は「責 任は国にあり、兵士は加害者ではあるが、被害者でもある」「民間レベルでの日中友好を 進め、日中の溝を埋めていきましょう」と応えた。 短い時間に次々と話が進みます。黒井さんは「戦争はしません。和解しましょう。武器 は持ちません」という意思表示として家に白旗を掲げておられます。
「白旗宣言」という 黒井さんの反戦行動のひとつです。 お話を聞きながら、父も犠牲者であったことを知らず、生前の父を愛することができ なかった黒井さんの悔恨を思うと、戦争は取り返しのつかない傷を残すと改めて強く感 じました。ただその思念が黒井さんを、父に対する自分の無理解を埋めるため、父をあん なにした戦争が二度と起こることのないように、思いつく限りのことをするという熱心 な活動に駆り立てているのだろうと、救われる思いでもありました。 一度お話を聞いただけでは理解が足りませんし、この報告でも全部は書ききれません。 黒井さんの講演など You Tube で視聴できます。検索してください。 (たなか)
・・・・・・・参加された方の感想の抜粋・・・・・・・・・
◎ 戦争から帰還した人々の PTSD のことは今回初めて知りました。戦争責任のあり方 も問い返されます。 「白旗のぼり」いいですね。日本国憲法前文の問いかけの表し方のひとつですね。 黒井さんは私と同じく 72 歳でこの運動を「若者へつなぐ」との視点で運動されてい くとのことですね。本日のリモートに若者が参加されていましたか? 私共高齢者仲間 だけでは運動も消え去りますので。
◎ 適切な動画と説得力のある説明でよく理解できました。 今回の問題については、これまでは主にベトナム戦争での米国帰還兵に生じた問題と しての認識しかなく、国内の身近な我々の親世代にも同じことが生じていたのだという 説明には、目から鱗が落ちる思いです。国内で PTSD が話題になり出したのは、阪神淡 路大震災ころだったと思うと、戦後の国内での帰国兵の異常行動は本人の気質として扱 われてきたとの指摘に納得すると同時に、歩みはスローですが医学・科学の進歩の功績 も感じました。
◎ わかりやすいお話でした。 昔(多分ベトナム戦争後のころ)日本兵は「精神」を病んだ人はいなかったと聞いたこ とがありましたが、やはり「嘘でしたね」 朝ドラ「カーネーション」で、心を病んだ幼馴染の復員兵が出てきました。彼が戦後ど のようになって子どもがどうなったかまで描いてほしかったですね。NHK が描いた彼は 再度招集されて戦死。描かれただけでも進歩だったのかもしれません。 黒井さんのお話に今のコロナやモリカケ・サクラとも通じる「隠す」ところが、全然変 わってないなと思いました。 戦争 PTSD のことを教えていただきありがとうございました。友達にも話します
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」
5月1日号公開します!
読者の皆さま
「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を昨年5月10日に開館して以来1年になろうとしています。
コロナ禍にもかかわらず5月2日までで743人の皆さんにご来館いただきました。心から感謝申し上げます。
この1年、各種報道機関に活動が取り上げられ「PTSDの日本兵と家族の存在と苦難」が社会に少しずつではあれ注目され知られるようになりました。
更に多くの人たちに「PTSDの日本兵と家族の存在と苦難」が知られることが「戦争をしてはいけない」という世論を作り「日本が二度と戦争をしない・誰もが安心して暮らせる社会」を作ることに繋がると信じて活動を続けます。
これからもこの活動にご支援とお力添えを下さいますよう心からお願いいたします。
皆様がお元気で毎日を過ごされるよう祈念しております。ありがとうございます。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」 5月1日号
★吉田裕さん講演会延期のお知らせ
★5月16日の「吉田裕さん講演会」は東京都に緊急事態宣言が出された状況から共催3者で協議をしていますが5月16日は中止とし、延期することといたしました。本当に残念です。
延期時期としては戦争に関連する行事や報道が例年多くなる8月を考えています。
決定しましたら「語り合う会ホームページ」、「語り合う会6月1日号」などでお知らせいたします。
開催の際は多くの皆さんの参加をお待ちしています。
李素楨さんとの交流日誌 5月1日
李素楨さんのZOOM中国語講座を月3回学んでいます。とても楽しい授業です!
(1回2時間×月3回の授業で格安2千円。ご希望の方は08011213888黒井まで。詳細をお伝えします)
・日中口述歴史文化研究会常務副会長 吉林長春師範大学 教 授 法政大学 講 師
・黒井秋夫の父・黒井慶次郎の初徴集の初任地、中国吉林省公主嶺の出身。1993年来日。博士。
・研究分野、口述歴史学、日本植民地教育史。著書『日本人を対象として旧「満洲」における中国語検定試験の研究』等;論文「日本軍 513 部隊の口述証言及び細菌戦に関連する文献の調査研究」など多数。
・「PTSDの日本兵と家族の交流館」に2020年8月23日に来館され、以降交流が続いています。
★12月11日の「NHKおはよう日本」で5分間放送されました!
webアドレス https://www.nhk.or.jp/shutoken/ohayo/20201211.html
YouTubeにアップされています。「PTSDの兵士と家族の交流館」で検索してください
★学習会・講演会を開きましょう!
★黒井秋夫が語り部を務めます。全国どこでもOKです。交通費含め費用はかかりません。
★2020年11月8日三多摩平和交流ネットの講演会がユーチューブでご覧になれます!
以下の項目を日本政府(厚生労働省・防衛省)に要請したいと思います!
■PTSD兵士と家族の実態調査を直ちにして欲しい。復員したPTSDの兵士の人数。②その症状。③ 家族はどう対処したのか。④家族はどのような援助を求めているのか。⑤国府台陸軍病院の研究成果をPTSDの兵士の家族の
トラウマからの解放とトラウマの連鎖を断つことに役立てて欲しい。
お手伝い募集中、お気軽に!!
5月28日(金)~6月6日毎日 千部印刷、2分の1に折り作業、700戸に戸別配布します。
来館した子どもたちに本の読み聞かせ、マナーを教えるなどお手伝いお願いいたします。
「語り合う会」と「PTSDの兵士の交流館」連絡先
黒井秋夫 08011213888 ホームページ https://www.ptsd-nihonhei.com
208-0001武蔵村山市中藤3-15-4 ★メールアドレス qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp
「語り合う会」通信は周辺800世帯と武蔵村山市の市長・副市長さん、市議会議員さんに配布。
報道各社に配信しています。
4月の子ども図書室日誌
子どもたちが5~10年後には「交流館」活動を支えてくれることを夢見ています!!
4月3日 町内の新中1の女子が本を届けてくれた。教科書を本棚を整理して入れようとしたが入らない。母親に「交流館に寄付したら良い」と言われたとのことで20冊ほど持ってきてくれた。館内の本をしばらく見ていたが帰り際に「雑誌も持ってきていいですか」と言う。「大歓迎、いいよ」と答えた。広がりを感ずる。うれしいことだ。
4月4日 10時の開館と同時に仲良しの小4の女子2人が来館。荷物を置いたら「黒井さん」と呼ばれた。「お母さんから差し入れに持って行きなさい」と言われたとポテトチップスの袋を私に差し出しました。感動しました!
4月7日
小学校は平常授業が始まった。初々しい感じがする。新一年生が列に加わり歩いているのだ。今日も次々と子どもたちが「交流館」に来てくれる。午後3時だが13人が来館。途中で籠のお菓子を継ぎ足した。このところ、大人の来館者は皆さんが子ども用菓子を持参して来てくれる。買出しに久しく行っていません。本当に助かります。「先にバナナを食べてね!」まとめて買い過ぎた。お菓子に負けバナナにぶつぶつができ始めた。このままだと妻と私の主食がわりになりそうだ。小6女子4人程が話している。「黒井さん!自分の口癖って分かる?」分からない、とこたえると「まっ、いいか」だよ、と言う。私は良く言うらしい。「それがかわいいんだ」と生意気に。
4月11日 開館前、早々に4日来館の小4女子2人が「これ、差し入れです!」と、袋菓子をいただいた。「チョコレイラ」との商品名!!差し入れ2回目だ!!超うれしい!!今朝は快晴の空に富士山が見えた。そして今「チョコレイラ」に心が洗われる。晴れ晴れする。心が繋がっているような・・。「楽しい交流館にしよう!」そう思い、心の中で小さな万歳をする!!
小中学生が1月以来278人!毎日4~5人が来館します!
来館者の79%が小中学生(大半が武蔵村山市立3小生)
「PTSDの日本兵と家族の交流館・子ども図書室」来館者数(2021年1月~4月末)
子ども |
大人 |
合計 |
子ども比率 |
開館日数 |
|
1月 |
20人 |
18人 |
38人 |
52% |
12日 |
2月 |
63人 |
12人 |
75人 |
84% |
16日 |
3月 |
97人 |
29人 |
126人 |
77% |
15日 |
4月 |
98人 |
15人 |
113人 |
87% |
17日 |
合計 |
278人 |
74人 |
352人 |
79% |
60日 |
★『戦争をしてはならない』を子どもたちにこそ語り継ぎたい!
黒井秋夫は1948年生まれ、8月28日で73歳です。子どもたち、孫たちに戦争体験はさせたくない。子どもたちの未来が平和な世界であってほしい。子どもたちが平和の大事さを理解できる青年・大人になって欲しいと願っています。来館している子供たちが「戦争してはならない」という私の思いを受け継いでくれると信じています。
寄付のパン・菓子がたくさん届いています!
子どもたちも大喜び!皆さんありがとうございます!
交流館はこども110番ハウス・ミニこども食堂です!
2月のある日、10時開館と同時に5人が来館。ワイワイとにぎやかだ。全員が母屋のトイレを使い、30分ほど菓子を食べ本を読み「ありがとうございました」と丁寧にお礼を言い帰った。見ると今日1日分のはずの二皿のパンと菓子がすっかり空になっている。
何日か後のある日、小4女子2人が開館10時に来館した。しばらくして「ああ、おなかいっぱい」という声が聞こえた。お腹がすいていたのだろうか。時々、食欲盛んな子供もいてあっという間に空になることがある。妻さち子と相談してその後はお菓子だけでなく、パンやバナナも揃えることにした。開館以来、想像しなかったことが次々起きる。すぐに完全な「子ども食堂」は無理だが、おなかを空かした子どもの拠り所でもありたい。
時々「トイレ貸してください」という子どもも交流館に立ち寄る。それも大歓迎だ。交流館窓に「子ども110番」のポスターを掲示している。来館理由は何でも良い。子どもたちが普通に立ち寄るオアシスになれたら素晴らしい!子ども用菓子の寄付、現物差し入れも歓迎します!
★カンパ振込先➡口座名義 PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会
★ゆうちょ銀行からの送金(郵便振替用)➡ゆうちょ銀行口座。 記号 11390・番号 21576251
★ゆうちょ銀行以外からの送金 (内国為替用)➡ゆうちょ銀行口座
・店名 一三八(イチ サン ハチ)・店番138 ・普通預金(口座番号)2157625
★2020年5月1日(開館日)~2021年5月2日 来館者743名!
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」たちの情報を発信します。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」の交流と安らぎの場になります。子どもたちと地域の人たちの笑顔あふれる交流を作ります。中国、朝鮮半島、アジア、世界に平和と友好の虹の輪を渡します。「PTSDの日本兵と家族」の存在を多くの皆さんに知っていただくことが「日本が二度と戦争を起こさない。安心して暮らせる社会」に繋がります!
メールアドレスを教えて下さい!費用削減にご協力を!
大変勝手なお願いですが!郵送からメール送信に切り替えましょう!
毎月の郵送料金 180通×84円=1万5120円かかりました。
戦争はしません。白旗を掲げましょう。 話し合い和解しましょう。 |
交流館は白旗を掲げています! |
★ナショナリズムを越え、どこの国の人ともみんな仲良く!
私は韓国にソウルオリンピック直後から毎年のように旅行したが、韓国の人たちの親切は私の親切の範疇をはみ出す。道で地図を見て立ち止まったら「どこに行きたいのか?」と必ず誰かが寄ってくる。ある時、困っていると学生二人が近づいてきて行き先を教えてくれた。そこへ年長の女性が差し掛かった。彼女は全く違う方向を指さす。私をそっちのけで言い合いになったが、年長者の剣幕に負け二人組は立ち去った。私はしばらくして学生たちの言う方向に向かったが予想通り若者組が正しかった。
市民生協にいがた時代の45歳の頃、その前に勤務した新潟大学生協のおばちゃんたちを引率して旅行したことがあった。地下鉄を降り、地下道でホテルに行こうとしたが迷った。ぞろぞろ歩いていると警官が二人寄ってきて、ホテルまで案内するという。ホテル直結の出口まで一緒に歩いて。みんなが警官の親切に驚いた。
妻と二人で著名な王の墳墓を訪ねた時のこと、まわりに何もない田舎のバス停で同年代の女性に話しかけられた。目的を告げると「自分も同じ行き先のバスだ」という。私は運転手にバス停についたら降ろしてくれと頼み乗車したが、近づいたらその女性が運転手に停車するよう大声を出し指示をした。おまけに下車した私たちにバスの乗客全員が「あっちの方向だ」と腕まで使って指さした。
ソウルに「鱈汁」の繁盛店があるが妻と2人で入り、食べようとしたら隣の夫婦の妻の方が食べ方を「ああだこうだ」と説明する。それが長い。夫の方が妻を制止したらやっと終わった。それでも教えて貰い役には立った。
以上書いたようなことは日本ではまずおこらない。彼らは私(たち)が日本人と分かってもおせっかいする。
私は韓国に行き始めた頃は「韓国人は日本人が嫌い」と本にあったのでどこか身構える心があった。それが、回数を重ねるにしたがってどんどんなくなった。今は全くない。
困っている(と、彼らには見える)人には本当に彼らは親切だ。基本的にそれは万国共通なのだ。日本が本当におもてなしや、親切の国なのか自分自身の見知らぬ人への対応など胸に手を当てて考えてみたらどうだろう。
韓国人が政治的、歴史的に日本に対して「批判的な嫌日感」があるのは仕方がない。それでも私が出会った韓国の人たちは日本人と分かっても過度なほど親切だった。正直言って嫌な思いをした事は一度もない。
4月のある日
★うれしい出来事
2021年4月3日(土)うれしいことがいくつかあった。
*「語り合う会」ニュース4月1日号の戸配のお手伝いがあった。近くに住む妻の姪が土曜の休みということで、小2の子どもと一緒に来てくれて周辺100戸を配布してくれた。1時間以上かかったが生まれ育った地域なので難なくこなしてくれた。感謝感謝!
*黒井秋夫の新しい名刺ができたと完成版がラインで送られてきた。娘の夫の内山大樹さんが作成してくれた。私がお願いしたわけではない。「交流館の旗」を写真に欲しいと3日程前に言って来た。名刺に入れるのだと言う。
名刺みたいな小さいカードに写真を入れて、しかも裏表に印刷する技術は私にはない。「吉田裕さん講演会」用なのだという。ありがたい。本当にうれしく思う。
*「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の会計担当が4月1日から黒井の妻・黒井さち子に移管しました。私が「語り合う会」の会計の仕事に苦労しているのを見かねて「私がやってもいいよ」と言ってくれました。彼女は主催する二つの「手芸サークル」でも武蔵村山市から援助を受けているので毎月会計報告を作っています。加えて「語り合う会」の経理も引き受けてくれるという。本当にありがたい。現金と預金が195、505円の残高でした。毎月の郵送代(約180通)だけで15000円がかかります。子ども用菓子代も増えるでしょう。節約すれば当面は何とかなりそうです。本当に多くの皆さんに支えられています。簡単ではない事柄も次々起こる。そのつど考えこみ、何日も良い方策にたどり着けないこともある。そういう時でも必ず励ましのエネルギーが舞い込み力づけてくれる。ありがたいと思う。みなさん!本当にありがとうございます。皆さんに支えられながら活動を続けます。よろしくお願いいたします。毎月千円を送金してくれる高齢の女性の方もいらっしゃいます。その方の入金の通帳の印字を見ると胸がいっぱいになります。そして思います。「ようし頑張ろう!」
「自分のこころで感じる」「自分の頭で考える」学び舎歴史教科書にご支援を!子どもたちに民主主義のバトンをつなぎたい|クラウドファンディング|A-port 朝日新聞社 (asahi.com) https://a-port.asahi.com/projects/manabukai02/
学び舎中学歴史教科書『ともに学ぶ人間の歴史』は、庶民、女性、子どもがたくさん登場する画期的な教科書です。人びとの生活や歴史のできごとを生き生きと描き、読む人を歴史の舞台に引き込みます。戦争と平和についての学習や、現代の課題につながる学びも充実させました。主権者として未来を担う子どもたちが自分で感じ考え、社会への目を培う教科書です。
10年前、子どもたちが主体的に楽しく学べる歴史教科書をつくろうと志した社会科教員たちが、子どもと学ぶ歴史教科書の会(「学ぶ会」)を立ち上げました。この会で研究・編集した学び舎教科書は、2015年と2020年の2回、文科省の検定に合格し、毎年5000名を超える中学生に届けられています。多くの先生方や研究者から評価を受け、市民の学習会にも使われています。
教科書は、編集・制作からはじまり、検定合格の後、全国の教育委員会や教科書展示会などへの送付、そして発行までに約4000万円という多額の資金を必要とします。
これまで全国の市民のみなさんからのご支援により、2度の教科書づくりを成しとげることができました。現在、3回目の制作の準備を始めていますが、まだ1000万円の資金が不足しています。このプロジェクトを通して、3回目の制作の支援の輪に、加わっていただけないでしょうか。私たちは、多くの方に学び舎教科書の魅力を知っていただき、民主主義を未来につなぐ教科書づくりの仲間になっていただくことを願っています。
*以下は5年前,2016年の文書です。
2018年1月17日の設立当時も「第二次大戦に従軍した兵士にPTSDの兵士がいたこと」を知る日本人は黒井秋夫だけで他には誰もいないと思っていました。国府台陸軍病院の存在も、戦争神経症兵士の研究者がいることも知りませんでした。孤立無援を覚悟の船出の決意をした出発でした。
ピースボート自主企画「独白・父と暮らせば」(下船後一部訂正)2016.3月 黒井 秋夫
亡き父と二人三脚で日本軍兵士のPTSDを広げる語り部をめざす!
・私たち父子はついに最後まで深い話をしたことはなかったように思います。本当に理解しあえたとは言えないように思います。なぜそうなったのか、なぜ理解しあえなかったのかを日本軍兵士のPTSDというキーワードでお話ししたいと思います。私は自分の父親を尊敬できなかった。そういうのは本当に父には申し訳ないと思います。そのことも又、日本軍兵士のPTSDがそうさせたと私は皆さんに伝えたいのです。尊敬できなかった父親は実は本来の父ではなく、心に深い傷を負ってしまったPTSDに苛まれた日本軍兵士の父親だったのではなかったかと今は思っているのです。いわば先の大戦に従軍した日本軍兵士のPTSDが尊敬しあえるはずの父と子のの関係を破壊してしまったのではないかと私は主張したいのです。そしてその事の発生原因であり、結局は人の殺し合いにすぎない戦争を二度とするようなことがあってはならないと訴えたいのです。
・戦争によるPTSDが最初に問題化したのはベトナム戦争で米兵が帰還した祖国の世論とのギャップと疎外感のためPTSDを発症し社会順応できない、社会復帰できない、暴力やアルコール、麻薬に走るという事例が大量に(全体の30%とも50%といわれている)発生し、個人の力で解決できる傷病ではなく社会全体でケアする体制と理解が必要だと認識されるようになりました。
・さて第二次大戦に兵士としてアジア太平洋地域で戦った日本軍兵士たち、つまり私たち世代の父親たちにPTSDは無かったのでしょうか?徴兵前と変わらない健全な精神状態で帰国したのでしょうか?戦後の社会にすんなりと順応できたのでしょうか?
・私は1948年、昭和23年の生まれであり、直接の戦争体験はありません。自分が生まれる前の徴兵前の父親がどんな人だったのか知りません。帰還した戦後の父親しか知りません。父は無口で戦争のことは全く話しませんでした。
・父親は帰国して徴兵前に働いていたという鶴岡市五十川にあった田川炭鉱には戻りませんでした。事情は聴いていません。私が物覚えついたころはダム工事などの作業労働者が仕事でしたが貧しい生活でした。私は欲しい物があっても口にしても無駄だと悟り言わずに諦めるような子供時代でした。しかし父親にはそういう貧乏から抜け出そうという意欲は感じられず、そういう努力もしませんでした。子供の私には理解できず尊敬できない父親でした。逆に自分は父親のようにはならない、絶対ならないとずうっと思っていました。父は私の人生において反面教師だった、悲しい親子関係だったと思います。そういう父親の姿、生き方を生まれながらの父親の性格だと思っていました。
・高校3年のある日、図書館で川上肇の「貧乏物語」に出会いました。「貧困は個人の責任ではなく、社会が構造的に生み出す物で救済策もまた社会の構造的改革を伴う対策が必要だ」とありました。その言葉は目から鱗が落ちるような衝撃でした。「貧困をこの世からなくすること」それは私の生きていく指標の一つになったと思います。
・2015年、安全保障法への疑問や反対が日本で沸き上がり始めたころ、ふと父親が生きていたならどうしただろうと思いました。「戦争だけは駄目だ」と言うのを聞いたように思ったからです。もしも父親が生きていたなら、元気であったなら私と一緒に国会前の座り込み抗議行動に出かけたのではないか!生死を共にした戦友たちと肩を組み国会前に座り込んでいるのではないか!と「戦争だけはしてはならない!」と叫んでいるのではないかと思えたからです。その時から亡き父との対話(父と暮らせば)が始まっていました。
・2015年12月、ピースボート90回クルーズの3か所目の寄港地であるベトナム・ダナンに向かう航行中に、ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵アレンネルソンさんのDVDを見ました。ネルソンさんは戦地に赴く前の戦争のイメージとはかけ離れた、村ごと焼き殺す住民虐殺や残虐な戦闘現場にも次第に精神が麻痺して反応しなくなり、崩壊し、心に深い傷を負い帰国しました。
PTSDにさいなまれたネルソンさんの苦しそうに話す姿と中国大陸で戦う日本軍兵士としての父の姿が突然重なりました。「自分の父親も又、米軍兵士と同じように戦争体験によりPTSDにさいなまれていたのではないか」というひらめきです。それは本当に思いもかけない瞬間で雷に打たれるようなショックがありました。
・父が戦った地は中国の旧満州から長江のある華中方面で、当然にもそこには中国人の村があり、家があり、人たちが生活していたのであり中国人兵士だけでなく、ごく普通に年寄りも女性も子供たちも暮らしていた訳です。その状況はベトナム戦争における米兵の置かれた状況と似ています。周りを敵に囲まれ、昼は農民でも夜は兵士かもしれない。いつ襲撃されるとも限らないという恐怖を父は従軍していた約10年に渡って体験したのではないでしょうか。残虐な行為も幾度となく目撃しただろうし、あるいは自身が実行者だったかもしれない。だとしたら、米兵と同じように正常な精神でいられた訳がない。心に深い傷を受けていたのではないか。帰国後に簡単に社会に順応できるような状態ではなかったかもしれない。
・私の知っている父親は戦争前の本来の姿とはかけ離れたPTSDと戦う父親だったかもしれない。戦前にはもっと快活であった父親がいたのかもしれない。戦争のことには特に無口だった私の父親はPTSDを抱えながら、それでも必死に家族を養おうとしていたのかも知れない。私は父親の負の姿しか見えていなかったのではないのか。そう思った時、今は亡き父親と心と心が生まれて初めて繋がったような感情がわいてきました。父親が私を見つめているような気がしたのです。
・これらのことは言うまでもなく全ては私の勝手な想像の世界の話です。しかしPTSDが父親にもあったと考えるといろいろな辻褄が合うのです。
・本当に父親は戦争について何も話しませんでした。話さないままに一生を終えました。私の父親だけではなく、多くの兵士も又口を閉ざしたと言われています。なぜ押しなべて彼らは話さなかったのだろうか。話さなかったのではなく、話すような誇らしいことなどは何もなかったと言う事なのではないだろうか。父にとって、そして日本軍兵士にとって戦争で何を体験したのか。人生にどんな影響を与えたのか。多感な青年たちにとって戦争は何だったのか。
・映画プラトーンでは、出征した青年は「戦果をあげ英雄になって帰国する」という夢を持ってベトナムに行きました。しかし、戦場の現実は想像を絶する、「殺す前に殺す以外に生き残る術のない」正義も道徳もない獣の論理の世界でした。やがて青年は人殺しにも何の感情も湧かなくなり、精神のバランスを失い荒廃し心に深い傷を負っていくのです。
・だとしたら、米兵と同じような環境にいた日本軍兵士もまたアジアの戦場での体験は彼らの精神を粉々に砕いたと想像するのはおかしいだろうか。
・日本軍兵士たちは、世界を導く不敗の神の国だと信じて戦った聖戦を、戦後の祖国はその価値観を真逆に180度さま変わりさせて、アジアへの侵略戦争であったと断じました。帰還した日本軍兵士の戦争体験をいわば完全否定したのです。帰還した兵士たちは何を頼りに己の精神の平衡感覚を保てば良かったのでしょうか。悲惨な戦争体験のみならず日本社会の無理解と疎外感は彼ら帰還した日本軍兵士の性格を変え、その後の生き方に決定的な、取り返しのつかない影響、打撃を与えたと類推するのが普通ではないだろうか。
・戦前の日本軍兵士は天皇の兵士であり、お国の為に死ぬことこそ本分であり、敵の捕虜になることなど「生き恥を晒す」として最も屈辱的なことであり、「武士道精神」に基づき、その前に自決するのが当然の選択でした。しかし、父は約1年間中国で捕虜でした。「恥ずかしくて日本に帰れない。どの面さげて帰れるか」それが一番に思ったことではないでしょうか。それでも父は1946年、敗戦の翌年に帰国しました。祖国日本は父が叩き込まれ教育された神の国日本ではすでになく、父たちが生命を賭した戦はアジアへの侵略戦争であり、間違った無意味な戦であったと言うことになっていました。父が青年時代の命を懸けた7年間全てが間違いだったと否定され全く評価されない別世界の日本に戻ってきたのです。父は34歳でした。
・父は無口でした。その時の父は何が正義で何が間違いなのか。何が良いことで何をしてはいけないのか、戸惑うことなく判断し日本社会に順応できる精神状態だったろうか。価値観が180度逆転した針の莚のような祖国で捕虜になり帰国した敗残兵のことなどに聞く耳など持っていただろうか。「社会から疎外された存在」とは正に帰国した日本軍兵士にこそ相応しい言葉ではないだろうか。私の父は、そして多くの帰還兵は無口だったのではなく無口にならざるを得なかった、させられた、語るべき言葉もなく聞いてくれる相手もいないというのが真実ではなかったでしょうか。
・終戦から27年後の1972年、一人潜んで戦争を戦い続けていたグアム島から日本軍兵士・横井庄一さんが羽田空港に帰還しました。その時に「生きながらえ恥ずかしながら帰って参りました」と話しましたが彼は捕虜になった訳ではない。戦い抜いて帰還したのだ。「恥ずかしながら」という言葉は父親たちにどう響いただろうか。捕虜になり早々帰国した自分に向けられた言葉として又しても深く傷ついたのではないだろうか。
・中国、韓国、アジア諸国から繰り返し戦争の謝罪要求が今もなお続いています。父たちはその度ごとに自分たちに向けられた非難として精神を痛め続けたのではないだろうか。いわば、戦後何年経っても心休まる日々は少なかったのかもしれない。
・私は何と鈍感で想像力のない人間だったのでしょう。私は戦争を体験した兵士の精神がどんな打撃を受けたのか、生き方にどんな影響を受けたのか、67歳になる今の今まで考えが及ぶことは無かった。一番身近な従軍兵・父の生き方にどう影響があったのか、そういう考えまで遂に及ぶことはなかった。
・戦争をするのは機械ではない。将棋の駒でも、一人一人の個人としての人なのだ。彼らは出征するその日まで、仕事があり大事な家族とのかけがえのない生活を続けていたのだ。彼らはそこから戦場に行ったのだ。兵士を集団として塊りで見てはならない。それは戦争に責任のある為政者のやりそうな思考ではないか。感情のある一人の人間として兵士を見ることが大事なのだ。父も含めて日本軍兵士たちを個人ではなくカタマリとして見ていたのだ。だから兵士の心の内まで思いやる気持ちを持てなかった。私は人間を思いやる温かみのある心が欠けていたと言わざるを得ない。それでは父を理解できなかったのは当然のことだ。
・ピースボート船上での私の自主企画に参加した女性の1人は90歳で昨年死亡した特攻隊兵士だった父親のことを私に話してくれました。その方の父は、同僚が飛んだ次は自分が特攻隊として飛ぶ順番でしたが、2日後に8月15日を迎え死なずに除隊となったという。しかし、以降も「自分は卑怯な人間だ」と家族にたびたび漏らすことがあり、普段は静かなのに酒が入ると人が変わり、暴力をふるいました。そんな時は怖くて幼い彼女は震えていたという。最後は認知症になり病床では死んだ友の名を呼んで「000よー!俺は卑怯者だ。俺を許してくれえ!」と叫んで亡くなったという。彼女は自首企画に参加し初めて父の素顔を理解し、その晩は声をあげて船室で一人泣きましたと話してくれました。
・皆さんにお聞きします。私の父やこの方の父親のようにPTSDを発症する日本軍兵士を日本の未来に作り出して良いでしょうか。PTSDの影響を受けざるを得ない兵士の子供たちと家族も必然的に生み出されます。そういう時代が来ても良いのでしょうか。
・私は父に詫びねばならない。父親の従軍時代の精神状態を思うことができなかった。子供時代ならいざ知らず大人になっても、ましてや戦争や平和の問題に人並み以上に関心を持っていたはずなのに、一番身近な当事者の父に結びつけて考えなかった。一体全体どこの国のいつの戦争や平和を私は考えていたのだろうか。なんという貧困な想像力。私の考えていた戦争や平和は空中の議論に過ぎなかった。青年時代に大きな壁に跳ね返され、その壁が一体何物なのか認識さえできずに、混迷の整理や総括ができなかったのも至極当然のことだ。
・考えてみれば父親も自分の戦争体験を納得できる整理は恐らく終生できなかったと思う。解決不能のまま生涯を終えたと思っています。そして私も又、「自分の家庭の貧困」の本当の原因を67歳になるまで気づけなかったのだ。
・私は1948年の生まれであり、戦後の父親しか知らない。徴兵前の健康な精神だったころの父の姿を知らない。私は(私たち世代の日本軍兵士の子供たちも)本来の父とは全く変わってしまった負の父親を本来の父と見誤っていたのではないだろうか。
・だとしたら、それは本当に不幸なことではないか。戦争は親子が互いに信頼し、尊敬しあう関係まで捻じ曲げたのかもしれない。
・(父よ)あなたは誰にも話すことができずに、自分自身だけで戦争体験と社会からの疎外感を反芻しながら生きていたのですか。誰にも説明できず、話す言葉を持てず、誰にも理解されずに自分の子供とさえ心を通わすことさえできずに76歳まで生きて、死んでいったのですか。
・私は口を閉ざし無口であり続けた父親(父親たち)の心の闇に近づき、PTSDに切り刻まれた精神を息子である自分が引き継ごうと思っています。兵士時代を整理することも、自己評価することも、ましてや肯定して生きて行くことなどできなかった「無念だった父の人生」を私が引き受け整理し、総括し、父たち日本軍兵士が話したかったであろう思いをこの世の中に公にし、多くの人々に知り考えてもらう「日本軍兵士のPTSD」の語り部としての活動を始めようと考えています。
・日本軍兵士のPTSDは過去の事ではない。
・イラク派遣のストレス・隊員の自殺21人、数字以上の深刻さ、分析し教訓生かせ(2015.7.17朝日新聞抜粋)
人道支援活動で戦闘地域ではないとしている自衛隊でさえ3年間に21人も自殺している。人生を断つまでに至るような心に深い傷を負っているのです。「アメリカではイラク帰還兵のPTSDは戦闘ストレスとも呼ばれ、アフガニスタンとイラクからの帰還した後の自殺者が戦死者を上回っています」と続きます。イラクやスーダンに派遣されている日本の自衛隊員のPTSDが次々と明らかにされています。心に深い傷を負わねばならない自衛隊員が現在進行形で発生し存在しているのです。
・70年前の先の大戦で心に深い傷を負い、スムーズな社会復帰はもとより精神を持ちこたえることさえ困難で口を閉ざし続けたPTSDに侵された日本兵がたくさん存在したことを、このまま光を当てることなく、無かったことのように、誰にも気づかれることなく歴史の闇に葬り去って良いのでしょうか。彼らの遺言として受け止めこれからの日本の指針として、教訓として世に明らかにし二度と起こしてはならない戒めにこそすべきなのではないでしょうか。
・PTSDにさいなまれ自分の人生を台無しにしたばかりでなく、」その家族、その後生まれた私たち世代の子供にまで「尊敬できない父親」と思わせるような影響を与える「戦争は二度としてはならない!」とり訳、他国に出ていくような戦争をしてはならない。自分のような兵士を生み出してはならない。このことこそ父(父親たち)が私たちに伝えたかったことではないでしょうか。
・安倍首相は憲法改正を公言しています。その狙いは憲法9条を変え堂々と戦争ができる日本にすることです。それは亡き父、亡き戦友たち、過去の戦争に従軍した兵士たちの願いを踏みにじることだと私は思います。私には確かに亡き父の声が聞こえてきます。「息子よ、私の代わりに声をあげよ!」と、言っています。父には「あなたの思いを世の中の人たちに伝え広げる行動を起こします!」と私は応えたい。
★私は日本軍兵士のPTSDの悲劇を掘り起こし、世に出す「語り部」になりたい。
・地域の公民館を借りて、市報などで広報し始めてみたい。初めは何から何まで一人なのは当然だ。続ければ賛同者に出会えるだろう。続けていけば、やがて仲間ができて、ネットワークができるかもしれない。そうなったらどんなに素晴らしいことだろう。第2第3の語り部が出てくるに違いない。それらが束になれたなら、もしも 日本が戦争への道を進もうとする時に、その前に立ちはだかる「5分の魂を持った両手を広げる虫」くらいにはなれるかもしれない。「語り部」の活動が実を結ぶのははるか先かもしれないし、局面、局面では何度となく敗北感を味わうこともあるに違いない。だとしても、今度は青年時代のように挫折したり沈黙したりはしないことにしよう。そういう時は沖縄の人たちの長い戦い、負けない戦い、いつの日か必ず勝つ戦いに学ばせてもらおう。時には敵と思われる人たちをさえ「いつかは味方に変える」心通わせる気長な取り組みを手本にしよう。あの人たちのように悲壮感など持たず、むしろ明るい気持ちで、未来に向かって、諦めず、粘り強く、亡き父と心通わせながら二人三脚で歩いて行くつもりです。皆さんが温かく見守ってくださることを心からお願いしたい思いでいっぱいです。
2016年4月 黒井 秋夫
子どもたちに民主主義のバトンをつなぎたい「自分のこころで感じる」「自分の頭で考える」学び舎歴史教科書にご支援を!|クラウドファンディング|A-port 朝日新聞社 (asahi.com) https://a-port.asahi.com/projects/manabukai02/
学び舎中学歴史教科書『ともに学ぶ人間の歴史』は、庶民、女性、子どもがたくさん登場する画期的な教科書です。人びとの生活や歴史のできごとを生き生きと描き、読む人を歴史の舞台に引き込みます。戦争と平和についての学習や、現代の課題につながる学びも充実させました。主権者として未来を担う子どもたちが自分で感じ考え、社会への目を培う教科書です。
10年前、子どもたちが主体的に楽しく学べる歴史教科書をつくろうと志した社会科教員たちが、子どもと学ぶ歴史教科書の会(「学ぶ会」)を立ち上げました。この会で研究・編集した学び舎教科書は、2015年と2020年の2回、文科省の検定に合格し、毎年5000名を超える中学生に届けられています。多くの先生方や研究者から評価を受け、市民の学習会にも使われています。
教科書は、編集・制作からはじまり、検定合格の後、全国の教育委員会や教科書展示会などへの送付、そして発行までに約4000万円という多額の資金を必要とします。
これまで全国の市民のみなさんからのご支援により、2度の教科書づくりを成しとげることができました。現在、3回目の制作の準備を始めていますが、まだ1000万円の資金が不足しています。このプロジェクトを通して、3回目の制作の支援の輪に、加わっていただけないでしょうか。私たちは、多くの方に学び舎教科書の魅力を知っていただき、民主主義を未来につなぐ教科書づくりの仲間になっていただくことを願っています。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」
4月1日号
李素楨さんとの交流日誌 4月1日号
★李素楨さん「中国の大学院教授」で 桜美林大学講師で日本兵の軍事郵便の研究者です。
李素楨先生のZOOM中国語講座を月3回学んでいます。とても楽しい授業です!
(一回2時間の授業が月に3回で2千円です。ご希望の方は08011213888黒井まで。詳細をお伝えします)
★李素楨さんは2020年8月23日、「交流館」が保存する出征資料(軍事アルバム)の調査の為に来館されました。中国人最初(外国人としても最初)の来館者でした。出身が吉林省公主嶺と聞いて驚きました。
黒井の父、慶次郎の従軍初任地も何と公主嶺なのです!
★偶然の一致ではない!父親の引き合わせと直感しました。「中国の人たちに悪いことをしたと私に代わり謝ってくれ!」父の声が聞こえました。黒井は李素楨さんに「あなたのご両親、祖父母たち、村の人たちに従軍した父親がなしたであろう殺害などの非道な行為と多大なご迷惑を加害兵士の息子として心から謝罪します。どうぞ父親を許してください」とお話ししました。最後は先生は黒井の手を握り肩をたたいて「日中友好、日中友好!」と返してくださいました。その言葉を聞いて、黒井は涙、涙でした。少しですが私は心が軽くなりました。その後、メールのやり取りがあり下記のようなお便りが李素楨さんから届きました。
★『23日の「村山うどんを食べる会」とお宅の資料館を見学させいて頂き、インタビューをも受取り下さり,誠にありがとうございました。 特に、お父様の代わりに謝罪して下さったことに、中国人として、とても感激しました。お気持ちと戦争に関する歴史認識を中国に伝えることに責任を感じました。 実は、あの戦争はA級戦犯、軍の指導者の責任だと思っています。お父様は普通の庶民として、戦場に行かされたのであって、黒井さんのお父様の責任とはいえません。お父様は加害者であったかもしれませんが、被害者でもありました。
私たちは、2度と戦争を起こさない、起こさせない責任と義務を負っていると思いますし、誰もが安心して暮らせる社会作っていく義務と責任を持っている、と考えます。国境や民族を超えて、また、人間として平和な社会を作るために、お互いに協力し、頑張って行きましょう。
最後に、お宅の素晴らしい資料館が全世界に広がっていくよう、願っております。私も及ばずながら、中国に帰る機会があれば、黒井さんの活動を広く伝えたいと思います。お互いに頑張っていきましょう。』
★「狼狗圏」のこと。
日本軍駐屯時代、公主嶺の中国人は米を食べることが許されず、食べたことが知れると日本軍駐屯地に「狼狗圏」という軍犬小屋がありそこに入れられ食い殺されたという話を子どもの頃に聞かされたと李素楨さんのお手紙で教えられました。身の毛もよだつ、恐ろしい光景です。人間が人間にできることではありません。聞かされてショックを受けました。そんなことがどうしてできたのか。なぜ平気でいられたのか。
父のアルバムの添え書きには「匪賊討伐」などの勇ましい言葉が書いてあります。恐ろしい程の差別意識、中国人を日本人より一段低い民族、同じ人間ではなく犬に食い殺されても心が痛まない程度の動物とみていたのでしょう。それは20歳ころの父の精神です。あの暗く無口で小心な父親の姿からは想像できません。「あなたの父親は加害者ではあったけれども被害者でもありました」と李素楨さんは上のお手紙で書いていますが簡単に言える言葉ではないのだと「狼狗圏」の話しから教えられました。父の心の深く暗い闇、どす黒さの切れ端に触れたような気がしています。
李素楨さんに「黒井さんの取り組みを中国の人たちに伝えたい。一緒に中国に行きましょう。中国語で話せれば気持ちが伝わります」コロナが収まり中国との往来が可能になったら「今年でも来年でも行きましょう」と言われています。私は公主嶺に行こうと思います。公主嶺の人達の前に立つ時、いや、前に立つ勇気がその時に持てるのか自信ありません。話す言葉が見つかるのかもわかりません。それでもこの道の先は公主嶺に続いています。
パン・菓子がたくさん届いています!
子どもたちも大喜び!皆さんありがとうございます!
交流館はこども110番ハウス・ミニこども食堂です!
★開館以来の来館者が600人を越えました!
2020年5月10日の開館以来「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」の来館者が603人となりました。2021年3月28日(水)東京大空襲記念館に寄った際に、吉田裕館長が『「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」に行って来た』という日誌で知ったという島根県の高校の先生2人が来館されました。午前中の小学校5年生2人を加えて4名の来館者になり3月28日までに603名の来館者になりました。遂に600人を突破しました!!!
★コロナ禍にかかわらず多くの来館者を迎える事ができました。心から感謝申し上げます。過半数が武蔵村山市民です。多摩地域が2割、合わせて来館者の9割以上が東京都民でした。長野、埼玉、山梨、千葉、神奈川からも来館いただきました。「従軍した父親がPTSDと思われる」という来館者もいらっしゃいました。
「PTSDの日本兵と家族の交流の場」という第一義の役割を果たしつつあります。
また「お腹が空いた」という子どもたちの来館もあり、「子ども図書室と子ども食堂」という役割も担いつつあります。「PTSDの日本兵と共に暮らした家族の苦労」を多くの人たちに知っていただく活動を続けます。多くの人たちがこの事を知れば知るほど「戦争はいけない」という世論を作り「日本が二度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」に結びつくと信じています。これからもよろしくお願いいたします。
多くの皆さんのご来館をお待ちしております。
★カンパ振込先➡口座名義 PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会
★ゆうちょ銀行からの送金(郵便振替用)➡ゆうちょ銀行口座。 記号 11390・番号 21576251
★ゆうちょ銀行以外からの送金 (内国為替用)➡ゆうちょ銀行口座
・店名 一三八(イチ サン ハチ)・店番138 ・普通預金(口座番号)2157625
★5月10日(開館日)~2021年3月28日 来館者603名!
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」たちの情報を発信します。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族」の交流と安らぎの場になります。子どもたちと地域の人たちの笑顔あふれる交流を作ります。中国、朝鮮半島、アジア、世界に平和と友好の虹の輪を渡します。「PTSDの日本兵と家族」の存在を多くの皆さんに知っていただくことが「日本が二度と戦争を起こさない。安心して暮らせる社会」に繋がります!
★12月11日の「NHKおはよう日本」で5分間放送されました!
webアドレス https://www.nhk.or.jp/shutoken/ohayo/20201211.html
YouTubeにアップされています。「PTSDの兵士と家族の交流館」で検索してください
★学習会・講演会を開きましょう!
★黒井秋夫が語り部を務めます。全国どこでもOKです。交通費含め費用はかかりません。
2020年11月8日三多摩平和交流ネットの講演会がユーチューブでご覧になれます!
以下の項目を日本政府(厚生労働省・防衛省)に要請したいと思います!
■PTSD兵士と家族の実態調査を直ちにして欲しい。復員したPTSDの兵士の人数。②その症状。③ 家族はどう対処したのか。④家族はどのような援助を求めているのか。⑤国府台陸軍病院の研究成果をPTSDの兵士の家族の
トラウマからの解放とトラウマの連鎖を断つことに役立てて欲しい。
メールアドレスを教えて下さい!費用削減にご協力を!
大変勝手なお願いですが!郵送からメール送信に切り替えましょう!
3月1日号の郵送料金 177通×84円+140円×2通=1万5148円かかりました。
カンパお送りいただきありがとうございます!
お名前しか分かりません。2月24日 O・Kさんありがとうございます。住所などお伝えください!
お手伝い、毎月お願いします!!
★来館した子どもたちのお世話、話し相手*本の読み聞かせなど!
5月1日号配布作業予定!
4月30日 |
金 |
5月1号印刷、13時~。通信折り |
A3版1000枚 |
5月1日 |
土 |
通信折り。封筒詰め、投函。 |
160通 |
5月2日 |
日 |
通信をメールで発信。 |
250件 |
5月4日 |
火 |
13時~通信を周辺に戸配。 |
750戸 |
5月5日 |
水 |
8時~10時周辺に戸配。 |
750戸 |
5月6日 |
木 |
8時~11時周辺に戸配。 |
750戸 |
「語り合う会」「PTSDの兵士交流館」お手伝いの連絡先
黒井秋夫 08011213888 ホームページ https://www.ptsd-nihonhei.com
208-0001武蔵村山市中藤3-15-4 ★メールアドレス qqkc6av9@ceres.ocn.ne.jp
「語り合う会」通信は周辺800世帯と武蔵村山市の市長・副市長さん、市議会議員さんに配布。
報道各社に配信しています。
戦争はしません。白旗を掲げましょう。 話し合い和解しましょう。 |
交流館は白旗を掲げています! |
3月11日(木)国立市公民館主催・平和講座「身近な戦争~多摩地域で起きたこと~多摩地域の市民の戦争―戦争体験を継承する―」立川市史編さん委員(楢崎茂彌)が開催されオンラインで参加した。
講演を聞いて表現が難しいが「しみじみと感動した」。
黒井が住む武蔵村山市を含む多摩地域の戦争の歴史を継承する地道な活動を続けていることに心動かされた。「語り合う会」の活動目的と繋がる取り組みが身近に存在することに励まされ、力づけられた。
戦争当時15歳前後だった人たちが体験を話す映像がいくつも流された。その中で驚いたことの一つが軍事教練でも木銃(ぼくじゅう)もやっと持てる子どもにまで派遣された軍人教官が教練で暴力を振るっていたという。「軍事教練がいやでいやで仕方なかった」と今は90代の人が昨日のことのように語っている。
軍事教練を知る世代はもう90歳代であり、該当者を探すのも簡単ではないと思う。その上、映像に残しても良いという人は更に少ないだろう。計画し、取材対象にたどり着き、了解を得て映像に残すまでいつも順調に進むものではないと想像する。その労に頭が下がった。
3月23日(火)に中学校歴史教科書を発行している「学び舎」の楢崎由美さんが「学び舎・歴史教科書・授業ブックレットNO8」を置いて行ってくれた。その中に『八丈島疎開船「東光丸」と学童疎開孤児のその後』という楢崎さんご本人の文章が掲載されている。
1944年~45年に八丈島の島民の70%、5853人が島外に疎開したとある。当時、米軍がサイパンから硫黄島と本土に迫り、途上の八丈島を本土防衛のために陸海軍26千人が要塞化した。戦争の足手まといになる島民に疎開(島外退去)が実行された。その中で疎開船東光丸は1945年4月16日、米軍の攻撃を受け沈没、60余名の島民が犠牲になった。
文中に、『疎開家族のうち22世帯133名が北多摩郡村山村(現武蔵村山市)に疎開した。「中藤谷津にある熊野神社の集会場に落ち着いた。地区長さんがとても親切で村が畑を貸してくれジャガイモを作った。地元の子どもたちとよく遊んだ」』などとあるが、熊野神社は「交流館」から100mで町内にある。その集会場がかつて八丈島の疎開場所だったと初めて知った。戦後も双方の交流が続いたらしい。また、近くの真福寺、長円寺、蓮華寺が東京赤坂国民学校の疎開地になったともある。
楢崎茂彌さんや楢崎由美さんの多摩地域と戦争との関連を掘り起こす活動は、いずれも既存の研究素材では表面に出ない、黙っていれば歴史に消えていく事実だ。二つとも粘り強く地道に拾っていく作業の積み重ねに違いない。私はその情熱に心が揺すられる。しみじみと感動する。励まされる。
「交流館」のある東京多摩地域には戦争関連の活動組織がたくさん存在し、市民活動の情報交流誌も複数発行されている。米軍や自衛隊基地の返還や撤去に関わる活動も継続されている。それに関係する人たちが「交流館」に来館してくれたり、講演や機関誌への寄稿を依頼されることも増えた。
「1人ではない、大勢の仲間がいる」と感じている。張り巡らされたネットワークがしぶとく息づいているのだ。私はそういう活動に励まされる。自衛隊がより海外に出兵しやすい方向に政治は動いている。いかなる戦争にも反対する私はそういう流れに賛成できない。そういう流れを押しとどめようと社会に発信し続けている市民活動に希望を見る。もちろん多摩地域だけではない、今日3月28日には遠く島根から東京大空襲記念館に次いで「交流館」を選んで二人の女性が来館してくれた。戦争に反対する思いや活動は全国津々浦々に存在していることを知っている。それらの活動は途絶えることなく続いて行くだろう。私はその一翼にいる。その流れが私には希望であり確信だ。
今日のひとこと
ナショナリズムを越えて。2021年4月20日。その1。
私は日本の立ち位置としてアジアの国々と友好的に交流依存する国であり国民であることが何より大事だと思う。日本はアジア大陸の北東海上に位置しており、西方の大陸から人も文化も海を渡って日本に来訪したことを思えば考えるまでもない議論の前提だと思う。
例えば漢字を抜きにして日本文化はない。熟語の多くは漢語であり中国語である。これまでの数行に書いた「日本、友好、交流、依存、大事、来訪・・・・」の漢字の源はすべて中国語に他ならない。日本語と思い使用している多くの言葉が元々は中国語であり、それらを使用しないで日本語は成立しない。20年ほど前、初めて上海に行き食堂で食事した時に、互いに相手国の言語は話せなかったが漢字を羅列したら店主と意思が通じた経験がある。漢字は共通言語と認識した。漢字を発明したのは中国漢民族であり日本はそれを輸入して使用しているわけだが、言葉を輸入したということは、漢字に込められた思想や文化も先ずは取り入れたということだと思う。日本人の物事のとらえ方、思考方法の根底に漢字・中国語、中国文化があることは認めねばならない。
韓国語は語順が日本語とほぼ共通しており、日本語を話す順序で単語を並べれば通ずる。英語や中国語のように語順で苦労することはない。韓国語は日本人には覚えやすいし日本語は韓国人(朝鮮人)に覚えやすい。
儒教や仏教も中国から、あるいは朝鮮半島を経由して日本にやってきた。儒教、仏教は日本人の意識の根底を形成している。言い方を変えると、儒教、仏教の影響下にある中国、朝鮮半島と(広く言えば東アジアの仏教圏と)共通する、自然に分かり合える情緒が日本人の意識の根底にもあるのではないだろうか。
ナショナリズムを越えて。2021年4月24日。その2。
引っ越しをしたときなどに日本では両隣り、近所にタオルなど配ったりして挨拶する。「よろしくお願いいたします。仲良く暮らしましょう」という気持ちだと思う。そうして近所付き合いに繋がっていく。
それが国どうしでは中々そうならない。私はそれが不思議でならない。理解が難しい。
例えばどうして頭から「嫌韓、嫌中」になるのだろう。知りたいと思い在特会などのHPをみてもその理屈は書かれていない。少なくともどうしてそうなるのか説明してほしいと思う。議論させてほしいと思う。理屈や議論の余地さえない前提と言うならそれは「信じなさいという宗教」以上ではないと私は思う。
国どうしも「隣と仲よくしましょう」と人間どうしと同じように考えていければ、今起きている国どうしの対立のほとんどは改善に向かうだろう。なぜそうできないのか。
★ナショナリズムを越えて。その3。2021年4月22日。
NHKテレビで「クールジャパン」という番組がある。前はよく見たが最近見なくなった。そんなことは「日本だけではない。世界どこでもそうだよ」と思うが無理に日本の特徴のように言う場合が最近目立つように思う。
例えば「おもてなし・親切」。
私は韓国にソウルオリンピック直後から毎年のように旅行したが、韓国の人たちの親切は私の親切の範疇をはみ出す。道で地図を見て立ち止まったら「どこに行きたいのか?」と必ず誰かが寄ってくる。あっちこっちと教えてくれる。ある時、学生二人組が行き先を指さした。そこへ年長の女性が差し掛かった。彼女は全く違う方向だという。私をそっちのけの言い合いになった。年長者の剣幕に負け二人組は立ち去った。私はしばらく置いて学生たちの言う方向に向かった。結果、彼らが正しかった。
新潟大学生協の職場の女性たちを誘って旅行したことがあった。地下鉄で降り、ホテルに行こうとしたが良く分からない。ぞろぞろ歩きながら、困っていると警官が二人寄ってきて、ホテルに直結する出口まで一緒に歩いて案内してくれた。みんなで警官の親切に驚いた。
著名な王の墳墓を妻と訪ねた時のこと、まわりに何もない田舎の乗り換えのバス停で同年代の女性に話しかけられた。目的を告げると「自分も同じ行き先のバスだ」という。私は運転手に近いバス停についたら教えてくれるよう頼んで乗車したが、近づいたらその女性が運転手に停車するよう大きな声で指示をする。命令口調と言ってよい。おまけに下車したらバスに乗っていたほとんどの人が「あっちの方向だ」と腕まで使って指さした。
ソウルに「鱈の汁」の繁盛店があるが妻と2人で入り、食べようとしたら隣の夫婦の妻の方が食べ方を「ああだこうだ」と説明する。それが長い。夫の方が妻を制止したらやっと終わった。それでも教えて貰い役には立った。
以上書いたようなことは日本ではまずおこらない。彼らは私(たち)が日本人と分かってそうしている場合が多い。
私は韓国に行き始めた最初の頃は「韓国人は日本人が嫌い」と言われていたのでどこか身構える心があった。それが、回数を重ねるにしたがってどんどんなくなった。今は全くない。
困っている(と、彼らには見える)人には本当に彼らは親切だ。基本的にそれは万国共通だ。日本が本当におもてなしや、親切の国なのか自分自身の見知らぬ人への対応など胸に手を当てて考えてみたらどうだろう。
韓国人が政治的、歴史的に日本に対して「批判的な嫌日感」があるのは仕方がない。それでも私が出会った韓国の人たちは日本人と分かっても過度なほど親切だった。
正直言って嫌な思いをした事は一度もない。
ナショナリズムを越えて。その4。2021年4月25日。
枕草子と中国古典
私は中国語を2010年から10年間、地元の地区会館(公民館)で中国人教師に学んだ。学習は月に6時間だった。
しかし、私は予習も復習もほとんどしたことがない。教室に行った時だけで外国語が身につくはずもなく恥ずかしい限りだ。中国語の先生は日本の大学講師で枕草子の研究者だという。どうして中国人が日本の枕草子なのか不思議に思った。研究の大前提に日本語、しかも平安期の日本語が使いこなせないといけない。それでは日本人研究者に太刀打ちできないハンデがあるだろう。
先生に問うと断然有利な面もあるという。聞くと枕草子は中国の古典の教養を前提に書かれているのだという。中国の古典を熟知してこそ理解できるのだという。それは日本の古典全般に言えると彼は言う。ということは中国の古典を叩き込まれた中国人だからこそ理解できる枕草子の切り口があるらしい。
私は枕草子を日本文学として学んだ。そこに中国古典がどう影響しているかなど聞いたこともない。しかし、当時の日本の公家社会、公家の教養の源を思えば全くそうだろうという考えにたどり着く。
当時の公文書は漢字(中国語)だった。江戸時代に到るまで論語や四書五経が有識者の教科書だった。それぞれの時代に日本人が書いたものとしても中国の古典を踏まえてこそ理解できる書き物だったと言えるのだろう。
今は李素楨さんに「黒井さん、中国に一緒に行きましょう。中国語で話せば気持ちが伝わります」と言われ、見違えるほど真面目に中国語学習をしている。毎朝、「NHKテレビの中国語」の録画を繰り返し見ながら食事したりしている。悲しいかな、72歳の脳にはなかなか残らないが。
ホームページの上記の画面の『会の理念・スローガン』を一部変更しました。
新たに下記の項目を加えました。
11月、12月に3か所で黒井の講演で参加者アンケートで
一番反応があり「腑に落ちた」「心に響いた」という感想が寄せられた3行を加えました。
野崎忠郎 作品集
掲載始めました。表紙の「野崎忠郎作品集」のボタンからお入りください!
以下の紹介は2020.12.11NHK「おはよう日本」より抜粋。“
恥“ だった父親 野崎忠郎さん 右・野崎さんの父 幸郎さん
黒井さんの活動を知って、父親との経験を語り始めた人もいます。野崎忠郎さん、80歳です。
父親の幸郎さんは、軍医として満州や激戦地のニューギニアに従軍しました。戦後医師として働き始めた幸郎さんでしたが、7年ほどすると記憶がなくなるまで酒を飲むアルコール依存の状態になり、薬物にも手を出すようになりました。当時、思春期を迎えていた野崎さん。酒や薬物に染まっていく父の姿を見て、複雑な感情を抱くようになりました。
野崎さん「こんな親はいやだなっていう思いが強かった。自分の事よりもむしろ他人に知られたくないっていう、だから友達つくらなかった」幸郎さんは、野崎さんが40歳の時、自ら命を絶ちます。幸郎さんが亡くなって40年、野崎さんは父親のことを今まで他人に語ることはありませんでした。
野崎さん 「話せなかったんですよね。やっぱり恥だった。父の事を話す事が自分自身に非常にダメージを与えちゃう」しかし野崎さんは、家庭内暴力やアルコール依存など、戦後の生活の中で元兵士の家族たちを苦しめた様々な経験が掲載されている黒井さんのホームページを見たとき、自分も経験を残すことで、家族たちにも苦しみがあったことを伝えていかなければならないという気持ちになったといいます。そして、父のことをつづった手記を黒井さんのもとに寄せ、自身の経験を初めて他人に語りました。
野崎さんが寄せた手記
野崎さん 「自分にとって1つ何か殻が破れたっていうか。(人生の)最後のとこへ来ちゃってね。やっと、言葉に出せるようになったっていうか」つぶやくように語られたその言葉に、野崎さんの心を縛り付けてきた問題の重さを感じました。経験を “無かったこと” にしたくない
野崎さんは、黒井さんの活動を知ったときのことについて、次のように語っています。野崎さん
「 “パンドラの箱をあけた人がいるんだ” みたいな感じでしたね。直接知ってる人ってだんだんいなくなっていると思うんですよね。だから下の世代に届くかどうか分からないけれども、メッセージをやっぱり死ぬ前に残していかなきゃいけないなって」
12月13日(日)日向読書会で講演しました。
東京都墨田区の日向読書会主催、「東京大空襲・戦災資料センター館長」で「日本軍兵士」の著者、吉田裕さんを講師に迎えた企画の冒頭30分程講演いたしました。
すみだボランティアセンターに約20人の参加で開催されました。
黒井は吉田裕さんと開始前にご挨拶と懇談をさせていただきました。吉田裕さんは「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動を以前からご存知とのことでした。11月8日の国分寺での黒井の講演会も実現しませんでしたが参加予定だったそうです。「PTSDの兵士と家族の交流館」に1月中にでも訪問したいとお話しになり感激しました。
黒井は講演で、12月11日に当会の活動を紹介したNHKの「おはよう日本」を取り上げ、またパネル3枚を会場に展示して「交流館」の雰囲気を感じ取っていただきました。
黒井は講演の中で兵士の目から見た「日本軍兵士」という吉田裕さんの視点が私にあれば、もっと早く父親のPTSDに気づけたという悔恨があること、「いかなる戦争にも反対する」という私の信条・立場、国家間の紛争を始め、対立から生じたいかなる問題の解決も非暴力・話し合いしか最終的解決は図られないこと、日本政府への6項目の要請からなる12月1日付の「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の「声明」を紹介しました。
★講演会を開きましょう!!
「PTSDの日本兵の存在」を多くの人たちに知っていただくことが「戦争はダメ」の世論作りに繋がります。
写真は1933年、元満州(現・中国吉林省、公主嶺)独立守備隊の黒井慶次郎(右から2番目)
★国(厚生労働省・防衛省)に要請します!
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」
①PTSD兵士と家族の実態調査を直ちにして欲しい。
②復員したPTSDの兵士はどれだけいたのか。
③どのような症状だったのか。
④家族はどう対処したのか。
⑤家族はどのような援助を求めているのか。
⑥国府台陸軍病院の研究の成果・受けついだ戦後精神医学の進歩の成果をPTSDの兵士の家族のトラウマからの解放に役立てて欲しい。トラウマの連鎖を断つ方法を教えて欲しい。
PTSD兵士の存在は隠されてきた。戦争中、国府台陸病院でPTSD兵士の研究と治療に従事したのは当時の精神医学会から選抜された優秀な医師だったとされる。彼らは戦後日本の精神医学会をリードしたらしい。しかし、国府台陸軍病院の諏訪敬三郎病院長は自身の研究論文以外、病院で行われたことを50年間、社会に話してはならないと弟子たちに封印した。
ベトナム戦争、イラク戦争に従軍した米兵の3割~5割にPTSDの症状があったという。1945年以降の830万人の帰還した日本兵に当てはめれば250万人~400万人という驚くべき多数の治療必要な日本兵が存在したことになる。それが治療も施されず野放しに家族のもとへ帰された。放置された。暴力、殺人、自殺、麻薬・アルコールなどの依存症、社会に順応できない無気力などが多くの家庭で発生しただろう。暴力などを振るう方は自身では制御できない苦しみを、振るわれる方はその原因も分からずに耐え忍ぶしか方策はなかった。事件にならない限りはPTSD兵士の暴力などは家の恥として社会に表面化することはなかった。
国府台陸軍病院の医師たちや、管轄する陸軍・国は帰還する兵士にPTSDを発症することが、それまでの研究から十分予測できたはずである。対策を講じなければ暴力、依存症、社会不適応者が膨大に出てくることも分かっていたはずである。
しかし、何らの対策も講じられなかった。帰還兵の家族にも兵士のPTSDのことは何一つ伝えられなかった。家族は(帰還兵である我が子の、夫の、父親の)暴力などの意味も原因も対処法も分からず、ただただ耐え忍ぶしか方法はなかったのである。帰還へのPTSDはそのようにして家族に拡散し、連鎖となり、今に続いている。
PTSDの兵士の家族は父親の暴力の原因を知らずにいる!
彼らは精神的苦しみから救われなければならない!
PTSDの日本兵のほとんどが今はこの世にいない。亡くなった。彼らを治療したり、心の病から解放する手立てはすでにない。解決するべき問題は、帰還兵の子どもの世代、孫の世代にPTSDの連鎖が続いていること、その世代が帰還兵である父親の暴力の意味や、自身に連鎖した制御できない精神の不安定の原因が戦争によるPTSDが原因であると知らないという問題である。
私は父親の無気力や、責任のなさや、無口で暗い姿を戦争体験によるPTSDのなせる業と67歳の時に気づくまで、それが父親本来の性格であると考えて来た。父が生きていた時も亡くなってからも、遂に父親を尊敬できなかった。一人前の人間として見ていなかった。どこか軽んじていた。しみじみとした情愛の通う父と息子の関係は終生築けなかった。不幸な親と子だった。それはもはや取り返しつかない。
72才になった今、父親は戦争体験によりPTSDを発症していたと確信できて、初めて父親の苦しい心の中を想像できるようになった。それだけでも良かった、心が救われたように思う。
しかし、250万人~400万人と思われるPTSDの兵士の子どもたち、孫世代のほとんどは自分たちへ向けられた暴力の意味や、自身が抱えている制御できない精神の原因が、父親の戦争体験によるPTSDにあると知らないでいる。知らないことには解決方法も対処の仕方も分からない。それでは救われない。彼ら彼女らは救われなければならない。
そこで冒頭の国への要請にたどりつく!
もはや、国や精神医学会がPTSDの兵士の存在を隠してきたことや、国府台陸軍病院で得られたPTSDの兵士の研究の成果が250万人~400万人のPTSDの兵士たちの戦後の窮状には目が行かず、その治療にも何ら生かされなかったことを非難するだけでは何の意味もない。
一時も早く、PTSDの兵士の子どもたち、孫世代に父親の暴力の意味、自身が引き受けたPTSDの原因は戦争体験が根底にあることを知らせ、気づいてもらう必要がある。それは急務である。
原因を知るだけでも意味がある。それだけでも、暴力などが父親本来の精神や性格ではないのだと知るだけでも救われるものがある。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」は要請します。
国はもう遅きに失するとは言え、いまからでも腰を上げ対策に乗り出して欲しい。日本の精神医学会もその研究の成果を現に苦しんでいるPTSD兵士の家族たちの心の解放に目を向け役立てて欲しい。
2020年12月1日
お知らせ
2020.8.23(村山うどんを食べる会)での出来事。
吉林省公主嶺で生まれた女性が参加してくれました。
彼女が中国人最初の来館者でした。
驚きました。
父・黒井慶次郎の従軍初任地が何と吉林省公主嶺!
偶然ではない!父親の引き合わせと直感しました。
「悪いことをしたと私に代わり謝ってくれ!」
父の声が聞こえました。
黒井秋夫は従軍時の父の中国の人たちへの加害行為を
(殺人・物品の強奪など)中国人女性に謝罪しました。
彼女は黒井の肩を叩き、手を握り「日中友好!日中友好」
と返してくれました!
★展示パネルの説明文より
8月23日「村山うどんを食べる会」では「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動の歴史で未来にも大文字で記されるであろう出会い・出来事がありました。
当日の参加者に中国人の歴史研究者の先生(女性・67才)がいらっしゃいました。その方は出身地を吉林省・公主嶺とお話しされました。
何ということでしょう。1932年に私の父・黒井慶次郎が20歳で徴集された最初の任地が公主嶺なのです。その時の出来事のあらましと、以降の推移を報告いたします。
明治以来の日本が中国、朝鮮半島、アジアに戦争を仕掛け、地域の平和を壊す元凶であった歴史を反省し教訓として、アジアの人たちへの真摯な謝罪の心を表明し、信頼される友人として、仲良く手を組み、平和でアジアの誰もが安心して暮らせる社会をめざしたいと思います。
現在進行形でもある出来事を将来の平和な社会の礎にするよう活動を続けます。これからも皆さんのお力添えをよろしくお願いいたします。一緒に手をたずさえ歩いて行きましょう!
2020.8.23 みんなの食堂「村山うどんを食べる会」
まとめより抜粋
(「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」通信・9月1日号より)
・中国師範大学の先生で現在は日本の大学で教鞭をとられている67歳の中国人女性の方が取材参加されました。先生が公主嶺出身と聞いて驚きました。20歳で初徴集された私の父親の満鉄独立守備隊の初任地が公主嶺なのです。父親の引き合わせと直感しました。私に現地で採れた穀物の粟をお土産にいただきました。父も食べたであろう中国産粟を見て感無量となり涙、涙でした。 あの世の父親が「息子よ、悪いことをしたと私の代わりに謝ってくれ」と言っている声が聞こえたように思いました。
私は先生に「あなたのご両親、祖父母たち、村の人たちに従軍した父親がなしたであろう殺害などの非道な行為と多大なご迷惑を加害兵士の息子である私は心から謝罪します。どうぞ父親を許してください」とお話ししました。最後には先生は私の手を握り肩をたたいて「日中友好、日中友好!」と返してくださいました。その言葉を聞いて、私は再度、涙、涙でした。ほんの少しですが私は心が軽くなりました。この気持ちを大事にして活動を続けたいと思います。
先生から届いたメール文
『23日の「村山うどんを食べる会」とお宅の資料館を見学させいて頂き、インタビューをも受取り下さり,誠にありがとうございました。
特に、お父様の代わりに謝罪して下さったことに、中国人として、とても感激しました。お気持ちと戦争に関する歴史認識を中国に伝えることに責任を感じました。
実は、あの戦争の指導者の責任だと思っています。お父様は普通の庶民として、戦場に行かされたのであって、黒井さんのお父様の責任とはいえません。お父様は加害者であったけれども、被害者でもありました。
私たちは、2度と戦争を起こさない、起こさせない責任と義務を負っていると思いますし、誰もが安心して暮らせる社会作っていく義務と責任を持っている、と考えます。国境や民族を超えて、また、人間として平和な社会を作るために、お互いに協力し、頑張って行きましょう。
最後に、お宅の素晴らしい資料館が全世界に広がっていくよう、願っております。私も及ばずながら、中国に帰る機会があれば、黒井さんの活動を広く伝えたいと思いますし、これからも民間レベルでの平和のための活動に邁進していきます。お互いに頑張っていきましょう。』
メール文をHPなどに公開申込みを了解いただいたことへの
先生へのお礼メール
私の謝罪への先生の寛大なお心をホームページなどで公開することで、日本と中国だけでなく、広くアジアの、世界の人たちが手を結び、友好と信頼が広がることに役立つよう努力いたします。本当にありがとうございます。大きな勇気をいただきました。
添付したのは私の家の仏壇の写真です。
仏壇の父の写真に先生のメールを額縁に入れて供えました。
父も喜んでいると思います。先生の寛大なお心に感謝でいっぱいです。
これまでの自民党政府の多くは日中戦争(アジア太平洋戦争)が侵略戦争ではないと否定したり、戦争以外に選択肢はなかったというなど、戦争を仕掛けた事実への反省は余りにも不十分です。このような日本政府の姿勢では、日本軍の戦争で奪われた中国、朝鮮半島、アジア諸国民2000万人の命は安らぐことはできません。
日本人として本当に恥ずかしくアジアの人たちに申し訳ないと思っています。
日本は地理的にもアジアの一員です。中国、朝鮮半島とは国境を接しています。
漢字を使う文化も、日本語のほとんどの単語が漢語(中国語)を使用して成立していることも、中国、朝鮮半島との長い相互交流があったからこそ日本文化も作られました。
仏教も、儒教も、それに伴う文化も平和な交流、信頼が築いたものです。
これからの日本も過去の歴史に学び、日本人・日本文化の足元が中国、朝鮮半島、アジアとの平和な交流から生まれたことを大事にして行くべきだと思います。
戦争はプラスのことは何も生みません。平和な状況だけが暮らしも文化も進展させると思います。私は父親たちの過ち・間違いを「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の活動を通じて、広く日本の人たちにお知らせして、「2度と戦争を起こさない。誰もが安心して暮らせる社会」をめざす活動を続けて行きたいと考えています。
日本国民の大多数が先の戦争のことを中国、朝鮮半島、アジアの人たちに(米英連合国含めて)、心から謝罪し「2度と戦争を起こさない日本を作る」道を日本国憲法を守って進んで行くべきです。
そういう社会を作る為に活動を続けます。
2020.9.16 黒井秋夫。
3月10日(水)
李素楨さんの中国語講座をオンラインで受け初めてから2週間になる。
コープ共済連の退職直後から地区会館のサークルで中国語学習を開始して10年になるが上達していない。そのはずできちんと予習復習さえしなかったのだから当然だ。これまで目標を持っていなかった。それが今は少し違う。中国の人たちと多少の会話ができるくらいになりたいと思うようになった。
意志の疎通を少しでもできるようになりたいと思うようになった。
李素楨さんに「黒井さんの取り組みを中国の人たちに伝えたい。一緒に中国に行きましょう。中国語で話せれば気持ちが伝わります」コロナが収まり中国との往来が可能になったら「今年でも来年でも行きましょう」と言われています。何回も言われていますので李素楨さんは本気です。私も父の初任地であり李素楨さんの故郷の公主嶺に行こうと思います。
日本軍駐屯時代、公主嶺の中国人は米を食べることが許されず、食べたことが知れると日本軍駐屯地に「狼狗圏」という軍犬小屋がありそこに入れられ食い殺されたという話を子どもの頃に聞かされたと李素楨さんのメールで教えられました。
身の毛もよだつ、恐ろしい光景です。人間が人間にできることではありません。聞かされてショックを受けました。
そんなことが何故できたのか。なぜ平気でいられたのか。
父のアルバムの添え書きには「匪賊討伐」の勇ましい言葉が書いてあります。
恐ろしい程の差別意識、中国人を人間ではなくはるかに低い、犬に食べさせても心が痛まない程度の動物とみていたとしか考えられません。
それが20歳ころの父の精神であり姿です。あの情けない暗く無口で小心な父親の姿からは想像できません。「あなたの父親は加害者ではあったけれども被害者でもありました」と李素楨さんは言っています。でもそれは簡単に言える言葉ではないのだと「狼狗圏」の話しから教えられました。
公主嶺に行き、そこの人達の前に立った時、いや、そもそも前に立つ勇気がその時に持てるのか自信がありません。ましてや自分の活動を話す言葉が見つかるのか、どんなことを言えば良いのかもわかりません。父の深い心の闇の暗さ、どす黒さの切れ端に触れたような気がしています。
この先の展開は見えないし分かりません。それでもこの道の先は確実に公主嶺に続いています。
*李素楨さんとの交流の経過はHPをご覧ください。
*李素楨さんからの2020年9月のメール全文は以下の通り。
『23日の「村山うどんを食べる会」とお宅の資料館を見学させいて頂き、インタビューをも受取り下さり,誠にありがとうございました。 特に、お父様の代わりに謝罪して下さったことに、中国人として、とても感激しました。お気持ちと戦争に関する歴史認識を中国に伝えることに責任を感じました。
実は、あの戦争の指導者の責任だと思っています。お父様は普通の庶民として、戦場に行かされたのであって、黒井さんのお父様の責任とはいえません。お父様は加害者であったけれども、被害者でもありました。
私たちは、2度と戦争を起こさない、起こさせない責任と義務を負っていると思いますし、誰もが安心して暮らせる社会作っていく義務と責任を持っている、と考えます。国境や民族を超えて、また、人間として平和な社会を作るために、お互いに協力し、頑張って行きましょう。
最後に、お宅の素晴らしい資料館が全世界に広がっていくよう、願っております。私も及ばずながら、中国に帰る機会があれば、黒井さんの活動を広く伝えたいと思いますし、これからも民間レベルでの平和のための活動に邁進していきます。お互いに頑張っていきましょう。』
2021年2月24日(水)
白旗を掲げよう!
「違う」よりも「同じではない」を心がけたい。
「違う」と「同じではない」はほぼ同じ意味に使用できる。
しかし、受け取る感じはかなり違うように思う。
「違う」は相対するものに共通点があるかどうかは問題にしていない。「違う」ことに力点が置かれる。
「同じではない」は相対するものと共通点があるが「違う」ところもある場合も含まれる。微妙に違う。
先だっていただいたある本を読んで指摘の鋭さに感心したが、どこか私の心にフィットしない物も感じた。
私は社会活動家として「輪が広がる」ことを発言する場合も書く場合も第一に考えている。
その観点からすると「違う」のように違いを強調する言葉ではなく、使用するとしたら「同じではない」と共通点もあることに繋がるような言葉を選びたい。というか、違いを探すよりも共通点を探したいと思う。私はその事はとても重要なことだと考えている。
研究者や何かの理論家なら独自の独創的な考えは重要だろうし「違う」ことが命かも知れない。
しかし、私は社会活動家である。すこしでもこの社会を良い方向に変えたいと思い活動している。
多くの人たちに発信する時に、少しでも共通点がると気づいてもらえるような言葉を選び届けたい。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動を通じて多くの人たちに「PTSDの日本兵と苦労した家族の存在」を知ってもらい、広げて「やっぱり戦争をしてはならない」という世論を作り、そのことが「日本が二度と戦争をしない、誰もが安心して暮らせる社会」に繋がると信じている。
阿波根昌鴻さんは農地を取り上げた米軍の兵士でさえ「説得して味方にする」と仲間に話している。土地を取り返すにはすべての人たちに自分たちの戦いを理解してもらう必要があると阿波根さんは考えていた。そうすれば自然に農地が戻り、闘いに勝利するというわけだ。
普通に考えれば米軍(の兵士)は土地闘争の最大の敵に他ならない。
しかし、本当に戦いに勝利するには米軍(の兵士)の考えも変えて、共通点を見出し、見方になってもらわないことには勝利できないということも明確ではないか。
私は違いがあるとしても「違う」よりも「同じではない」と言う言葉を使いたい。
ほとんどの人に理解してもらうにはどんなに時間がかかっても、互いに共通点を確認しながら輪を広げるしかないと思う。世の中を本気で変えようとしたら、一人ひとりを地道に変えることだし、多くの人たちと手を結び広げていく道を探し選びたい。
今はあなたと「同じではない」、しかし共通点もある、という方向に進んで行きたい。
2月21日(日) 白旗を掲げよう!
2月13日(土)に李素楨さんに父親のアルバムをお送りした。昨年8月に来館された折に軍人時代の父親のアルバムは全て李素楨さんに見てもらったと思っていた。それが2月12日に自分の本棚で探し物をしていたらB5版、厚さ10㎝程の父親が残したアルバムに気がついた。
開くと父親の初任地の吉林省公主嶺を映したはがき大の写真がたくさん貼ってある。父が着任したのが1932年なので今から90年前、1930年頃の公主嶺と思われる。中には日本が作った神社の写真もある。
これは李素楨さんに見てもらわねばとすぐに思った。何度も書いたが李素楨さんは公主嶺出身である。
私は8月23日に彼女が来館された時、公主嶺出身と聞いて驚愕し、父親が呼んだと直感して李素楨さんに父親たちが成したであろう所業を謝罪した。そこから、交流が始まり今に続いている。
今日2月21日(日)李素楨さんから9時半からの中国語のオンライン授業の開始直前にお誘いの電話が来た。今日は開館日なので来館者の場合は退出することを伝えて参加した。私はコープ共済連退職後の2011年から10年近く地区会館の中国語サークルに参加した。講師の中国人の先生が日本の大学に就職したため昨年7月に解散になった。
李先生のオンラインの授業は思いのほか楽しかった。李先生は冒頭に私の活動と2人の交流を受講者に(8人だった)紹介するよう話された。私は「交流館」の李素楨さんとの「交流館」の展示パネルを使って皆さんに経緯をお話した。その途中でも思い出し涙が溢れた。
2月20日(金)白旗を掲げよう1
2月20日、午後3時過ぎに小3の4人の女子が来館した。わいわい賑やかである。私は特にかまわずパソコンで作業している。
バナナとパンを食べている様子が会話から分かった。「お腹いっぱい」と言う声もする。聞いたら(土曜だからか)給食はなかったという。それでも家で「焼きそばを食べた」と言う子もいた。帰ってから見たらバナナとパンを確かに食べた様子だ。「子ども食堂でもある」かもしれない。続けようと思う。
途中、二人ずつに母屋のトイレに行った。母屋のトイレと洗面所は解放している。二組目が玄関で「めっちゃ可愛い猫がいるよ」と友達を呼ぶ声がする。これは注意せねばならない。猫を見たということはトイレ横のドアを開けて居間をのぞいたか入ったことを意味する。
「交流館」を開館する時にトイレに悩んだ。遠くから来る人もいる。」特に年寄りはトイレが近い。トイレは必要だが新たに作る場所もお金もない。困って妻に相談した。「母屋のトイレと洗面所を来館者に開放してほしい」。これも承諾してもらった。それ以来、トイレと洗面所の掃除は私の毎日の仕事になっている。子どもたちに注意した。「入っていいのはトイレと洗面所までだよ。居間のドアを開けちゃだめだよ」と言ったら「はあーい」と返事。トイレを私も使おうと入ったら、きれいに流していない。まず掃除をした。
2018年10月14日(日)中藤地区会館(講師 中村江里さん・おしゃべり交流)
2019年3月17日(日)さいかち地区会館(講師 中村江里さん・おしゃべり交流)
2019年8月25日(日)中藤地区会館(講師 北村毅さん・おしゃべり交流)
2019年12月8日(日)中藤地区会館(講師 遠藤美幸さん・おしゃべり交流)
1年の間に立て続けに5回の学習交流会(3回目から「おしゃべりカフェ」とした)を開いた。2時間前後の交流時間をとった。5人から10人程度に会場を分割して父親の思い出や自身の戦争体験を話す場とした。
「父親がPTSDの兵士かもしれない」とその場で発言した人はほぼゼロだった。実際には会が終わってから個別に父親のことを私に話してくれた人が何人かいたが事前に期待したほどではなかった。5人~10人でも話せる雰囲気ではなかったということと思う。参加者が増えれば交流会としては成功でも逆に「父親のPTSD」を言い出しにくい状況だったかもしれない。
学習交流会では毎回、参加者全員から「おしゃべりカフェ」での自分の発言を連絡先も加えて書いて出してもらった。事後に報告書として参加者が書いた発言要旨を前の参加者も含めてそのつど郵送したり、メールでお知らせした。少しずつ伝える人数が増えていった。今は140の個人といくつかのメーリングリスト、報道関係にメール送信すまでに増えた。郵送は160通になる。私が呼ばれた講演会場では当会だけの「参加者連絡先用紙」を主催者とは別個に回収してお知らせ対象先を広げている。
単にその場限りで終わるイベントではなく、繋がりをアメーバのように拡大していくことをめざした。一度でも参加した人とは繋がりを続けることが大事だと考えている。集会は繋がりの始まり、きっかけとして考えた。そこからどう広げるか、そこが関心事だった。
2019年8月に4年前の前立腺ガンの再発が分かった。9月~11月に35日間放射線治療を受けた。排便が困難になる副作用があり、1年半後の今も完全ではない。そのうえ同じ2019年秋に頻繁に発作的な動悸に悩まされた。心拍が急に激しくなり立ち上がれずうずくまり、発作が収まるのをじっと待つ状況を繰り返した。いよいよ心配になり主治医に相談したら立川の災害医療センターをすすめられ、心房頻拍という病名で心臓のカテーテル手術を12月25日に3泊4日で受けた。
自分は丈夫で健康と思っていたが「そうではない。いつどうなるか分からない身体だ」と自覚させられた。「PTSD兵士の資料展示館」はまえから考えてはいた。しかし、自分の不安な体力を突き付けられて「悠長なことを言ってはいられない。時間はない」と私は思った。
「なんとしても語り継ぐ拠点を作らねばならない」。私は決断した。
「PTSD兵士の資料展示館」を家の敷地に建てさせてほしい、と妻に相談した。大賛成ではなかったが妻も了承してくれた。2019年12月も押し迫った頃に、たまたま何かの用事で訪ねて来たのが大工さんの飯塚忠春さんだった。運命の出会いだった。設計施工棟梁・飯塚忠春で2020年1月6日が工事開始と決まった。
2月18日(木)白旗を掲げよう!
「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室通信」3月1日号の準備をしている。通信の中に「お手伝い募集しています!!毎月同様の仕事があります!」という欄を作った。毎月のルーチンワークのお手伝いと子どもたちのお相手をしてくれる人を募りたいと思っている。もう個人企業の枠を越える仕事量になっている。SOSということなのです。皆さんも気軽に来てくれるとうれしい。
先日、我が家に娘家族と妻の姪家族が昼の食事会に集まった。
私が毎月の「交流館通信」の240件の読者、報道機関へのメール送信に半日かかり、160通の郵送作業に2日が必要だと話したら「もっと早く言えばいいのに。手伝える時は手伝うよ」「皆さんにも伝えた方がいいよ。手伝ってくれる人がいるかもよ」「一斉送信のアプリを買うよ」とか言い、飽きれていた。
メール送信はBCCで一度送信を試みたが、何時間経ても送信が終わらず、途中で我慢できずに中止にした。それでこれまで通り一つ一つのアドレスに今も送信を続けている。
A3用紙の「交流館通信」1000枚の印刷は地区会館の印刷機で30分位だが、A4の半分折りに半日くらいはかかる。封筒の宛名書きはコクヨだったかの専用用紙で指定のアプリで印刷したが枠からはみ出しうまくいかなかった。それでA4サイズに3列の住所録を作り、印刷してカッターで一人ひとり切り離して封筒にのり付けしている。封筒に入れ、切手を貼り、封ずるのり付けの時間も手間がかかる。料金別納で郵便局に持ち込むこともあるが、窓口のやり取りや往復の時間を考えると近くのポストに投函できる切手を貼る方が面倒でない気もする。
「交流館通信」は周辺800~900戸に毎月戸配している。100戸のポストに入れるのに1時間かかる。800戸でも8時間かかることになる。午前午後2時間ずつ配布に歩くのが体力的は精一杯だ。特に夏の熱い時はきつい。ここは狭山丘陵の端に位置するので30m程の高低差の住宅地の昇降を繰り返せねばならない。「明日は配布に行くぞ!」と思っても朝になると体調がいまいちのときもある。なかなか順調にはいかない。
2018年1月17日(水)に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げ、5月13日に1回目の学習交流会を9人の参加で世の中に産声を上げた。続いて5か月後の10月14日(日)に2回目の学習交流会を計画した。会場は我が家の目の前、東隣の中藤地区会館を借りる事ができた。
ところが宣伝方法が分からない。つてもない。そこでネットで都内近隣の集会を探して、片っ端から参加して会場でチラシ配布をすることにした。
前もって主催者に配布の許可をもらう連絡を入れる。大体はOKだった。会場に行くと「受付のテーブルにチラシを置いてください」と大概言われる。しかし、見ていると分かるが主催者の印刷物は取っても置いたチラシは中々取らない。私は「入り口付近で手渡しても良いですか?」と許可を乞い一人ひとり確実に参加者に手渡す方法をとった。が、渡ってもその場で読む人は多くはない。持ち帰ったら多くは捨てられる。
集会の多くは最後の方で「質問、意見」の時間があることが多い。私はそこで必ず質問をした。その時に「入り口でチラシを配布したPTSDの会の黒井です」と言って質問を始める。そうすると、チラシの中から取り出して目を通してくれる人がいるのだ。
チラシの宣伝がほとんどの無茶な質問になった時もあった。レイチェルクラークさんが司会するベテランズフォーピースジャパンの2018年の秋の集会には2日で4か所くらい梯子してチラシ配布のために参加した。質問時間の毎回、真っ先に手を上げる私にあきれ返り、遂に再質問しようとしたら「他の人はいませんか」とレイチェルさんは私を指してくれなかった。
今思えば恥ずかしい。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を知ってもらうことにとにかく夢中で必死だった。今になってレイチェルさんにお詫びします。あの時はごめんなさい。
2015年12月28日。ベトナムに向かうピースボートの船上で「アレン ネルソン」さんのDVDを見て父親のPTSDに気づいたのだが、そのDVDを上映したのは通訳として乗船していたレイチェルさんだった。いわば今に到る私の活動の恩人がレイチェルさんなのだ。2018年秋に、私はレイチェルさんの追っかけだった。
2月17日(水)白旗を掲げよう!子ども食堂と言う面も!
2月14日から菓子の他にパンも加えた。6人の小3の女子たちが夕方来館して閉館時に見たら籠は空だった。
私は子どもたちの来館中も、パソコンに向かっていたり、郵便物の整理をしたり作業中で忙しく子どもたちが来ていても構う余裕がない。狭い室内だから交わしている会話は聞こえるが、喧嘩以外は口を挟むこともない。
14日は入ってきて「これを確保!」と何種類かのお菓子とパンと両手に選んだ子どもがいたり「あまり食べると夕飯が食べられない」という声も聞こえる。
食べ終わり。帰り始めて箱の中のしおりを見つけて「これ貰ってもいい?」と一人が聞いてきたら、みんなそれぞれ選んでいる。このしおりは昨年の交流館の開館日に来館者に撒く紅白饅頭と一緒に阿賀野市の山田さんが届けてくれたものである。その中に5円玉が括りつけられたしおりも混じっていた。一人がそれを持って行こうとしたらしい。「それはダメ」と誰かが止めた。「お菓子を食べた上にお金はダメ」とその子は言う。押し問答が続いた。結局、5円玉の付いたしおりを持ち帰ったようだ。
私は瞬時に口を挟めなかった。どうすれば良かったのか。何も考えずにお金が付いたしおりをそのままに箱に入れておいた自分の不行き届きが原因なのだ。そういう事態を思いつかなかった。
昨日の休館日、散歩ついでにスーパーに寄ってバナナとパンを買った。お菓子を食べ終わり「お腹いっぱい!」という子どもたちには食事と言う要素を考えればバナナもいいのではないか、そう考えて今日17日はバナナも揃えてみた。そのことへの子どもたちの反応は今日の下校字からだ。
2018年1月17日(水)「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」のブログを立ち上げた。本屋でマニュアル本を買い求め、ブログ立ち上げは簡単にできた。
最初に立ち上げを宣言する小規模の学習会を5月に計画した。我が家の目の前が武蔵村山市中藤地区会館なので借りようとしたら、5人以上の団体でないと借りられないということが分かった。はたと困った。趣旨の賛同者を募るためにも集まる場所、機会が必要なのに団体以外会場が借りられない。何という不合理!困り果てていたら、たまたま加入していた「武蔵村山健康友の会」が「それじゃあ友の会のホールを使っても良い」と言ってくれた。
毎月19日の国会前集会、メーデーなどの集会に出かけてB6版のチラシを作り参加者に呼びかけ撒いた。知り合い、友人にチラシを郵送した。メールも出した。それでも当時は合計しても100人程度だったと思う。
2018年5月13日(日)武蔵村山市健康友の会3階ホールで第1回交流学習会を開催した。
西武拝島線玉川上水駅の二つのバス乗り場にそれぞれ立て看板を立てた。健康友の会近くのバス停にも案内板を立てた。結局、バスを利用した参加者は一人もいなかったが。
会場に私と妻さち子以外に7人が集まってくれた。ピースボートで一緒だった女性が二人、健康友の会の人たちが5人。うれしかった。この時の模様はホームぺージの表紙ページの最下段に写真で見ることができる。
私は「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」立上げの思いを1時間以上話したが、何度も涙が溢れ声が詰まった。
その時の参加者5人に名前を貸してもらい武蔵村山市地区会館を使用する団体届けを出すことがようやくできた。第一歩を踏み出した。
2月14日(日)の白旗を掲げよう。
昨日、小3の女子2人が会館の10時に来館した。しばらくして「ああ、おなかいっぱい」という声が聞こえた。この二人は週に2日ほど来てくれる。姉妹ではないが仲が良い。来館時はいつも二人一緒だ。13日に来館したのはこの子たちだけだった。夕方5時に閉館の支度をしたが、見るとたくさん食べ、たくさん飲んだようだ。お腹がすいていたのだろうか。この二人ではないが、コーヒー、紅茶用の小さなミルクを「おいしい」と言いながら一度に10個も飲む子供もいる。
昨夜、妻さち子と相談した。お腹がすいて食事代わりに菓子を食べている子供もいるとも考えられる。いわば「子ども食堂」的に利用している子供たちがいるのかもしれない。としたら、食事と言う要素も考えて食べ物の種類を揃えた方が良いのではないか。賞味期限2~3日は持つパンとか牛乳とか。そうしようと言ことになった。
開館して9カ月、事前には予測できなかったことが起きてくる。「子ども食堂」としての利用が良い悪いではない。全面的な食事の提供は現状では無理だが、子どもたちにはそう映っているかもしれない。そういう利用を規制はできない。できる限りのことは応えていきたい。現状に合わせてまた方針変更だ。
2015年、ピースボートにガンジーの本を持ち込み読んだ。「非暴力」を知りたかった。その頃は今の「白旗を掲げよう」に続く過程にいた。読んでその非暴力の凄まじさに打ちのめされるようだった。暴漢に襲われたら身を投げ出して抵抗する勇気を持てとガンジーは言う。ガンジーの唱える非暴力は暴漢から逃げるような卑怯者の非暴力ではないという。
日本軍にせよ英国軍にせよ身を投げ出して抵抗するインド人を何百万人も殺せるものではないという。侵略者たちは殺人にやがて精神的に耐えられなくなる。とガンジーは言う。凄まじい。
ガンジーが唱える非暴力抵抗は私にはできないことだと認め、降参するしかなかった。暴漢の前に命をかけて身を投げ出す勇気は私にはない。私は逃げるだろう。ガンジー流に言えば卑怯者ということになるのだろう。6年前そう思った。
沖縄に向かう船上の講座で阿波根昌鴻さんの非暴力に出会った。
自分たちの土地を暴力で取り上げた米軍兵士をも敵ではないと彼は言う。もとはと言えば日本が戦争を起こした結果が米軍に土地を強奪されたことに繋がった。原因は自分たちにあるという。米軍兵士であれ向かい合い、話して説得して、自分たちを理解してもらい、いつか味方にするという。そうすれば土地闘争に勝ち、農地は戻ると阿波根昌鴻さんは言う。
ガンジーは自力、修験者の非暴力、阿波根昌鴻さんの非暴力は他力の教えのように私には見える。私は弱い人間であり、「沈黙」ならキチジローであり、親鸞流に言えば悪人だ。
そのような私でもおのれを肯定して生きて行くことが許されるなら、卑怯者のそしりを受けても白旗を掲げて生きることを許して欲しい。
白旗を掲げる者たちの先頭に立つ勇気ぐらいなら私は持ち合わせている。
今日のひとこと
2021,2,13の白旗を掲げよう!
12日、武蔵村山市役所に行き市長秘書課、議会事務局などに「交流館通信」3月1日号を渡してきた。届け始めて1年になり窓口の人たちにも認識されるようになった。秘書課では広報課などに回覧していると話してくれた。
私は特に交流館の名前を「村山お茶飲み処」と名付けたように地元に根を張ることにこだわってきた。
建物である交流館はどこにも逃げられない。ここで根を張りどんな風雨にもびくともしない「交流館」を目指すつもりでいる。
建設当時はどのような反響があるか分からなかったし、今でも今後の推移は不明だ。
関東大震災で自警団などに殺された朝鮮人の人たちを慰霊する集会に、わざと挑発に来る集団が出てきているが、「交流館」がそういう対象にならないとは言い切れない。覚悟はしている。
そういう時でも、地元の人たちの支持があれば少しも怖くない。きっと交流館は地元の力で守られる。
「交流館通信」を周辺世帯900戸に配布を始めて1年になる。
これを書いている今は2月13日(土)10時20分だが小学3年の女子2人が来館して本を探している。子どもたちの感想ノートを見ても来館の一番の理由は「お菓子が無料で食べられる」なのだがそれでも良いと思っている。5年、10年、20年の間に子どもたちが青年になり、大人になった時に「交流館」の意味が少しずつゆっくりと彼らの心に根付いていくと確信している。その行く末だけは見届けたいと思っている。私は簡単には死ねない。
4,5日前、通りがかったお母さんが「いつもありがとうございます。」と声をかけていった。「今度お菓子を持ってきてもいいですか?」とも言ってくれた。確実に根を伸ばしていると感じてうれしかった。
社会が変わるとはどういうことだろう。
一人ひとりの考えや意識が変化して、それが社会に見えるようになって世の中が変わっていくのだと思う。「交流館」をそういう変化の発信場所にしたい。その思いが「村山お茶飲み処」の名づけになった。私が来館者とさまざまな話を交わす。「中国に攻められたらどうする!」という人もいた。「ただちに降伏します」と私が言ったら想定外だったようで唖然としていた。それでもその人は又やってきた。3回目はまだだが、きっとまた来てくれると私は思っている。彼にも毎月「交流館通信」を郵送している。白旗を掲げていることを彼はどう受け取るだろうか。いつの日か彼も理解してくれる。そうして社会は少しずつ変わっていく。私はそう思う。確信している。
2021.2.10 白旗宣言。
2月12日の白旗宣言。
昨日11日。「ぶっとばせ軍国風・宝塚集会」が開かれ、黒井はオンラインで70分の講演をいたしました。
オンラインで合計20分程の映像を流しました。事前リハーサルでは私一人で試みましたができませんでした。今回は私の娘の夫、内山大樹さんに傍らに陣取ってもらい、映像もパワーポイントも全て彼が受け持ちスムースに行きました。大感謝です。
ベルリンの壁を崩壊させたのも、ソ連からロシアに政治体制を変えたのも、街頭を埋めた民衆の圧倒的な力でした。銃はもちろん核兵器でさえ無力でした。
銃や兵器、軍隊がなくても社会を変えられる。民衆の力が社会を変える。私たちがこの30年間で見たことです。
軍事力で変えたことは後の歴史で民衆の力で覆される。私たちが見た歴史の教訓ではないでしょうか。
「二度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」への道も暴力はいらない。ましてや軍事力などいらない。武器もいらない。
攻めて来るなら攻めればよい。私たちは決然と白旗を掲げる。その時は負けたように見えても、幾ばくかの時を経れば必ず勝つだろう。その時まで私たちは生き延びる。このことに確信しています。
今日、宝塚集会の参加者から「白旗宣言に共感します」とのメールが届きました。さらに広がる希望が湧いてきます。
2月12日の白旗宣言。
昨日11日。「ぶっとばせ軍国風・宝塚集会」が開かれ、黒井はオンラインで70分の講演をいたしました。
オンラインで合計20分程の映像を流しました。事前リハーサルでは私一人で試みましたができませんでした。今回は私の娘の夫、内山大樹さんに傍らに陣取ってもらい、映像もパワーポイントも全て彼が受け持ちスムースに行きました。大感謝です。
ベルリンの壁を崩壊させたのも、ソ連からロシアに政治体制を変えたのも、街頭を埋めた民衆の圧倒的な力でした。銃はもちろん核兵器でさえ無力でした。
銃や兵器、軍隊がなくても社会を変えられる。民衆の力が社会を変える。私たちがこの30年間で見たことです。
軍事力で変えたことは後の歴史で民衆の力で覆される。私たちが見た歴史の教訓ではないでしょうか。
「二度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」への道も暴力はいらない。ましてや軍事力などいらない。武器もいらない。
攻めて来るなら攻めればよい。私たちは決然と白旗を掲げる。その時は負けたように見えても、幾ばくかの時を経れば必ず勝つだろう。その時まで私たちは生き延びる。このことに確信しています。
今日、宝塚集会の参加者から「白旗宣言に共感します」とのメールが届きました。さらに広がる希望が湧いてきます。
以下より以前の「今日のひとこと」は
「今日のひとこと」上記ボタンからご覧ください。
2021.1.23
PTSDという言葉は知っていた。しかし、アメリカ軍帰還兵が戦場体験が原因でPTSDを発症したことはそれまで知らなかった、と思う。帰還兵アレンネルソンさんは数えきれないベトナム人を、兵士も農民も子供も女性も見境なく殺害したという。ベトナム人はアメリカ人とは違い人間ではないと教え叩き込まれた。ただただ「殺せ!」と訓練された。そして彼はたくさんのベトナム人を殺した。帰国しても殺害したベトナム人の苦しそうな死に際の顔がフラッシュバックとして浮かんだ。しょっちゅう、夢の中にも。アレンネルソンは精神の平衡を保てず、心を壊し、家族に暴言、暴力を振るうようになった。一緒に暮らせないと家族に宣告され家を出ざるを得なかった。彼は沈痛な面持ちでカメラに向かいそれを話した。
2015年12月28日(月)のことだ。その時、私は横浜からピースボートに乗船し、厦門(アモイ)から次の寄港地ベトナム・ダナンに向かっていた。前夜に船内新聞でチェックした「9条を抱きしめて」のDVDを8階スターライトに見ることになる(主催者はレイチェルクラークさん)。衝撃を受けた。
アメリカ海兵隊員だったアレンネルソン(1947~2009)さんの独白が流れ、PTSDに苦しみ話す彼の顔は終生が無口で無気力だった私の父、黒井慶次郎の面影と重なった。
何ということだ。無口、無気力で定職にもつかず、その事で貧乏な生活を家族にしいたダメな父親は本来の父ではなかったかも知れない。従軍体験で心壊され、元の自分に戻れず、戦争の後遺症・PTSD状態から抜け出せない父親の心の中を私は見通す事ができず、浅はかにも、誤解し、バカにし、嫌悪していたのかもしれない。全く思い違いしていたのだろうか。何ということだ。何ということだ。だとしたら、私はとんでもない一生を送ってきた。67歳のその日までダメな父親と思ってきたのが思い違いだとしたら・・・・・・。
私は父親とのことを思い出してみた。船室に戻り、身近にあった用紙の空き間に思いつくことを書いてみた。用紙が足りなくなり、あちこち探し、のり付けし継ぎ足して書き続けた。思えば思うほど父親はPTSDだったとするとつじつまが合う。
学業成績も悪くはなかったと聞く。戦役では軍曹まで昇進した。簡単にたどり着ける階級ではない。
戦場で一人前以上の働きができた人間が、復員後にはどうして無口、無気力で定職にもつけず、病院通いさえ妻が付き添わないと通院できないダメ人間になってしまったのか、説明つかない。従軍体験で人間が変わってしまった。PTSD状態だった、とすればつじつまが合う。
父とのことを書いても書いても涙が溢れた。
自分の愚かさ、思いやる心のない浅いばかりの父への思慮。情けなかった。バカな息子だ。戦場を7年間もくぐってきた人間が、どんな思いで生きて来たのかさえ思い至る事ができなかったバカな息子だ。人の表面しか見てこなかった。父親さえ表面でしか判断しなかった。自分は今幾つだ。67才になっていた。何ということだ。父は私が40才の時に亡くなっていた。27年前だ。
70歳近い今頃になって真実の父を知ってどうするのだ。もう取り返しがつかない。後から後から涙が溢れた。声を出して泣いた。そして自分の心の奥深くから湧きあがる何かを感じた。湧きあがる何かに突き動かされて今も歩いている気がする。
確かにあの時から始まった。私の人生の最後の道筋があの日のあの時に決まったように思う。
4日後、2016年1月1日(金)ピースボート船内ニュースに私の自主企画が掲載されている。8階後方・バイーア13:45~14:45 『人生を話し自分を解放する会「大学闘争・挫折沈黙・SEALS」クロチャン』とある。20人ほど集まってくれた。私はアレンネルソンさんのビデオのこと、相似する父との思い出、PTSDの日本軍兵士が存在したのではないかなど、何度も涙で喉を詰まらせて話した。
下船する2016年3月30日までに合計3回ほど同様の企画を主催した。
奈良県のある女性の父親は特攻兵士だった。飛び立つ日も決まっていた。仲間がどんどん飛んで行った。もちろん一機も帰還した飛行機はない。いよいよ自分が飛び立つという1日2日前に8月15日が来た。戦争は終わった。終わってしまった。自分の機は飛ばなかった。残された。
彼女は戦後に生まれた。軍人時代の父は知らない。普段はいい人だった。それが酒が入ったりしてスイッチが入ると人が変わり、彼女の母であり、自分の妻に手を上げた。暴力を振るった。彼女は怖くて怖くて陰に隠れて泣いていた。
先に母が亡くなり、元特攻兵士の父親は90歳を越え認知症を発症し、付き添うのが妻なのか娘なのか判然としない状態の病床で「000よー、俺は卑怯者だー、俺を許してくれえー!」と時々叫ぶのだという。
奈良の女性も今の今まで父親の暴力も、病床の叫びの意味も分からなかったという。それが私の企画に参加して初めてPTSDを発症していたのかと理解したという。
気付いたその夜、彼女は船室で1人「声をあげて泣いた」と私に話してくれた。
私は先の大戦で心を壊し、人間が変わってしまったPTSDの日本軍兵士が存在したことを確信した。
戦争とは怖いものだ。戦闘は確かに一部を残して1945年8月15日に止んだ。その日を終戦の日と日本は言う。しかし、それから70年も経て、戦争の傷痕を引きずっている人がいる。PTSDの復員日本兵がいた。その日本兵の為に苦しんだ妻や子ども、家族がいた。
戦争は命を落としたり、身体に傷を負ったり、抑留されたりする兵士だけではない、表にはそれと見えなくても心に傷を負い、心を壊し、自分では制御できずに、家族に暴力を振るい、傷つけたり、無気力になり社会に順応できない人間を生み出していたのだ。しかも、そのことを日本国民は誰も知らない。
もし、先の大戦でPTSDの日本兵がいたとしたら、この事が日本人の誰も知ることなく、歴史の闇に葬られていいのだろうか。PTSDの日本兵の存在を知らないで、戦争でそういう兵士が発生することを知らないで戦争が語られていいのだろうか。PTSDの日本兵の存在が語られないで日本の戦争を分かったように話されて、教育されていいのだろうか。
良いわけがない。それではPTSDの日本兵は浮かばれない。共に暮らした家族も浮かばれない。日本は防衛省自衛隊も研究者も、戦争反対を叫ぶ人もPTSDの日本兵の存在を含めないで戦争を想定し話しているとしたらとんでもない間違いだ。片手落ちだ。こんなことが許されていいわけがない。将来にも大きな禍根を残すことになるではないか。
私に湧きあがるものがあった。黙ってはいられない。父親のためにも、自分のためにも、PTSD兵士とその家族の名誉のためにも、戦争でPTSD兵士が作られることを世の中に訴えなければならない。PTSDの日本兵が先の大戦で生まれたということを日本の人たちに知らせなければならない。たとえ、今は自分一人であろうとも声を出さなければならない。立ち上がるのだ!私の心を震わせる鼓動を感じた。
2016年3月30日の下船に際して、私は最後の自分の企画で下船したら「PTSDの兵士の語り部になる」と宣言する。
私はその時も、実を言えば2018年1月17日に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げるが、その時になっても「PTSDの日本兵が存在した事実」を日本では誰も気づいた人はいないと思っていた。気付いているのは自分と、ピースボートで出会った何人かしかいないと思っていた。
私たちだけではないと気付いたのは2018年の3月頃に、中村江里さんの著作「戦争とトラウマ」を立川市のジュンク堂の棚で偶然見つけた時だ。その時に初めて知った。日本軍兵士のPTSDの研究者がいた!確かにPTSDの日本兵がいたのだ!あの驚きは今も鮮明だ。明かりが見えた。仲間を見つけた!そういう思いだった。そして今に続いている。
以下、2016年3月に書いた「亡き父と二人三脚で日本軍兵士のPTSDをB広げる語り部をめざす」を掲載します。この文章はHPで読む事ができます。
ピースボート自主企画「独白・父と暮らせば」(下船直後に加筆)
亡き父と二人三脚で日本軍兵士のPTSDを広げる語り部をめざす!
2016.3月 黒井 秋夫
・私はこれから自分の父親の事、そして私と父親の事を話します。私たち父子はついに最後まで深い話をしたことはなかったように思います。父は私のことを、私は父のことを本当に理解しあえたとは言えないように思います。なぜそうなったのか、なぜ理解しあえなかったのかを日本軍兵士のPTSDというキーワードでお話ししたいと思います。
・話の中には自分の父親を尊敬できなかったということも出てきます。そんなことを言うのは本当に父には申し訳ないと思います。そのことも又、日本軍兵士のPTSDがそうさせたのではないかと私は皆さんに伝えたいのです。尊敬できなかったと思っていた父親は実は本来の父ではなく、心に深い傷を負ってしまったPTSDに苛まれた日本軍兵士の父親だったのではなかったかと今は思っているのです。いわば先の大戦に従軍した日本軍兵士のPTSDが尊敬しあえるはずの父と子の普通の関係を破壊してしまったのではないかと私は主張したいのです。そしてその事の発生原因であり、結局は人の殺し合いにすぎない戦争を二度とするようなことがあってはならないと訴えたいのです。
・戦争によるPTSDが最初に問題化したのはベトナム戦争で米兵が帰還したら戦争目的が正義ではなかったとする祖国の世論とのギャップと社会からの疎外感などもありPTSDにさいなまれ社会に順応できない、社会復帰できない、暴力やアルコール、麻薬に走るという事例が大量に(全体の30%とも50%ともいわれている)発生し、個人の力で解決できる傷病ではなく社会全体でケアする体制と理解が必要だと認識されるようになったのが最初です。
・さて第二次大戦に兵士としてアジア太平洋地域で戦った日本軍兵士たち、つまり私たち世代の父親たちにPTSDは無かったのでしょうか?徴兵前と変わらない健全な精神状態で帰国したのでしょうか?戦後の社会にすんなりと順応できたのでしょうか?
・私は1948年、昭和23年の生まれであり、直接の戦争体験はありません。自分が生まれる前の徴兵前の父親がどんな人だったのか見ることも感ずることも当然できません。戦地から帰還した戦の父親しか知りません。父はいつ頃までか「戦友の夢を見た」とポツンと口にしたことはありましたが、他は無口で戦争のことは全く話しませんでした。
・父親は帰国して徴兵前に働いていたという鶴岡市五十川にあった田川炭鉱には戻りませんでした。その事情は聴いていません。私が物覚えついたころはダム工事などの作業員の仕事などして家族を養っていました。その他、商売を始めたりしましたが長続きせず貧しい生活でした。私は欲しい物があっても口にしても無駄だと悟り言わずに諦めるような子供時代でした。
・しかし父親にはそういう貧乏から抜け出そうという意欲は余り感じられませんでした。そういう努力をしているようにも見えませんでした。子供の私にはその姿は良く理解できず尊敬できない父親でした。むしろ自分は父親のようにはならない、絶対ならないとずうっと思っていました。
・高校3年のある日、学校の図書館で川上肇の「貧乏物語」に出会いました。「貧困は個人の責任ではなく、社会が構造的に生み出す物で救済策もまた社会の構造的改革を伴う対策が必要だ」とありました。その言葉は目から鱗が落ちるような衝撃でした。「貧困をこの世からなくすること」それは私の生きる上での判断の指標の大きな要素の一つであったように思います。
・考えてみると父は私の人生において反面教師だったと言えるかもしれません。そういう意味では悲しい親子関係だったかもしれません。そしてそういう父親の姿、生き方を生まれながらの父親の性格だとしか思いませんでした。
・2015年、安全保障法への疑問や反対が日本で沸き上がり始めたころ、ふと父親が生きていたならどうしただろうと思うようになりました。戦争だけは駄目だと言うのを聞いたように思ったからです。不定期の「武蔵村山・黒井ニュース」に「父と語れば」として、もしも父親が生きていたなら、元気であったなら私と一緒に国会前の座り込み抗議行動に出かけたのではないか!生死を共にした戦友たちと肩を組み国会前に座り込んでいるのではないか!と「戦争だけはしてはならない!」と叫んでいるのではないかと思えたからです。その時から亡き父との対話(父と暮らせば)が始まったのです。
・そしてピースボート90回クルーズの3か所目の寄港地であるベトナム・ダナンに向かう航行中に、過去から今に到るベトナムの歴史の理解の為にベトナム戦争を描いた映画プラトーンや、イラク・アフガン戦争の米軍兵士のPTSDのDVDを見ました。映画プラトーンでは若い米兵が戦地に赴く前の戦争のイメージとはかけ離れた、村ごと焼き殺す住民虐殺や残虐な戦闘現場にも次第に精神が麻痺して反応しなくなり、崩壊し、心に深い傷を負う米兵の姿と中国大陸で戦う日本軍兵士としての父の姿が突然重なりました。「自分の父親も又、米軍兵士と同じように戦争体験によりPTSDにさいなまれていたのではないか」というひらめきです。それは本当に思いもかけない瞬間で雷に打たれるようなショックがありました。今は亡き父との対話は私の父に対するイメージを大きく変える方向に動いて行きました。
・父が戦った地は中国の旧満州から長江のある華中方面で、当然にもそこには中国人の村があり、家があり、人たちが生活していたのであり中国人兵士だけでなく、ごく普通に年寄りも女性も子供たちも暮らしていた訳です。
その状況はベトナム戦争における米兵の置かれた状況と似ています。周りを敵に囲まれ、昼は農民でも夜は兵士かもしれない。いつ襲撃されるとも限らないという恐怖を父は従軍していた約10年に渡って体験したのではないでしょうか。残虐な行為も幾度となく目撃しただろうし、あるいは自身が実行者だったかもしれない。
だとしたら、米兵と同じように正常な精神でいられた訳がない。心に深い傷を受けていたのではないか。帰国後に簡単に社会に順応できるような状態ではなかったかもしれない。
・私の知っている父親は戦争前の本来の姿とはかけ離れたPTSDと戦う父親だったかもしれない。戦前にはもっと快活であった父親がいたのかもしれない。戦争のことには特に無口だった私の父親はPTSDを抱えながら、それでも必死に家族を養おうとしていたのかも知れない。私は父親の負の姿しか見えていなかったのではないのか。そう思った時、今は亡き父親と心と心が生まれて初めて繋がったような感情がわいてきました。父親が私を真っすぐに見つめているような気がしたのです。
・これらのことは言うまでもなく全ては私の勝手な想像の世界の話です。この世にいない父親に当時の心の内をもはや聞くことはできません。どうだったのか真実は分かりません。しかしPTSDが父親にもあったと考えるといろいろな辻褄が合うのです。
・本当に父親は戦争についてはほとんど何も話しませんでした。話さないままに一生を終えました。しかし話さなかったのは私の父親だけではなく、多くの兵士も又口を閉ざしたと言われています。なぜ押しなべて彼らは話さなかったのだろうか。話さなかったのではなく、話すような誇らしいことなどは何もなかったと言う事なのではないだろうか。そのように米兵のPTSDの告白は教えています。父にとって、そして日本軍兵士にとって戦争で何を体験したのか。人生にどんな影響を与えたのか。多感な青年たちにとって戦争は何だったのか。
・映画プラトーンでは、出征した青年は「戦果をあげ英雄になって帰国する」という夢を持ってベトナムに行きました。しかし、戦場の現実は想像を絶する、更にそれ以上に持っていた夢とはかけ離れた「殺す前に殺す以外に生き残る術のない」正義も道徳もない獣の論理の世界でした。やがて青年は人殺しにも何の感情も湧かなくなり、精神のバランスを失い荒廃し心に深い傷を負っていくのです。
・だとしたら、米兵と同じような環境にいた日本軍兵士もまたアジアの戦場での体験は彼らの精神を粉々に砕いたと想像するのはおかしいだろうか。
・世界を光り輝く世界に導く不敗の神の国だと信じて戦った聖戦を、戦後の祖国はその価値観を真逆に180度さま変わりさせて、アジアへの間違った目的の侵略戦争であったと断じました。帰還した日本軍兵士の戦争体験をいわば完全否定したのです。帰還した兵士たちは何を頼りに己の精神の平衡感覚を保てば良かったのでしょうか。悲惨な戦争体験をしたのみならず日本社会の無理解と疎外感は彼ら帰還した日本軍兵士の性格を変え、その後の生き方に決定的な、取り返しのつかない影響、打撃を与えたと類推するのが普通ではないだろうか。
・戦前の日本軍兵士は天皇の兵士であり、お国の為に死ぬことこそ本分であり、特に敵の捕虜になることなど「生き恥を晒す」として最も屈辱的なことであり、「武士道精神」に基づき、その前に自決するのが当然の選択でした。しかし、父は約1年間中国で捕虜でした。「恥ずかしくて日本に帰れない。どの面さげて帰れるか」それが一番に思ったことではないでしょうか。それでも父は1946年、敗戦の翌年に博多に帰国しました。その祖国日本は父が叩き込まれ教育された神の国日本ではすでになく、父たちが生命を賭した戦はアジアへの侵略戦争であり、価値あるどころか間違った無意味な戦であったと言うことになっていました。父が青年時代の命を懸けた約10年の全てが間違いだったと否定される、全く評価されない別世界の日本に戻ってきたのです。この時、父は34歳でした。
・父は無口でした。その時の父は何が正義で何が間違いなのか。何をすることが良いことなのか、何をしてはいけないのか、戸惑うことなく判断し日本社会に順応できるような精神状態だったろうか。価値観が180度逆転した針の莚のような祖国で戦争のことなど話すべき事柄だっただろうか。当時の日本が捕虜になり帰国した敗残兵のことなどに聞く耳など持っていただろうか。「社会から疎外された存在」とは正に当時帰国した日本軍兵士にこそ相応しい言葉ではないだろうか。私の父は、そして多くの帰還兵は無口だったのではなく無口になざるを得なかった、させられた、語るべき言葉もなく聞いてくれる相手もいないというのが真実ではなかったでしょうか。
・終戦から27年後の1972年、一人潜んで戦争を戦い続けていたグアム島から日本軍兵士・横井庄一さんが羽田空港に帰還しました。その時に「生きながらえ恥ずかしながら帰って参りました」と話しましたが彼は捕虜になった訳ではない。戦い抜いて帰還したのだ。「恥ずかしながら」という言葉は父親たちにどう響いただろうか。捕虜になり早々帰国した自分に向けられた言葉として又しても深く傷ついたのではないだろうか。
・中国、韓国、アジア諸国から繰り返し戦争の謝罪要求が今もなお続いています。父たちはその度ごとに自分たちに向けられた非難として精神を痛め続けたのではないだろうか。いわば、戦後何年経っても心休まる日々は少なかったのかもしれない。
・私は何と鈍感で想像力のない人間だったのでしょう。私は先の大戦で特に太平洋の幾つかの戦場では戦闘による死者よりも病気や飢餓による死者が多かったことは様々な報道から分かっていたし、人並み以上に知っているつもりでいました。だのに、その戦争を体験した兵士の精神がどんな打撃を受けたのか、生き方にどんな影響を受けたのか、67歳になる今の今まで考えが及ぶことは無かった。一番身近な父親への生き方にどう影響があったのか、そういう考えまで遂に及ぶことはなかった。
・戦争をするのは機械ではない。将棋の駒でももちろんない。一人一人の個人としての人なのだ。彼らはその誰もが出征するその日まで、やるべき仕事があり大事な家族とのかけがえのない生活を続けていたのだ。彼らはそこから戦場に行ったのだ。兵士をカタマリで見てはならない。それは戦争開始に責任のある為政者のやりそうな思考ではないか。感情が揺れ動く呼吸する一人の人間として兵士を見ることが大事なのだ。だとしたら、私もそれまで父も含めて日本軍兵士たちを為政者と同じように個ではなくカタマリとしてしか見ていなかったのではないか。だから兵士の心の内まで思いやる気持ちを持てなかったのではないのか。私の想像力には人間を思いやる温かみのある心が欠けていたと言わざるを得ないのではないか。それでは父を理解できなかったのは当然のことだ。
・私の自主企画の後に90歳で昨年死亡した特攻隊兵士だった父親のことを私を見つけ話してくれた女性がいました。その方の父は、同僚が飛んだ次は自分が特攻隊として飛ぶ順番でしたが、2日後に8月15日を迎え死なずに除隊となったという。しかし、以降も「自分は卑怯な人間だ」と家族にたびたび漏らすことがあり、普段は静かなのに酒が入ると人が変わり、暴力をふるうことがあり、そんな時は怖くて幼い自分は震えていたという。最後は認知症になり早くに亡くなった母と自分を混同するような状態でありながら、病床では特攻で死んだ友の名を呼んでいたという。私の話を聞くまでは、父の行為とPTSDを結びつけて考えたことは無く、私の「父と暮らせば」を聞いて、父の内面の葛藤が初めて分かりかけたような気がする。その晩は声をあげて船室で一人泣きましたと話してくれました。
戦後70年経過し、90歳まで生きながら最後に見た夢が自分を卑怯者と感じさせた戦友の姿だったとは何と壮絶で痛ましい生涯ではなかったろうか。その人が心の中に70年間抱き続けたものは一体何だったのでしょうか。その女性の父親もまた、心に深い傷を負いその責め苦と戦い続けて生き抜いたと言う事なのではないでしょうか。
・皆さんにお聞きします。私の父だったり、この方の父親だったり、PTSDに捕えられるような戦争体験をする日本軍兵士をこれからの世の中で作り出しても良いのでしょうか。また兵士である父親のPTSDの影響を受けざるを得ない子供たちと家族も必然的に生み出されます。そういう時代が来ても良いのでしょうか。
・私は父に詫びねばならない。父親の従軍時代の体験と精神状態まで思うことができなかった。子供時代ならいざ知らず大人になっても、ましてや戦争や平和の問題に人並み以上に関心を持っていたにも関わらず、自分の父親が一番身近な当事者だったのに全く結びつけて考えることができなかった。一体全体どこの国のいつの時代の戦争や平和を私は考えていたのだろうか。なんという貧困な想像力。私の考えていた戦争や平和は現実感のない空中の議論に過ぎなかったということではないだろうか。青年時代に大きな壁に跳ね返されと感じ、その壁が一体何物なのか認識さえできずに、私がその後の自身の混迷の整理や総括もできなかったのも至極当然のことだ。方向性が発見できなかったのも当たり前だったと言わざるを得ないではないか。
・考えてみれば父親も自分の青年時代の体験を自分で納得できる整理は恐らく終生できなかったと思う。解決不能のまま生涯を終えたのではないかと思っています。しかし、私も又、自分の生き方を方向づけた「自分の家庭の貧困」の本当の原因に67歳になるまで気づいてはいなかったのだ。そのことを私に気づくよう仕向けたのは今は亡き父親だったのだ。
・私は1948年の生まれであり、戦後の父親しか知らない。徴兵前の、戦争体験前の健康な精神だったころの父の姿を知らない。私は(私たちの世代の日本軍兵士の子供たちは)本来の父とはその精神がすっかり変わってしまった負の父親を本来の姿の父と見誤っていたのではないだろうか。
・だとしたら、それは本当に不幸なことではないか。父は息子に己を理解させる言葉を持たず、息子は親がとうに亡くなった67歳になるまで父を理解する大きな心を持てなかった。戦争は親子が互いに信頼し、尊敬しあう関係まで捻じ曲げたのかもしれない。
・(父よ)あなたは誰にも話すことができずに、自分自身だけで戦争体験と社会からの疎外感を反芻しながら生きていたのですか。誰にも説明できず、話す言葉を持てず、誰にも理解されずに自分の子供とさえ心を通わすことさえできずに77歳まで生きて、死んでいったのですか。
・私は口を閉ざし無口であり続けた父親(父親たち)の心の闇に近づき、PTSDに切り刻まれた精神を息子である自分が引き継ごうと思っています。兵士としての時代の自分の行為を整理することも、自己評価することも、ましてや納得し肯定して人生を再出発することなど及びもつかなかった「無念だったに違いない父の人生の何年か」を私が引き受け整理し、理屈をつけ、言わば総括し、父(父たち)たち日本軍兵士が話したかったであろう思いをこの世の中に公にし、多くの人々に知ってもらい考えてもらう「日本軍兵士のPTSD」の語り部としての活動を始めようと考えています。
・日本軍兵士のPTSDは過去の事ではない。
・イラク派遣のストレス・隊員の自殺21人、数字以上の深刻さ、分析し教訓生かせ(2015.7.17朝日新聞抜粋)
・元自衛隊中央病院精神科部長だった福間詳医師はイラク・サマワの非戦闘地域での自衛隊員の精神的ストレスを次のように話しています。
・2年余りの期間中、宿営地には迫撃砲弾などが13回(2か月に1回と多くはないと思うが)撃ち込まれコンテナを貫通したこともありました。「私の着任中にも着弾し、轟音とともに地面に直径2mほどの穴があきました。直後に警備についた隊員は『発射したと思われる場所はすぐ近くに見えた恐怖心を覚えた』『そこに誰かがいるようだと言われ緊張と恐怖を覚えた』暗くなると恐怖心がぶり返すと訴える隊員は急性ストレス症候群(PTSD)と診断しました」と福間医詳師は言っています。人道支援活動で戦闘地域ではないとしている自衛隊でさえ3年間に21人も自殺している事実を福間医師は米兵のPTSDとは違うと言いますが(私には同じに見える)人生を断つまでに至るような心に深い傷を負っているのです。「アメリカで社会問題になっているイラク帰還兵のPTSDは戦闘ストレスとも呼ばれ、目の前で敵を殺したり、味方が殺されたりした時に起きます。惨事を経験したショックによる高強度ストレスです。アフガニスタンとイラクからの帰還した後の自殺者が戦死者を上回っています」と続きます。
・このようにイラクやスーダンに派遣されている日本の自衛隊員のPTSDが次々と明らかにされています。つまり戦争の為にかけがえのない人生を、自分の心を自分で制御できない、心に深い傷を負わねばならないような仕事をしている兵士が今現在、進行形で発生し存在しているのです。
・こういう情勢が進行するときに70年前の先の大戦で心に深い傷を負い、スムーズな社会復帰はもとより精神を持ちこたえることさえ困難で口を閉ざし続けた私の父もそうであったかもしれないPTSDに侵された日本兵がたくさん存在したであろうことを、このまま光を当てることもせず、あたかも無かったことのように、誰にも気づかれることなく世に出さないまま歴史の闇に葬り去って良いのでしょうか。彼らの遺言として受け止めこれからの日本の指針として、教訓として世に明らかにし二度と起こしてはならない戒めにこそすべきなのではないでしょうか。
・PTSDにさいなまれ自分の人生を台無しにしたばかりでなく、」その家族、その後生まれた私たち世代の子供にまで「尊敬できない父親」と思わせるような影響を与える「戦争は二度としてはならない!」とり訳、他国に出ていくような戦争をしてはならない。自分のような兵士を生み出してはならない。このことこそ父(父親たち)が私たちに伝えたかったことではないでしょうか。
・自民党安倍首相は憲法改正を公言しています。その狙いの先には憲法9条を変え、いつでもどこでも堂々と戦争ができる日本にすることです。そのことは亡き父、亡き戦友たち、第二次世界大戦に従軍した多くの兵士たちの願いを踏みにじることだと私は思います。
・私には今、確かに亡き父親の声が聞こえてきます。「息子よ、私の代わりに声をあげよ!」と、言っているのです。とするならば「あなたの万分の一しか取って代われないかもしれないが、それでもあなたの思いに近づき世の中の人たちに伝え広げる行動を起こします!」と私は応えたい。
・私は日本軍兵士のPTSDの悲劇を掘り起こし、世に出す「語り部」になりたい。
・先ずは地域の公民館を借りて、市報などで広報し始めてみたい。もちろん初めは何から何まで一人なのは当然だ。それでも続ければ賛同者に出会えるだろう。現にピースボートのクルーズ中の4回の私の自主企画(父と語れば・日本軍兵士のPTSD)に延べ100人を超す参加者があり、自分の父親について私と同じような気づきの体験を話し合う交流の場を持つこともできた。語り部を続けていけば、やがて仲間ができて、ネットワークができるかもしれない。そうなったらどんなに素晴らしいことだろう。その中からは第2第3の語り部が出てくるに違いない。それらの力が束になれたなら、もしも 日本が戦争への道を進もうとする時に、その前に立ちはだかる「5分の魂を持った両手を広げる虫」くらいにはなれるかもしれない。
・「語り部」の活動が実を結ぶのははるか先かもしれないし、局面、局面では何度となく敗北感を味わうこともあるに違いない。だとしても、今度は青年時代のように挫折したり沈黙したりはしないことにしよう。そういう時は沖縄の人たちの長い戦い、負けない戦い、いつの日か必ず勝つ戦いに学ばせてもらおう。時には敵と思われる人たちをさえ「いつかは味方に変える」心通わせる気長な取り組みを手本にしよう。あの人たちのように悲壮感など持たず、むしろ明るい気持ちで、未来に向かって、諦めず、粘り強く、亡き父と心通わせながら二人三脚で歩いて行くつもりです。皆さんが温かく見守ってくださることを心からお願いしたい思いでいっぱいです。
2016年4月
黒井 秋夫
2021.1.17
26年前の1月17日、阪神淡路大震災が起きた。私は46歳で市民生協にいがたでコープ共済の部局にいた。部局と言っても組合員が2万人を越えたくらいで、発足10年にならない若い生協で担当職員は私一人、同年代のパートの女性職員2人という小さな職場だった。
その事情は日本生協連におけるコープ共済の位置付けも同じで店舗や共同購入・宅配業態が2枚看板、圧倒的主力で、コープ共済という事業は誰にも期待されず、歴史も浅くその存在を知らない生協役員がむしろ多かったと思う。
当時は共同購入・宅配の配達職員が商品を手渡したりする際に、組合員同士の助け合い商品としてコープ共済をおすすめした。会話の苦手な職員にはその仕事は好きな仕事ではなかったと思う。1995年当時、コープ共済の加入者は全国で100万人程だった(2021年現在のコープ共済加入者数は892万人。保険・共済業界で上位10指に入る規模に成長した)。
コープ共済は助け合いの商品という特性もあり、病気やケガの保障以外に火災や水害の住宅災害にも少額だがお見舞金が払われる。地震の被害は多くの火災保険・共済は補償対象外だが、コープ共済では全壊で5万円、一部壊では1万円だが異常災害見舞金が払われる。
1995年の阪神淡路大震災のとき、当時日本最大、100万人の組合員を擁するコープこうべは未曽有の被害を受けた。神戸にあった生協本部は倒壊し、保守警備の職員が命を落とした。ほぼ全ての店舗が開店できる状況ではなかった。それでも、駆けつけた職員は、めちゃめちゃに散乱した商品をかき集め、お店前に戸板を出し、臨時の売り場にしてお釣りの必要ないきりの良い金額で食料を中心とする生活に必要な商品を懸命に提供した。生協の宣伝をするようだが、生協は数日で開店したが神戸基盤の大手スーパーの開店は生協より何日も遅れた。
あの時、コープ共済の加入者がコープこうべでは6万人いた。
コープ共済には異常災害見舞金という制度がある。コープ共済に携わる共済事業の職員が全国の生協から神戸に集められた。異常災害見舞金を被害を受けた共済加入している組合員に一時も早く手渡したい。その一心で神戸中を職員は走り回った。
私は2月の半ばに神戸に行った。宿舎は大阪のホテルだった。朝、近くのコンビニで昼食と水を買いリュックに担ぎ、コープこうべの共済部事務所のある神戸住吉までJR電車で通った。大阪はネオンが見えたが、尼崎、西宮、神戸に近づくと街の様相は一変する。一言で言うと空襲の後のようだった。市内中心部は電車も交通機関は不通が続いて、多くの人が作業着に大きなリュックを背負い、黙々と道を行き交った。
全国の生協から派遣された共済職員は加入組合員の地図を頼りに、一軒一軒訪ね歩いた。避難所も回った。体育館など避難所内で大声の呼びかけはできない。日中の避難所は年配者が多い。横になり休んでいる人がほとんどだ。私たちは避難所の入り口付近にテーブルを並べ、生協ののぼりを立て行き来する人たちに「生協の共済に加入している人は見舞金が出ます!」と呼びかけた。私も西宮だったか避難所になっている市役所で呼びかけをした。
ある日、一軒一軒地図を見ながら戸別訪問した時に、小さな町工場の住宅が組合員宅だった。年配の夫婦二人暮らしだった。虹色のコープの腕章をして玄関に立った私に「わあー、生協さん来てくれたの。地震以来この家には誰も来なかったのよ。生協さん、あなたが初めての訪問者よ!」組合員は涙を浮かべてそう言った。ある訪問先では帰り際、缶コーヒーを私に差し出した組合員さんがいた。手に取ると温かい。温めて自分が飲もうとした物に違いない。熱いものが心に流れた。そういう組合員さんに何人も出会った。一時も早く組合員さんに共済金をお渡して、少しでも生活に役立てて欲しい、そう思って私は神戸に行った。共済という仕事は加入者が病気やケガ、何らかの災害にあった時に、それに相当する共済金(お金)を支払うことが仕事だと思っていた。
しかし、訪問してくれたことを喜ぶ組合員さんに何人も会っていくうちに、組合員さんはお金がもらえることに喜んでいるのではない、自分を忘れずに訪問してくれる人がいた、連絡もしないのに生協さんが心配して来てくれた、そのことを喜んでいるのだと気がついた。
私は目が覚めた。そうか共済の仕事で大事なことはお金ではないんだ。私を心配してくれる人がいる、私は一人ではない、そう思ってもらう仕事、一緒に頑張ろうねと、心を届けることこそ一番大事な仕事なんだ、と私は思った。
そう思ったのは私だけではない。全国から神戸に参集した職員のまとめの感想には私と同じことをみんな書いている。神戸で出会ったコープこうべの組合員さんが生協職員としてのその後の私を作ったと言って過言ではない。あの時の体験は今でも昨日のように思い出す事ができる。コープこうべの組合員さんありがとうございました。私は元気にしています。皆さんもお元気でいて下さい。2021,1,17 黒井秋夫。
2021.1.16
★全員の人たちに賛成してもらう。
14日から始めて3日目になるが16日朝7時から町内に「交流館通信1月号」を戸配してきた。ようやく550戸に配布した。道すがら紅梅と白梅が咲いていた。青空に映えた。
通りかかると男性が花壇に水やりしていた。おはようございますと声をかけてチラシを手渡そうとすると「ゴミになるだけだからいらない」と言う。「重要なものなら別だが」と言うので「私が発行したものです」と差し出したが、作業中のまま「いらない」と受け取ってくれなかった。
「チラシお断り」のステッカーは時々見かける。残念に思うがチラシをその場合は入れない。しかし、面と向かって断られたのは昨年来、周辺の戸配を始めて10回目だが初めてだ。私は「そうですか」と言って隣の家に向かったが、非暴力の師と仰ぐ阿波根昌鴻さんならどうするだろうか。
阿波根さんは土地を収奪した米軍兵士でも(味方になってもらうために)説得対象だと言っている。その訳は、どうしたらこの戦いに勝てるだろうかと米国の市民活動家に質問したら「米軍兵士含めてすべての人たちが賛成すれば勝利できる」と言われ目が開かれたからと阿波根さんは語っている。多数派になるのではない、関係する全員の人たちに賛成してもらうのだと市民活動家は言ったという。
わたしもまた、その言葉に目を開かれた。多数決の原理はよく言われる。物事を多数の意見で決めるのが民主主義だとよく言われる。しかし、多数意見が正しいことでないことはごく普通にあることだ。明治以来の日本が仕掛けた戦争を日本人の圧倒的多数がそのつど支持した。支持する国民世論があったから日本軍は戦争を続けられた。日本軍のせいで明治以来アジアで戦火が途絶えることはなかった。
多数で決めたことでも間違いは多々あるのだ。しかも戦前でも戦争に賛成しない人たちもごく少数ではあっても存在した。全員が賛成したわけではない。
全員が賛成するなどありえないことのように思える。あり得ないかもしれない。
しかし、私はありえないとしても「全員の賛成」をめざしたいと思う。全ての人たちを説得の対象に考えることにしている。「敵味方」というような区別はしないことにしている。
例えれば菅義偉さんも安倍晋三さんももちろん敵ではない。阿波根さんにならい皆と同じ説得対象と考えている。
時々、何かの集会に参加したりすると「すが」とか「あべ」とか「トランプ」とか呼び捨てする発言に出会う。私はそういう敵味方に「分断」する呼称に違和感を覚える。
安倍首相が街頭演説会で野次を受けた時「あの人たちに負けるわけにはいかない」と発言した。その言い方は敵味方に国民を分断して見ていると思うが「すが、あべ、トランプ」という呼び捨ての言い方にも安倍さんの発言と同じ「分断」する意思を感ずるのだ。
「相いれない人たち」であると分断する考え方に私は賛成しない。あくまでもすべての人たちの賛同を得たいのだ。多数派をめざすのと、すべての人たちの賛同を得ようとするのでは、その出発点の構えから違うのではないだろうか。ある種、峻別してかかるのは楽な道だ。味方をくくれば済む。しかし、多数をくくって少数の反対を抑えて何ごとかを決定したら、それで落ち着くだろうか。私には落ち着くとは思えない。その時は抑え込まれても少数者は反撃の時をはかるのではないだろうか。
そんなことを言っていたら何ごとも決められないと言われそうだ。確かにそうかもしれない。しかし、何度も言うが全員一致しか落ち着く地点がないことも又事実だと思う。前回の「今日のひとこと」で戦争・暴力では何も解決しない。解決したように見えても落ち着くことはない。話し合いで解決した事だけが平衡をたもてるのだと私は書いた。
多数の意見の解決も言い方を変えると少数意見者を排除した解決と言えなくはない。つまり、それもまた一種の暴力的解決なのだ。解決が落ち着くのは全員が納得した時だけだといえる。つまり、最終的に解決するのは「話し合いで全員が納得した時」だけなのだ。私は夢物語と思われても「話し合いで全員が納得した時」の解決をめざしたい。
「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室=交流館」として「村山お茶飲み処」を名称の中に入れている。「交流館」には「地域に根差すというこだわり」があるから名称に入れた。この地域で誰もが気軽に出入りできる交流の場になりたい、という願いが込められている。ともすれば戦争の問題を扱う趣旨からどこかの党派、政治団体の一部のように思われかねない。わたしはそれは絶対に避けたかった。「PTSDの日本兵の存在。共に暮らした家族の苦労」を多くの人たちに知ってもらうことを目標とする以上、あらかじめ排除される、考えなくても良いことにされたら「交流館」を開設する意味その物が果たされない。むしろ、今まで考えたことがない人たち、考えようとしなかった人たちにこそ伝わって欲しいという思いで始めたのだ。
分かりやすく言えば、選挙で自民党、公明党、維新の会に投票してきた人たち、戦争反対を声高に言ってこなかった人たちにも気軽に立ち寄る場所をめざして開設したのだ。もちろん、立憲民主党や他の野党に投票した人たちも対象であることは言うまでもない。
私は「交流館」開設前に地元選出の保守系市議会議員さんに「交流館」を支援いただきたいと2回に渡って話し合いの機会を作っていただいた。議員は最初こそ「交流館活動」を「どこかの党派、政治団体の一部」ように思われたようだが、話し合いを続けるうちに腹を割った話ができるようになった。彼は5月10日の開館日に、地元自治の元会長二人と一緒にご祝儀を持参して祝いに来てくれた。その後自身のチラシ配布を持参した時は入館して展示パネルの説明も聞いてくれた。今はラインが時々届く。毎月「交流館通信」を20人の市議会議員、市長、副市長に届けている。しかし市議会議員で来館したのは保守系の彼以外一人もいない。
世の中を変えるには何が必要だろうか。多くの人たちが当たり前、正しいことと思ってきた自身の考えを変えない限り世の中は変わらないだろう。つまり、自分とは違う考えをしている人たちに伝わる言葉を持ち、話し合いを続けて世の中を変える考えに賛同してもらうことで社会は変化していくのだと思う。つまり、今までは敵と区分して来た人たちと意見を交わす機会を持ち、話し合いを重ねることで意見合意を作り出すことで世の中は少しずつ変わるのだと思う。
だとしたら、敵味方と区分したり、分断を是としては何も変わらないのではないだろうか。敵味方と分断していては世の中を変えることを事実上あらかじめ放棄しているといえないだろうか。私にはそう思える。
2021.1.13 生きているうちにできること。次世代に託すこと。
① ベルリンの壁崩壊1989年9月、ライプツィヒを拠点にデモ(月曜デモ)が激化した。デモは9月25日には8000人、10月2日に1万5000人、10月9日に7万人、10月16日に15万人、10月23日にはついに30万人がデモ行進に参加して、それまでの東ドイツにかつて見られなかった多くの市民が加わった大規模なものになった。「我々はここに留まる」「我々が国民だ」「自由な選挙を」「国家保安省は出ていけ」と叫び、市民運動「新フォーラム」の認知とドイツ民主共和国憲法第1条の削除を要求した。1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった。壁は市民の力で崩壊した。
② ソビエト連邦の崩壊1991年12月のソビエト連邦共産党解散を受けた全ての連邦構成共和国の主権国家としての独立、ならびに同年12月25日のソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビエト連邦が解体された。核兵器という究極兵器を持つ国家が、軍事的に衰えないまま潰れた。世界最強の軍事大国が軍事力以外の要因で潰れるのはあり得なかった出来事であり、これは国際政治学でのパワーポリティクス(現実主義)への批判を招いた(ハード・パワーからソフト・パワーへの移行)。
★上記①は「ベルリンの壁の崩壊」②は「ソビエト連邦の崩壊」をウィキペディアより引用した。
★「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会=語り合う会」のホームページ冒頭に「語り合う会」のスローガン・めざすこととして下記の項目を加えた。
『私たちはいかなる戦争にも反対します。私たちは銃を取りません。直ちに白旗を掲げます。侵略には話し合い解決を求めます』以下理由を述べる。
・軍事力が世界政治を動かす最大の力、保障・寄るべき物という考えが多くの人たちを支配している
と思う。しかし、私はそれに私はくみしない。断固くみしない。
・私たちは街頭を埋め尽くす民衆の力が、民主政権を非暴力で誕生させる劇的な場面を1980年代から幾度となく見て来た。ベルリンの壁も、ソ連邦の解体も、アラブの春・チェニジアのジャスミン革命も民衆の圧倒的な力の結集で勝ちられたものである。
・アメリカに対峙できた超大国ソ連であっても自国民が立ち上がった時には、核兵器を含む軍事力は全く無力であった。銃や大砲、ましてや核兵器などなくても圧倒的な民衆の支持が現出すれば、非暴力で政権交代や民主政権に変革できることを歴史が示したのだ。
・日本は1945年以降、戦争による死者は一人もいないし他国民を一人も殺していない。戦後75年間、日本の「平和」は守られたと言える。日本の「平和」は日米安保条約のおかげとか、米国の核が守ったとか、自衛隊の軍事力だとかいう人たちがいる。
しかし、私はそう思わない。「日本が戦争を起こさなかった」から「平和」が保たれたと私は思う。戦前のアジアの戦争はそのほとんどは日本軍が起こしたものである。中国大陸、朝鮮半島、南太平洋の国々の戦争はすべて日本が始めた。日本がアジアの「平和」をかき乱す元凶だった。
現在の米国のように、明治以来の日本は常にアジアのどこかに軍隊を駐留させ、いつも戦争をしていた。日本もアジアも日本軍のせいで平和ではなかった。それが、1945年に第2次大戦が日本の降伏で終了し、1946年平和憲法が施行され、以来日本は戦争を起こしていない。このように見たとき、戦後日本の「平和」は日本軍が戦争を止めたことで実現していると言えるのではないだろうか。つまり、戦後の日本の「平和」は簡単なことだ。日本が戦争をしなかったから「平和」だったのだ。日米安保など他の理由では絶対にない。
・日韓関係は戦後最悪とか報じられている。徴用工の問題、慰安婦の問題、被害を受けた人たちが補償や謝罪を日本政府に求めている。日本政府は国家間交渉で解決済みという立場だ。自民党の中には何らかの対抗措置、制裁措置をするべきだと言う人たちもいる。
明治以来、日本が軍事力で朝鮮半島、中国東北地方、台湾などを支配抑圧したこと、民族差別した事の謝罪と清算が少なくとも朝鮮半島では受け入れられていない。まだ平衡関係になっていないことを現わしている。軍事力で実行した事は後年になり、必ず元に戻そうというベクトルが平衡になったと被害を受けた人たちが納得するまで働くということを示している。
暴力で物事が解決したり落ち着いたりすることはない。物事の解決は双方が納得できる公平な地平に達するまで続く。それには話し合い解決しかない。
・ブラック・ライヴズ・マター(略称「BLM」)は、アフリカ系アメリカ人のコミュニティに端を発した、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える、国際的な積極行動主義の運動である。特に白人警官による無抵抗な黒人への暴力や殺害、人種による犯罪者に対する不平等な取り扱いへの不満を訴えている[2][3] BLMのデモ行進はアメリカ国内に留まらず、ヨーロッパや東アジア、中東を含む世界中の国や地域でも行われた。イギリスでは奴隷貿易の礎を築いたイギリス帝国主義も批判の的になり、各地で奴隷貿易に関わった人物の銅像が引き倒された。ウィキペディアより。
・BLMは15世紀のヨーロッパの世界支配に遡る運動だと思う。南北アメリカの黒人は全てがアフリカから奴隷として売り買いされた先祖の子孫である。「黒人に対する暴力や構造的な人種差別」は15世紀に遡る。500年間続けて来た事の清算が問われている。全ては500年前から始まった事である。
黒人たちは500年に遡ってあらゆる人権、差別への謝罪、補償を請求する権利があると私は思う。少なくとも、そこに応える姿勢と構えがアメリカと西洋諸国は必要だと思う。
日本がアジア諸国に問われていることと同類のことがアメリカと西洋諸国に問われている。どんなに時間を要してもアメリカと西洋諸国はその事に応えなければならない。そうしない限りBLMは続くし自分たち自身の心の平和はやってこない。言うまでもない、アジアに対する日本の立場も同じだ。
★再度言う『軍事力で実行した事は後年になり、必ず元に戻そうというベクトルが平衡になったと被害を受けた人たちが納得するまで働くということを示している。
暴力で物事が解決したり落ち着いたりすることはない。物事の解決は双方が納得できる公平な地平に達するまで続く。それには話し合い解決しかない』
★戦争は何も解決しない。戦争をしないことは簡単なことなのだ。平和も簡単なことなのだ。「語り合う会」の主張は誰でも実行できる。戦争など簡単に人類社会からなくせる。「交流館」は白旗をただいま製作中です。早晩、「交流館」入り口に白旗を掲げます。代表の黒井は白旗を持参して講演の壇上に立つことにしています。
『私たちはいかなる戦争にも反対します。私たちは銃を取りません。直ちに白旗を掲げます。侵略には話し合い解決を求めます』
2021年1月9日(土)晴れているが寒い。風はない。午後3時40分~
12月25日からの休館は昨日で終わり、いよいよ今日9日より通常通りの開館をしている。昨日から一都三県に発令されたコロナ禍の緊急事態宣言のせいもあるだろうが、「交流館」横の通りは朝から人一人通らない。あたりは何の音もしない。10m東に旧青梅街道が通るが車の音も聞こえてこない。土曜日なので小学生も通らないし今日の来館者は0人で終わりそうだ。
5月10日の開館から388人の来館者を迎えた。後半は小学生の来館が過半数を超えて「子どもカフェ」とでもいうべき状況だった。その中で発見もした。NHK「おはよう日本」で放映されたビデオを館内で見た小学校5年生の子どもたちが「戦争はこわいと思った」「戦争に触れられてよかった」「話してもらってありがとう」「感動した」などという感想をノートに記している。ビデオが終わった時に5~6人で見ていた子どもたちが一斉に拍手をした。5年生ぐらいになると内容が理解できるということを学んだ。正直驚いたし、少し感動した。「交流館」は発信基地になれる!!と手ごたえを感じた。新しい希望が芽生えた。
昨日の夕方、町内の人がA3の印刷用紙一箱1500枚を車に積んでカンパしてくれた。この方からの用紙のカンパは2回目になる。本当にありがたい。ささえてもらっていると実感した。力が湧いてくる。
「語り合う会・交流館」の課題はたくさんある。それでもおぼろげながら土台ができつつある。2021年は大きく飛躍する年にしたい。いわば、個人企業から協同企業にしたい。そうしないと湧いてくるような仕事量をこなせなくなっている。早急に会員、賛助会員、支援してくださっている皆さんに課題を整理して、2021年めざすこと、その先の道筋を提案して議論する場を設定したいと考えている。コロナ禍の収束状況にもよるが3月、4月には開催したい。整理できたらHPにも掲示いたします。皆さんもぜひ議論に参加いただきたいと思います。
広島長崎の原爆被害、東京などの都市空襲被害と同様に「PTSDの日本兵が存在したこと。今も苦しむ家族がいること」を歴史的社会的問題として日本人なら誰でも知っている状況を作りたい。そのことが「戦争はやっぱりいけない」という世論を作り「日本が二度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」を作る力になると信じています。
日本の隅々まで更に多くの報道機関に報道してもらい認識を広げること。早く中高生の教科書などで取り上げられるようになること。
これらの課題の解決には活動に多くの人たちが主体的に参加していただくことが必要です。
その道筋に今年は挑戦いたします。ぜひ皆さんもこの道筋にご参加ください。私たちの活動は少しでもより良い日本の未来を切り開くものだと考えています。一緒に手を携えて進んで行きましょう!
「今日のひとこと」 12月26日
★大きな希望
12月11日にNHK「おはよう日本」で当会の活動が紹介されたが、担当ディレクターは30代前半の男性です。彼は更にNHKの「ちかさとナビWEB版とTwitter」にも投稿してくれました。報道内容を多くの人に知らせたいと言う気持ちが伝わって来ます。
3人クルーの取材撮影は12月5日に午前10時から陽もくれた夕方5時30分までかかりました。放送された5分の何十倍もの録画が存在しますし「引き続き報道したい」と彼は言っています。
10月から12月にかけて、10紙ほどの地方の新聞に時事通信社と共同通信社の配信記事が掲載されました。また、12月2日には福岡にある読売新聞西部本社版でも紹介されました。
これら3社の記者さんはいずれも20~30代前半の女性記者さんでした。
8月25日の毎日新聞夕刊「キャンパる」に報道されました。これは現役の大学生が取材し記事を書いたものが掲載されると言う画期的な紙面です。記者名は現役の大学生です。
私の活動の使命は「PTSDの日本兵の存在」を次代に語り継ぐことですが、このように若い記者さんたちがこの問題に関心を持ち、「PTSDの日本兵の存在」を多くの人たちに知らせたい!と思ってもらえたのは本当にうれしいことです。報道が続くという形で語り継ぐ道もあるのだなあと思っています。
素直に言うと若い彼らは希望です。涙が出るほど希望です。本当に大事にせねばならない。彼らに未来の世の中を託したい。「日本が二度と戦争をしない。誰もが安心して暮らせる社会」に結びついて行く世論を彼らは作ってくれるのではないだろうか。本当にそうであってほしい。そうしたら私は安心してあの世に逝ける。思い残すことはない。
私は2020年、新しい発見をした。若い人たちに出会った。彼らの心に未来への希望の光を見た。
活動を続けて行くエネルギーをいただいた。心から感謝している。
2021年もきっと素敵な出会いがあるに違いない!楽しみだ。
「今日のひとこと」2020年12月23日(水)
NHKの放送の中で私は「自分の父親は親として失格」と父を評した。見た支援者の人から「親の悪口は言っちゃだめよ」と言われてしまった。「天国に行った人を失格と言うなんてだめよ」と優しく言われた。言葉を選んで説明したがうなずいてはくれなかった。それが善意のさとしなのは重々わかる。分かり過ぎるほどわかる。自分にもそう言い聞かせた。気を取り直すに時間がかかった。しばらくは黙り込んだ。
同じ放送の中で野崎忠郎さんは言う「話せなかった。恥だった。父のことを話すことが自分自身にダメージになる。だから言えなかった」と。
それでも「自分の経験を残すことで、(PTSDの兵士の)家族たちにも苦しみがあったことを伝えなければならない」と野崎さんは父のことを話し始める決意をした。
私の気持ちも野崎さんの思いとぴったり重なる。私も本当にそうだった。
講演でも「父親の悪口を言うようで、父にはいつも申し訳ないと思っている」と前置きのように断わって話すことにしている。「父親は情けない人間だった」「無責任だった」「全て母や兄に責任を押し付けた」「働く意欲、向上心がなかった」などと私から見た父親の日頃の姿、状態を紹介しないことには従軍体験によるPTSDの発症状態を説明できない。皆さんに理解してもらえない。
父の状態を紹介する言葉、表現は生々しい。自分自身の心の底からは「父親の悪口を言うなど親子の情にもとる。お前はそれでも人間か」という声が聞こえてくる。それでも自分を責めながらでも話を続けることになる。「二律背反で揺れる私の気持ちの真意は聞いている人たちに必ず伝わる。」そう思いながら話しを続ける。
2016年3月に「PTSDの兵士の語り部になる」と心に決めたが、「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を実際に立ち上げたのは2018年1月17日だ。動き出すのに2年を要した。
さまざまな逡巡があった。自分が語り部活動を始めることが娘家族、娘の夫のご両親、甥や姪の家族、そのまた親戚の人たちにどう思われるだろうか。迷惑をかけることにならないか。住んでいる我が家から30m南側には妻の実家がある。自治会や老人会には一緒に旅行に行ったりする仲間がいる、近所付き合いもある。どのような反応が生ずるのか想定は不可能だった。楽観的な見通しは考えられなかった。マイナスに、関係が悪くなることを覚悟しても動き出すのかどうかと堂々巡りを繰り返した。
それは自分勝手な言い分ではないか。家族たちにかかった迷惑の責任をどうするのだ。何の責任も取れないだろう。本人に耐えろと言うのか。心は定まらなかった。活動を始めたら必然的に「私の父親はこういう人間だった」と他人からしたら悪口と受け取られかねない父親評価の言葉を言わざるをえないのは分かり切った前提だった。それは父親の冒涜ではないか。そう言われそうだった。
周囲の家族たちに「PTSD兵士の語り部活動を始めたい」という私の意思を少しずつ伝えた。発行していた家族通信に文章で、顔を合わせた時に相談もした。時間がかかった。正面からの反対はなかったが、積極的な支持もなかった。
長文だが2016年3月の語り部を決意した文章(HPで公開しています)を以下に掲載します。最終的にその時の気持ちが勝ちました。私は声を出すことにしました。それは私のためであり、父のためであり、家族を愛しているからであり、甥や姪たちその子どもたちに戦争をしない未来を残したいからであると結論付けたからです。その時は、1人で辻立ちする修行僧に似た決意でした。
★以下再掲載
『皆さんにお聞きします。PTSDに捕えられるような戦争体験をする日本軍兵士をこれからの世の中で作り出しても良いのでしょうか。また兵士である父親のPTSDの影響を受けざるを得ない子供たちと家族も必然的に生み出されます。そういう時代が来ても良いのでしょうか。
・私は父に詫びねばならない。父親の従軍時代の体験と精神状態まで思うことができなかった。子供時代ならいざ知らず、大人になっても父親が一番身近な当事者だったのに考えることができなかった。なんという貧困な想像力。私の考えていた戦争や平和は現実感のない空中の議論に過ぎなかった。
・私は1948年の生まれであり、戦後の父親しか知らない。徴兵前の、戦争体験前の健康な精神だったころの父の姿を知らない。私は(私たちの世代の日本軍兵士の子供たちは)本来の父とはすっかり変わりはてた負の父親を本来の父と見誤っていたのではないだろうか。
・だとしたら、それは本当に不幸なことではないか。父は息子に己を理解させる言葉を持たず、息子は親がとうに亡くなった67歳になるまで父を理解する心を持てなかった。戦争は親子が互いに信頼し、尊敬しあう関係まで捻じ曲げたのかもしれない。
・(父よ)あなたは誰にも話すことができずに、自分自身だけで戦争体験と社会からの疎外感を反芻しながら生きていたのですか。誰にも説明できず、話す言葉を持てず、誰にも理解されずに自分の子供とさえ心を通わすことさえできずに77歳まで生きて、死んでいったのですか。
・私は口を閉ざし無口であり続けた父親(父親たち)の心の闇に近づき、PTSDに切り刻まれた精神を息子の自分が引き継ごうと思います。兵士時代の自分の行為を整理することも、自己評価することも、ましてや肯定して人生を再出発することなど及びもつかなかった「無念だったに違いない父の人生の何年か」を私が引き受け整理し、理屈をつけ、言わば総括し、父たち日本軍兵士が話したかったであろう思いをこの世の中に公にし、多くの人々に知ってもらい考えてもらう「日本軍兵士のPTSD」の語り部としての活動を始めようと考えています。』★再掲載終了。
この活動を続ける限りはある種「父親の悪口」になるような言葉を使い続けざるをえない。私の真意をそのまま受け入れられる人は全てではないだろう。「父親の悪口を言っちゃだめ」という人の方がむしろ自然なのだと思う。それでもそこを越えて理解してほしいと言い続けるしかないのだ。私の心が傷ついて血を流しているかもしれない。心は苦しいよと訴えてくるだろう。
しかし、父はもっともっと、今の私の何倍も何十倍もそのまた何百倍もの血を心から流し続けただろう。比較できない苦しみを抱えて生きていたに違いない。彼は戦争の為に生涯を棒に振ったのだ。その痛みは想像を絶する。そのことが闇に葬られていいはずがない。戦争が終わったと言われながら、その後に地獄の苦しみの人生を歩いた膨大な人たちがいたことを歴史に刻み付けないでいられようか。ましてやそのような苦しみを味わう人たちを未来に作っていいはずがない。私が黙ることはPTSDの兵士と家族の苦しみを歴史に葬るだけではない。未来の命をも葬ることに繋がるのだと思う。
私は立ち止まらない。歩き続けると決意している。
10月24日(土)晴れ。10時の室温、18℃。
NHKの朝ドラ「エール」時々見ている。今週、名曲「長崎の鐘」が生まれるまでの小山祐一の苦悩が描かれる。戦争に駆り出す曲を作った戦争責任に苦しむ姿が描かれる。もしも日本人が、戦争に責任のある人たちが、ドラマの小山祐一のように自分の戦争責任に、真摯に向き合っていたなら、戦後日本は今とはちがっていたのではなかったか思う。もっとましな国になっていたのではないかと。(*モデルの古関裕而さんは戦後、自衛隊の歌を作っている)。
「長崎の鐘」を作る為に小山祐一は長崎の永田武医師に会いに行く。どうしても曲のヒントをつかめない小山祐一は崩れ落ちた浦上天主堂で彫りこされた鐘と、花を植える子どもたちから、地の底から立ち上がらせるは「希望」だと気がつく。
10月18日の「今日のひとこと」に私も『私は繰り返し、繰り返し夢と希望を語ろうと思う。先人たちも繰り返し語り私たちを励ましてくれたように。どんな状況になったとしても私は未来を信じている。』と「希望」を書いた。「希望」は科学的ではない。宗教的と言えるかもしれない。しかし、私に力を与えてくれる。あそこに書いた未来の実現を信じているのだ。人類はそうなるはずだと。だから、ドラマを見ていてそこに強く共感した。
小山祐一が会いに行った永田武は永井隆がモデルらしいが彼の「いとし子よ」は胸を打つ。特に抜き書きした★①~③は私の非暴力とも共通する。その後に全文掲載した。
以下,全文を掲載する。
いとし子よ 永井隆(1949年10月)
「いとし子よ。 あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、カヤノよ、お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。
そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?――原子爆弾。・・・いいえ。それは原子の塊である。そなたの母を殺すために原子 が浦上へやって来たわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。」
「戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだ ころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そう して、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、――戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくな ってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」
「私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。… わが子よ! 憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。」
「しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。 日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出な いとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」
「もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ…誠一(まこと)よ、カヤノよ、たとい最 後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと『戦争絶対反対』を叫び続け、叫び通して おくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても『戦争絶対反対』の叫びを守っておくれ!」
「敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多いだろう。しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?」・・・
「狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。・・・ 愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。」
「いとし子よ。 敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛 されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。」
10月19日(月)午後から冷たい雨になった。
私は繰り返し、繰り返し夢と希望を語ろうと思う。先人たちも繰り返し語り私たちを励ましてくれたように。どんな状況になったとしても私は未来を信じている。
この頃の政権中枢からの発言、繰り出す政策は私を悲しくさせる。現状をさらに悪化させると暗い気持ちになる。コロナ感染が歴代政権の政策の弱点、まちがいを浮き彫りにした。保健所を整理縮小して来た医療政策、公立病院にも経済性を求めて独立法人化したこと、PCR検査能力もいまだに各国と一ケタ違う。オンライン授業ができないのは、パソコンが生徒たちに行き渡っていないからという(韓国は100%)。経済の縮小で非正規や一人親世帯の人たちは真っ先に生活に困窮している。街の小規模事業者が悲鳴を上げている。倒産も増えている。一方で東証上場企業が倒産したという声は聞かない。この日本の政治は何なんだ。この国の隅々まで、考え方、価値基準、機構など市場原理主義、経済効率主義で組み立て、改変して来たつけが表面化したように思う。心の通わない政治の脆弱さが露呈していると私は思う。これまでの路線、今の政治方向を大転換する必要があるのは明らかではないか。しかし、菅内閣からは従来の路線をさらに推し進めると言う言葉しか聞こえてこない。だとしたら、ひずみは一層破壊的に進むだろう。弱者はさらに弱者に、その層はもっと拡大するだろう。何としてもこの流れを変えたい。人の心の通った政策の方向に変えたい。弱者が益々弱い立場になり、その層が一層広がる様は見ていられない。
しかし、種々の世論調査では菅内閣の支持率は50%を超えている。私たちの声は多くの国民の心にまだ届いていない。心をとらえていない。
だとして絶望するまいと私は言いたい。誰かが現政権の流れを変えなければならない。誰かが。その誰かは誰でもない。そう気づいている私たちが誰かだ。私たちが自分の意志を声に出し、行動に表現していくことが必要だ。
日本では菅総理が日本学術会議6人の任命を拒否して、自分と異なる意見は今後の日本の政治に必要ないと排除した。私はその発想は恐ろしい。同じ考えの人たちだけに役立つ政治しかしない宣言のように映る。違う意見は政治の眼中にないように見える。戦争中に政府方針に少しでも同調しない人に「非国民」という言葉を向けて国民を分断し、一方に純化していったと同じ空気を感ずる。
私は異なる意見、異なる考えの集団どうしがどう折り合うか、どう調和して共に生きて行くかが政治の仕事だと思っている。安心して幸せに、仲良く、楽しく暮らしたいのは誰もが同じだ。性、年齢、住む土地、くらし境遇、身体的要素、性格、人間は一人ひとりそれらはみんな違う。それでも人間は一人では生きてはいけない社会的動物なのだ。だから人間世界には様々な摩擦も生ずる、利害は見たところ一致しないことも多い。それだからこそ政治が生まれたと思う。どう利害を一致させるか。調整するか。合意点を見出すか。違う意見を一方に我慢を強いるのではなくどう両立させるのか。そこに知恵が必要なのであり、政治家と言う専門の仕事が成立するのだと思う。
排除、分断は政治の敗北だ。それは知恵の放棄だ。どういう社会をめざすのか同い年の菅総理には問いたい。その社会で異なる意見の集団どうしを、どう生かしていくのか教えて欲しい。
このように日本の政治状況を「俯瞰」すると明るい展望はなかなか見えてこない。希望ある報道にも余りお目にかからない。
私はかねてから「俯瞰」も大事だが「足元」を見ようと言ってきた。日本を天上から「俯瞰」したら菅政権と市場原理主義、経済効率主義の大森林しか見えないかもしれない。しかし、その大森林の「足元」には次代の大樹に成長しようとする小樹の芽生えが見えるのだ。それもおびただしい数の小樹の芽生えがだ。全国各地に様々な団体が活動している。一つ一つは大きくはない。大きく脚光を浴びすることも少ない。しかしそういう活動がたくさん存在しているのは事実だ。
例えば室田元美さんの「ルポ 悼みの列島」「ルポ 土地の記憶」を読んで私は本当に勇気を得た。目を開かされた。そこには日本全国に残る戦争の傷痕を語り継いでいる人たちなどの姿が描かれている。
それらは未来の日本を形作る小樹の芽と言えるのではないだろうか。
原発の問題、貧困・弱者に寄りそう活動を続ける人たち、そのほか、様々な課題を継続して取り組んでいるたくさんの人たちがいるのを知っている。そういう活動が人間にやさしい、誰もが安心して暮らせる社会を引き寄せる小樹なのではないだろうか。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」、「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処・子ども図書室」もそう言う小樹の一つだ。
小さな活動は天上から「俯瞰」したら見えないかもしれない。市場原理主義、経済効率主義の大森林しか見えないかもしれない。しかし、大森林を抜けて地上に降りてみれば、おびただしい数の「活動体」がうごめくように元気に生きているのだ。いつの日か、それら小樹が世代交代し大森林の上に伸びて、陽の目を見る日が来るのではないだろうか。私はそのことを信じている。私は夢と希望を信じている。だから活動を続ける。声を上げ続ける。焦らず、諦めず、へこたれず、遅くても、ゆっくりでも、多くの人たちと手を組んで、輪を広げて歩き続けるつもりだ。みなさん、希望の灯を掲げて一緒に歩いて行きましょう!
「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」の
展示パネル・資料を順次紹介いたします。
パネル①
① 黒井慶次郎・初徴集(20歳)の軍服姿の写真。
② 黒井慶次郎の軍歴。従軍、転戦した戦地の地図。軍曹に昇進するまでの経歴。
③ 履歴申立書。軍人恩給申請の為の書類と推測する。
④ 黒井慶次郎が「満州事変記念フォトアルバム」に記載した「鉄道守備隊の任務」「上官の訓示及演習記録」の文章。
★展示資料の説明文
戦後,復員兵・黒井慶次郎は従軍体験に口を閉ざし、何ごとにも無口で一日中話さず、定職に就く意欲も無かった。“戦争神経症”の状態だった。復員前とは別人に変わった!
黒井慶次郎は31歳の時に伍長、33歳で軍曹となる。
10人~20人の兵士を指揮する立場にいた。
銃弾、砲弾の飛び交う戦場で部下に指揮命令しただろう。
進駐した武漢、宜昌は“敵”中華民国政府のある重慶に対峙する日本軍の最前線だった。
しかし、復員後の父黒井慶次郎は部下を鼓舞したり臨機応変に指揮命令できた人物のかけらもなかった。
一家に起こる問題解決全てから逃げて妻と長男に放り投げていた。きちんと働かず、定職に就こうという意欲も無く、一日中を無口で通し、特に戦争の事には口をつぐんだ。
部下を指揮命令した軍曹時代の面影などどこにもなかった。
自分が教育され信じた「天皇を拝する神の国、不敗強国、アジアの指導者日本」は帰国したら、GHQ指揮下で自分の長男は、命をかけた自分の従軍人生を全否定する黒塗り教科書(人間天皇、民主主義)で教育される日本だった。
黒井慶次郎は戸惑い、何が正しいのか何が間違いなのか、生きて行く羅針盤を持てなかった。口をつむぐしかなかった。働く意欲を失った。戦争の後遺症、“戦争神経症”を発症した。従軍前とは別の人間になった。
パネル②
①初徴集で大連港に上陸した写真。写真への父の添え書き。
②戦死した中隊長参拝記念の写真。写真への添え書き。
③”匪賊討伐”の皇軍写真。写真への添え書き。
④戦車の写真。写真への添え書き。
黒井慶次郎について(1912年3月14日生まれ)。
①“戦争神経症”発症前の父親。「昭和維新」に同調する若者だった!
★満州事変(1931年9月8日)の翌年、5.15事件が起きた1932年、父・黒井慶次郎は20歳で初徴集される。日本国内は5.15事件首謀者の助命嘆願運動が盛り上がった。
★写真『大連上陸(1)』の父の添え書き(1932年11月記す)。
・『昭和6年9月18日満州事変勃発。昭和7年11月30日午前1時、満蒙第一線へ勇み立つ我等若人をのせた陸軍宇品丸は大連に入港した。午前8時甲埠頭九番バースに横付、午前八時半上陸。憧れの満州の地に第一歩を印した』
・『昭和6年9月18日!それは同胞九千萬厚生の記念日。昭和維新の第一日であらねばならぬ。南嶺城頭の血庫に斃れたる勇士!それは同胞救生の先駆、昭和維新史をかざる導士でなければならぬ』
★小作農の9人兄弟の9番目の父親は、大恐慌後の農村の窮乏を救う考えも持っていたとされる昭和維新思想を体現した5.15事件(1932年5月15日勃発)等に強く同調していたと思われる。20歳代の父は「同胞救生の先駆=窮乏する農民を救う活動家」「満蒙第一線へ勇み立つ我等若人・・・憧れの満州の地に第一歩を印した」とメモしたように若者らしい快活で正義感あふれる行動的な人間だったと推測できる。
②黒井慶次郎について(1912年3月14日生まれ)。
“戦争神経症”発症前の父親。
南満州鉄道を守る独立守備隊として従軍した。アルバムの添え書き
には若者らしい使命感に燃えた勇ましい言葉が並ぶ。
『帝国の生命線を死守する軍人僕の姿である』『我(が)討伐隊は進む』『堂々と進む我(が)戦車の偉容』『匪賊討伐に従事』
★復員後、一日中話さず、定職につかず、対外的なことは母や兄に押し付け逃げた父親とは別人である。
★従軍体験の戦争神経症により、別の人格の人間になったと理解すればつじつまが合う。
③戦後の復員兵・黒井慶次郎は従軍体験に口を閉ざし何ごとにも無口で一日中話さず定職に就く意欲も無かった。“戦争神経症”の状態だった。復員前とは別人に変わった!
黒井慶次郎はなぜ“戦争神経症”を発症したのか?父親はなぜ精神を壊したか?
★GHQ(敵国)の支配する日本に復員した。自分が信じた(洗脳された)正義・価値観との巨大なギャップに遭遇した。
★命をかけた従軍体験を完全否定する黒塗り教科書で自分の長男(黒井秋夫の長兄)が教育されている日本に復員した。
★何が正しいのか、間違いなのか心に落とせなかった。理解できなかった。落ち着いた精神状態に戻れなかった。社会順応できなかった。
無口になるしかなかった。仕事に就く意欲を失った。
★“戦争神経症”の基盤は中国での加害者としての戦争・戦場体験。部下や同僚の死に対する直接間接の責任などが考えられる。
★昭和維新 以下(ウィキペディアより)
1930年代日本で起こった国家革新の標語。 1920年代から1930年代前半にかけては、戦後恐慌や世界恐慌による経済の悪化、排日移民法や張作霖爆殺事件などによる国際社会の不安などから、軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を誤っている(と彼らには見えた)元老・重臣ら側近達への憎しみも凄まじい。代表的事件として五・一五事件、二・二六事件が挙げられる。
2019.12月8日(日)
第5回「おしゃべりカフェ」を30人の参加で『ホームの武蔵村山市中藤地区会館』で開催しました。
5回目と会を重ねるごとに和やかなおしゃべりと交流が広がっています。
遠くは神戸市、愛知県岡崎市から大学生など若い参加者も!
若い世代に語り継がれています。受け継がれていくでしょう!
拉孟戦、戦友会の講演者の遠藤美幸さんは「おしゃべりカフェ」にも加わり大いに盛り上がりました。
8月に続いてコンサートも開催。今回はメンバー4人の「タコス」!心癒される演奏に参加者も大満足でした!
終了後は黒井宅に場所を移し、タコスの皆さんも参加して懇親会。話の輪と交流がさらに広がりました♬(^^♪。
次回は2020.8.23(日)です。
多くの皆さんのご参加をお待ちしています。
2019年8月25日(日)
「おしゃべりカフェ」に46名が参加しました。
北村毅さん、室田元美さんの講演、北川直実さん、遠藤美幸さん、星野泰久さん、西中誠一郎さんの発言をいただきました。その後、参加者どうしのお話合いと交流、カクテル―チェさんのコンサート、最後は和やかな懇親会で、大成功の「おしゃべりカフェ」となりました。次回は12月8日(日)日中戦争が日本軍の真珠湾攻撃でさらに戦線拡大したメモリアルの日に開催いたします。
多くの皆さんの参加をお待ちしています。
★2019年3月17日(日)23名の皆さんが参加されました。
武蔵村山市 さいかち地区会館で開催しました!
従軍した父親の思い出を全員が語り合い、耳を傾けました。
放映したBS1スペシャルにも登場する研究者の中村江里さんから兵士のPTSDについてコメントをいただきました。
下写真。2018年10月14日、2回目の学習・交流会に20名が参加しました。研究者、中村江里さんから参加いただき、お話しいただきました。
下写真・2018年5月13日、初回の学習・交流会に9名参加。
黒井秋夫の父の従軍時の写真